サメは恋の始まり

那由多

サメは恋の始まり

 スマートフォンの着信音で起こされるってのは最悪の目覚めだ。その内容が別れ話とかだったらもう、その日一日を乗り切る気力すら奪われる。俺はまさに今朝、そんな目覚めを体験した。はっきり言おう。最低最悪の気分だ。

 俺には彼女がいた。高校時代にできた、地味だけど可愛い子だった。俺も向こうも初めてできた恋人で、随分舞い上がったものだ。といっても、高校時代には一線を越えてはいない。キスはしたけど。

 大学へ進む段になり、別々の土地で、それぞれ一人暮らしを始めることになった。月一でデートはしていたけど、会う頻度は減った。けど、それはそれで毎回新鮮な気持ちになれるっていう利点があった。地味だった彼女は、だんだんとオシャレになっていった。ただ、綺麗だと思った。そう言ったら彼女も凄く喜んでくれた。程なくして、体の関係にも無事に進んだ。大学を出たら、地元に戻って一緒になろうなんて話もしていたから、俺も油断していたんだな。

「愛が冷めてしまったの」

 きっぱりと言われた。しかも電話で。新しい彼に悪いから、二人では会えないんだってさ。癪に障る話だ。仕方ないので、新彼君には死ねとお伝えくださいとだけ言って、俺も電話を切った。

 何もかもが嫌になった。布団に潜り込み、このまま暗闇に溶けて無くなりたいなんて、ちょっと詩的なことを考えていた。そしたら布団が突然はぎとられた。突然眩しい光の下に出され、一瞬目がくらむ。

「何やってんだ、お前」

 俺の耳に入ってきたのは、ハスキーな呆れ声だった。

 この声、そして人の部屋に躊躇いなく入ってくるやり方、そんな知り合いは一人しかいない。同じ大学に通う伊丹奈美子先輩に相違ない。

 奈美子なんて可愛らしい名前だが、がっちりとした筋肉質のボディに、凛々しいとお顔がのっかっている。髪は明るい茶色で短く切り纏めており、それがまた凛々しさに拍車をかけていたりもするのだがあんまり言うと怒られるので口には出さない。彼女の拳は鉄板をもへこませるともっぱらの噂だ。ジーパンに薄手のパーカーという色気も何もない出で立ちが基本の服装で、性別を間違えられるのは日常茶飯事だ。 

 いつぞや学園祭の打ち上げで知り合い、何となく話が合って仲良くなり今に至っている。ふらりと俺の部屋に遊びに来て、喋ったり飲んだりした後、ふらりと帰っていくのが定番だ。ガサツな人だけど、伊丹さんと飲むのは楽しいので悪く思ったことは無い。

「なんだ、元気ないな? 風邪か?」

「心の風邪です」

「なんだそれ。ひょっとして、彼女に振られたのか?」

 そのどストレートな物言いは、俺の心をかなりえぐった。物理的な痛みを感じ、思わず胸を押さえてしまう。その様子に、伊丹さんもさすがに感付いたようだ。一転して真面目なトーンで俺に尋ねてきた。

「マジ?」

 俺は頷いた。言葉を発すると泣いちゃいそうだったからだ。

「……ごめん」

 何も言うまい。伊丹さんは悪くない。俺は彼女がいると公言していたし、伊丹さんはこの通りかなりガサツなお方だ。たまに乙女な部分も覗かせるが、大部分はがさつでできている。地雷を踏む可能性を除外するのは不可というものだ。けど、さすがに堪えた。だから俺は改めて布団にもぐりなおすことで、意思を伝えようとした。

「悪かったな」

 それが無事に伝わったようで、伊丹さんはそう言い残し、この日は去って行った。


 それから一週間程が過ぎて、俺はある程度の落ち着きを取り戻していた。立ち直ってはいない。ただ、腹が減ったり喉が渇いたり、たまに彼女以外の事を考えてみたり、そんな程度だ。何しろ、電話もメールも、その他アプリを使った連絡手段も、全て通じないのだ。彼女の対応は早かった。あるいは新しい彼氏が余程神経質なのか。とにかく、諦める方向へ無理やり進まされた。悲しかったけど仕方ない。それよりも、ふとした折に考えてしまうのが伊丹さんの事だった。あの日、追い返してしまって以来、彼女はうちに来ていない。こっちから連絡すればいいのだが、生憎とそこまでは気持ちが戻っていなかった。

 この日も何となく伊丹さんの事を考えていた。その時、不意に電話が鳴った。ディスプレイに現れたのは伊丹さんの名前。俺は慌てて通話ボタンを押した。

「も……もしもし?」

「よ……よう、アタシだ」

「は、はい。この間はすみませんでした」

「いや。アタシが悪かったよ。それはともかく、今から遊びに行っても大丈夫か?」

「も、もちろん」

 そう答えながら、俺は心の中で叫んでいた。あの伊丹さんが事前にアポを取った? なんだなんだ。知らない間に世界がおかしな方へと進んでしまったのか? それとも何か恐ろしい事の前触れだろうか。

