地中海のオークル
地中海のオークル
部屋に戻ると青年は、骨董市で買って来た幾つかの平たい缶を取り出した。相当に古びて錆も浮いている。それもまた、彼のコレクター魂をくすぐったのだ。
青年は缶を開いた。すえた匂いがするのも独特だ。モノクロの映画のフィルムが納められている。それを、机の上の古びた映写機にセットした。これをフリーマーケットで買った事から、昔の映画フィルムの収集にハマったのだ。
部屋のブラインドを閉じ、映写機のスイッチを入れた。壁に数字が投影される。3、2、1、ブラックアウト。そして始まる佳き時代の情景。昔のサイレント映画の人の動きってのは、どーしてこうロボットめいているのだろう。
フィルムはいずれも十分程度の短編だった。ノスタルジーの余韻に浸りつつ、三本目に掛け換えた。始まったのはティピカルな泥棒と警官のコメディ。しかしこの警官の演技が特徴的だった。これがロボットならば、操作プログラミングが訝しい程だ。やがて一つの名前が頭に浮かんで来た。もしかしたら、この役者は。
僅か十分程なのに、エンドクレジットが待ち遠しかった。本編が終わると、役者の名前の並ぶ文字画面でストップモーションになった。デスクから壁に投影していたので、それ程大きな画像ではない。
青年はその配役表に目を凝らした。主役は泥棒、警官は脇役に過ぎない。その名は下から数えた方が早い位置にあった。やはり、これはチャーリー。しかもまだ大部屋時代の貴重なフッテージ。
そうだとすれば、ひと儲け出来るかも知れない。青年の頭の中に、リッチな妄想が拡がった。フィルムを巻き戻し、警官が泥棒と並んだシーンで停めた。デジタルカメラを取り出し、壁の画像を写した。
1
「あの辺りにこんな広大な敷地を持つ大邸宅はあったかな」
そんな素朴な疑問を、最初にその記事を見た時に、大野は抱いた。大使館のデスクで暇に任せてネットサーフィンをしていて、見つけた記事だった。
「ねぇねぇ、ペンシルベニア通りってどんな処ですかね」
隣のデスクの友野嬢に声を掛けてみた。書類の整理に気を取られていた友野嬢は、暫く応えなかった。午前中の大使館は、各々が忙しく働いている。
それでも「ねぇねぇ」と大野がつ突いたので、友野はようやく顔を向けた。「パリ市内でしたっけ」と訊く。話題に乗っていないのは明白だった。
「いやワシントンDCです」
そんな国に土地勘はありません、と友野は顔をそ向けてしまった。あなたの様に暇ではありません、とその背で言っている。
誰かこの話題に付き合って呉れそうな人はいないかな。思い立ったのは、現在アメリカ東部に滞在している筈の知人の名前だった。住宅情報のサイトを表示させたまま、大野はメールソフトを立ち上げた。メールに物件の情報をペーストした。
――長沼様、こんな情報を見つけたのですが、物件として如何でしょうかね。
「お買い得売家情報。
所在地・ワシントン市ペンシルベニア通り一六〇〇番地。
床面積・約五一〇〇平方メートル。寝室十二、各々にバスルームあり。
これ以外にもエントランス近くに来客用トイレあり。
価格 ・一千万ドル。
対象 ・単一世帯家族向けです。 」
返事のメールは三十分後に届いた。
――こりゃあ、ホワイトハウスの事だろ。緊急の用件かと思えば一体何の冗談だ。こっちは午前五時だぞ。
などと返事を送るうちに長沼はすっかり目覚めてしまった。昨夜ワシントンDCに着いて、この安宿に転がり込んだ。自衛隊生活も永く、さんざん訓練も積んで来たので、目覚めは良い。情報保全隊に配属されてからは、各国を渡り歩いて来た。ジェットラグなども力でねじ伏せて来たのだ。
フランス大使館にいる大野とは、二年前にちょっとした作業を共にした。あれ以来、時折情報交換をしているのは、奴が目をつける情報に、特徴があるからだ。何かが匂う。それは大野独特の嗅覚なのだろうか。途惚けた奴だが、あれで内閣情報調査室の出向要員だ。無能ではない。
俺とは違う、と長沼は思った。フランスの事件では禍根を残した。上司を暗殺され、一般の女性までが犠牲になった。直属の上官を喪って、当然乍ら長沼は閑職に回された。今追っているのは、高性能ゲーム機SPS3の販売動向なのだ。これが国防の情報なのか、と長沼は疑問に思っていた。
大野が指摘した記事にアクセスした。ホワイトハウスを売りに出した不動産会社が判った。ニュースサイトなどの情報を行き来しつつ、幾度かそのサイトを開いた。すると夜が開ける頃には、サイトに釈明のコメントが掲示された。
「膨大な数のお問い合わせを頂きましたが、この物件は販売する事が出来ません。弊社のサーバーに、誤った情報が紛れ込んだものと思われます。ソフトウェアは物件の情報をそのままサイトに表示してしまいます。実際にこのお値段でしたら、極めてお買い得の物件です。弊社としましても、是非お勧めしたい程の好物件です。しかしこのデータには売り主様の情報がございませんので、お取引を仲介出来ません」
見ろ、誤りだとコメントが出たぞ、と大野にメールをした。大野からはすぐに返事が届いた。余程暇なのだろう。
――冗談だったのでしょうか。しかしどうしてデータが紛れ込んだんだか。処で例のチャップリン映画のDVDまだ買えませんか。前回お尋ねした時にはウォルマートで見つからなかった、との事でしたが、売り切れでしょうか。
長沼が量販店を回っていると知って、便乗で依頼したのだ。しかし何処に行っても、現物を見る事は出来なかった。
ヴァージニア州のコメディー映画祭で公開後にDVDで発売される予定、と当初は告知された。しかしその映画祭での上映は直前にキャンセルされたのだ。
その映画のタイトルは「A Thief Catcher」。一九一四年に撮影されたたった十分の短編映画だという。チャプリンは脇役で、警官として登場する。ほんの三分ほどの出演だが、既にあの身振りや間抜けた演技の片鱗が見られるという。
タイトルはキーストーン・スタジオのフィルモグラフィーにも見られ、同年二月に公開された事も調べがつくのだが、チャプリンが出演しているという事実に気付いた関係者は居なかった。
こんなマイナーな作品である。フィルムは何処のアーカイブにも残されてはいなかった。これを見つけ出したのは骨董マニアの青年だった。ミシガン州の古物市にこれを含め数本のフィルムが出されていた。青年はこれらを纏めて買い、自宅で映写してみたという。そしてそこに映った俳優の動きに目を奪われたのだ。専門家が「映画史を塗り変える程の重要な発見」というその姿。チャプリンはまだ二十四歳の筈だ。
ニュースは世界を掛け巡った。しかし青年は警官姿の俳優が判る場面をスチルとして焼き、それを公開しただけで、動画としては公開しなかった。映画会社からのオファーを待ったのだろう。勿論、映画会社としてもこれを見逃す筈は無かった。ヴァージニア州のコメディー映画祭での公開とは、その映画会社が用意した売り出しのシナリオだった筈だ。
しかしその計画は、何処かで噸座したらしい。
――リッジモンドのウォルマートにもないぞ。製品化以前の何処かで問題が起きたんだろう。で、オマエは古本捜してるんだってな。
さすが情報保全隊、と大野はメールを見乍ら思った。それは米国のNSCからの依頼だった。自衛隊員ならば・まして現在アメリカに滞在しているならば、何処かでアクセス出来る情報だろう。長沼は優秀なエージェントなのだから。
大野は内閣調査室とNSCシチェーションルームの間の、交換出向要員だった。かつて安部内閣の時にライス国務長官との取り決めで、設置された連絡機構だった。しかしその後の両国の政府の再編成で、彼等は取り残されたのだ。結果、こうしてパリの大使館で暇な日々を送っている。おそらくは主要国の各大使館で、こんな風に暇を持て余している同僚がいる事だろう。
そんな大野にNSCからの指令が届いたのだ。十八世紀の政治書の探索。その為にこの処、大野はパリ市内外の著名な古本屋を巡って歩いている。そんな店には大抵、硯学の店主が居て、書名を言った途端に価値を提示する。
「それが何処かの店にありましたら、一万ユーロでも足りますまい」
数軒で同じ程度の金額を提示されたので、さすがに大野も気後れして、内閣府の上司へメールした。
「NSCに請求も出来まい。これも思い遣り予算だ、官房機密費として決済を具申しておく」
との返事があった。懐に心配はなくなった。しかしもうパリを歩き回るのも疲れていた。だからこそ今日などは大使館のデスクで、ネットサーフィンなどして気を紛らせていたのだ。
「昼でもどうだい」
と昼時をかなり過ぎてから電話を呉れたのは、友人のギョームだった。フランス内務省の役人だ。DCRIという部門に居る。二年前の事件の時には、世話になった。今回も古本探しなどという慣れない仕事に、最初にアドバイスを求めていた。
