終末速度

「待ち伏せだ!」

 龍一が警告を発するのと、リムジンが蹴飛ばされたように加速するのと、そして路地からロケット弾が射出されるのは、ほとんど同時だった。精密機械のように寸分の狂いもなくハンドルを握る滝川の手が動き、日本の道路事情に向いているとは言えない車体の長いリムジンが信じられない挙動を見せる。数メートルと離れていない路面でロケット弾が炸裂し、たまたま路肩に停まっていた自家用車が爆風を喰らって転倒する。

 信じられなかった──〈のらくらの国〉や未真名市郊外ならともかく、ここは市の中央近く、きらびやかなオフィス街だ。当然、大通りは控えめに言っても大混乱で、通行人だけでなく交通整理の警官までもが逃げ惑っている始末だ。

 まるで土砂降りのような、銃弾が耐弾装甲で跳ね返る音が車体を揺るがした。音の大きさからして拳銃弾ではない。軍用自動小銃による四方からの一斉射撃だ。

「いかがですかお嬢様。いつも『こんな大仰な車イヤ!』などとおっしゃいますが、このような状況では思っておられる以上に役に立つのではありませんか?」

「ええ、ええ、大したものね!」

 滝川が言うことは大抵の場合正しいのだが、今回もそうだったな、と胸中で頷いていると夏姫に横目で睨まれた。勘が鋭すぎる娘も考えものだと思う。

 リムジンに発砲しているのは全身をフルフェイスヘルメットとボディアーマーに身を包んだ、完全武装の兵士たちだった。素肌を一切見せない完全戦術装具と一糸乱れぬ動きは、人間大の蟻を思わせる。路上やビルの谷間だけではなく、手近なビルの1フロアや屋上からも射撃が始まっている。完全な伏撃態勢だった。

「どうなってる? あいつら、いきなり地の底から湧いて出たのか?」

「もちろん、そんなはずないわ。これ見て」夏姫はタブレット画面をこちらに向けて見せる。ゴミ集積所のダストボックスの中から、軟体動物じみた動きで這い出してきた兵士が通行人の驚愕の目にも構わず発砲を始める一連の動画だった。

「何だこいつら? ウナギか?」そもそもあの兵士たち、戦闘装具の中に詰まっているのは本当に人間なのだろうか。

「種も仕掛けもある手品ね。ずっと待ち伏せしてたのよ、私たちだけを」

 待ち伏せ自体は、むしろない方がおかしいくらいだった。現に〈月の裏側〉の司令部たる〈ホテル・エスタンシア〉だけでなく、そこへ向かう龍一たちまでが総攻撃を受けているのだから。

 しかしオフィスビルの1フロア、ただの運搬用コンテナ、あるいはダストボックスや排気ダクトの中──そんな閉所に他の兵士たちとともに立錐の間もなく詰め込まれ、飲まず食わずで数日間を耐えるなど、どれほど鍛えられた兵士でも困難だろう。

 そう、生身の兵士なら。

(やっぱりこいつら……なのか!)

 根拠は、ない。しかし、同じ臭いがするのだ。波多野仁を殺したあの謎の兵士たちと同じ──生の力に満ち、死を撒き散らす者たちの。

「滝川!」

 夏姫の悲鳴に近い声に龍一は顔を上げ、そして目を見張った。滝川の車は、目指していた〈ホテル・エスタンシア〉の正面玄関を猛スピードで通り過ぎてしまっていた。

 ホテルの正面玄関は蜘蛛の子を散らすような、という形容そのままの光景だった。口元をタオルやハンカチで押さえたホテルの従業員や宿泊客たちが、咳き込みながら転がり出てくる。その遥かな頭上では、あのきらびやかな〈ホテル・エスタンシア〉そのものが夜空を背景に赤々と燃えているのだ。豆が弾けるような軽快な音は、今もホテル内で散発的な銃撃戦が行われているらしい。

「滝川さん、今、ホテルを……!」

「滝川、何とかならないの! どんどんホテルから……百合子さんから離れちゃう!」

 夏姫の声は悲鳴に近かったが、それが困難であることは本人もわかっているだろう。

「お二人とも頭を冷やしてください。あの望月という男は正しい」ハンドルを操る滝川もまた完全に冷静ではなかったが、少なくとも冷静であろうとはしていた。「特に龍一様、あなたは殊の外冷静になる必要があるように見受けられます。〈月の裏側〉からの支援をもう当てにできない以上、あなたには夏姫様の身の安全において責任があるのですよ。〈犯罪者たちの王〉の狙いが他でもない、龍一様、あなたにあるとなれば尚更です。それともヨハネスとやらは、あの燃え盛る建物の中であなたを待っていて、あなたが近寄れば首を差し出すほどお人好しなのですか?」

