第1部最終話 未真名市の一番長い日(後編)
【同日 午後5時 未真名市上空数百メートル】
ヘリの操縦席から眼下の光景を見下ろすテシクは、真剣に自分の目を疑っていた。自分の見たものが信じられなくなるなど、十代から耐えて久しかった。
まるで痘痕のように、市街地から黒煙の柱が幾十も立ち昇っている。目を凝らすと、その黒煙の根本ではあらゆる種類の車が横転して炎を上げており、そしてその間を完全武装の兵士たちが銃を乱射しながら駆け抜けているのだ。路面には殺虫剤を浴びせられた虫の群れのように、転々と屍が横たわっており、当然ぴくりとも動かない。それがマフィアなのか、〈月の裏側〉なのか〈ヴィヴィアン・ガールズ〉なのかすら判然としない。
「何だ、あいつら……あれだけの大部隊をどうやって展開できたんだ。車やヘリを使おうが、隠し通路の類があろうが、まず間違いなく〈ヒュプノス〉の目に捕捉されるはずなのに……」
そこまで呟いて、テシクは自分の言葉に愕然となる。振り向いたその目にヘリの後部座席で頭を抱えたまま呻いているアレクセイの姿が映った。「そのために率先して〈ヒュプノス〉のネットワーク自体を潰したのか……!?」
「テシクさん、皆が……〈月の裏側〉の皆がやられてるよ! 助けに行けないの!?」
半分べそをかくような〈魔女〉の声にテシクは唇を噛む。当然の意見ではある。しかし、
「無茶言うんじゃない。このヘリは非武装で、燃料も残り少ない。それに、俺たちが行ったところで何ができる?」
「でも……」
「とにかく、着陸できるところを……」言いかけたテシクは、地上から非常な高速で接近してくる飛行体に気づいてしまった。携帯式の地対空ミサイルが地上の複数箇所から一斉に放たれたのだ。
「まずい……!」
テシクの操縦に合わせてヘリが急激に旋回する。数発は避けたが、最後の一発がかなりの至近で炸裂した。ヘリのウィンドウが砕け散り、コクピットの警告灯がたちまち真紅に染まる。
「エンジンをやられた! 墜落するぞ、掴まれ!」
【同日同刻 〈のらくらの国〉
「滝川! 龍一!」
車から飛び降りて声を上げようとした夏姫は、先んじて飛び降りていた佳澄と可乃子に、両脇から腕を引っ張られることになった。「伏せろよ姉ちゃん! あの兵隊どもがうろうろしてんだぞ……!」
果たして可乃子の言う通り、横転した車が松明のように燃える大通りをあの兵士たちが油断なく銃口を巡らせて行進していた。立ち込める黒煙のためか、それともわざと無視しているのか、夏姫たちを一瞥すらしなかったが……。
耳障りな金属音が響く。通りに面した車庫の、鋼鉄製のシャッターを紙のように突き破って現れたのは、積み木を組み合わせたような全高3メートル前後の異形の人型だった。作業用のメックスーツを防弾板で覆い、マニピュレーターに無理やり大型機銃を取り付けた違法改造メックスーツだ。
「あ、あれうちの組で手配した商品だわ……」傍らに伏せていた可乃子が妙に白っぽい表情で呟く。「ただの土木工事用とかテキトーこきやがって、どう見ても荒事用じゃん……」
「そ、そう」としか夏姫には応じようがない。
同時に、周囲からも無数の銃火が瞬く。路地や民家の屋上に身を潜めていた人相の悪い男たちがSMGや年代物のAK自動小銃、さらには猟銃まで発砲して兵士たちに襲いかかった。当然、兵士たちも応戦し、前進するメックスーツに銃弾を集中させるが、防弾処理された機体はかろうじてそれに耐えた。
「そりゃあ!」
マニピュレーターが避け損ねた兵士を捕らえ、高々と頭上に掲げた。まるで裁ち鋏が太い枝を切断するように、捻じ切られた上半身と下半身が血と肉片を撒き散らして路面に転がる。今度は夏姫が慌てて佳澄と可乃子を伏せさせたが、どこまで間に合ったのか。男たちの野卑な歓声が響く。
「ざまあ見やがれ! おいお前ら、このまま一気に……」
メックスーツの操縦士が上げる勝ち誇った笑いは、しかし次の瞬間たちまち凍りついた。予想もしなかった方向から擲弾が発射され、防弾板を粉々に砕いたのだ。
「何だと……!?」
全身に銃弾を受けた、あるいは胴体を両断された兵士までもが、ぎごちない動きで蠢き始める。上半身だけになった兵士が小銃を構え、残りの腕だけで這い進もうとする様子はまるで悪趣味なホラー映画のようだった。擲弾だけではない。兵士が両腕で抱え込んだ太いパイプの口が一瞬煌めき、ほぼ同時にメックスーツの背後に搭載されていた予備弾薬が炸裂した。携帯型のレーザー砲だ。暴発した銃弾が四方八方に飛び散り、周囲の男たちをずたずたに引き裂く。
「ば、馬鹿な……」
「兄貴、助けてくれ!」
浮き足立ったマフィアたちは、たちまち陣形を乱した。逃げようとする若者たちの背を銃弾が穿ち、機銃を乱射するメックスーツが擲弾の集中砲火でついに膝を折り動きを止めた。無数の手が人間離れした力で装甲を引き剥がしハッチをこじ開け、隙間に銃口を強引に捻じ入れる。悲鳴まじりの命乞いは、しかし銃弾を浴びてすぐに止んだ。
なんてことなの、精確無比で容赦のない殺戮に夏姫は身震いを禁じ得なかった。〈のらくらの国〉がどれだけ腕自慢を揃えていたところで、それは個人レベルの話だ。こうも組織的な大攻勢の前では手も足も出ないだろう……。
だが同時に疑問も生じた。現在〈のらくらの国〉に展開している〈月の裏側〉メンバーはいないはずだった。それにあの兵士たちの狙いは〈月の裏側〉でもないようだ。となれば、彼らの攻撃目標は?
(まさか、これは……龍一だけを狩り出すための『露払い』なの?)
殺戮とは別の理由で身体が震え出した。〈犯罪者たちの王〉とやらは、龍一を殺すためにそこまでやるのか?