エトワールのビストロで待ち合わせた。通りに開いた窓からは七月の風が入って来る。既に涼風ではない。ギョームの前には仔牛ロース肉のポワレ。豪快な食欲だった。でかい口を開けて、食べて呑む。小食の大野はその速度にも追いつけない。
「『国民国家の法律』だったよな」
とギョームは言う。
「十八世紀にスイスの外交官が書いたんだそうです」
「国内の図書館データベースには見あたらないね。そんな古い政治の本で何を調べるんだい」
「さてね。私はクライアントのご要望に応えるだけですから」
「ところで、NSCのエシュロンの情報は探れないかな」
おっと、これが本論か、と大野は身構えた。
「わが国の軍事偵察局の衛星が何か掴んだらしいんだが、縦割組織の壁に阻まれて良く見えないんだ」
とギョームは言う。
「それは例のヘリオス2Bですか」
ギョームは頷き、皿の上でフォークを左右に振った。ギョームの身体つきのせいか、それはタクトを振る動きにも見えた。
「俺に情報を漏らして呉れた奴は、こういう手つきをして見せた。微弱な電磁波なので、正体が知れないのだが、時折フランス国内で観測されているという。それはどうもパリを東西に移動しているらしい。いや、正しくは西から東へ、また西へそしてまた東へ、と小刻みに数度行き来してやがて消えて行くらしい」
国防省の分析は、と問うてみた。
「正確な分析が出来ない程の微弱な信号なんだそうだ」
とギョームは応えた。
長沼はサンフランシスコから始めて、北米を東へ移動して来た。ターミナルの街ごとに、ベスト・バイだのフライズだのと、量販店をひとつ一つ覗いている。ここに来てターゲットの姿はおぼろげ乍ら見えて来た。
話題のゲーム機SPS3は、米国で発売されたばかりだったが、メーカーは市場に大量に投入していた。何処の街でも、店内に高々と積み上げられていた。しかし玩具にしては値段は少々高い。
3Dで空中戦のシミュレーションまで出来る。そんな高機能が、玩具屋で買えるゲーム機に当たり前の様に搭載されている。子供達が欲しがっているのは、良く判った。何処の店でもゲームソフトのデモンストレーションには、子供が群がっていた。ゴーグルと操縦桿を奪い合う様にして、ゲーム機に取り付いていた。しかしこれを買えるのはむしろ大人達だった。
長沼がそれに気付いたのは、サンフランシスコの商業街の量販店での事だった。三軒目に入った店で、レジの客を見ていて奇異に思ったのだ。
長沼が見ている間に、二台、三台と纏めて買って行く大人達がいた。良く見ていると、その中にはキャッシュで支払って行く者が幾人もいた。このカード社会のアメリカでは、珍しい客だった。
長沼が目をつけた客は、輪ゴムで束ねたグリーンバックダラーを懐から取り出し、束ごと数えては山にして店員に渡した。他の店で、同じ様子を目にしていたので引掛かったのだ。
箱を重ねて店を出て行く客の後を、長沼は追った。若い男だった。ヒスパニック系かも知れない。男は街角のバンに近づくと、後部ドアを開いて箱を入れた。中に居る者と、一言ふた言の会話があった。すると、バンの扉は閉じられた。男を街角に残して、バンは走り去って行った。
長沼はどちらを追跡すべきか、一瞬迷った。しかしここでは徒歩の人間の方を選んだ。対人の尾行ならば訓練されている。長沼は男に気付かれる事無く、後を尾けて行った。
男はダウンタウンへ向った。小さなアパートのエントランスに入り、階段を上って行った。ワンフロア隔て、長沼も階段を忍び足で上った。男は左側のドアを開いて室内に入った。ドアの開いている間だけ、室内の音が漏れた。幼児が複数いる様子だった。
「子供の土産ではないという事か」
と長沼は呟いた。
それからはサンノゼ、ロスアンジェルスと巡って量販店を見つけては、ゲーム機SPS3を買い付けている客を観察して来た。ゲーム機を複数買う客は、幾人か居る。勿論、隣近所の子供から頼まれて土産にする為に、複数買う事もあるだろう。
しかし束ねたダラーを持つ客に注目して見ると、どうも様子が違っていた。いずれも余り裕福には見えないのだ。尾行してみると、子供のいない者さえいた。やがて勘が働く様になって来た。レジで見張っていると、コイツが買い子だろう、と判る様になった。
ロスアンジェルスでは、レンタカーを用意して店を見張った。買い子がゲーム機を渡す相手を見極めようと試みた。レジでターゲットを絞り込んだ。一足速く店を出て、レンタカーの中からエントランスを見張った。ターゲットが店を出て、街角を折れた。街路を覗ける位置まで少しだけクルマを出した。
ターゲットは街路のバンの後部ドアの中にブツを置いた。すぐにバンはアクセルを噴かした。長沼もアクセルを踏んだ。バンの後ろ姿を追った。バンは上り口からハイウェイに入り込むと、いきなり加速した。
やべぇ、と思う間に、間に数台が入り込むのを許してしまった。抜かせろ、と叫んでも、うまく隙を見つけられなかった。バンは見る間に遠ざかって行った。土地勘が無いのが敗因だった。
サンディエゴの宿で、その顛末を上官に報告した。SSLモードを使って音声チャットでやり取りした。
「困りましたね」と上官は言う。「かと言って、要員を増やす訳にも行きません。現地でどうにか対処して下さい」
長沼の所属していたチームは、指令官の殉職と共に解体された。長沼は昨年、この上官のチームに配置転換された。まだ付き合いは浅い。信用は無い。
つぎは何処、と問われ、ダラス、と応えると、
「いや、メンフィスで良いでしょう」
と言われた。
メンフィス、ナッシュビルと移動し乍ら、長沼はDIAのスティーブンに連絡を取っていた。かつて自衛隊との共同訓練で顔馴染みになった奴だった。当時は互いに一兵卒だった。数年を経て、中東で出くわした。路地裏で蹴倒して締め上げた時に、相手が判って互いに驚いた。お前もエージェントとなっていたとはな。
シャーロットでは怪しいバンを求めて、一日中、繁華街をクルマで流したのだが、無駄足だった。夜になってモーテルの一室に転がり込むと、クーラーが不調だった。暑さにうんざりし乍ら、現地でどうにか対処しますよ、と呟きつつパソコンを開いた。そしてスティーブンにメールをした。俺は何を追ってるんだ、頼む、教えて呉れ。
リッヂモンドで再び連絡した時に、スティーブンはヒントを呉れた。
――IBM製のスーパーコンピューター「ロードランナー」の中央演算装置は米国政府の発注で作られた。東芝やソニーも参画して共同開発したそうだ。この演算処理能力が、3Dの画像処理の為のスペックの要求に叶った。そこで例のゲーム機SPS3にも搭載された。実は米空軍もレーダー画像解析システム用にこのCPUを使おうかと、本気で検討に入っている。二百個もあれば「ロードランナー」がもう一つ作れるそうだ。コストは十分の一で済む。
翌日、鉄路でワシントンDCに入った。ここで連中を捕まえたいものだ、と意気込んだ。大野からのメールが届いたのは、その翌朝だった。
ドアを開き、灯りを点けた。ギョームとの会談の後も、また市内を歩き回って来た。夜分になり、やっとボージラールのアパルトマンに帰り着いた。小脇に抱えた紙袋をサイドテーブルに置いた。
セーヌ河畔に並ぶブキニストを伸して来た。あれは何なのだろう。同じサイズの緑色の屋台が並んでいる。各々がたいして価値もなさそうな古い雑本を並べて商っている。観光客相手なのだろうか。その割にはまるで売る気が見られない。しかしあそこにも事情通がいる、とギョームが教えて呉れたのだ。
表紙のとれそうなハードカバーなどを買いつつ、大野は店主に話し掛けてみた。観光客を装うにはややもの慣れしている怪しい日本人だ。店主も簡単には打ち解けて呉れなかった。十八世紀の政治書について、と持ちかけると、
「学者かい」
と或る店主は問うた。そんな偉いヒトではありません、商社マンです、と大野は応えた。しかし店主は信用していない風情だった。
「そうかい、商社ってのは何でも買い付けるそうだからな」
ええ、値打ちさえあれば、と大野は話を合わせた。
「惜しいな。それなら幾らでも吹ッ掛けられた処だ。俺も昔は大きな店を構えてた。あの頃だったらそんな希購本だって、何冊かは棚に置いていたろう」
どんな本でした、と訊いた。
「魔術書とかな」
と店主は怪しい笑みを浮かべた。堤防の向うで大きな波音がした。観光クルーズ船でも通っているのだろうか。店主の声が波音を渡って来た。
「ロンドンへでも行きな。エイボン書店あたりなら、持ってるんじゃないか」
あぁ、あそこなら一昨年たまたま行きました、と大野は波音に負けずに声を張って応えた。
「火事に遭って全焼してしまいましたが」
端本まで買って、それでも収穫は無かったのだが、ひとつだけ大野の興味を惹いたトピックがあった。
「八十年ほど前のこと。当時のパリのルーブル美術館別館に、ある画家が自作をこっそり持ち込んで展示し、二日後にバレて撤去されたことがある」
2
大野は朝の東駅でTGVの入線を待っていた。