「……くそ!」

 夏姫は黙り、そして龍一は力任せにドアへ拳を叩きつけた。そうしてもどうにもならないことはわかっていたが、そうせずにはいられなかった。「くそ、くそ、くそ!」

 バックミラーの中で爆発物か、それとも何かの可燃物に引火したのか、一際大きな炎が上がった。数階分のフロアがまとめて吹き飛ぶ。群衆のどよめきがここまで聞こえる。闇夜の松明のように明るく燃え盛る〈ホテル・エスタンシア〉が、みるみる小さくなっていく。

 車内全員の呼吸音が聞こえそうなほどの沈黙を経た後、夏姫はぽつりと言った。「手、出して」

「手?」龍一はそこで初めて血が滲んだ自分の拳に気づいた。「こんなの、放っておけば治るよ」

「出して」

 有無を言わせぬ迫力に、龍一は黙って手を差し出した。夏姫は座席の物入れから湿布と消毒液を取り出す。奇妙なほどの無表情で黙々と手当する様子は、正直なところ泣かれるよりも凄みがあった。さっきみたいに泣かれた方がまだましだとさえ思う。

「……すまん。取り乱した」

 いいのよ、と夏姫が目を閉じて深呼吸する。「私もよ」

 ふと思い当たるものがあった。「夏姫、百合子さんは各報道機関に向けてリークを開始したのか?」

「まだよ。それどころじゃないんだろうけど……」

 まずいな、と思う。マルスを崩壊させた後にその機密情報をリークすることでその背後の黒い地下茎までも一網打尽にする、それが百合子の作戦だったはずだ。〈月の裏側〉が壊滅し、マルスまでもが滅びてしまったらその背後関係を明らかにすることができなくなる。

(いや、それだけじゃない。〈ヒュプノス〉の人格共有ネットワークが壊滅し、無線通信すらろくにできない状況で、各班が場当たり的に眼前の敵へ対処するしかない状況じゃ……)

 この騒乱の全てが〈月の裏側〉の仕業になってしまう──これは後々、痛手になってくるかも知れない。

 だが今は、とにかく追撃を振り切るしかない……。

「滝川さん、人の少ないところへ行ってくれ。戦うにも逃げるにもその後だ」

 了解です、と滝川は制帽を被り直す。「ただその前に皆様──シートベルトを今一度ご確認ください」


「なんか街の方、騒がしくね?」とチョコバナナクレープをもぐもぐ食べながら可乃子。

「結構騒ぎになってるみたいだね。街の方で銃撃戦が起こってるとか何とか……」とブルーベリー&ラズベリークレープをもぐもぐ食べながら真琴。

「物騒だな……ま、さすがにここなら大丈夫じゃん? 流れ弾とか飛んできたらヤだけどさ」と照り焼きチキンステーキクレープをもぐもぐ食べながら佳澄。

「そりゃ誰だってヤだよ……ところでお前さ、なんでそんなオシャレじゃないもん食ってるわけ? クレープでそれ頼むくらいだったら、ドネルケバブでも食えよ!」

「おめえらが食ってるお菓子みてえな代物じゃ腹膨れないんだよ!」

「実際お菓子だろ! 別に腹膨れさすために食ってないよ!」

「二人ともやめなよ……別にそれぞれ食べたいもの食べればいいだろ。なんでそんなことで喧嘩するのさ……」

「ところでかのっち、マジでただ散歩するだけでいいの? ま、私らもあんまりお小遣いないんだけどさ」

 真琴がげんなりしながら止めると、どちらも急にスイッチが入ったように喧嘩を止めるんだからよくわからない。聞き分けがいいというか何というか。

「あー……あんまり詳しくは言えないけど、家の方でマジいろいろあってさ。気分転換したかったというか……つるめるメンツってお前らぐらいしかいないしさ。若い衆に気を遣わせるのもヤだし……」

 それについては真琴も佳澄も「あー」としか返しようがない。「それは……気分転換したくなるかもね」

「まっ、そういうことなら幾らでも付き合うって。私と真琴というマブダチがいる幸運をもっと噛み締めていいんだぞ」

「お前はそこでそっくり返らなきゃもっといい奴なのにな……」

 半目になっている可乃子をまあまあと宥めているうちに、ふと真琴は気づく。「何だかさ、さっきから公園が騒がしくない?」

「何だろうな……どっかのバカ御曹司がフラッシュモブでも始めたかな?」

「うーん、どうもその騒ぎの方向がこっちに近づいているような……」

 公園の正門を吹き飛ばし、一台のリムジンがタイヤを軋ませて園内に乱入してきた。三人は一瞬、顔を見合わせ、そして声を揃えて叫ぶ。

「「「予想外だ!」」」

 リムジンはタイヤを軋ませながら身をすくませる三人から数メートルと離れていない距離を通り過ぎ、逃げ惑う人々を蹴散らしながら水の入っていない噴水に激突して停まった。クラクションが妙に間の抜けた音を鳴らす。