交差点に轟音が響いた。反射的に振り向いた夏姫も、佳澄と可乃子も、なすすべもなく殺されていくマフィアたちも、そしてあの兵士たちですら、その場の全員が唖然とした。
エンジンから火を吹きながら、大型のヘリがこちらに急降下してくる──しかもそのコクピットでは、必死の形相で操縦桿を握り締めるテシクの顔までが露わになっているのだ。
夏姫は二人の娘たちと顔を見合わせ、ほとんど同時に叫んでしまった。
「「「嘘でしょ!?」」」
【同日同刻 〈蒼星医療公司〉未真名支社最上階 大会議室】
広大なホールは、おびただしい屍に埋め尽くされていた。全て〈ヒュプノス〉と〈月の裏側〉と、そして突入してきた兵士たちの死体だった。
入り口を背に〈冥土の使者〉が事切れていた。彼の脇腹は大口径の対物ライフル弾で胴がちぎれかけるほどの大穴が開いており、そして彼は死してなお手にしたナイフを兵士の首筋に深々と突き立てていた。
そして血の足跡が二人分、ドアから廊下へと続いていた。
「〈むゆうびょうしゃたち〉」
全身血まみれで意識のない〈豊穣の角〉を肩にかつぎ、やはり全身血まみれの〈火落〉が息を荒げながら歩く。足元では〈豊穣の角〉愛用の全自動トランクが、忠犬のようにごろごろとついてきている。
「おきなわでじっせんとうにゅうされた〈HW〉のメリット、りょうさんせいとあんていせいをさらにきょうかされたタイプ。……わたしがにげたあとも、けんきゅうはつづいていたんだ」
哀しげに、そして愛おしげに、〈火落〉は〈豊穣の角〉の顔を撫でる。「あなたをつれてちゃ、にげられないね」
傷の特にひどい箇所へ緊急医療用の止血ゲルを吹きつけ、ついでに全自動トランクと〈豊穣の角〉を頑丈なケーブルとハーネスで繋いでから、〈火落〉は囁いた。
「いって」
全自動トランクは気遣わしげにセンサーを点滅させたが、〈火落〉が頷いたのを見ると、繋がれた〈豊穣の角〉もろともダストシュートへと飛び込んでいった。
後方から殺到してくる足音に〈火落〉は立ち上がる。果たして、廊下の向こうから突進してくる兵士──〈夢遊病者たち〉の先頭の一人が、鋭く銃口を向ける。
だが一気に距離を詰めた〈火落〉の手が、その銃口を押し下げる方が一瞬早かった。まるで愛撫するようにヘルメットに覆われた頭へ両手で触れ──そのまま、頭上へ持ち上げる。
「おそいよ」
〈火落〉のほっそりした腕が倍、いや三倍ほども膨れ上がった。強化防弾ヘルメットに覆われた兵士の頭を、果実でも握り潰すように粉砕する。血と肉片と金属が床ばかりか壁にまで飛び散り、一糸乱れず行動していた〈夢遊病者たち〉がわずかだが、確実に動揺する。
「……ああ、やっぱり」
頭を失って足元に崩れ落ちる兵士と〈夢遊病者たち〉を共に見やりながら〈火落〉は童女のように笑う。その双眸が、徐々に金色の光を帯び始める。
「やっぱり、あなたたち、わたしとおなじなんだ」
【同日同刻 ビル〈
「……さん! 龍一さん!」
真琴の大声に龍一は目を開き、そして自分が横たわってしばらく気絶していたことに気づく。全身がずきずき痛むが、致命傷ではない。
「ああ……真琴、無事だったのか?」
「呑気なことを言ってる場合じゃないよ! あれ見て!」
真琴の指差す方を見て龍一は絶句した。龍一が横たわっていたのは路面ではなく、数百メートルほど離れた廃ビルの半壊したフロアだったのだ。フロアの壁はほとんど崩れ去り、炎と夕闇に照らされる〈のらくらの国〉が一望できる。
「あんな遠くからここまで飛ばされたのか……真琴、怪我はないか?」
「うん、ないよ。龍一さんがクッションになってくれたから。でも龍一さん、助けられといて何だけど、こんな身を張った助け方してたらいつか死んじゃうよ?」
「逆だったら君の方が潰れっちまうだろう」
「そういう問題じゃなくてさ……」
そして、地上では──あの黒い法服の男が、黒の目隠しに覆われた眼差しを、確かにこちらへ向けていた。肝が冷えたが、同時に頭も冷えた。
そうかい。ずいぶんとぎらついた視線を浴びせてくれるもんだ──心配しなくても逃げやしないってのに。
「あの裁判官みたいな人、龍一さんの知り合いなの?」
「いや、初めて見る顔だ……向こうはたっぷりと俺に用があるみたいだけどな」
実のところ、疑問がないわけではない。あれがヨハネスの刺客としても、ガスや狙撃といったもっと地味で確実な手段ならともかく、オカルトじみた異能使いのコスプレ男というのはだいぶ突拍子がなさすぎる。
だが──それはともかくとして、龍一はあれがマルスのさらに上、〈犯罪者たちの王〉から直裁に送られた刺客であると信じて疑わなかった。〈ヒュプノス〉やあの特殊部隊だけでなく、こんな毛色の変わった刺客が送り込まれてきたということは、やはり俺のこれまでの「血と暴力の日々」は無益ではなかったのだ。俺は何らかの形でヨハネスの急所を突いたのだ、奴の組織の「抗原抗体反応」は俺を直接の脅威と見なしたのだ!