「十八世紀までフランスぢゃなかった街ってのはどうだい」
とギョームが思い着いたのだ。例によって昼食を奢らされていた時だった。何処ですか、と問うと、ミュルーズだ、という。
「スイスと接してる街だ。一七九八年にフランスに編入された」
スイス、と大野が目を輝かせると、ギョームはナイフとフォークを振り回し、ビンゴだろ、と笑った。
どの鉄道路線ですか、と問うと、せいぜい一時間程のフライトで行けるよ、とギョームは言う。いや、せっかくなんですから出来れば列車で、と言うと、ユーロ東線だったかな、と応えて呉れた。
TGVは定刻八時二四分に発車した。田園風景の中を超特急は疾走する。周囲に座るのはビジネスマンばかりの様だった。発車した途端にノートパソコンを広げ、仕事を始めた。ひとりではしゃぐ大野を冷ややかに見ている。お楽しみの時間は三時間程だった。
駅舎を出ると、近代的な町並みだった。サッカーチームの幟が大きく掲示されている。案内所に入ると「フランス鉄道博物館」という大きなポスターが目に入った。大いに気を惹かれたのだが、目的地は決めてある。古本屋のリストを作ってあるのだ。
案内所で教えて貰った通りに、路面電車の駅へ向った。待つ程もなく黄色い車体のトラムが遣って来た。フォルスト通りで降り、裏町へ入り込んだ。この辺りになると木造の建築が目につく。ギザギザに目を立てた破風が独特の雰囲気を持っていた。ドイツ風なのだろうか。
リストを手に数軒の古本屋を回った。中には仕舞うた屋になっている店もあった。
「ニーゼル橋は見たかい」
とある古書店主は言った。観光地ではないが、あれだけは見ておいた方がよかろう。最も既に架け換えられて創建当時のものではないがな。勧められたので、その場所まで街を横切って足を運んだ。
昼時を回っていたので、目についた食堂に入った。メニューにあったのはシュークルート。酢漬けのキャベツに寄り添うソーセージ、要するにザウワークラウトで、全くドイツの料理だった。食後にエスプレッソを注文した。しかし思い着いて「ノワゼットで」と言い添えた。ミルクの味が欲しい、ビネガーの味が舌に残っていたからかも知れない。
午後のワシントンDCのカフェで、長沼はスティーブンと落ち合った。
「何だそれは、随分と甘い物を呑んでるな」
とスティーブンは笑った。珍しくもカフェラテだ。ミルクの上にメープルまでが載っている。疲れてるんだ、と長沼は言い返した。
堅い握手を交した後で、情報交換となった。つまり何者かが基板の部品取りの為に、子供の玩具を買い漁ってるという訳だ、と言うと、
「莫迦気た話だが、グリッドコンピューティングの時代だからな、二〇〇台でスーパーコンピューターの一丁上がりだ」
とスティーブンは応えた。
「確かに莫迦気てるんだが、少なくとも俺の見てきた各地で買い漁りの事実はあった」
とは言っても3Dの画像処理で何しようってんだか、とスティーブンは言った。それについての具体的な情報は、どちらの組織も掴んでいなかった。
しばし口をつぐんだ後で、スティーブンは言った。
「あの情報は耳に入ったか。グーグルがドイツ政府に謝罪した」
ドイツ政府は、国内を走り回るグーグルの車両が不正なデータを集積していた事実を掴んだ。グーグルは「ストリートビュー」を撮影する為に、世界中で撮影用車両を走らせている。コイツ等を調べた処、個人のネットサーフィンやメールのやり取りの情報が採取されていたというのだ。
ストリートビュー撮影車にはもう一つの目的があったという。道路周辺に設置されている無線LAN端末の場所を把握し、その機器にメーカーが割り当てている固有番号を収集していたのだ。
「なるほどそれでグーグルマップ使うと、こちらの近所の地図が表示されるのか」
と長沼は言葉を挟んだ。
データ収集プログラムにバグがあったと言うんだが、それによりSSL化されていない個人の通信までが取り込まれてしまったらしい。グーグルは「業界では広く収集されている」と釈明しているがな。
それで米国ではどうしたってんだ、と長沼は水を向けた。
「勿論、CIAがグーグル本社に乗り込んで、データを洗いざらい世界各国分全て没収した」
国防の情報が漏れていないかを改めて精査した訳だ、と長沼は言う。
「大した情報漏れは無かったが、スキャンダラスなプライバシーの問題は見つかった。それによって閑職に回された奴もいた」
長沼は苦笑した。データ解析は余程の大仕事だったろうに、鼠数匹か。まぁ、俺もかつて似た失敗はした。
「その他に、どうも分析し切れないデータが残った」とスティーブンは言い継いだ。「何かが時折フランス国内を北から南に移動しているらしいんだ」
何だそれはUFOか、と長沼は問う。モルダーならFBIだ、うちの所属ぢゃないぜ、とスティーブンは笑った。
「無線LANに混入したノイズかと思われたが、フーリエ解析の結果、固有の周波数は認められた。小刻みに北と南を上下動しつつ大筋では南へ向かう信号だ。しかし微弱すぎて分析出来ないんだ」
とスティーブンは応えた。
「南下するノイズ」
大使館のデスクで、大野は呟いた。長沼のメールで、フランスの話題だから、と軽く触れられた情報だった。
手許には本屋の紙包みがある。1万ユーロをキャッシュで支払った。田舎の古本屋とは言え威厳のある店主は、その札束を事も無気にレジに放り込んだ。領収書は一応貰ったが、何処にツケ回せるだろうか。
「東西に揺れる電磁波」と併せ、これで二次元のデータが揃った事になるのだろうか。大野はさっそくこれをギョームに知らせた。DCRIもフランスのグーグルを急襲する事だろう。
デスクには日本政府からの公式な情報文書のプリントアウトがある。
――米国防総省発表「アフガニスタンの地下資源に関する調査報告」。
アフガニスタン各地に1兆ドル規模の鉱物資源が埋蔵されている。
USGS(米地質調査所)が、アフガン全土の七割以上を航空機で調査し、多くの鉱脈があることを突き止めた。これは旧ソビエト連邦が侵攻当時の八〇年代に作製した鉱脈図による。この図面は戦乱で失われたと思われていたが、二〇〇四年に米国の地質学者が再発見し、米政府に伝えた。
航空調査の結果、鉄・銅・コバルトの巨大な埋蔵地のほか、アフガン南部では大規模な金の鉱脈も確認され、中部ガズニ州付近の塩湖ではリチウムの巨大な鉱脈が見つかった。リチウムの埋蔵量は、代表的な産出地のボリビアにも匹敵するとみられる。また、他にも超伝導物質の原料になるニオブも大量にあるとみられる。
これら大量の希少金属資源の経済規模を「一兆ドルにも上る」と特別チームは算出。「アフガンが「リチウムのサウジアラビア」と呼ばれるようになる」との見方もあり、経済復興の要になると期待される。
しかし一方で、資源確保をめぐって反政府武装勢力タリバーンの攻勢が激化するとの見方も出た。調査結果はゲーツ国防長官やアフガンのカルザイ大統領にも報告され、米政府がアフガン政府に対し採掘権管理の指導などを始めている。
ワシントンDCでも長沼は、量販店を見回っていた。思い出してはチャプリンの新作DVDについても聞いてみた。こちらは発売未定のままだった。
ポケットには昼食代のお釣りが無造作に突っ込まれていた。指が触れたのでそれを取り出して畳み直した。これもまたグリーンバックダラーだ。ふと、妙な書き込みに気付いた。初代大統領の顔を横切って、赤いスタンプで「紙幣追跡プログラム」とある。その下にはURLが記載されていた。
夜分にホテルに戻ると、パソコンを開いてこのURLにアクセスしてみた。サイトのタイトルは「ジョージは何処?」ジョージとは米国の初代大統領ワシントンの名を指すのだと判る。
紙幣の番号とZIPコードを入力する欄がある。こうしてスタンプのある札を登録しておくと、この札の流通の経路が判るという趣向だ。ちなみに長沼が見つけたダラーは昨年の十月十八日にアトランタ州アセンズで登録され、ここワシントンDCまで流れて来た事になる。登録済みのダラーは一億五五六九万一八九五枚と表示されていた。
面白いな、ユーロでやってる奴はいるかい、と大野にメールしてみた。大野からは「売り家の情報どころか、設計図まで流出してますよ」と返事があった。「どうしたんでしょうか。まるでホワイトハウスが脅迫されてるみたいですが」
ネットのニュースでは既に話題になっていた。ペンシルベニア州のシステムエンジニアが見つけてFOXニュースに垂れ込んだという。
見つかったのは米国大統領専用のヘリコプターの設計図と航行用機器に関するファイルだった。このエンジニア自身がファイル交換ソフトのユーザーで、たまたまこのデータをヒットしてしまったという。保存されていたコンピューターはイランのIPアドレスを持っていた。
FOXテレビの報道では、メリーランド州の防衛関連産業の社員がファイル交換ソフトを使っていて、流出させてしまったらしい、と伝えていた。