 だが、そんな予兆も何もないまま、一時間ほどして伊丹さんはうちにやってきた。ここでもおかしなことが起きた。ノックした後、俺が開けるまで伊丹さんが外で待っていたのだ。おまけに、入る時にお邪魔しますとかいうし。怖い怖い。何が待ってんの、この先。

 けど、伊丹さんが持ってきたものを見て、俺の不安はいくばくか解消された。

 大吟醸と書かれたラベルの一升瓶。そして、パック入りのサメ肉。

「サメですか」

「うん、前に食べさせてやった時、旨いって言ってたろ。だから、実家から送って貰った。それに酒もお前が好きだって言ってたやつだ」

 ラベルをよく見れば確かにその通りだった。

「あ、アリガトウゴザイマス」

「なんで急に畏まってんだ」

「いや、なんか気を遣っていただいてる感じが……わざわざ連絡まで……」

「そりゃまあ、元気づけようとしてるのに、こないだみたいな失敗は繰り返したくないしな。お前に嫌われちゃやだし」

 嫌うだなんて滅相もない。むしろ、なんて温かいお言葉。冷え切っていた心に、何かこう陽だまりができた様な気分だ。

「なります。凄く元気になります」

「そうか。んじゃ、ちょっと台所借りるぞ」

 そう言って、伊丹さんはサメ肉をもって台所へと歩いて行った。去り際に見せた笑顔に思わず胸がきゅんとなる。何だろう、今日の伊丹さん。いつもと違って見える。

 やがて、台所から美味しそうな音と共に、香ばしい匂いが漂ってきた。塩と胡椒で味付けした上に、とろけるチーズが乗っかった伊丹さん特製のソテーは絶品なんだ。微かな弾力があって、それを越すとほろりと身が崩れる。上に乗ったチーズは淡白なサメの身に程よいコクを加えてくれて、食べ応えのある一品にしてくれている。塩加減は抜群。胡椒のおかげで臭みもない。七味をかけると酒のあてとしては抜群に美味いんだ。

 ほんとに、料理が上手だよな。それに、料理が終わった後のキッチンも綺麗なんだ。そういう所、結構家庭的だし、無礼さえ働かなきゃ優しいし、今日みたいな気遣いもちゃんとできる人だし……あれ? 実は伊丹さんって、凄くいい女なんじゃないか?

 確かに、体つきや顔なんかは世間のいわゆる女の子って奴からは少し離れている。けど、家庭的で性格も良くって、おまけに健康的で、確かにややガサツだけれど、むしろ神経質じゃない方が俺は良い。明け透けな性格だから、割と何を考えているかもわかりやすい。察してちゃんよりずっと良い。こんな素敵な女性に気付いていなかったなんて、不覚ってやつでは?

 あれれ?

「お待たせ」

 伊丹さんが皿をもって部屋に戻ってきた。反対の手には、空のガラスコップも二つ持っている。皿の上には、大ぶりなサメの切り身をチーズソテーにしたものが乗っている。出しっぱなしのこたつの上に置かれたそれを見て、思わず俺は喉が鳴る。


 サメのソテーは相も変わらず美味かった。

「美味いですね」

「美味いよな。私も好きなんだ。こっちじゃあまり手に入らないけどな」

 それをわざわざ持ってきてくれたのが嬉しいじゃないか。美味さも増すというものだ。酒もじゃんじゃん進む。コップで飲んでいるせいもあるが、割と減っていくのが早い。

「地元じゃよく食べるんですか?」

「ああ、食べるよ。全国でも結構多いんだぞ」

「へー、知りませんでした」

「例えば、岡山とか広島の海岸からちょっと離れたところでも珍重されてたって知ってるか?」

 俺は酒を飲みつつ首を横に振る。

「運搬技術も発達して無かった昔、山の方に住む人にとって海の魚ってのはそれだけで貴重だったわけだ。何しろ、運んでいる間に痛んじまうからな。ところが、こいつは実はほかの魚に比べて日持ちしたんだ。身から出るアンモニアのおかげでな。その代わり、とてつもなく臭かったらしいけど」

 想像しただけで気持ち悪い。一瞬食べる手が止まる。何となく、ソテーの匂いを嗅いでみるが、胡椒やチーズの匂いがするだけだった。余程新鮮な肉なんだな。そのおかげか、食欲は瞬く間に戻ってきた。

「けど、それを彼らは刺身で食べて、ありがたがったんだと」

「なぜです?」

「他にないからさ。刺身で食べられる海の魚なんて、サメしかいなかったんだよ。だからこそ、めでたい席で出されていたりもしたわけだ。海魚の刺身といえばサメ。それもくっさいサメをありがたがって食べていたわけだな。けどな、運搬技術が上がって、山の方でも新鮮な海の魚を食べられるようになるとな、やっぱりそっちの方が良いってなったらしい」