あとは、あいつを叩きのめして泥を吐かせれば万々歳じゃないか。腹の底からこみ上げてくる笑いの衝動を抑えるのに苦労した。簡単な話だ。
気がつくと、真琴が心配そうに龍一の顔を見つめていた。「龍一さんの考えてること、僕わかるよ。あの人と戦うつもりなんでしょ?」
「よくわかったな」
わかるよ、と真琴は盛大に溜め息を吐く。「龍一さんとの付き合いもそれなりに長いからね……でもさ、あんなラノベに出てきそうな相手とどうやって戦うの?」
「手がないわけじゃない。周りを見てみろ」
言われた通りに真琴は室内を見回し、そして絶句した。壁の一角こそ崩れていたが、壁際にずらりと並ぶのは鈍く輝く大小の銃器だった。
とっくに放棄されたオフィスビルを銃器保管庫に改造したのだろう。大型の銃器はラックに立てかけられ、拳銃やSMGは壁にフックで固定され、蓋の外れたコンテナケースからはいわゆるパイナップル型の手榴弾が転がり落ちている。
「……ああ、ここが〈のらくらの国〉だってことを忘れてたよ」
「これだけあれば素手よりはましな戦いができる。テシクさんほど上手くは扱えないけどな」
にしてもロケット砲や火炎放射器まであるのか、すげーな、と呟きながら得物を物色し始める龍一に真琴はだんだん不安を覚え始めた。「念のため言っておくけど、銃や爆薬については僕、テシクさんどころか龍一さんよりもっと扱う自信ないからね?」
「最初から頼むつもりもないさ。他にやってほしいことがある」
真琴はがっくりと肩を落とす。「やっぱり」
【同日 午後5時30分 さきがけ市と〈のらくらの国〉境界近辺】
〈戦車〉が巨大なマシンの両腕を振り回し、兵士たちを押し潰す。〈騎士〉は大剣を振るってボディアーマーごと兵士を斬り伏せ、〈騎兵〉が軍馬で
各人が凄まじい戦いぶりだった。にもかかわらず、兵士の数が減らない。
【お二人とも、行ってください……!】
悲痛な叫びとともに〈戦車〉が最後の発煙弾を放つ。〈騎兵〉は唇を強く強く噛み締め、軍馬の首を巡らせた。「乗ってくださいな、〈騎士〉!」
「はい……!」
背後では〈戦車〉が押し寄せる兵士たち相手に掴んでは振り回し、踏み潰し、奮迅の働きを見せていた。だがそれにすら小銃弾と擲弾が集中し、やがて〈戦車〉の巨体は殺到する兵士たちに呑まれて消えた。
機械仕掛けの軍馬が荒れた路面を蹴立てて走る。だが、兵士たちもスケートボードに似た移動装置で執拗に後を追ってくる。しかも二人乗りの軍馬と違って身軽な分、じりじりと距離が詰まり始めた。
このままでは──焦燥を隠し切れない〈騎兵〉に、〈騎士〉が唐突に口を開いた。「……〈騎兵〉さん、やっぱり私が降りた方が身軽になりますよね?」
「何をおっしゃっているの!?」
「誰か一人でも生き残っていられたら、私たちの勝ちですよ」
「言わないで! そんなこと、できるわけないでしょう!?」
〈騎士〉は笑った。〈騎兵〉が一度も見たことのない笑い方だった。「地の喋り方が出てますよ。でもどっちかって言うと、今のあなたの方が好きですけどね──じゃ、お元気で」
それから、一挙動で〈夜を這う者〉の背から飛んだ。
何十キロとある鎧を身につけ、自動車とほぼ変わらない速さで走る馬の背から跳躍し、着地地点にいた兵士のヘルメットを西瓜のように叩き割る。並大抵のことではできない。だが、彼女はやってのけた。
「来い、木っ端ども! 身共の勇気を目にも見よ!」
「待って! 戻って!」〈騎兵〉は手綱を引きながら必死に叫ぶ。「戻って、〈夜を這う者〉! どうして、どうして言うことを聞いてくれないの!?」
だが、機械仕掛けの軍馬は彼女の哀願を聞かなかった。必死の走りをやめなかった。〈騎士〉が自分に何を託したのか、懸命な彼女は充分に理解していた。
【同日同刻 〈のらくらの国〉
「危な……!」
夏姫はとっさに佳澄と可乃子を小脇に抱えて伏せた。伏せた、というよりは恐怖のあまりそれ以上の動きができなかったと表現した方が正しいのだが、しかしその行動は自分で思った以上に正解だった。路面に墜落して機体から外れたヘリのローターが、頭上わずか数メートルほどを掠め飛んでいったのだ。ローターは凄まじい勢いで回転しながらメックスーツの残骸と、横転していた車と、そしてその進路上で発砲していた兵士たちを例外なく粉砕し、巨大な剣のようにビルの外壁へ深々と突き刺さってようやく止まった。
「ぶったまげ」ようやく口が開けるようになった佳澄がぽつりと言った。夏姫もほぼ同意見だった。
「事態の把握に苦しむぜ……」いつの間にかヘリから這い出していたテシクが、胴から切り離されてほとんど首だけでもぞもぞと蠢く兵士に拳銃で無造作にとどめを刺した。「夏姫、なんでお前らがここにいるんだ? ……いや、何となく察しはつくがな」
うおっ新しいイケメンが空から降ってきやがった、と目を丸くしている可乃子の手を借りながら、夏姫はスカートの埃をはたいて起き上がった。「その推察は正しいわ。ここに来るしかなかったからよ」
「だろうな。龍一はどうした」
「ヨハネスの刺客と激突している最中だと思う」
「なるほど。……何だって?」
【同日同刻 ビル〈
「準備はできたか、真琴?」
「何とか……でも、向こうは向こうでやる気みたい」
真琴の声が妙に白っぽい理由はすぐにわかった。法服の男がまたしても宙に浮いていた──しかも彼一人ではない。火器を構えたあの兵士たちまで、地上から離れてゆっくりと龍一たちのフロアに近づきつつある。速度こそ歩行と大差ないが、このままビルの中に侵入を許せば火力面ではまず勝ち目がなくなるだろう。
「ふん……あいつの『裁き』とやら、ずいぶんと融通が効くみたいじゃないか」
「どうするの?」
「どうもこうも」既に泣かんばかりの真琴と対照的に、龍一は獰猛に笑う。「歓迎するに決まってるだろう」
「……ほう」
天秤を掲げ、完全武装の一個小隊を自分とともに浮かべて運んでいた〈黒の騎士〉は、近づきつつある目標の廃ビルに生じた動きを見てかすかにそう呟いた。あの青年、彼の主から直接に抹殺を命じられた男。相良龍一だ。複数のホルスターで拳銃とナイフを全身に装備し、逃げるどころか立ち向かう戦意を露わにしている。
これ見よがしに手に持ったレンガブロックのように細長い包みを数度ほど宙に放り、そして野球投手のようなフォームで力一杯、投げた。
コンポジットC4。信管付きの破壊工作用爆薬だ。
〈黒の騎士〉は避けなかった。たとえロケット弾の直撃を食らおうと、彼の身には傷一つつかないだろう確信がある。ただその狙いが何なのかは、少々興味があった。
青年が叫ぶ。「真琴!」
「もう……こんなことになると思ってたよ!」
柱の影に隠れていた少女、新田真琴が半分やけっぱちの表情で手にした装置のボタンを押し込む。
閃光、一瞬遅れて大音響。しかしそれはやはり〈黒の騎士〉にかすり傷すら負わせられなかった。爆薬の狙いは、彼ではなかったからだ。
彼の能力で「浮かんでいる」兵士たちはひとたまりもなかった。爆炎の直撃は免れても、続く爆圧は避けようもない。まるで殺虫剤を浴びせられた虫のように、次々と真っ逆さまに落下していく。
「……まずは頭数を減らす、か。手慣れているな」
落下の途中でかろうじて廃ビルの壁にしがみつき、這い上がってきた兵士たちを出迎えたのは、12.7ミリ弾の猛打だった。
「これだけ真っ直ぐなら、どれだけ俺の腕前がヘボでも当たるな……」