スティーブンに尋ねると彼の部局はこの問題でフル稼働になっているらしい。スティーブンは、そんな奴は実在しない、と漏らして呉れた。表向きを取り繕った情報だ。どうも政府のサーバーがハッキングされている可能性がある。しかしCIAとの連携がいまひとつうまく取れなくてな。
この特別仕様ヘリは、米海兵隊が管理している。複数あり、大統領が搭乗したとき「マリーン・ワン」と呼ばれると言う。この構造を開示されてしまった。つまり、今後は大統領をこれに乗せるのも考え物だという事だ、とスティーブンは言った。
米国のマスコミではこの処、ロシアとのスパイ交換が話題になっていた。マネーローンダリングでFBIに逮捕された十人の「イリーガルス」を、ロシア側で服役していた国家反逆者四人と交換するというのだ。十人は米国内で夫婦を装って暮らしていたスリーパーで、赤毛の美人がいたことから、マスコミの興味を惹いた。
捕虜交換の件は長沼の管轄ではなかったが、それでもゲーム機問題に絡んで来ないかとCIAの動きには目をつけていた。捕虜交換の交渉にあたっている部門は、保険会社を装っている。量販店回りの後で時間があると、その建物の出入りを見張ってみた。時折、外交官プレートの乗用車が、地下駐車場へと吸い込まれて行った。
まぁ現在はロシアとの交渉が急務だな、と思いその場を離れようとした。その時、地下駐車場から急発進して来た乗用車があった。これも確かに公用車だ。プレートの記号は、と見たが夕暮れの薄灯りと速度の余り正確には目視出来なかった。しかしそれは「YR」ではなかった。
外交官プレートには、国務省が決めた国名を表すアルファベット二文字の暗号がついている。それは航空便の様な直接的な記号ではなかった。例えばロシアは「RU」ではなく「YR」、北朝鮮は「NK」の代わりに「CQ」といった具合。ロシアではない、そこに長沼は疑問を持った。
軽い夕食を摂ってホテルに戻った。ドアを開き、灯りのスイッチに手を延ばした。その腕に、ちくり、と痛みが走った。物陰に立った何者かが長沼の上腕を握り、針の付いた器具を押し当てていた。頭がぐらついた。良く効く薬をご用意だ。倒れ込み乍ら長沼は思っていた。
(俺はスーパーマーケットの売れ筋動向を調査してるだけだぞ)
「友人から「ジョージは何処?」というサイトの話を聞いたんですけれど」
と大野は切り出した。今日の会食は、魚料理が話題のビストロだ。ギョームは楽し気にフォークを動かしている。サイトの説明には興味を感じてはいない様子だ。
「それで連想したんです。流れ・トレント・ストリーミング」
白身魚のクリーム煮にギョームの頬が緩んだ。
「東西の反復、南北の反復を持つ波形とは」
ここでようやくギョームの目が、大野を捉えた。
「それはセーヌの流れなのではないでしょうか」
魚に入れるナイフの動きが止まった。
「セーヌ川の中を何かが移動している、と言うのかい」
どうです、と見解を訊ねた。
「だってセーヌの水深は三メートルも無いんだ」
大型船ではななく、船底を多少深く作った船で搬送している、と言うのは如何でしょうか。
「シテ島の脇を堂々と抜けてかい。大した度胸だな。それで何処まで流れて行くんだろう」
調べられますか、と訊くと、ギョームは言った。
「フレンシュロンの発動かな」
エトワールの大使館に戻った。席に着くと、隣の友野嬢が書類を見てため息を付いた。本日配布の日本政府からの公式情報文書のプリントアウトだ。どうしました、と大野が訊くと、プリントアウトを渡して呉れた。困ったわぁ、口座を移そうかしら、と言う。
――スイスの銀行の顧客データ約千五百人分が持ち出されたという。持ち出した人物は、ドイツ当局に約二百五十万ユーロで「情報提供」を打診している。データの買い取りを持ちかけている人物は、ドイツ人顧客らの情報を入手したというが、盗んだ可能性も高いらしい。
厳格な秘密保持で知られるスイスには、銀行顧客情報を漏らすと最大で禁固五年に処する法律がある。この人物にしてみれば、ギャンブルに出た様なものだろう。
この人物のセールストークによれば、ここには脱税に関する人物達の情報も含まれている、と言いドイツ当局にすれば一億ユーロの追徴課税が期待できるとの見方も出ている。
方法の合法性が議論される処だが、脱税摘発に熱心なショイブレ財務相は「原則的には買い取る」との方針を示した。メルケル首相までが「重要な内容なら、データ買い取りに尽力すべきだ」と発言したため、スイス国内に衝撃が走っている。
読み了えて、内容に納得した後、
「え、口座を持ってるんですか」
と大野は訊いた。友野は、まさかぁ、と曖昧に笑った。
3
NSCのシチェーションルームから、次の指令が入った。
「マーロックス社の絵画オークションでの落札者を特定せよ」
これ、スイスの銀行のディープスロートを特定するのと同じ位難しいと思うけどな、と大野は思った。
終了後ではあったがオークションのカタログは、何とか入手出来た。最初に目に入った絵は、素朴な木炭の線に淡彩を施した風景画だった。石橋を描いており、その隅に足を下ろして座っている人物が見える。傍らにあるサインは「AH」とある。或いはこれは作者自身なのだろか。アドルフ・ヒトラーの若き日の習作、とキャプションにある。ヒトラーは青年時代に画家を志した事もあったという。
これを含め十五点がこの日のオークションに掛けられた。主催はロンドンのマーロックス社。英国の複数の絵画収集家からの出品で、水彩画十二点のほかに油彩画や鉛筆によるデッサン等もあった。一九〇八年から十四年にかけての作品でウィーン周辺でのスケッチだと思われる。
オークションは活発に競られ、結果として総額九万七千ポンドで落札されたという。
外交官という特権を以てマーロックス社に正面から問い合わせた処、落札者についてはお応え出来ません、と丁寧に断られた。そこでギョームにDCRIのルートを通じて調べて貰ったが、ネットを通じた入札で人物特定は不可能だった、という。
そうこうしているうちに、更に作品が出て来た。ギョームからの連絡で判った。こちらはドイツ南部ニュルンベルクの小規模な競売だった。二十代半ばのヒトラーの作品という水彩画二点。これまた素朴な風景画だった。三万二千ユーロで落札された。こちらも大野の調査が後手に回り、落札者の名前を辿れなかった。
フレンシュロンの用意が出来た、とギョームから連絡があった。見たいのなら来れば、と言われ早朝のコンコルド広場で落ち合うと、ギョームのプジョー607に押し込まれた。併走するバンと共にパリを出て西へ、見え隠れするセーヌ川に沿って進んだ。
降ろされたのは、広い草原の中だった。ここは何処、と問うと、ヴィロンヴェだ、とギョームが言う。バンから降りたスタッフの連中は、ジュラルミンケースとボンベを抱えて小高い場所に行く。
スタッフがジュラルミンケースを開き、取り出したのは茶色のゴムのシートだった。広げられるにつれ、それは風船だと判った。スタッフはそれをボンベに繋ぎ、膨らませ始めた。更にこれには小さな機材が取付けられる。
「まさか、あれがフレンシュロン」
と大野が虞るおそる訊くと、そーだが何か、とギョームが応えた。
「あれにはソーラーパネルがあって、小さなプロペラも付いている。微弱な電磁波を捉えて、その方向へと進むんだ」
グーグルから押収したデータによって、電磁波の出現は四日程度の間隔だと解析された。そこで今日の佳き日を選んで、このフレンシュロン作戦を投入する事と相成った、とギョームは腹に手を置いて言った。
「勿論、ル・アーブルからパリの間で、何と三十個もの風船が放たれるのだ」
満腹に膨らんで浮き上がった風船から下がった綱をスタッフが、支えている。時間です、と他のスタッフがギョームに声を掛けた。
「よーし、上げろ」
スタッフが綱を外し、風船は舞い上がった。この同じ時刻にセーヌ川流域三十箇所から、風船が放たれたのだ。大野は惜しみなく拍手をした。他に誰も手を叩く者は無かったが。
その日の新聞に四段二分の一の広告が載った。
――オークル色の風船を見たら、こちらのサイト掲示板に書き込みを。
内務省農業研究所ではこの度、国内の風向きを調査する事となりました。これは近年頻々と起こる集中豪雨に対処するプロジェクトであります。近年の異常な気象は、国内の風致環境の変化によるものではないのか。そんな仮説を究明すべく、本省では多額の予算を以て実地に調査を行う事と相成りました。
本日八月十七日午前十時に、フランス各地から茶色の風船を上げました(サンプル写真参照)。国民の皆様にはこれを、可能な限り見つけて頂きたい。目撃された方は、以下のサイトにアクセスの上、目撃場所を詳細に書き込んで下さい。
研究成果の纏まりました暁には、本省より謝礼金をお贈りいたします。
小高い場所に移動し、遠ざかる茶色の風船を見ていた。既に何かの電磁波をキャッチして動いているのだろうか。動きが緩過ぎて何とも言えない。