 そう言いながら、伊丹さんもサメソテーを口に運び、満足げに頷いている。

「なんか、あれですね。俺みたいですね、サメ」

「ん、そうか? お前はサメほどワイルドじゃないだろう」

「そうではなくて、つまり彼女に取って俺はサメみたいなものだったんじゃないかって。彼女は地味で大人しくて、あんまり周囲に人がいなかったんですよ。そこに俺が近づいて行ったもんだから、それしか無いって事になったのかも……」

 伊丹さんは何も言わず酒を飲んでいる。

「けど、別の大学に行って、いろんな男と出会っちゃったんでしょうね……」

 そりゃあ、そっちに行くだろう。俺なんて、今も昔もぼんくら学生だし、性格も悪いし、ひいき目に行ってもイケメンではないし。不可の烙印も押されようというものだ。暗くなる気分を変えようと、俺は手元の酒をぐっと飲みほした。でも、足りない。更に一升瓶からコップに継ぎ足してそれも飲んだ。カーッと喉と胃袋が熱くなる。それと同時に何だか泣けてきた。

「サメの話だけどな。みんながみんなそっぽを向いたわけじゃない。サメを愛するって人ももちろんいるし、今は郷土料理として上手いサメ料理が提供されていたりもする。決して、みんながそっぽを向いたんじゃないんだぞ」

「けど、人気は下がったわけでしょう?」

「そこは否定しない。けどな、お前は今自分をサメ肉だと言った。それならおまえにもまだまだ需要があるって事だ」

「需要ですか……例えば?」

「例えば……なぁ……」

 何か言おうとして、伊丹さんは口ごもった。何となく顔が赤い。いや、酒飲んでるから、赤いのは赤いんだけど、その深みが増したというか。見つめあった伊丹さんの瞳が、何となく潤んでいるような。いつもと違って、色気を感じてしまうような。

 何となく俺は伊丹さんに近づいた。ピクッと伊丹さんの体が強張るのを見た。もう少し近づいてみる。もう少しで膝が触れ合う感じだ。

「な、なんだよ……」

 そう言いながら目線を合わせてくれない伊丹さん。

「さっきの例えばの話なんですけど……。あれが、伊丹さんだと嬉しいな……と」

 伊丹さんは目を見開き、言葉を失った。普段の豪快な姿からは想像できない程に取り乱している伊丹さんを見て、俺の心はさらにときめいた。思わず伊丹さんの手を取ってしまい、そのまま俺の両手で包み込む。がっしりとした手が、まるでか弱い女の子のように思えた。

「ちょ……お……」

「好きです、伊丹さん」

 ぐっと顔を近づけ、彼女の目を見て俺はついに言った。その深い茶色の瞳からはいまにも涙が零れ落ちそうだ。

「あ……あ……」

「好きでびゅっ……」

 俺の発しようとした言葉は真横から来た衝撃に遮られ、最後まで言う事が出来なかった。そのまま世界がぐるっと回り、意識が深い闇の底へと落ちていった。


 目が覚めると、泣きそうな顔の伊丹さんが俺を覗き込んでいた。

「あ、だ、大丈夫か? アタシ……その……思いきり……」

 空いている方の手で思い切り殴られた、というのが真相のようだ。彼女のがっちりした体が伊達では無いのを忘れていた。

「大丈夫です」

「すまん。アタシ、こういうの慣れていなくて……」

「いえ、俺も急すぎました。すみません」

 謝りながら体を起こす。

 まだちょっと頬は痛い。どうやら衝撃で酔いもすっかり覚めた。そんな状態で伊丹さんを見ても、やっぱり胸がときめく。

「でも、ほんとです。俺、伊丹さんが好きです」

 改めてそう言うと、不安そうだった伊丹さんの顔があっという間に真っ赤になる。

「お、お前さぁ……。そんな事言って、酔いが覚めたら後悔するぞ」

「大丈夫です。もう覚めてます」

「前の彼女は?」

「もう連絡も取れませんよ。一週間で十分そっちも冷めました」

 沈黙。色々と考えているらしく、目線だけがきょろきょろと動いている。しかし、最終的には諦めたのか、深く大きなため息を一つついた。それから更にしばらく言い淀んだ後で、彼女はようやく口を開いてくれた。

「あ、アタシも……アタシもす……きだ……ったよ」

 伏し目がちにそう言ってから、俺の方をちらりと見る伊丹さん。

 好きだった、なんて。え、マジ?

「ほんとに?」

 こくん、と頷く伊丹さん。

 その仕草の可愛らしさたるやもう……。

 思わず抱きしめたくなっても仕方ないだろう?

 だからもちろんそうしたのさ。しかし、それは完全なミスだった。伊丹さんの可愛さを前にして、不覚にも俺は忘れていた。さっき起こったばかりの悲劇を。テンパった伊丹さんが何をしでかすかって事を。

 その事を思い出した時にはすっかり手遅れだった。

 何しろ目の前に迫るその拳は、さながら獲物に突進するサメのごときスピードだったわけで……。

 

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