廊下の突き当たりに三脚へ乗せた機銃を据えた龍一は、顔を覗かせた兵士に容赦なく一連射を見舞った。アッパーを喰らったボクサーのようにのけぞった兵士たちが数人、なすすべもなくフロアから転落する。
それでも他の兵士たちが廃ビルへの侵入を果たし、素早く物陰に隠れる。だが兵士たちがグレネードランチャーを放つより早く、龍一は身を翻している。
「テシクさんほど上手く使えない、とは言ったが……」
掌に握り込んだ起爆装置のスイッチを押し込む。「使えないとは言ってない」
廃ビルの一画が完全に吹き飛んだ。巨人の足に蹴飛ばされたように残りの兵士たちも次々と落下していく。
その様子を見ながら、龍一は溜め息を吐く。「威力偵察は終わりか?」
法服の男が音もなく、壁どころか天井すら消失したフロアに降り立つ。夕闇空を背に、法服の裾がマントのように微かに揺れる。
「……本番か」
こうして見ると俺と背格好は大して変わらないな、と改めて龍一は思う。見てくれの異様さで最初のうちこそ騙されたが、目隠しを取れば案外若いのではないか。
「〈黒の騎士〉」
法服の男はぼそりと呟いた。一瞬後、それがどうやら自己紹介のつもりらしいと気づく。物理法則に逆らうのは勝手だがそんなところで世間の常識に刃向かわないでほしい、と内心で思った。口には出さなかったが。
「〈黙示録の竜〉」
「何だって?」
「あなたのことだ。我らが主はあなたをそう呼んだ。ここへ赴き、それを制圧するのが私の使命だ」
戦車かミサイルとでも話しているような気分だな、と龍一は内心舌打ちする。もしかして、俺も真琴からはこんな風に見えるんだろうか。
「我らが主に言わせると、私はしばしば言葉が足りなくなるらしい。私の言ったことは意味不明だったろうか?」
自覚あったのかよ、と龍一はちょっと呆れた。「安心しろ。あんたの『主』とやらの意図は充分伝わったよ──本当に充分にな。あんたの主は俺を殺さないと夜も眠れないらしいし、俺もあんたにたっぷり泥を吐かせたくてたまらない」
「では、私がここに来た理由は充分にあったということだな」〈黒の騎士〉は天秤を掲げる。「ならそれでいい」
戦闘開始の合図だった。
龍一が先に動く──腰のホルスターからナイフを抜き取り、ノーモーションで投げた。
不可視の障壁に弾かれ、ナイフはあらぬ方向に逸れる。しかしそれを見届けることなく、龍一は瞬時に踵を返して逃げる。
傾いたロッカーの影に隠れ、拳銃を立て続けに撃つ。〈黒の騎士〉の顔面に集中して放った弾丸は、しかしやはり発泡酒の泡のように儚く弾かれる。
弾倉を素早く交換──しようとして、龍一は全身に寒気を感じる。あの特徴的な、「天秤」の甲高い振動音を耳が捉えたのだ。
(まずい……!)
考えるより先に、飛んだ。砲弾のごとき速度で打ち出された瓦礫とガラス片と鉄骨の塊が、龍一の隠れていたロッカーを粉微塵に粉砕する。
(……やっぱりな)
勢いに逆らわず受け身を取って転がりながら、素早く龍一は考えをまとめる。
①あの障壁は〈黒の騎士〉の意志と無関係にオートマチックで発動するらしい。
②『裁き』とやらが発動するにはある程度の精神集中が必要らしい。
③どういう原理かはわからないが、あの「天秤」がそれを発動する鍵らしい。
④目隠しこそしているが「見えて」はいるらしい(ただし、どのような手段かは不明)。
脅威ではあるが攻略不可能ではなさそうだ、龍一は密かに笑う。じゃ、プランB発動だな。
危なげない足取りで廊下を歩いていた〈黒の騎士〉は、しかし行く手に張り巡らされた何本ものワイヤーに足を止める。爆薬その他のトラップがセットされているわけではない、これ見よがしな、ただのダミーだ。しかし。
「やっぱり『見えて』はいるんだな。その目隠し、素通しか?」
首を巡らせて、崩れた天井の大穴から顔を覗かせた龍一と目が合う。何か重そうなものを、こちらの足元に投げてよこす。ノズルと一組になった火炎放射器の燃料タンク。
「やるよ。俺じゃ自分の足を炙るのがオチだからな」
返事する前に、龍一の構えたポンプアクション式ショットガンが火を噴いた。火炎放射器の燃料タンクに向けて。
火球が膨れ上がり、炸裂する。大穴の縁から龍一が慌てて後退するほどの火の勢いが、廃ビルの廊下をまとめて薙ぎ払う。しかし。
燃やせるものを全て燃やし尽くし、火勢が衰えた後に現れる〈黒の騎士〉には火傷どころか衣服の焦げ一つない。
「……やっぱりオートマチック発動か」
弾倉に残っていた散弾を全て見舞うが、当然〈黒の騎士〉は泰然と佇んでいる。
「〈ジェリコの壁〉の隙間と発動条件を解析するのが目的か。どうするのか少し興味があったが……」
天秤が甲高く唸る。「時間切れだ」
だが次の瞬間、今度は天井そのものが爆音とともに崩落する。
「使えないとは言ってないし、たくさん仕掛ければ効果的なのは知ってる」
あまりにも大量の瓦礫に、天井ばかりか〈黒の騎士〉が立つフロアも荷重に耐えきれなかった。ひび割れ、そして階下に向けて崩れ落ちる。とっさに天秤をかざし、力場を形成して落下は免れる。が、
「!?」
その顔に、初めて動揺らしきものを見せる。唸りを上げて飛んできたワイヤーが、蛇のように天秤を持つ彼の右腕へ絡みついたのだ。
そしてそのワイヤーのもう一方には、
「やっぱりな……障壁と空中浮遊までは同時発動できても、それ以上……三つは使えないか!」
ワイヤーの端を握り締めた相良龍一が、耳まで裂けるような笑みを浮かべて〈黒の騎士〉を見上げている。足元は目もくらむ虚空なのだが、意にも介していない。「その天秤が『発射台』なんだろ? 俺の頭でもわかる、種も仕掛けもある手品だな!」
「……羽虫が」
〈黒の騎士〉は天秤を発動させようとするが、うまくいかない。天秤の放つ光と振動が衰え、たちまち沈黙する。
だが〈黒の騎士〉の動きは止まらなかった。腕を大きく振り、反対側の龍一の身体を振り子のように振り回す。壁だろうと床だろうと、人体が粉微塵になる速度だ。
龍一は怯まない。叩きつけられる寸前に壁を蹴り、ワイヤーを強く引いてさらに大きく飛ぶ。狙いは当然〈黒の騎士〉だ。
「接近戦は嫌いかい、お役人さん? 俺は好きだぜ、得意とは言わないがな!」
〈黒の騎士〉もまた逃げない。天秤こそ使えなくとも、浮遊したまま龍一を迎え撃つ態勢を取る。その巨体が縦にぐるりと一回転し、
「が!」
「接近戦ができるのは自分だけとでも思ったか?」
手が触れんばかりの距離にまで飛んだ龍一の頭頂部に、渾身の踵落としが炸裂する。
「……まだぁっ!」
頭頂部からどくどくと血を流しながらも、龍一の戦意は衰えない。ワイヤーをさらに手繰り寄せ、蟹挟みのように〈黒の騎士〉の首に両足を絡みつかせる。
「じゃこれならどうだよ!」足を絡ませた首を支点に一回転、背後に回り込む。そしてその手には──C4爆薬。
「貴様!?」
「俺の得意分野に付き合ってくれた……せめてもの礼だ!」
〈黒の騎士〉の背を踏み台がわりに、大きく強く蹴って飛ぶ。次の瞬間膨れ上がった火球は〈黒の騎士〉を今度こそ飲み込み、そして龍一の全身を数階下のフロアに叩きつけた。
──数秒間ほど気絶していたらしい。龍一は目を見開く。
俺は勝ったのか? それとも負けたのか? 確かめるためにも……立たなければ。
しかし、意に反して龍一の全身はぴくりとも動かない。
あいつを叩きのめして、泥を吐かせるんじゃなかったのか?
