蜘蛛の巣の道2
その翌日の蜘蛛の巣には、不思議と引っかかりませんでした。というより、張っていなかったのでしょう。私はどこか幸運さえ覚えながら、ずんずんと道を抜けました。
しかし、そうではありませんでした。
「あの、千代野さん」
「はい?」
千代野、というのは私の名前でした。珍しい名前でしたから、同期である彼女が呼んだのは私で間違いないでしょう。彼女は私の足元を指差すと、
「それ、なんです?」
と尋ねました。私も自分の足元を見ます。するとそこには、うっすらと銀色の糸くずのようなものが引っ付いていました。
しまったな、糸くずなんてどこで付けたのだろう。私がそう思って手で払うと、しかしそれは妙な不快感を持って手に纏わりついてきました。
「うっ……」
そこはいつもの抜け道ではありませんでしたので、私は苦い顔をします。この不快感は間違いありません。今朝も私は蜘蛛の巣に引っかかっていたようでした。同期の彼女は「もしかして」と察します。
「蜘蛛の巣……ですか?」
「みたいです」
「災難ですね……」
彼女は苦笑しました。他人事だから笑えるのでしょうが、私の羞恥心から思えば苦笑してくれた彼女の対応は正解だったと言えるでしょう。私は「まったくです」と同じく苦笑して、手洗いでそれを流しました。
その次に引っかかった蜘蛛の巣は、いつもと様子が違いました。不快感と、もう一つ何かがあったのです。
「ん……!」
思わず苦い顔をしました。『蜘蛛の巣に引っかかってしまった』という認識というのは、私以外でもそうだと思いますが、例の不快感によって覚えるものです。
しかしこの時ばかりは違いました。なんというか、まるでパソコンから伸びたコードに引っかかってしまったように、『今引っかかった』という体感としての認識がありました。さすがにコードほどしっかりとしたものではなく、それはほとんど不快感による認識と大差はなかったのですが、それでも確かに初めて覚えた違和感でした。
違和感を覚えた部位に目をやれば、なるほど感じた通り腰のあたりにうっすらと銀色の糸がありました。その日私は暗い色の服を着ていたので、それはとても目立ちました。端的に言ってとてもかっこ悪かったでしょう。
蜘蛛の巣のくせに生意気なことだ、私はそう思いながら半ばはたき落とすように蜘蛛の巣を強く払いました。何故蜘蛛は巣を張るのだろうと、蜘蛛にとっては理不尽なことさえ思いました。しかしここは私の道のように感じていたので、蜘蛛の都合なんて知ったことではありませんでした。
それからは、やはり引っかかる度にあの妙な『初めての違和感』を覚えていました。蜘蛛の巣はとても強い素材で、人間大のものにするととても強靭なものになる、というのをニュースで見ました。とてもタイムリーな話題だけに、特に感心したのを覚えています。同時に妙な『違和感』にも納得し始めていました。
行先でも同期に指摘され、肩や足に銀色の糸が付いていたのを発見することも度々起こるようになっていました。同期の男からは「蜘蛛の巣で着物でも作るつもりか」とさえ言われました。少しずつ、引っかかったまま来てしまう蜘蛛の巣の量みたいなものが増えていたからかもしれません。しかしそんなものは冗談ではありませんでした。
ただ、私も意地ではありました。それは蜘蛛の巣程度に道を変えられて堪るかという人間としての意地のような大層なものではありません。ただ、その道を使わなければ大きく回り道をすることになる、その程度の労力を惜しむ怠惰な意地でした。
同時に私は常々あの場所に蜘蛛は何故蜘蛛の巣を張るのだろうとすら考えるようになっていました。他の羽虫がよく通るのでしょうか。もしそうだとしても、私という第三者が毎朝破壊しに来るあの場所をずっと選び続ける理由がわかりませんでした。いえ、蜘蛛の思考を理解しようとする方が不毛なのでしょう。でも私は、あの不快感や銀色を見るたびに、そう考えずにはいられなくなっていました。
その日も、よく晴れていました。雲一つない青空です。私はもう、蜘蛛の巣を確認することもなく、引っかかるなら引っかかってから気付けばいいとばかりに悠々と歩いていました。
すぐに妙な違和感がやってきます。今回は足でした。そして違和感はいつもより少し、強いように感じました。パソコンのコードを蹴ってしまうアレと、似ているようにも感じました。
「っと……!」
そして私はあろうことか、そのまま転んでしまいました。咄嗟に手をついたので顔を痛めることは避けられましたが、手を擦りむいたようです。赤く、ひりひりと痛みました。
これはいつもよりよっぽどかっこ悪い。今日は同期の笑いものだな、と思い立ち上がります。痛む手を支えに、……あれ?
そこで私は自分の足が転んだまま上手く動かないことに気付きました。特に痛むわけではないので骨折とか捻挫ではないはずです。その不自由は何かに絡まったようでした。
同時に、ふっと私の視界に影が差しました。私は立ち上がるため地面を睨んでいましたが、まるで何かに覆われたように影が差しました。もしかしたらくもが太陽を遮ったのかもしれません。
しかし、行先でやらなければいけないことのある私はここでいつまでも倒れているわけにはいきませんでした。私は足に絡まったものを解くべく、後ろを振り返りました。
「あっ」
思えば、蜘蛛が蜘蛛の巣を張る理由なんて得物を獲る以外のなにものでもないのでした。
くものいと 並兵凡太 @namiheibonta0307
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