黄金の月と白銀の月

高柳神羅

第1話 黄金の月と白銀の月

「私の力の糧となれ。お前の血には、それだけの価値がある」

 床に伏せた僕の上に圧し掛かり、彼女は真紅の瞳を月明かりに輝かせてそう言った。

 全てが眠りに就いた深夜の世界の中で、僕と彼女は、まるで逢引を楽しむ男女のように対峙するのだった。


 僕は生まれつき身体が弱かった。

 20歳まで生きられないと医師に宣告され、生涯の大半をベッドの中で過ごしていた。

 外の世界には何があるのか、どんな人たちが生きているのか。

 それを知らずに今までを生きてきた。

 僕を知る者たちは、まるで僕を壊れ物を扱うように扱い、決して僕を外の世界に触れさせようとはしなかった。

 僕には、それが不満でならなかった。

 僕だって、外の世界を知りたい。誰がいて、どんなものがあるのか。

 叶うならばこの足で実際に歩き、触れて確かめたかった。

 だから、彼女が僕の目の前に現れた時。僕は嬉しかった。

 例えそれが吸血鬼で、僕の血を求めていたのだとしても──

 彼女は血を対価に、色々な話を聞かせてくれた。

 宵闇の世界の話。人間の話。吸血鬼の話。

 僕は、その話を聞くのが楽しみでならなかった。


 今日も僕は、窓を開けて彼女が来るのを静かに待っている。

 どんな土産話を聞かせてくれるのだろう。そんなことを思いつつ。


 僕の喉から顔を離し、彼女は言った。

「今日は人間と結ばれた吸血鬼の話をしよう」

 彼女の話を、僕はベッドの中で大人しく聞いていた。

 月明かりを浴びて輝く彼女の銀の髪は絹糸のように美しい。

 髪だけではない。瞳も、指先も、彼女は何処を取っても宝石のように綺麗だった。

 本当に、見惚れるほどだ。

「……聞いているか?」

 彼女に見入っていると、彼女が問うてきた。

 僕は小さく肩を揺らしながら、答えた。

「貴女に見とれていました」

「話を聞く気がないのなら、私は帰るぞ」

 憮然と言うので、僕は素直に謝った。

「すみません」

「全く、人間というのは面倒な生き物だな」

 はあ、と溜め息をつく彼女。

「貴重な時間をお前のために使っているというのに……」

「今度はちゃんと聞きます。話して下さい」

「気分じゃなくなった」

 ふんと鼻を鳴らし、彼女は僕の上に圧し掛かった。

 僕の顎をくいと持ち上げて、自らの顔を近付けて、言う。

「いいか。私はお前の血が必要だからお前の戯れに付き合ってやってるだけだ。それを忘れるな」

「分かっていますよ」

 僕は顎に触れている彼女の手にそっと触れて、微笑んだ。

「貴女は優しい人だ」

「……甘い言葉なぞ腹の足しにもならん」

 ぱしっと僕の手を払い除け、彼女は僕の上から降りた。

 開きっぱなしの窓の方まで歩いていき、窓枠に片足を掛けながらこちらに振り向いてくる。

「……また来るぞ」

 言って僕の返事も待たずに、夜の闇に身を躍らせる。

 僕は彼女が去っていった方向に目を向けつつ、静かに目を閉じた。


 口ではああ言ってはいるが、実際彼女は優しいところがあると僕は思っている。

 彼女が本当に僕の血を求めているだけなら、彼女は僕の話など聞かずに一晩で血を吸い尽くしているはずである。こうして話を聞かせてくれることなどなかったはずなのだから。

 全く、素直じゃない。

 女性というものは、皆こうなのだろうか?