動け! 動きやがれ、俺の手足! あの人の仇につながる最大の手がかりが、すぐそこに転がってるんだぞ!
「『
聞き覚えのある声。〈黒の騎士〉の声。
仰向けの龍一の視界の中、逆さまになった〈黒の騎士〉の顔が龍一を覗き込んでいる。その顔に違和感を覚えた。あの黒い目隠しが、焦げてちぎれかけている。
「単純な筋力や武器の操作法だけではない。わずかな時間で『壁』の弱点を探り出す機転、限界ぎりぎりまで生身の肉体から潜在能力を絞り出す肉体操作技術、そして最後の最後で自らの身を投げ出す胆力。……我らが主が、脅威と見なしたのも今なら頷ける」
目隠しが音もなく、はらりとほどける。
醜い顔ではなかった──むしろ隠すのがもったいないと思えるほどの整った顔立ちだった。火傷や切り傷があるわけでもない。秀でた額と通った鼻梁、薄いが意志の強さを感じさせる引き締まった口元。
異様さなどなかった。その目以外──金色に光る瞳と、縦に裂けた瞳孔さえ除けば。
「その目は……」
「さらばだ、〈黙示録の竜〉よ」
掲げられた天秤が甲高く唸って震える。
次の瞬間、彼の身体は数十メートル下、最下層まで貫通して潰れた。
【同刻 メイド喫茶〈ハリウッド・クレムリン〉職員専用エリア】
「駄目、もうチェコどころかヨーロッパの踏み台を全部逆探されてる! このままだと上海も持たない!」
「嘘だろ!? 何のための囮サーバーなんだよ!」
「マシンパワーと台数に物を言わせて世界数百ヵ所で計算すれば、できなくはないかもねー」
「御託はいいんだ、何とかしろ!」
「冗談じゃない! 私が、この私が捕ま──」
暗転。
室内の全員が振り向くと、オーナーが壁を這い回る光ファイバーケーブルに深々と食い込んだ消化用の斧を、渾身の力を込めて引き抜いたところだった。そこで力尽きたように、斧を投げ出した。妙に軽々しい音が響く。
「……皆、よくやってくれた。本日の業務は……いや、〈ハリウッド・クレムリン〉はしばらく店じまいだ」
目も鼻も真ん丸い上に卵のような体型の店長(『ハンプティ・ダンプティ』がメイドたちが彼につけた密かな仇名だった)は始終笑顔を絶やさない気のいい男だったが、今日ばかりは焦燥がべっとりと顔中にこびりついていた。彼の言葉に、メイドの一人が鋭く反応する。
「私たちの負け、ですか」
「そうだ……ああ、いや、違う。君たちは負けてなんかいない。負けたのは僕だよ、ソーニャ」店長は声を上げたメイドに頷いてみせる。「負けたんだから、大人として責任を取らなければならない。そら、来たようだ」
インターホンからよく通る声が流れ出した。【〈ハリウッド・クレムリン〉店長の雑賀文三さんですね? 未真名市警サイバー犯罪課です。電子商取引法違反の容疑でご同行願います。秘書のズデンカ・チェルニコヴァさんからも合わせてお話を伺いたい】
「……と、いうことだ」店長は唇の端を上げてみせた。苦笑いを失敗したような顔だ。「僕が捕まれば警察は一応納得するだろう。君たちの行方も捜索されるだろうが、僕への取り調べほど熱心にはならないはずだ」
「感謝はしませんよ。逃げろって言うんなら、言われるまでもないです」
「それでいい」店長はどこか嬉しそうに頷くと、手元の小さな装置を操作した。重々しい音とともに床が割れ、隠されていた階段が姿を表す。
「こんな仕掛けあったのか……」ニンジャかよ、とメイドの一人が呆れた声を出す。
「ズデンカ君、退職金を」
「はい。現金でしか渡せません。それも日本円で」一部の隙もないスーツ姿の女性秘書が、分厚い封筒をメイド一人一人に手渡していく。
「悪いけど、これを必ず復讐に使うなんて約束はできませんよ」
それでいい、と店長は頷く。「だからソーニャ、何年かかろうと構わない。いつの日か、ヨハネスにつけを支払わせてくれ。もちろん領収書は〈ハリウッド・クレムリン〉宛でね。……頼んだよ」
「……で、これからどうするの?」
隠し通路は暗く、狭く、どこまで歩いても道は見えなかった。入り口にたどり着くまでに、彼女たちは一息吐く必要があった。
「決まってるでしょ。ヨハネスにつけを支払わせるの」口を開いたのは、やはりあのソーニャだった。
「あんたそんなに義理堅い女だったっけね、ソーネチカ?」
「店長に頼まれたからやるわけじゃないわ」
ソーニャの声色に何かを感じ取ったのか、一同が沈黙する。
「ヨハネスは私たちから全部奪った。仕事も、寝床も、ちゃっこく貯めたなけなしの貯金もカードも、少しずつ買い揃えていた化粧品セットも、デートの時にしか着ない一張羅も。全部よ。わかる? だから返してもらうの。返せないって言うんなら身ぐるみを剥ぐ。殺すかどうかなんて、その後決めればいい」
「ヨハネスを血祭りに上げる前に、今夜の寝床を探す必要があるけどねー」妙にのんびりした口調のメイドが呟く。
「そうだよ。私たち、口座やカードだって止められてるんだよ?」小柄で垂れ目気味のメイドは今にも泣きそうな顔をしている。「店長も逮捕されちゃったし」「店の機材もサーバーも、全部没収されてるだろうしねー」
「それに『つけを支払わせる』ってどうするんだ? 世界のどこにいるかわからない〈犯罪者たちの王〉を探し出して、タブレットかなんかで頭ぶん殴るのか? 〈月の裏側〉も〈ヒュプノス〉もあたしたちも、総出でそれをやろうとしてしくじったのに?」背の高いメイドが、やさぐれた口調で吐き捨てる。
「……やり方はまだ、思いつかない」ソーニャは低く呟く。「でも、やるの!」
【同日同刻 ビル〈
「安らかに眠れ。あなたが何者で、どのような罪を犯そうと、死者が裁かれることはない。我らが主もきっとお赦しになるだろう」
わずかの間黙祷し、顔を上げた〈黒の騎士〉は、そこに呆然とたたずんでいる少女を見出した。相良龍一と行動を共にしていた娘だ。確か真琴、という名前だったか。
反射的に天秤を掲げはしたが、すぐにその無意味さを悟った。彼女は戦意どころか、逃げることも、嘆き悲しむ気力すらないような有様だった。それに相良龍一はともかく、〈月の裏側〉に属していない彼女は抹殺対象ですらない。
何だろう──
これと同じ眼差しを、
自分はどこかで
(今、何を考えた……?)
