くものいと
並兵凡太
蜘蛛の巣の道1
私はよく蜘蛛の巣に引っかかります。
あの感覚は何度味わっても地味な不快感を伴うものです。気分としては納豆の糸があらぬ場所へ引いてしまったときと似ています。声が出るほどではないですが、それでもなんとなく不快なものでした。
蜘蛛の巣というのは不思議と同じ場所に繰り返し、そしてすぐ張られるもので、私のいつも通る道にもそういう場所があるのでした。
「うっ……」
その日の朝も、私は口の辺りに嫌な感触を味わいました。蜘蛛の巣というのは見えるものではありますが、特に張り始めなどは目を凝らさない限り確認できません。私はまたやられた、と鬱陶しく感じながら口元を手で払いました。
その場所はいわゆる抜け道というやつでした。塀と畑の間を通る細い道です。誰かとなんとかすれ違えるくらいの細さで、その畑側のある場所に、栗の木が生えているのでした。蜘蛛はよく、その木と塀の間に巣を張るのでした。
「あっ」
蜘蛛の巣を払った私の足元に、私は小さな蜘蛛を見つけました。小指の先くらいの小さい蜘蛛でした。
蜘蛛自体はさほど珍しくありませんでした。私が住んでいたのは山で、夏は蚊と過ごし冬は亀虫と寝るような家でしたから、蜘蛛はむしろ生易しい部類と言えます。
その蜘蛛が珍しく見えたのは、なんだか私の足元から私を見上げているような気がしたからです。直前に蜘蛛の巣へ引っかかった私は、さっきの巣はこいつのものだな、と思いました。
私は虫が苦手ではありません。よほど大きなものでなければ怖くありませんでしたし、虫が多い場所に住んでいたため不快に思わない限りは殺すことはしませんでした。
しかし、そのとき私は不快でした。怒るほどではなかったにしろ、朝から少し気分の落ちた、その犯人が目の前にいることで私の心にさっと黒いものが差します。
「……」
私はそいつをもう一度眺めたあと、えいっと踏み潰しました。逃げられた気はしなかったので、やつはきっと私の靴の底にいるはずです。私は煙草を吸う人が地面に落ちた灰をそうするように、ぐりぐりと更に踏みにじりました。
「……ふぅ」
私はそのまま歩き出します。蜘蛛がどうなったかは確認しませんでした。確認するまでもなく死んでいるでしょうから。そしてもう既に、歩き出した私は蜘蛛の巣のことも踏み潰した蜘蛛のことも半ば忘れていました。代わりに清々しい青空が見えていました。
申し訳ないことをしたかもしれませんが、それは蜘蛛の都合です。私からするなら、犯人がいなくなったことで明日からはこの道も快適になるかもしれないとさえ思っていました。
しかし翌朝も、私は同じ場所で蜘蛛の巣に引っかかることになりました。今度は額の辺りでした。やけに高い位置だな、と思いながら手で払います。
昨日のように蜘蛛は見当たりません。しかし昨日の蜘蛛は死んだはずなので、別の蜘蛛のものでしょう。ここは蜘蛛にとって穴場なのかもしれませんでした。
私はしかめっ面をしながらも、蜘蛛を探すことはせずそのまま歩き出しました。何も私はこの区域の蜘蛛を全滅させるつもりはなかったので、探してまで殺そうとは思いませんでした。つまるところ、昨日の殺害は完全に偶然だったのです。
その翌朝もまた、引っかかりました。ここまで連日蜘蛛の巣に引っかかるのは初めてでした。この蜘蛛の巣は私のために張られているのでは? と思ってしまうほどでした。そんなわけはないのですが。
今度は手でした。手に引っかかった蜘蛛の巣というのは厄介です。手をもう片方の手で払うわけですが、そのもう片方の手もなんだか不快になります。終いには納豆か水あめを練っている気分です。
「あぁ、もう……」
朝から気分も下がるというものです。その日も犯人を見つけることはありませんでした。むしろもう、私自身蜘蛛を殺したことを覚えていませんでした。普段から家を飛び交う蚊やよく分からない羽虫を殺していますから(彼らは私の安眠を阻害する不快な虫でした)、覚えていないのも当然です。
しかし蜘蛛の巣に引っかかった、ということだけは妙な不快感と共に不思議と覚えているものでした。
翌朝。私は蜘蛛の巣の有無を確かめるべく、いつものポイントで目を凝らしましたが、特に煌めくようなものは見えません。今日はツイています。私は意気揚々と歩き始めました。
「うぇ」
……見事引っかかりました。鼻頭です。よく目を凝らしたにも関わらず引っかかってしまう辺り、蜘蛛の巣というのは案外嘗めたものではないのかもしれません。
私は不快感ごと払いのけるように手で顔の前の空を切ります。今日のはなんだかしつこいらしく、何度も手をばたばたとさせる羽目になりました。傍から見れば可笑しい人だったことでしょう。しかし幸いにもこの抜け道は人の目が皆無でしたので、要らぬ恥をかく必要はありませんでした。
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