「あれ、何色って言うんですか」
「フランスではオークルと呼んでる」
微妙な色合いだなぁ、と大野は思った。そこから淡彩の絵画に連想が跳んだ。
「ヒトラーの習作画の落札者情報は、その後ありませんか」
「あぁ、あの後から出てきた二点な。あれはドイツのBNDが仕込んだとか聞いたぞ」
ドイツ当局も追ってるんですか、と問うと、そうなるなぁ、とギョームが応えた。
情報のソースは、と重ねて問うた。
「うちの美術品捜査部門だ。紹介してやろーか」
是非に、と大野は目を輝かせて言った。
「帰りにオフィスに寄ろう」
撤収、とギョームはスタッフに声を掛けた。
パリ市内に入ると本部へ戻るスタッフのバンと分れ、大野達のプジョーはメニルモンタンへ向った。裏通りに乗り入れ、路肩にプジョーを停めると、古いビルに入った。階段を二階まで上がる。
ドアの曇り硝子に「古美術修復」と書かれたオフィスがあった。ボンソワール、と言い乍らギョームはドアを開いた。つん、とテレピン油の匂いが鼻についた。室内には額装した絵画があちらこちらに置かれていた。
あら、と振り向いたのはウエーブの掛かったロングヘアの女性だった。レンズの大きな太い黒縁の眼鏡を掛けている。羽織ったスモックは絵の具で汚れていた。こちらはNSCの派遣要員のムッシュ・オウノだ、とギョームは紹介して呉れた。こちらはマドモワゼル・ジゼール。
初めまして、と挨拶すると、
「あなたがギョームのお腹に、多大な資金投資をなさってる方ね」
と微笑んだ。
どーも、最近もまた大胆な絵画盗難事件があったみたいで、お忙しい事でしょうね、と四方山話をしてから、
「例のオークションに出た作品の件ですが」
と、さっそくヒトラーの習作の件に話題を振り向けた。こんなに一度に沢山の作品が出るなんてね。貴方、ヒトラー自筆の作品がそんなに残ってるとお思いになる、とジゼールは訊き返す。
「あれはドイツ軍の美術工房で作られた物よ。キャンバスには伝達事項の暗号が隠されているのよ」
作戦遂行上必要な通信を隠して、堂々と受け渡されたのよ、とジゼールは言う。すると、あの十数枚にも、当時の指令書などが入っているのですか、と大野は訊いた。
「ウィ」と事も無気にジゼールは言う。当時の下士官にとっては、総統の名前入りの絵画型の指令書なんて素敵なプレゼントでしょ、戦後も取っておいたヒトも居るでしょーね。
すると、後から出た二枚は、と大野は訊いた。あれ自体は当時の現物。戦後にドイツの情報当局が押収したものなの。その後はBNDに管理が移ったのね。今回の動きを見て、それに発信機を付けて売りつけた訳。
「ただ、一枚だけ見慣れない物があった」とジゼールは表情を堅くした。ここにもオークションのカタログがあった。ジゼールはページをめくった。そして指を止めた。
「工房作品とは筆致が違う気がする。イニシャルのサインなんて特に怪しい」
と、ジゼールは呟いた。そこにあったのは、淡彩の木炭スケッチの複写だった。改めて絵を見た。何か記憶に引掛かるものがあった。それは何だったろうか。
オフィスを出て、路上駐車したプジョーに戻った。
ありがとう、参考になりましたよ、と大野は言った。ギョームは頷き、
「取り敢えず、メシ奢れ」
と言った。
スティーブンはここ数日、長沼と連絡を取ろうと試みていた。DIA上層部からCIA上層部へと話を繋いで貰い、ようやくホワイトハウスへの脅迫内容が判ったのだ。それは長沼の追う線といずれ繋がる、とスティーブンにも見えて来た。
だからこそ、長沼と情報を突き合わせる必要があった。しかしメールにもセルフォンにも長沼の応答は無かった。何かあったという勘が働いた。市内のホテルを突き止め、部屋に向った。
ドアをノックした。当然、人の気配はない。銃を右手に、マスターキィでロックを外した。ノブを静かに回し、ドアを押した。部屋は暗かった。壁を手探りして灯りのスイッチを入れた。
銃を持った手を延べつつ、部屋を見回した。誰もいない。長沼の荷物はそのままにあった。争った様な形跡は見られない。バスルームのドアは開いていた。当然、そこにも人は居ない。ベッドサイドのテーブルには、コップがひとつあった。既に中は乾いていた。連れ去られて数日という処か。
スティーブンはセルフォンを取り出し、オフィスに連絡を入れた。現場検証をしなくてはならない。しかし物証などは残されていないだろう。敵の行動は慎重であり、正確だった。
ホワイトハウスへの脅迫は最初、ホワイトハウスを「売買物件」として掲示する事から始まった。敵のサイバー攻撃技術の高さを見せつけた事だった。そして要求が提示された。
「昨年亡命し現在米国内に居るエンジニア、シャハリーム・アサンティを探し出し、身柄を渡して欲しい」
だがまだ大統領府はこれを本気にしていなかった。するとマリーン・ワンの設計図がハッキングされ、ウェブ上に曝された。
それでも大統領府が動かずに居ると、敵は大統領と接触のあった人物を暗殺してしまった。
4
メキシコ国立人類学博物館の館長フェリーピ・ヒゾースが急死した。現地メディアは死因を豚インフルエンザと報じた。事態はアメリカにも飛び火した。この事件のほんの数日前に米大統領がメキシコを訪れ、この博物館も見学していた。当然、案内役は館長自身だった。
ホワイトハウスのブリーフィングでは、これを受けた質問が出た。大統領はウィルスの検査を受けたのか、という質問にギブス報道官は、
「大統領の健康に問題はない」
とだけ回答した。しかしこれでは疑念は拭えず、翌日のブリーフィングでもまたこの件についての質問が出た。報道官は改めて「大統領は健康である」と応え、更に駐米メキシコ大使館から得た情報を開示した。
「ヒゾース館長の死因は、単に豚ウィルスだけでなく、以前から患っていた肝臓の病気との合併症による」
DCRIの丁稚上げた農業研究所の「風船追跡サイト」には、多くの書き込みがあった。殆どは小遣い稼ぎを狙った子供達の純真な行動だった。それによると、オークル色の風船は緩々とセーヌ川を遡っているらしい。
ギョームのスタッフは、通報のあった箇所に足を運んで、セーヌを航行する船を確認している。殆どは個人の小型ランチで、たまに清掃局の浚渫船が行くだけだった。小型ランチの持ち主は、記録され内偵された。今の処、怪しむべき人物は居ない。
例によってのパワーランチの席で大野は訊いた。何処まで遡るんでしょ。
「まさかなぁ、水源まで行くってか」
とギョームはしばしナイフとフォークを止めて、遠い目をした。
「セーヌの源流は何処にあるんですか」
「確かブルゴーニュ、シャトーシノンという場所だったな。パリ市の飛地になっとる」
「おいでになった事はありますか」
「いや、観光地としてもちょっと交通の便が悪いからな。まぁ美味いもんはあるだろうが」
シャハリーム・アサンティの身柄はDIAによって確保された。情報を得たスティーブンのチームが動いたのだ。当人は情報戦の只中で取り沙汰されている事など知らず、暢気に亡命生活を送っていた。ニュージャージーのアパートに踏み込んだDIAのエージェントは、最新型ゲーム機SPS3で遊んでいたアサンティの身柄を難なく確保した。
アサンティはゴーグルを着け、ジョイスティックを握って空中戦のゲームに夢中になっていた。脇に立ったエージェントにさえ気付かなかった程だ。
アサンティの身柄は、ワシントンの人権団体の事務所に送致された。勿論、これはDIAのダミー機関だ。そこからCIAを挟んで大統領府との交渉が始まった。敵の要求通りにアサンティを渡すべきか、討論された。
先日ギョームに案内されたメニルモンタンの「古美術修復」のオフィスを、大野は単身で再び訪れた。ボンジュール、と言い乍らドアを開くと、今日もジゼールはキャンバスに向い合っていた。あら、とジゼールは微笑んだ。
「今日はムッシュ・ギョームは居ないんですよ」
と切り出した。私の任務は例のオークションの落札者を調べる事でして。
「それは、私にも判らないわ」
とジゼールはキャンバスに身体を向けた。
「しかし落札した金額の、支払いの流れは掴めるかと思いまして」
と言ってみる。何処から、とジゼールは首を傾げる。
「ドイツ政府と交渉しているスイスの銀行のディープスロートからです」
なるほどねぇ、とジゼールは感心してみせる。
「あなたでしたら、それを訊き出せるでしょう。あなたはBNDと通じておられる」
只のお友達なのよ、そんなに深い関係ぢゃないわ、とジゼールは視線を逸らせた。その視線の先に回り込んで、大野はその瞳を覗き込んだ。
「勿論、そうでしょう。私も疑ってなどいませんよ」
大野は、にっこりと笑顔を作った。
エトワールの大使館に戻った。ジゼールからのメールを受け、提供された情報に従って、フリーメールのアドレスにメールを送った。
「顧客情報一件、買いたし。金額、応相談」