どうもおかしい。相良龍一と戦ってから、自分の中に明らかな異変が生じている。そう言えば、先ほど龍一に見舞った踵落とし……咄嗟に繰り出してはしまったが、あんな動きができるなどとは自分でも思っていなかった。自分が「こうなる」以前に身についていた技能なのだろうか?
何にせよ良くない兆候だ。帰還次第、〈措置〉を強化するべきかも知れない。気は乗らなかったが。
踵を返そうとして、彼は気づく。真琴の両目が、安堵とも恐怖ともつかないもので大きく見開かれるのを。そして、彼女の呟きが聞こえる。
「龍一さん……?」
まさか。
振り向いた〈黒の騎士〉の口から、本物の驚愕の声が押し出された。
「お前は……何だ……?」
【同日同時刻 古谷商事ビル屋上〈ヴィヴィアン・ガールズ〉前線司令部】
「どうなってるんだ! こっちの火点が片っ端から潰されてる! 〈ヒュプノス〉は何をやってるんだ!?」
「〈ヒュプノス〉は残念ながら……いないものとして考えた方がいいわね」歯噛みするリュドミラにカチュアはそう応えるが、言葉の根底にある苦さは隠し切れなかった。「撤退の準備を」
「撤退!? 皆を見捨てるのかよ! ここであたしらまで退いたら、〈ヴィヴィアン・ガールズ〉全体が総崩れだぞ!」
「もう総崩れになっているのよ、リュドミラ。……少しでも被害を抑えるか、それとも徹底抗戦の末に皆殺しになるか、今の私たちが選べるのはどちらかなのよ。それについて議論したくはないわ。準備して!」
「…………くそったれ!」
【同日同刻 ビル〈
真琴は自分の目が、何を見ているのか全くわからなくなっていた。
「それ」の身長は、確かに龍一と同じぐらいだった。しかし、その姿を何と形容すればいいのだろう。鉱石の塊が突き出した鎧を着込んだ半人半獣、とでも言えばいいのか。細く尖った鼻面は獣にも蜥蜴にも似ている。頭部からは角のような鉱石の塊が一対、突出していて、目に相当する感覚器官は見当たらない。生物には見えないが、完全な機械にも見えない。総毛立つほど不気味で、それでいて目が離せないほど美しく……恐ろしかった。
こんな状況でなければ笑い出していたかも知れない。龍一さん、この前はスーパーヒーローになったと思ったら、今度は何のコスプレ?
ひたり、とフロアに降り立った、その静かで非機械的な足取りも龍一のものだった。
今や怒気と戦意を隠しもしない〈黒の騎士〉へ向け、「それ」は明らかに笑った。比喩ではなく、口が耳まで裂けた。上顎と下顎が垂直になるほど大きく大きく開かれた口の中は、体表よりも黒く暗く、夜の色をしていた。
夜の闇が、「それ」の口から溢れ出した。いや夜ですらない、それは幾千幾万もの星の光を瞬かせる宇宙であり、太いもの細いもの関節のないもの幾十もの節と棘を生やしたものさまざまな生物の腕あるいは触手であり夜のような腕あるいは腕のような夜が幾百幾千幾万幾十万幾百万幾千万と溢れ出し
激しい衝撃が全身を打ち、真琴は何もわからなくなった。
【同日同刻 都内 関係者からは〈役所〉と揶揄を込めて語られる一室】
「……主任!
若い女性の緊迫した声に、やや年嵩の女の落ち着いた──と言うより面倒くさげな声が応える。
「落ち着いて報告して、
「どうしてこんな時に親しみを込める必要があるんですか……?」
満代、と呼ばれた若い女は気が抜けたように肩を落としたが、代わりに落ち着きを取り戻したらしい。「失礼しました。発現時間は5分足らずでしたが、それにしてもこんな大きな反応……初めてです」
「5分足らずでよかったよ。10分以上発現していたら、地球が半分になってもおかしくないからね」
満代は細い肩を震わせる。「そんなことがあり得るんですか?」
「何だってあり得るよ。私やみっちゃんも含めたこの星の全生物が、一瞬で全身の皮膚と内臓を裏返しにされるとか」
「……想像もしたくありません」
「私もだよ。いずれ否応なく考えることになるだろうけど」
主任と呼ばれた年嵩の女は軽く息を吐いて続ける。「市の監視ポストは大事を取って第二地点まで後退させて。どんなしょぼい情報でも生きて前線から逐一上げてくれた方がまだましだから。あと広報に出番だって伝えて。〈のらくらの国〉なんてできれば丸ごと消し飛んでほしいって思ってるお役人や政治家先生は多いから、向こうのメンツさえ潰さなければよほど怪しげな公式発表でも右から左へ流してくれるはず。痛くもない腹、探られたくないだろうからね」
「は……はい」
「私は爺様たちへの報告書をまとめる。今から完徹すれば、まあ間に合うでしょ。……しかしそろそろ〈
それともバックがでかすぎて引くに引けないのかね、宮仕えはつらいね、と主任はぶつぶつ呟いている。
「それにしても主任、場所どころか時間まで予測するなんてすごいですね……何か心当たりでもあったんですか?」
「はっ! 心当たりどころの騒ぎじゃないよ」主任は凄みのある笑みを見せる。「愚息のやることなんて想像の範疇じゃん」
「ぐそ」若い女は目を白黒させた。「ええと、愚息というのは……主任の……」
あんまり気を遣わなくていいよ、と苦笑する。「どうせ公然の秘密なんだからさ。……それにしても、みっちゃん。見なよこの有り様を。地雷原でタップダンスどころの騒ぎじゃないよ、こりゃ」
主任──白木透子は正面の巨大なディスプレイを見上げながら、本人にしかわからない理由で微笑する。各地で黒、青、黄、そして赤、様々な光が不気味に明滅するその世界地図を。「世界は変わろうとしているのかね。それとも、終わろうとしているのかね?」
【同日 午後7時 〈のらくらの国〉中心部より数百メートル離れた廃墟】
──テシクが目を開けると、見覚えのある顔が二つ、既に暮れた空を背に覗き込んでいた。〈ヴィヴィアン・ガールズ〉のカチュアとリュドミラだ。
リュドミラは露骨にほっとしたようだった。「大丈夫かよ? 何かはみ出そうな顔してんぞ」
「……別にはみ出してはいない」好き勝手言いやがって、と思いながらおそるおそる上半身を起こす。全身が痛むが、幸い手足がもげて落ちることはなかった。
「お前たちが助けてくれたのか?」