 それとも彼女だけがこういう性分なのか。

 僕は、彼女のことをもっと知りたいと興味を抱くようになっていった。


 今日も、彼女は僕の血を飲んでひとつ話を語る。

 僕はそれを、倦怠感の宿る身体で聞いていた。

 ──僕の中に流れる血の量が、減ってきているからだろうか。

 何となく、身体を動かすのがだるかった。

 それを、彼女は何となく感じ取っているのか。

 普段は口にもしないようなことを、言ってきた。

「……眠いのか」

 僕の目を覗き込み、呟く。

「……血が残り少なくなってきているんだ。眠くなるのも無理はない」

「……話、聞いていますよ」

「……分かっている」

 僕がそう言うと、彼女はふいとそっぽを向いた。

「この分だと、後数回というところだろう。人間にしては持った方だな」

「……僕、いよいよ死ぬんですか」

「そうだな」

 遠い目をして窓の外を見つめ、彼女は言う。

「ようやく話の種を探さずに済むか。私もよく付き合ったものだ」

「……わざわざ僕のために探してくれたんですか? 話の種」

 それは、彼女が僕と過ごす時間をそれなりに大切に思ってくれていたということであって。

 僕には、それが何となく嬉しかった。

「……ありがとうございます」

「礼を言われる謂れはない」

 彼女は肩を竦めた。

 そのおどけたような仕草が、何だかわざとらしく見えて。

 僕はつい、笑ってしまった。

「……何がおかしい」

 憮然とした様子でこちらに振り向く彼女。

 僕は何でもないと返して、目を閉じた。

 幾分もせずに訪れた睡魔が僕の意識を運んでいくのに、大した時間は要さなかった。

 今日は彼女のお陰で、良い夢が見られそうだ。


 でも、本音を言わせてもらうならば。

 僕は、夢の中にいるよりも彼女と話をしていたい。

 長い銀の睫毛を揺らす彼女の瞳を見つめながら、鳥が鳴くように澄んだ彼女の声を聞いていたい。

 僕に残された時間が少ないのなら、尚更。

 彼女と過ごす時間を大切に味わいたいと、思うのだ。


 夢うつつにまどろむ僕の枕元に立ち、彼女は静かに言う。

「今日は、お前に土産を持って来た」

 僕はぼんやりと瞼を開き、月を背中に背負って立つ彼女に目を向けた。

 彼女は、手中に白く輝く花を抱いていた。

 見たこともない花だった。まるで月の光を束ねて作ったような、そんな儚さと繊細さを兼ね備えた存在だった。

 僕の目の前にそれを差し出して、彼女は言う。

「お前が見たことのない世界の、片隅に生える名もなき花だ」

 僕はそっと手を差し出して、彼女から花を受け取った。

 ふわり、と風に乗って花の芳香が漂ってきた。見た目に相応しい、清楚な香りだった。

 僕が知らない世界の何処かには、この花が咲き誇る場所がある。

 その場所も、此処のように、月の光で満たされているのだろうか。

 興味が、沸いた。

「……僕も」

 僕は口を開いた。

 彼女が目をゆっくりと瞬かせて、僕の顔を見た。

「世界を、見てみたい……貴女が見るものと同じものを見て、綺麗なものを綺麗だと思いたいです……」

 この身体では、それは叶わぬことだろうけれど。

 願うことくらいなら許されるだろうと、言葉を口にする。

 彼女はそっと僕の顎に指を添え、僕の目を覗き込んで、言った。

「それは叶わない願いだ。お前は私に血を捧げて死ぬのだから」

 彼女の顔が近付く。

 吐息が掛かるほどに迫った彼女の顔は、優しい、穏やかな表情を浮かべていた。

「だが──」

 色付いた彼女の唇が、謳うように言葉を紡ぐ。

「お前が死んだ後に、お前の魂を連れてその場所に行ってやることはできる」

 ──僕が魂だけの存在になったら。

 僕は、ずっと彼女の傍に寄り添うことができるのだろうか。

 僕は肩を揺らして、言った。

「……約束、してくれますか」

 そっと彼女の手に触れて、問いかける。

「僕が死んだら……この花が咲く場所に、僕を連れて行ってくれるって」