友野嬢をからかっているうちに返事が来た。相手は要求した情報を持っていた。金額を指定し、キャッシュの受け渡し場所を指定している。
内閣府に電話を入れた。
「必要経費をお願いいたします」
幾らだ、と室長は訊く。
「1万ユーロ程。情報提供者への謝礼です。使用目的としては正当ですから、内閣官房機密費でなんとか」
また思い遣り予算か。まぁ七月分の〆日を過ぎたし何とかなるだろ、と室長は言った。
送金の手筈を整えた。それからTGVリリアの時刻表を開いた。
翌朝、大野はリヨン駅から超特急に乗り込んだ。また心行くまで旅の車窓を楽しんだ。午後にはジュネーブに居た。
パリから行くと言うとコルナヴァン駅から近い場所を指定された。待ち合わせたオープンカフェの屋外のテーブルで、一時間待っていた。
「オーケイ、あんた独りだと確認出来た」
と背後から声がした。おっと、振り向いちゃならん。そのまま話そうぜ。
隣の席で、背中を接する様に座っている様子だった。
「私は顧客から買い取りのメールを待っていたんだがな。まさか情報の調査を依頼されるとは思ってもいなかった」
「フリーメールのアドレスを教えて呉れた人が居るもので」
と大野は応えた。
「この取引にしか使ってないIDだよ。どうせ私の顧客から漏れたんだろ」
「まぁ、フリーメールですし」と途惚けた。
「あんたの名前は方々で耳にしたよ。「国民国家の法律」を探してるジャポネが居るってな」
あれ、そっちに繋がったのか、と大野は思った。
「たしかにあの半端な絵画コレクションに、根の処では繋がってるからな」
「え、それはどーゆー事ですか」
と大野は思わず、素朴な疑問を口にしていた。
「知らんのか。あの本には膨大な資金の隠し場所が記載されてたんだ」
宝探しかぁ、と大野は思った。
「だが、財宝は既に掘り出され遣われてしまった。今更探しても無駄な事だ。それでも例の情報はまだ必要かね」
「勿論、謝礼はご用意して来ました。領収書は不要です」と、大野は後ろ手で封筒を渡した。
しばしの沈黙は、封筒の中身を確認しているからだろう。
「オーケイ、私が席を立った五分後にあんたのIDにメールが届く」
と言うと背後で席を立つ気配がした。
大野は時計を覗いた。正確に五分待ってノートパソコンを開いた。プロバイダーにアクセスすると、メールが届いていた。オークションの落札者は団体名だった。「ブライビーゼル名画保存会」。
昼食に誘い出したギョームは得意気だった。今日も奢って貰うぜ、と言い、
グリヨットのソース掛け鹿のポワレなどと豪勢なメニューを注文した。
「茶色の風船がぴったりと船の後を尾けている情景を、思い浮かべてみて呉れ」
我々のスタッフが、そんな状態で走っている船を捕捉した。ターゲットは何だったと思う、とギョームは問いを投げて間を措いた。
「それは清掃局の浚渫船だった」
我々のスタッフはターゲットを停船させ、臨検した。乗っていたのはまっとうな清掃局のスタッフだったし、船倉と言っても蓋の開いた水槽みたいなもんだ。何を隠せるものでもない。
そこで我々のスタッフは水中に潜って、船底を調べた。そこには頑丈なプラスチックの防水ケースが貼り付いていた。剥して船員に見せたが、知る者は居ない。
我々のスタッフはそれを持ち帰り、精査した。ケースには発信器が付けられていた。これが、グーグルにも探査衛星にも引掛かったモノの正体だ。そしてケースの中には、半分解体された最新式のゲーム機SPS3が、九つも入っていた。
ゲーム機、と大野は呟いた。まさか長沼さんが追っていた物が、ここに密輸されていたなんて。
「つまり、この密輸業者は、ル・アーブルでこの荷を清掃局の浚渫船の底に貼り付け、後は上流まで便乗させて貰っていた。密輸犯達もこの発信器を頼りにしていて、待ち構えては上流で回収しているんだ」
「すると、その場所は」
と大野が言うと、抜かりはない、とギョームは得意になり、ワイン一本追加してくれ、と言った。
「我々はこの箱を再び浚渫船の底に戻した。ただし乗っているのは清掃局員ではない。犯人達が回収に来る処を掴まえてやる」
エトワールの大使館に戻って、大野は考え込んでいた。友野嬢が心配気に顔を覗き込んだ。お疲れですか、と言う。
資金の隠し場所が記載されている、とディープスロートは言った。大野は古書をめくってみた。最後までめくっても、地図もイラストもない。暗号を解いても、すべては文章で表現されているという事になる。
ディープスロートの言葉を思い出していた。絵の落札者を探りに行き、この本に繋がる、と言われた。妙な話の流れだった。そう思った時に、大野の頭の中で、二つの画像がオーバラップした。
大野は資料棚に跳んで行き、オークションのカタログを取り出した。
油彩画とデッサンと、十二枚の水彩画。これだ、と大野が指を止めたのは、淡彩の木炭スケッチだった。これはミュルーズのニーゼル橋だ。
発見に興奮していると、ギョームから電話が掛かった。捕らえましたか、と訊くと、水源まで遡ったが、とうとう敵は来なかった、と消沈した声で言う。罠に気付かれたかな。
古書と落札者情報を持って、大野はワシントンDCに降り立った。エアベースにはNSCの連絡要員が出迎えた。エントランスゲートに用意されていた乗用車に乗って、機関本部へ向った。
会議室に通されると、NSC欧州部長が出迎えて呉れた。この組織に編入された時に、一度このシチェーションルームへ遣って来て顔を合わせている。
古書を手渡し、落札者情報を記録したミニSDカードをスーツの隠しから取り出した。民生品なのに、まるでスパイのガジェットだ。秘書がそれをデスクのノートパソコンに装着している。
「ご苦労だった。先づ、この古書だ。何かは、薄々判って来ているのだろう」古書を手許で開き、目を落としつつ部長は言った。「スイスの名家出身の外交官が書いた政治書だが、この中に先祖伝来の財宝の隠し場所を暗号で書き込んである」
こりゃニコラス・ケイジの仕事だったな、と大野は思った。
「わが合衆国・初代大統領のワシントンも、建国の資金にとこの本を研究したというが、当時は欧州まで調査の手が回らなかったらしい」
おぉジョージここに居たか、と大野は思った。
今回、君にこれを探して貰ったのは、ここに書かれていた暗号を再確認する必要があったからだ。ヨーロッパにならまだ数冊は残っている可能性があったからな、と部長は続けた。
「欧州の古い伝聞情報では、財宝はいつの時代にか掘り出されてしまっているとも言う。掘り出した者もまた戦争の資金に用立てたらしい。その蕩尽された事実を確認する為、財宝の場所を特定したかったのだ」
と言って部長はページを繰った。見返しに挟んでおいた領収書が落ちた。部長がそれを拾う。
「例の落札された絵を表示して下さい」
と大野は言った。秘書がノートパソコンで検索し、十七枚の絵をサムネイルで並べて見せた。「これです」と大野が指差したのは、淡彩の木炭スケッチだった。彼女がクリックすると、絵がディスプレイ一杯に広がった。
「これはミュルーズにあるニーゼル橋です。今では新しくなっていたけれど、この外観は残されていた」
部長が口笛を鳴らした。
「ジョージが探して断念した場所を、君は見た訳だ」
と部長は言った。秘書がグーグルマップで検索し、周囲の風景を可能な限り拡大して見せた。さすがのストリートビューも精細な画像は持っていない様だった。
「いずれ、誰かを調査に行かせる事になるな」
と部長は言い、古書を閉じた。そして言い継いだ。
「さて、そこでもう一つのミッションだ」
ディスプレイにはSDカードの文書を開いてある。それを見て部長が言う。
「君の探り当てた名は「ブライビーゼル名画保存会」とあるな。ネオ・ナチスなのか」
秘書が、その名でデータベースを検索した。登記上は名前の通り美術品収集の団体の様でオフィスはニューヨークにあります、と彼女は報告した。
「しかし、ここに実在はしていないと思われます」
と言い添える。何故だ、と部長が訊ねると、
「現在もこの住所のままでしたら、グラウンド・ゼロの再開発地域です」
と応えた。部長は押し黙った。
データベースの画面をスクロールすると、団体にこれまで買い付けられた絵画の名前が並んだ。穏当な大家の小品。スイスの銀行の口座の出納データと画面上で並べてみる。金の動きはほぼ合致している。
その画面を見て、大野は不審に思った。「A Thief Catcher」というタイトルがある。口座側のデータでは、大層な金額が支払われている。
「あれ、これは」と大野は呟いた。「ご存知ですよね、これは映画フィルムだ」
部長も係員も、知らない様子だった。
「名画と言っても、絵画ぢゃない。どーしてだろう」大野は部長に言った。「ミシガンで最近発見されたチャプリン映画です。コイツ等が買ってしまって、発表出来なくなったんだ」
