第1部エピローグ そして、素晴らしき新世界へ
『……次のニュースです。30日に未真名市再開発地区、俗称〈のらくらの国〉で発生した大規模爆発事故に関し、未真名市警は同地区に持ち込まれた大規模破壊兵器によるものと発表、重要参考人として無職・相良龍一容疑者、17歳を全国指名手配しました。相良容疑者は本件以外にも、殺人教唆、器物・建造物破壊、電子商取引法違反を含む複数の容疑がかけられており、市警はその背後に大規模な組織犯罪が関連している可能性があると見て警視庁との合同捜査を行なっています。
なお、相良容疑者の後見人であった高塔財閥当主、高塔百合子さんも〈ホテル・エスタンシア〉の火災に巻き込まれて行方がわからなくなっており、市警は何らかの関連性があるものとして……』
『では次のニュースです。瀬川運輸最高取締役・瀬川雅臣氏が本日辞任を表明、現在の地位を甥の修一郎氏に譲ると発表し……』
──どれほど彷徨ったのかわからない。どれほど足をもつれさせ、何度転び、何回通行人から突き飛ばされ、罵声を浴びせられたかわからない。
それでも、彼の足はそこへ向いていた。千が一にも、万が一にも使われることがないと思っていた、緊急時のみに使用の許される連絡回線だ。
世界中の何万、何十万、もしかしたら何億かも知れない〈同胞〉とリアルタイムで接続され、どこからどこまでが自分/彼/彼女なのか、またその全てであるのかわからない、その曖昧さが不思議と心地良い状態──そこから突如切り離され、放り出されるとは何を意味するのか? それが今だった。
恐ろしい孤独だった。目が見えないより、耳が聞こえないより、何も感じないよりも。むせ返るほどに人がひしめき合っていながら、その誰とも、何一つ共有し得ないのは。
朽ち果てて屋根も壁も崩れかけ、今ではホームレスすら住まない廃墟と化した銭湯の、埃だらけのロッカーから目的のスマートフォンをつかみ出した時、だから彼はほぼ半死半生だった。
祈るように、心底祈るように、ただ一つだけ登録された連絡先をコールする。
【……今、この音声を聞いているものは誰かな?】
しかし意に反して、流れてきたのは確かに〈同胞〉の声ではあったが、予め録音されたメッセージだった。あのしわがれた声、〈
【誰であろうと変わりはない。なぜならこの通話をお前が聞いているということは、おそらくは〈ヒュプノス〉の人格共有ネットワーク自体に何らかの致命的な事態が発生したことを意味するからだ。そしてお前が、その最後の一人であるということも】
彼は息さえ殺して耳を澄ませた。針の落ちる音どころか、埃の積もる音さえ聞こえそうな静寂の中で。
〈師匠〉の声に代わり、別の若々しい女性の声が続ける。【そうです。私たちは、このような事態が来る日を薄々とではありますが、確信していました。〈犯罪者たちの王〉プレスビュテル・ヨハネスの手元には、事あらば私たちを一息に殲滅できる非常手段があることを……そして、私たちが彼の者に敵対した以上、その使用を躊躇わないであろうことを】
【そして、俺たちはそこまでわかっていて、打つ手を持たなかった】女性の声から、張りのある壮年の男の声。【ヨハネスの〈非常手段〉は〈ヒュプノス〉の基幹を成す技術に密接な関係があり、容易に防げるものではなかったからだ。対策は施していたつもりだったが──その結果は、君がよく知る通りだ】
【そうだ、まさに〈ヒュプノス〉存亡の危機ではある。だが私たちは、そこにむしろ希望を見出した】再び取って代わる〈師匠〉の声に、彼は思わずスマートフォンを強く握り締めた。【そして、希望とは、まさにこれを聞いているお前のことだ】
「僕が……?」
録音メッセージであることも忘れて思わず呟く彼に構わず、〈師匠〉の声は続ける。【ヨハネスの〈非常手段〉をお前だけが逃れ得た理由はわからない。だが私たちは確信している──いつの日か、ただ一人生き残ったお前を核とした、最後にして最初のヒュプノス、〈新世代のヒュプノス〉が勃興し、再び世界を覆い尽くすことを。不死鳥が自らを焼く炎の中から蘇るように】
「待ってください、〈師匠〉……!」
【だから】
彼が知るどの〈ヒュプノス〉とも違う声が続けた。初めて聞くのに、どこか懐かしい、優しい声だった。【君に託す】
「あなたは」ある直感に、彼は全身を震わせた。「もしかして……あなたが最初のヒュプノスなのですか?」
だが、録音メッセージはすでに終了していた。
「なぜ、僕なんです……?」
廃墟の中で、地上最後の〈ヒュプノス〉となった青年は叫ぶ。「どうして僕なんだ!」
答えは、ない。
「……どうぞ。この先でお待ちです」
丁重に頭を下げる一組の少年少女に、夏姫は冷ややかな視線を浴びせる。彼女より数歳歳下、中学生ぐらいの年齢だろうか。黒髪で短髪、東南アジア系らしき浅黒い肌。顔立ちがよく似ているところを見ると兄妹なのかも知れない。奇妙なのは少年の方がクラシックなメイド服、少女の方が男物の給仕服という、男女逆転した服装をしていることだ。
「あなたたちはついてこないの?」
「あの方は、あなたとの一対一での対面をお望みです」
沈黙している女装した少年に代わり、男装した少女の方が答える。言葉こそ丁寧だったが、口調からは「お前に何ができる」という嘲りを隠し切れていなかった。