「そう、と言いたいところだけど違うわ。私たちが見つけた瞬間に息を吹き返したの」とカチュア。「あの爆発の近くにいて骨折すらしていなかったら、お礼は神様に言った方がいい」
あれを『爆発』と呼んでいいのか、一瞬そうは思ったが追求するのは後回しにした。「俺と一緒に誰かいなかったのか?」
「とんがり帽子の娘っ子なら、目を回してるけど無事だよ。あと、近くにあんたくらいの若い兄ちゃんがいたから拾ってきた。あのお嬢様の付き人だろ。あたしたちも地獄の悪魔じゃないから、引きずってきてやった。運がよけりゃ助かるだろ」
「アレクセイは? お前たちも顔は知っているだろう、例の〈ヒュプノス〉の端末だ」
「無事だったけど、あんたが目を覚ますより少し前にふらふらどっかへ行っちまった。死人よりひどい顔色でさ。あたしたちの声も聞こえてないみたいな様子だった」
気にはなったが、現状ではどうしようもない。「夏姫は?」
カチュアとリュドミラは顔を見合わせた。できるだけ避けたかった話題に触れるときの顔だ。「……連れてかれた。アホくさい都市伝説に出てくるような、機体番号も所属マークも貼ってない、全部真っ黒黒の気味悪いヘリでさ。そこら中が真っ暗になるくらいデカいのに、影みたいに音ひとつ立てないんだ……降りてきたのはあんたやあたしたちを襲ったのと同じ兵隊どもだった。あいつらも変だったな──動きはロボットよりずっと滑らかなのに、人間の気配がまるでしないんだ」
テシクは歯噛みしたくなった。あの状況で危険を冒してまで夏姫を回収しに来たのは、ヨハネスないし彼の直接命令が発せられた可能性が高い。自分が気絶さえしていなければまだ手の打ちようはあったかも知れないが……今言っても詮無い話ではある。
「……龍一は?」
カチュアが首を振った。彼女らしくない、心底困惑した態度だった。「自分の目で確かめて。私にはもう、何が何だかわからない」
彼女の背後に、暮れなずむ空と、〈のらくらの国〉の中心部が見える。──見える、はずだった。
「何だ……あれは」
テシクは自分の目よりも先に、まず自分の正気を疑わずにはいられなかった。
〈のらくらの国〉は消滅し、代わりに満天の星空が出現していた。
そこに見えるのは明らかに人工の灯火ではなかった。幾百万、幾千万、あるいはそれ以上の光が漆黒の中に瞬いている。テシクも星座にそれほど詳しいわけではなかったが、それでもその星の並びは、一度も目にしたことがないものだった。もしかすると自分が知る銀河系より遠く遠く離れた、宇宙の中心部なのではないか?
何より、そんなものが地上で見えるはずがない。今ごろ、未真名市の治安機関や行政は大騒ぎになっているはずだ。テシクたちの現在位置からあれだけはっきりと見えるのだから、未真名市中心部からの眺めは格別だろう。
見つめていると本当に宇宙の深淵に引き込まれるような酩酊感を覚えて、テシクは慌てて目を逸らした。「あれが……あそこが龍一たちが戦っていた場所か? 肝心の龍一はどうなったんだ?」
「わかんないよ。でも……無関係じゃないって気はする。ここにいたんだからあんただって見ただろ、気絶する前に。あれをさ」
思い出さずにはいられなかった──あの廃ビルから、夜の色をした無数の手と触手が溢れ出し、次々と兵士たちを捉えては内部に引きずり込んでいったのを。
「結局、あたしたちは負けたのか?」
「負けかどうかで言ったら、徹底的な負けよ」カチュアが苦く呟く。
重苦しい沈黙がその場に立ち込めた。〈ヒュプノス〉も〈ハリウッド・クレムリン〉も〈ヴィヴィアン・ガールズ〉も壊滅状態、〈月の裏側〉に至ってはまともな組織としての態すら成していない。何より、リーダーである高塔百合子が生死不明であるのが大きい。当初の目標であったマルス壊滅は果たしたが、それにしてもその代償はあまりに高くついたとしか言えない。
「私たちは生きている。なら、やることも決まっているわ」内心でどう思っているにせよ、カチュアの逡巡は短かった。「〈ヴィヴィアン・ガールズ〉はたった7人の女の子と7丁のAKから始まった。なら、何度でもそこに立ち戻ればいい」
「だね」とリュドミラが同意する。「合流地点は指示してある。生き残りを拾って、態勢を立て直そう。あんたはどうする、テシク?」
いつまでも韜晦していられないことは、テシク自身わかっていた。「俺も着いていっていいんなら、やりたいことがある。相良龍一について調べたい」
「そんなことをわざわざ? 仲間なんだから、個人情報ぐらい把握してるんじゃないの?」
「個人情報だけじゃない。相良龍一に関する全てだ」
「それは、私たちが命がけで探り出そうとしていた〈犯罪者たちの王〉の居場所より重要なことなの?」
「ああ、お前たちが命がけで探し出そうとしていた〈犯罪者たちの王〉の居場所と同じくらい重要なことだ」
考えてみれば俺があの年若い少年について何を知っているのだろう、とテシクは思わずにいられなかった。人間離れした、というより化け物離れした運動能力。窮地の際の異様な立ち直りの速さと機転。夏姫に口で勝った試しがないところ、あとたぶん、百合子に惚れている(ばれてない、と思っているのは本人ぐらいだ)。
それに、勘が告げていた──相良龍一が〈犯罪者たちの王〉を地の果てまでも追い詰めて殺そうとしているのと同様、〈犯罪者たちの王〉の方でも相良龍一に異様なまでの関心を抱いているらしい。ならば相良龍一を調べることは、結果的に〈犯罪者たちの王〉へつながる最短距離となるのではないか。
「……わかったよ。でも今は逃げるのが最優先だ。だろ?」
「そろそろ行きましょう。話をするにも、まずは落ち着ける場所を探してからよ」
テシクは頷きながらも、思わずにはいられなかった。この先俺たちが「落ち着ける」ことなんて有り得るのだろうか、と。
【5月1日 午前0時 未真名中央病院・601号室】
ずいぶんと長く眠っていたように思う。意識が戻りかけ、また眠りにつく度に、母がベッドの傍らで泣いていたり、それを父が黙って肩を揺すっていたり、佳澄と可乃子が変わるがわる呼びかけていたようにも思うが、それが現実の出来事かはわからない。夢かも知れない。