何を古い役者の話をしてるんだ、と冷たい空気が漂った。そこで部長が言った。
「さて、これで依頼したミッションはコンプリートした。だが今回、君にはもう一つのミッションに参加して欲しい。帰国は遅れるが構わないだろうか」
と部長は言った。否と言えるものでもない。
「実は日本のエージェントが拉致されている。その身柄の確保に付き合って欲しいのだ」
会議室に数人の男達が呼び込まれた。
「共同で作戦を遂行するホワイトハウスのスタッフと、DIAのエージェントだ」
――米国務省は一年近く行方が分からなくなっていたイラン人エンジニアのシャハリーム・アサンティ氏が、ワシントンの人権団体に保護されている事を明らかにした。近くイランに帰国する見通しという。
ブリーフィングでの発表によると、同氏は昨年六月にサウジアラビアで行方不明になった。今月一八日夜になって、ワシントンに現れ、NPOの人権団体に保護を求めたという。
CNNの独自調査によると、アサンティ氏はイランの革命防衛隊に近い大学に勤務していた。同氏の行方を巡ってイラン政府は「米中央情報局による拉致」と非難。しかし米国側は自主的な亡命であると反論し、マスコミで取りざたされてきた経緯がある。
イラン国営テレビは一九日、同氏の周辺人物からのインタビューを伝えた。この人物は、
「同氏は米国に拉致されて監視下に置かれ、精神的圧迫を受け来た」
と語った。
一方、ヒラリー国務長官は一九日、省内でのブリーフィングで記者団に対し、
「米国に滞在していたのは自由意思なの。出国するのも自由よ」
と述べ、拉致との見方を否定した。
――AEP電によると、ワシントンで保護されていたイラン人エンジニア、シャハリーム・アサンティ氏は、同人権団体のチャーターした旅客機で、二〇日夜に米国を発った。中東カタールを経由して二一日未明にイランに帰国することになる。同人権団体によると、アサンティ氏は、
「私は単なる大学の講師助手で、スパイ戦にかかわった事など全くない」
と述べ、米中央情報局に協力してイランの軍事情報を提供したとの見方を否定しているという。
一方、クローリー米国務次官補は二〇日の定例会見での質問に応え、アサンティ氏の言動について回答に窮し、
「話半分に聞くようみなさんには忠告したい」
と応えた。
5
作戦実行班を乗せたジャンボ機747―200Bは、アル・ホール空港に着陸した。暑い日差しが降り注いでいる。ここを受け渡し地点に使用する為、カタールと交渉し許可を得たのだ。実行班は、予め伝えられている周波数で、連絡を待った。
最初の指示は、イラン人エンジニアを降ろし、空港の西の男子トイレへ連れて行けというものだった。随伴者はひとり、と限定されCIAのエージェントが付き添った。
エージェントも無線機を持っている。指定された男子トイレに到ると、エンジニアを真ん中のボックスに入れドアを閉じよ、と指示された。そのままトイレを離れよ、と言われエージェントは空港の通路まで出て見張った。
すぐに次の指示があった。別な要員を空港の西の男子トイレに向かわせよ、という。これにはスティーブンが当たった。指定された男子トイレに到ると、真ん中のボックスを見ろ、と指示された。スティーブンが扉を開くと、長沼が座っていた。目は虚ろだ。
スティーブンは直ちに長沼を抱えて、旅客機に戻った。西のトイレの前で見張っていたエージェントは、異常なし、と伝えて来た。しかし再びトイレのボックスを見ると、既にイラン人エンジニアは居なくなっていた。
747機はアル・ホール空港を発った。水平飛行になった処で、随伴して来た医師が、長沼に気付けを注射した。やがて長沼は意識を取り戻した。窓から見える景色に目を遣って言う。
「ここは何処なんだ、ナミブ砂漠か」
傍らで大野が応えた。
「カタールのアル・ホールです」
あれ、大野さんかい、と長沼は目を見張った。カタールって、あのサッカーの試合があった国か、と言う。首を振り腕を伸ばして、無理矢理に目を覚まそうとした。
「俺はワシントンDCに居た筈だが、随分と連れ回してくれたもんだな」
長沼の意識がはっきりした処で、一同が取り囲み、事情聴取が始まった。
座席に座り直した長沼の前に、機内食が置かれた。
「こりゃどーもご丁寧に。大きな旅客機でお迎え頂きまして」
スティーブンが応えた。
「オマエに重要度などない、只の捨て駒だ。捕虜を運ぶ都合でこれになったんだ。取引上、人質交換で手打ち・以後一切不問という状況が必要だったんだ」
これは対等なバーターではない。俺達は敵の要求通りに、亡命者を拉致して連れて来たんだしな、とスティーブンは言い添える。
長沼は周囲の様子に目を遣る余裕が出て来た様子だ。一列づつゆったりと並んだ座席や室内のレイアウトを見て、何か考え込んでいる。
「これ、エアフォース・ワンかい」
「違うって。唯の空軍二便だ。ワンのコードが付くのは大統領が乗った時だけだ。オマエは大統領ぢゃねぇだろ」
とスティーブンが応えた。それから各々の機関が獲得した情報が提示され、突き合わされた。
長沼さんの追ってた線がビンゴだったんです、と言うのは大野だった。アメリカで新発売になったゲーム機SPS3の部品取りが、敵の目的です。
スティーブンが引き継ぐ、グリッドコンピューティングの技術で、スーパーコンピューターに匹敵する装置を、何者かが作り上げようとしている。
大野が言う。大量に買い付けられたゲーム機は、アメリカとイギリスの間で分解され、必要なパーツだけにされて、ル・アーブルからフランス国内に持ち込まれています。どうもセーヌ川を運搬に利用しているらしい。
スティーブンが言う。どうもブルゴーニュ辺りに、生産拠点があるらしいんだ。オマエと交換されたエンジニアは、そのシステム設計と運用のプログラミングをやらされるらしい。カタールやイランではなく、他の国へ運ばれるんだろ。
「それは何処だ」
と長沼が訊く。スティーブンが応えた。多分、アフガンの鉱石を、当事国より先に調査発掘して横取りしようとしている組織があるんだ。その為に必要なのが最新の3D技術だ。ついでに「マリーン・ワン」の設計図も盗みやがった。
「先づ、その生産拠点を叩きたいな」
と長沼が言うと、皆が黙ってしまった。
皆の座席にも食事が運ばれ始めた。キャビンアテンダントの制服が、ちょいとお堅いな、と長沼が言うと、スティーブンは、空軍の制服だぜ、と返した。
食事時間となって、座が緩んだので、大野がフランスでの調査状況を説明し始めた。
私の方の調査対象の組織の名前は「ブライビーゼル名画保存会」というらしいです。そいつらがこの処、ヒトラーが描いたとされる絵画を、買い漁っています。そのひとつ、素朴な淡彩画に描かれていたのは、スイスの貴族が残した財宝の隠し場所でした。最もこれはヒトラーの筆致ではない、という人も居ます。
言い乍ら、大野自身も情報を整理しているのだった。初代大統領はアメリカ建国の資金にしようとした。しかしこれは伝承によると別な戦争の資金にされたらしい、と部長は言っていた。
「そうか」
と大野は気付いた。ブキニストの店主が言っていた。
「八十年ほど前のこと。当時のパリのルーブル美術館別館に、ある画家が自作をこっそり持ち込んで「展示」し、二日後にバレて撤去されたことがある」
それは撤去では無かったのだ。あの絵の本当の作者は別に居る。
その人物は「国民国家の法律」に隠された財宝の暗号を解き、財宝の隠し場所を図示して素朴な風景画に仕立てた。それをこっそりルーブルに置いた、サインを「AH」と入れて。それは献辞だった。
ルーブルに怒られ、謝りつつこれを持ち帰ったのは、畏らくは若きヒトラー。たった今のカタールの空港での遣り取りの様に、これもつまり受け渡しだった。それは、未だその将来も知れぬ若者に対して賭けに出た投資だったのだ。
そいつは誰だったろう、ニーゼル橋の絵にはそこに腰掛ける人物が小さく描かれていた。それこそがこの絵の作者だ。しかしその正体は、歴史の闇に紛れてしまったのか。
「けれど、他のヒトラー工房の絵は、どうして収集されてるんだろう」
と大野は考え込んでいた。空軍機はそろそろ米東海岸に到っていた。
大野は言った。
「これ、エアフォース・ワンですよね」
「違うって。唯の空軍二便だと言ってたろ」
と長沼が応えた。
「作戦指令室の設備があるんですよね」
と大野が立ち上がった。通路を抜けコンパートメントに向う。スティーブンが制止した。
「一般人は立ち入り禁止だ」
「ちょっとだけですってば」
と大野は構わず、そのドアを開いた。スティーブンが「あ、こら」という間に、長沼も追い抜いていた。そこにはハイテクなコンソールがあった。本機の周辺情報を逐一表示している。
「この機材ならば、ストリートビュー車より感度が良いでしょ」
と大野は言った。長沼が尻馬に乗った。
「ちょっと、ニューヨークを観光飛行して欲しいなぁ」