「…………」

 彼女の手が僕の顎から離れる。

 ふいっと僕から目をそらし、彼女は呟くように答えた。

「……約束してやろう」

 言ってからはっとしたように再度僕の顔を見て、続けた。

「勘違いするな。お前が私に血を捧げたその見返りに頼みを聞いてやるだけだ。ただで願いを聞き入れてやるほど私はお人好しではない」

「ええ」

 僕は微笑んだ。

「分かっていますよ」


 その日から、彼女は話だけではなく色々なものを持ってきてくれるようになった。

 綺麗な貝殻。美しい石。宝石のような羽根。

 それらの品々を僕に見せながら世界の話を語る彼女は、僕の反応を楽しむように何処か期待したような眼差しで僕のことを見つめるのだった。

 血を求めるのはついでなのではないかと、思えるように。


 ──でも。

 この関係は永遠ではない。

 彼女は吸血鬼で。僕は彼女に血を捧げている人間で。

 いつかは、この関係は終わるのだ。

 僕の中に流れる血が、全て彼女のものになったら。

 夢が終わるように、この幸福な時間は終わる──

 そう。終わるのだ。


「別れの時間だ」

 虚ろに前を見つめる僕を静かに見下ろして、彼女は告げた。

 僕の手足はもう動かない。唇が言葉を紡ぐこともない。

 ただ、静かに。

 僕は、彼女の言葉に耳を傾けていた。

「これで最後だ。お前の血は全て私のものとなる」

 ──月が、ふたつあるようだ。

 黄金の月と、白銀の月と。

 そう思えるほどに、今日の彼女も美しかった。

 嗚呼。この世界は、最後まで。

 煌めきに満ちた姿を、僕に見せてくれるんだな──

 彼女の顔が、眼前に迫る。

 彼女の指が、僕の身体に触れ。

 窓から吹いてくる風が、2人の髪を優しく揺らした。

「──お前と過ごす時間は、悪いものではなかった」

 彼女の色付いた唇が、僕の喉に触れる。

 彼女の吐息を、肌に感じる。

 ──僕は、今。

 彼女と、ひとつになっている。

 このまま、全てが混じり合うように、

 僕は彼女とひとつになって、この広い世界を自由に羽ばたいていけるのだろうか。

「これからは、常に一緒だ。お前の魂は私と共に空を翔ける存在となる」

 意識がゆっくりと落ちていく。

 瞼は閉じられ、優しい光に満ちていた視界は揺り籠のような闇の中へと沈んでいく。

「お前の分も──この世界を見続けていてやろう」

 ──その言葉を信じて良いのなら。

 僕は、これからも彼女の中で生き続ける存在になれるのだろう。

 誰かが、死とは無に還るものだと言っていたけれど。

 僕にとっては、全然そんなことなどないみたいだ。

「── ──」

 声なき声で、僕は彼女に言葉を捧げる。

 それを最後に。僕の意識は、完全に眠りについたのだった。


 それから、彼女は僕との約束を守るように世界の様々なものを見て回った。

 あの、白い花が咲き誇る草原にも足を運んでくれた。

 月の光を浴びる花たちは、絨毯のように彼女を飲み込んで風に揺れている。

 そんな世界を闊歩する彼女は、遠い目をしながら語った。

「見ているか。お前が見たがっていたものだ」

 彼女に答える者はいない。

 独り言が静寂に溶けて夜の世界に消えていく。

「世界には、これよりも美しいものがごまんとある」

 彼女の真紅の瞳に、月が映り込んでいる。

「見せてやろう。それら全てを。お前が望むままに」

 強めの風が吹いた。

 ざあっと揺れた白い絨毯は、彼女の周囲で光り輝いた。

 それも美しいもののひとつだと言うように視線を花たちへと向け、彼女は言った。

「楽しみにしているといい」

 ──彼女は星で満たされた天の大海を駆けていく。

 きっと彼女は、僕が満足したと思うまでこの旅をやめることはないのだろう。

 それが、僕との間に交わした唯一無二の約束なのだから。

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