気がつくと、病室の天井を見ていた。全身がコードと点滴の管だらけになっていて、酸素マスクで口が塞がっていなかったら悲鳴を上げていたところだ。枕元では医療機器が音もなくランプを点滅させており、そして傍らの椅子には──相良龍一が座っていた。盗んだのか拾ったのか、あまり身体に合っていないシャツとジーンズを着ていて、そして何より、疲れて見えた。
「龍一さん……」声を上げたつもりだったが、唇が震えただけだった。それでも、龍一には伝わったらしい。
「よう。起きたか」低く呟いた龍一の顔色はひどく悪かった。数日ほど一睡もしていないような顔だった。いや、実際にそうなのかも知れない。「起きなくていいからな。長居するつもりはないんだ……手土産もないしな」
「夏姫さんは……?」その答えを聞くのは怖かった。だが、聞かずにはいられなかった。
「死んではいない……と思う。あの兵隊たちが、警察とも自衛軍とも違うヘリに乗せるのを見た。確認できたのはそこまでだったけどな」何かを堪えるように龍一は目を閉じた。「殺すつもりなら、わざわざ連れて行く必要はない。だから生きている……少なくとも、そう信じることにした」
言葉の裏にあるもう一人についての思いを、彼は口にしなかった──だからきっと百合子も。
「龍一さんは……これからどうするの」
「どうもこうも」龍一は口元を歪めた。他に表情の選びようがないからそうしたような、ひどく苦い笑みだった。「これで名実ともにお尋ね者だよ。復讐だの、落とし前だの、偉そうなことを抜かす前に、命を惜しんでひたすら逃げないといけなくなった」
「頼れないの……? あの〈月の裏側〉の皆んなには……?」
龍一の顔から笑みが消えた。「俺が無事なんだから、絶望的ってわけじゃないだろう。ただ、もうあの人たちに頼れないってだけだ。君も見ただろう。俺が〈のらくらの国〉をああした」
真琴の喉が一瞬で干上がった。思い出さずにはいられなかった──龍一が変じたあの禍々しい姿。そして、〈のらくらの国〉を焼き払ったあの眩い閃光。
「あれが何で、どうして起こったのか、それがわからない限り〈月の裏側〉とは二度と合流できない。……俺は自分のことについて、何も知らなかったのかも知れない。知らずに、復讐だ何だって、ただ喚いていただけだったのかも知れない」
龍一は少しの間沈黙し、やがてぽつりと言った。「真琴。俺は何なんだ?」
わからないと言うのは簡単だった。だが龍一の様子を見て、その一言だけで済ませてはいけないことだけはわかった。
「僕が……僕が警察の人に全部話すよ。龍一さんが助けてくれたんだって……だから、もう逃げないでよ。それともこのまま、一生逃げ続けるつもりなの……?」
「ありがとう。でも、もういいんだ」龍一が苦笑しながら首を振る。「もうわかっているだろう。警察の中にだってあいつらの仲間は大勢いるんだ。自首なんかしたら、朝には死体になってる。……泣くなよ」
泣いてなんか、と言おうとして、真琴は自分の視界がぼやけているのに気づいた。
「君の言った通りになったよ。暴力で何もかもを解決することに慣れると、こういう時に何にも頼れなくなるんだな」
「違うよ……そんなつもりで言ったんじゃ」
「もう俺をかばう必要はない」龍一は掛け布団からはみ出ている真琴の手を軽く握った。力のない、優しい握り方だった。「今まで、すまなかった」
「待ってよ、龍一さん……」声を上げようとしたが、囁くような声しか出なかった。そもそも、引き止めたところで何を言うべきなのかもわからなかった。
廊下で足音が入り乱れる。真琴が目覚めたことで、ナースステーションの看護師たちが気づいたらしい。
「じゃあな、真琴。今度こそ本当にさよならだ。……元気で」
瞬く間に背の高い青年は消えた。まるで初めて会ったあの時のように、音もなく。
【同日同刻 洋上を高速飛行中の〈
「……聞こえているか、〈黒の騎士〉よ」
自分を呼ぶ声に彼は目を開けた。胸から下は消滅し、顔面の半分は消し飛んで脳が剥き出しになり、眼球も右目が潰れていたが、生きてはいた。
音も振動もなかったが、部屋全体が移動している気配があった。以前見たことがある、あの全面が夜のように黒い〈大鴉〉と呼ばれていた大型ステルスヘリだろう。
そしてすぐそばに、彼の仕える〈王〉がいた。
「我が……王」舌までずたずたになっていたが、声は出せた。「申し訳……ございません」
よい、と〈王〉は鷹揚に応えた。「充分と判断して命じたのは私の責だ。君の責ではない」
「こっぴどくやられたもんだね、〈黒の騎士〉。……ああ、無理に喋らなくていいよ。今のあんた、肉屋で天井からぶら下がってるハムの塊よりも少ないんだからさ」朗らかな、情況を考えれば朗らかすぎる女の声。「まあ寝てなよ。戻ったら培養槽に漬けてやっからさ」
「お前も……来ていたのか、〈赤の騎士〉」
「〈白の騎士〉も〈蒼の騎士〉も死を撒くのに忙しいからね」姿は見えなくても肩をすくめているのがわかる声。「〈月の裏側〉は散り散りになって逃げたよ。波打ち際を逃げる蟹みたいな速さでね。列島の半分を消し飛ばせれば殲滅できなくもなかったけど、我らが王は『今日はいい』だってさ」
「炎の中から君を回収したのは彼女だ。後で礼を言っておくことだな」〈王〉の声に笑いが滲む。
「王よ。あれは……あれは何だったのですか……」
「悪竜」〈王〉の声は静かで低い。「治安機構でも、既存の犯罪組織でも、まして国家でもない。我らが滅ぼすべき宿敵は相良龍一、あの少年ただ一人なのだ。そしてそれを滅ぼす聖剣、聖杯、銀の弾丸、あるいは猛毒こそが……彼女だ」
〈黒の騎士〉は視界の半分で、座席に横たわる少女の姿を捉える。瀬川夏姫だ。
「彼の者の首には賞金をかけた。大都会だろうと人里離れた大密林だろうと、どこへ逃げようと安息の地はない。
「……龍一……」
〈黒の騎士〉は意識がない彼女の唇から漏れる呟きと、〈王〉の囁きを同時に聞く。
「おかえり、私のバビロン」
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