その間にも大野は、ジャケットの隠しからミニSDカードを出していた。それをコンソールのスリットに差し込み、デスクトップのコンピューターを操作した。
「オマエ等、調子に乗るな」
とスティーブンが言ったが、彼等の行動に興味を持ち始めてもいた。
「まぁ良いぢゃないですか、ぐるっとふた回り位」
と長沼はコックピットへのインカムを押した。
「ここ、ちょっと高度下げて下さい」
と大野が言う。長沼がコックピットに伝えた。デスクトップのパソコンで開いた文書には、BNDからリークして貰った周波数が記載されている。
「スティーブンさん、この周波数でサーチして下さい」
おいおい、と言いつつスティーブンはコンソールを操作し始めた。
「最後に現れた二枚の絵には、BNDが発信機を仕込んでいるんです。それを見つけられれば」
と言っているうちにマンハッタンが見えてきた。画面に表示された地図上に信号が感知される。
「あるぞ」
とスティーブンが言った。CIAさん、と大野が声を掛けた。
「この場所です、地上のお仲間を向わせて下さい」
ドア際で興味深気に成り行きを見ていたCIAのエージェントが、活発に動き出した。コンソールのマイクを取って、通話を始める。
後方をとらえた画面を見て大野が言った。
「なんか切れの良いスタイルの戦闘機が追尾して来ますよ」
「ありゃF16だ」
長沼が応える。
「さすがに動きが機敏ですね」
大野が感心して言うと、無線ががなり立てた。
『エアフォース・ワンに告ぐ』
「ここに大統領は乗ってねぇよ。空軍二便だ」
と長沼が応えようとすると、スティーブンが押し退けた。
「莫迦野郎、俺が代わる」
――二二日午後、ニューヨーク・マンハッタンの世界貿易センター跡地近くで、低空飛行するジャンボ機をF16戦闘機が追尾した。市民への事前通告はなく、街は一時、混乱状態になった。ある市民は「あまりに近くに見えたので、二分ぐらいで八割の人が事務所から逃げ出した」と話した。
低空飛行は午後三時から約三十分間。「実は大統領機の写真撮影が目的だった。市当局には事前に通告されていたが、警備上の都合で計画の公表は禁じられていた」と伝えるテレビ局もあった。
だが、ニューヨークのブルームバーグ市長は自分自身も聞いていなかったとしたうえで、この日の会見で、
「事前公表しないという判断は、ばかげている」
と怒り心頭の様子。ホワイトハウスは「こちらの責任」と平謝りするコメントを発表した。
6
空中が騒然となっていた頃、CIAの別動隊はマンハッタンの倉庫を急襲した。そこには「ブライビーゼル名画保存会」が収集したコレクションが収蔵されていた。僅かなスタッフを拘束したが、いずれも小者で倉庫警備の為の末端構成員に過ぎなかった。
シチェーションルームの会議室に、押収したコレクションが並べられた。松脂の匂いが漂っている。絵画が三〇点以上、そしてグリーンバックダラーを百枚づつ束ねたものが多数。ゴミ置き場からは大量の電子基板の破片が見つかった。
「この札の番号を全部入力してみるか。それなりに面白い来歴が見られるぞ」
と長沼が言った。それから、電子基板に目を止めた。手に取って基板の上にプリントされた小さな文字に見入った。「SPS3」。
大野はドイツ軍美術工房作の絵画十五点を精査した。キャンバスの裏地に二重になった箇所があり、そこに古びた文書が隠されていた。殆どは戦時中の指令書に過ぎなかったが、その中にニエーヴル県シャトーシノンのモルバンの丘の地図があった。更にそこには地下構造物の図面も書き込まれていた。
セーヌ川源流の地だ。ここに至って「ゲーム機」と「絵画」ふたつのラインがリンクした。
「スキャナー貸して下さい」
周章て始めた大野に、一同が驚いた。彼等はまだ、これが過去の遺物に過ぎないと思っていたのだ。
この図面はすぐにスキャニングし、DCRIのギョームに電送した。直ちにフランスでもまた、大規模な手入れが行われた。しかし敵側は、ニューヨークでの捜査介入を逸早く伝えていたのだろう。モルバンの地下の巣窟には既に誰も居なかった。突入部隊は、飛び去る軍用ヘリコプターの後ろ姿を遠望したという。
この地下構造物は、おそらくフランス侵攻の時に使われた物だろう。敵の誰かが戦時中にここを知っていて、現代になってこの裏IT産業の生産拠点とした。しかしドイツ軍の地図が何処かに残っている可能性があり、敵はそれが表に出るのを畏れて、絵画を買い漁ったのだ。
コレクションの中から大野は、映画のフィルムを収めた平たい缶を見つけた。錆の浮いた蓋を開き、フィルムを引き出して冒頭のコマを確認した。「A Thief Catcher」のタイトルが見えた。
後刻、これを関係者一同で見た。会議室の機材にはムーヴィーの映写機もあった。技術者に訊くと、近年は殆ど使っていない、と言う。それでも面白がって埃を払って呉れた。
さあさぁ皆さん、チャプリンですよ、と関係者を呼び集めて、上映会を始めた。チャプリンは既にあの不審な挙動の演技を獲得していたが、この時代はまだ他の役者の演技とはまったく噛み合っていなかった。
お堅い軍人とエージェント連中には、あまりウケが良く無かった。楽しく笑っていたのは、大野だけだったかも知れない。少しだけ笑いが聞こえたのも、お義理に合わせて呉れただけなのだろう。
エンドクレジットはひと画面に数人の名前を並べては、ストップモーションする紙芝居式表示だった。主役を演じた役者の名前がブレイブだった。それぢゃコイツがブライビーゼルの創設者なのか、と一同の興味を惹いた。
巻き戻して呉れ、と部長が言い、主役が登場する映画冒頭でポーズが掛かった。映画鑑賞というより、捜査としての画像分析に戻ってしまった。
俳優ブレイブはメイクも濃く、ティピカルな昔風の二枚目だった。この人物が十六年後にヒトラーに資金提供する事になる。演技の泥棒に見入る本物の捜査官達。むしろ、このフィルムは購入者から捜査官が押収してしまったものだ。こうなるとどちらが泥棒なのか。
部屋の灯りを点けた。そうか、と長沼が言った。
「敵に迫ってもいなかった俺が、何で掴まったのかと思ってたんだが、行く先々でこの映画のDVDの事を訊ねていたのが連中の疳に障ったんだな」
夕暮れのマンハッタンに涼しい風が渡っていた。暑い夏も、ようやく終わるのだろうか。フランスに戻る前夜に大野は、長沼と夕食を共にした。長沼も撤収の命令を受けている。
テーブルに着く前に、待合室の座席で大野は膝の上にノートパソコンを広げた。メールをチェックしたのだ。
「やぁ、結構高く売れました」
と大野は言う。今回の事件で捜査のついでに買ったものがありましてね。表紙の取れかけた古書だったんですが、ネットオークションに出したら、ほら、こんな金額に。ブキニストにも良書があるんですね。
内務省農業研究所のサイトもチェックした。茶色の風船の最後のひとつがツーロンから報告されている。大野は言う。ブライビーゼルの連中は、おそらくアセンブリ部品をローヌ川から地中海に運んでいたんでしょうね。その先は、ベイルートから陸揚げして・バグダッドまで陸送、そして、と大野は地図を思い浮べた。
「ここ数日の新聞を見たが、ロシアの美人赤毛スパイの続報ばかりなんだな」
と長沼は言う。
「そちらの捕虜交換を強調して、アサンティの件を覆っていたんですよ」
と大野が応えた。
「奴は何処に連れて行かれたのやら」
ビールを呑みつつ長沼が言った。
「捕虜になってた間、どーしてたんです」
と大野が訊いたのは、料理が運ばれて来てからだった。アメリカ式の巨大なステーキだ。まだ鉄板がじゅうじゅうと音を立てている。
「ずっと薬で眠らされていた。意識は無かった。いや、そうでもないな」
と長沼は言う。ナイフとフォークを持った長沼の手が止まる。
「夢を見たんですか」
大野が訊くと、長沼は暫く言葉を選んでから言った。
「そう、直美さんの夢を見た気がする」
躊躇うまでもなかった。大野は柔らかく微笑んでいる。彼女の面影を共有して呉れる友は、他ならないこの大野だけだった。
――米初代大統領ジョージ・ワシントンが、一七八九年十月五日にニューヨーク市の図書館から借りた本が先日、二百二十年ぶりに返却された。ワシントンが借りたのは、スイスの外交官が書いた「国民国家の法律」という本だった。
当時、米国の首都はニューヨークで、ワシントンは同年四月に大統領に就任したばかりだった。当時は多くの政府関係者がこの図書館を利用していた。
一九三四年に図書館の地下室で貸出記録の元帳が見つかり、大統領の借出しの延滞が発覚した。バージニア州のマウントバーノンで、ワシントンの旧邸を所有・管理する保存協会が、当時と同じ版を約一万二千ドルで購入。今回の返却にこぎつけた。
もし、延滞金を請求されていたら、三〇万ドルにのぼる処だったという。
了
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