スカートの裾を振り回すような勢いで夏姫は踵を返す。腹は立ったが、やることが変わるわけではない。それに夏姫との面会を望んでいるのは、こいつらではない。
夏姫がこの家──ポストコロニアル様式の瀟洒な邸宅に連れてこられてから、既に十日ほどが経つ。自由に外を出歩くことこそ許されなかったが、与えられた部屋はトイレとバスルーム付き、食事も日に三度と、囚われの身であることさえ考えなければ結構な待遇ではあった。
身の安全は保障されているだけに、夏姫には焦燥に苛まれる日々だった。今こうしている間にも龍一や崇やテシク、〈月の裏側〉のメンバーがヨハネスの刺客に狩り立てられ、追い詰められ、ひょっとしたら殺されているかも知れないと思うと身悶えしたくなった。あるいはそのような屈辱を与えることがヨハネスの目的なのか、とも。
処刑も拷問も、既に覚悟していた。なるほど、始まりこそ理不尽な暴力ではあったが、自分たちもまたそれに暴力で応えたのだ。当然、それに対する報復も凄惨なものになるだろう──だが意外にも、どちらも始まることはなかった。
そして今日、あの少年少女が訪れて告げたのだ。我らの主人が面会をお望みです、と。
自分の着せられた白いワンピースの裾を、夏姫はやや渋い顔で摘み上げる。彼女の好みからすればひどく少女趣味ではあったが、悪趣味ではなかった。忌々しいことに、サイズまでぴったりだった。ただし武器に転じられるのを用心してか、紐やベルトの類は用いられていない。
この邸宅がどこにあるのかはわからない。空の色や芝生、生け垣の植生から見て日本ではないようだが、ではどこかと考えるとさっぱりだった。
だが少なくとも今、それらはどうでもいいことだった。この先にあの男がいるのだ。〈犯罪者たちの王〉プレスビュテル・ヨハネス。高塔百合子の覚めない悪夢。龍一の恩人を殺し、幼い頃の夏姫を誘拐し、マルスを中核とする世界規模の人身売買ネットワークを築き上げ、〈月の裏側〉と〈ヒュプノス〉の双方を壊滅させ、無数の人々を破滅させた男が。
むしろここまで来たら、〈犯罪者たちの王〉とやらの顔を拝まないことには死んでも死に切れない。そんな気分だ。
だが目の前に現れた、かなり大掛かりな温室にはさすがの彼女も面食らった。ここに入れということだろうか。実際、他にそれらしき建物はない。
意を決して二重になった扉をくぐり抜ける。むっとするほどの温風が顔に吹きつけてきた。数秒とせずに汗が滲み出してくる。
吹きつけてくるのは温風だけではなかった。芳しい薔薇の香り──芳しいとしか形容のしようがない、無数の薔薇の香りだ。
朱、薄紅、ピンク、そして真紅。夏姫は驚嘆の眼差しで視界を埋め尽くす花々を見回した。これほど見事な花園を見るのは、今までの彼女の人生の中でも数えるほどしかなかった。この庭園を人の手で維持するには、相当の労力が必要となるだろう。
中でも一際見事な花弁を誇る一輪に、彼女の視線は吸い寄せられる。見れば見るほど美しかった。
「
不意に背後からかけられた声に、夏姫は思わず声を上げそうになった。振り向くと、灰色の作業服に灰色の作業帽を目深にかぶった老人が、園芸の手入れ用具一式を持って立っていた。やや腰を屈め気味にしている(それを差し引いても、背は夏姫より頭一つ分は低かった)ところから相当な高齢らしい。「見事なものだろう? ここの土は薔薇の栽培にはどちらかと言えば不向きでね、最初はかなり苦労した」
夏姫が聞いてもまるで違和感のない、流暢な日本語だ。
失礼、と断ってから老人は夏姫の傍らを通り抜けた。園芸用鋏で薔薇を一輪切り取り、慣れた手つきで棘も残らず落として夏姫に差し出す。「差し上げよう。君にふさわしい」
「でも……いただく理由がないです」
「あるさ。君のために用意した」
思わず薔薇を受け取りながら、夏姫は目を凝らした。目の前の、背の低い、みすぼらしくさえある老人の立ち姿は変わらなかったが──何か、黒々とした何かが鎌首をもたげたような気配を感じたのだ。
「薔薇も犯罪も同じだ。手間をかければかけるほど、見事な大輪の花を咲かせる。まずは土の改良から始めなければならない……卵の殻や菜っ葉の切れ端、コーヒーの挽きかす、肉のこびりついた骨片、それらをよく混ぜて、窒素と熱を生じさせ、発酵させなければならない。花が咲いたら咲いたで終わりではない。天気を気にし、水を適量やり、虫を駆逐し、周囲の雑草を抜き、健やかに育っているかどうかを、毎日確認しなければならない。そして、そのために注ぐ労力の全てを、苦労などと私は思わない」
「あなたは……」
老人は作業帽を脱いだ。禿げ上がった頭頂部に、申し訳程度の毛髪。ひび割れた仮面のような皺だらけの顔の中で、そこだけは奇妙なほど美しいアイスブルーの瞳が、正面から彼女を見据えた。「そうだ。私がプレスビュテル・ヨハネスだ」
この男のために幾度眠れない夜を過ごしただろう。幾度、暗闇の中でその顔を、確かめようのない憎々しげな顔を思い描いただろう──だが、目の前の老人は、その無数の顔のどれからもかけ離れていた。
薔薇を手に呆然と立ち尽くす彼女の前で老人は歩き出し、そして振り返る。「来たまえ。聞きたいことがあるのだろう?」
(第1部 完)
Crime and Punishment アイダカズキ @Shadowontheida
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