「……何事?」

「さあ」


「……龍一、生きてる?」

「何とかな……それにしても今、ちらっと見覚えのある顔が見えなかったか?」

「奇遇ね。私もよ」

 あの兵士たちがドアをこじ開けようとしている──銃だけでなく、突入作戦に使用する携帯式トーチを構えている。

 龍一の決断は素早かった。すなわち、こじ開けられる前に進んでドアを開けた。龍一の強烈な蹴りで爆発的に開いたドアが、兵士を二人まとめて弾き飛ばす。

「龍一!」

 じっとしてろ、と言い捨てて外に出る。身動きの取れない車内で仲良く蜂の巣にされるよりは、と賭けに出たのだが……さて、これからどうしよう?

 歯噛みしたくなった。龍一の手元に今ある武器と言えば、護身用のカーボンスティックぐらいのものだ。軽くしなやかで、それでいて強靭で、路面に叩きつけた程度では決して折れない──だが、アサルトライフルと対峙するにはあまりにも貧弱すぎる得物でしかない。

 だったらどうする? 尻尾巻いて逃げるのか? 夏姫と滝川を見捨てて?

 思考よりも先に身体が動く。

 構え、そして一挙動で振り下ろす。狙いは身を起こしながらアサルトライフルを構える兵士──の肘だ。兵士たちが車のドアをこじ開けようと距離を詰めていたのが幸いした。接近戦に持ち込めれば勝ち目はある。

 強打。取り落としこそしなかったが、狙いは確実に逸れた。放たれた銃火が龍一の頬をかすめ、公園の散歩道をえぐる。

 手首を返し、兵士の顔面を覆う黒光するバイザーを強打。わずかだが亀裂が生じる。もらった。バランスを崩した兵士の関節をスティックで折り曲げて決め、ライフルを奪い取ろうとした時、何かが龍一のそれを押しとどめた。

 とっさに身を沈めた龍一の頭を衝撃波が激しく叩く。四方から発射された銃弾が、龍一と対峙していた兵士の上半身を引き裂いたのだ。

 こいつら、味方ごと撃ちやがった……!

 訓練を積んだ兵士なら可能なのかも知れないが、実際に自分がその標的になってみるとやはり戦慄せざるを得ない。

 しゅっ、と音がして傍らから白煙が立ち上った。滝川が龍一の足元に発煙筒を投げつけたのだ。ナイスアシスト、という気分になる。だがこのタイミングでの介入は、滝川までも兵士たちの標的になることを意味する。その覚悟を無駄にはできないな、と静かに思う。

 もうもうと立ち込める白煙に、油断のなかった兵士たちの動きがわずかだが鈍った。目眩しの効果はあるようだ。

「やっぱり……龍一、そのバイザーを壊して! 理由はわからないけど、こいつら赤外線視覚でしか目標を認識できないみたい。バイザーさえ壊せれば隙ができる!」

「わかった!」

 バイザーはヘルメットと一体化した強固な軍用規格ミルスペックだ。壊すのは容易ではない──だがそんなことは夏姫も承知の上だろう。

(なら、期待に応えなきゃな……!)

 舗装道の上を転がりながら落ちていたアサルトライフルを拾い、発砲──できない。指紋照合でトリガーがロックされている。だが龍一は怯まない、銃床を振るい兵士のバイザーを叩き割り、手首を返してもう一人の側頭部を砕く。だが最後の兵士が銃口を持ち上げ──夏姫を狙っている、ハッキングに全神経を集中している夏姫は回避する余裕など当然ない、

 間に合わない──

 兵士のバイザーに、べちゃ、と何か柔らかいものがぶつかった。

 一瞬、その場の全員が動きを止めた──龍一も、夏姫も、滝川も、当の兵士すら。

 野球投手のようなフォームでブルーベリー&ラズベリークレープを投げつけた真琴が、そこで我に返る。「…………あ」

 へたり込んだままの佳澄と可乃子が顔を見合わせ、そして同時に言った。

「「真琴がキレた……」」

 そこでようやく龍一が気を取り直す。

 ほとんど這うような姿勢から繰り出されるショルダータックルが、前方の兵士だけでなく背後のもう一人までもまとめて弾き飛ばす。

「龍一!」

 夏姫の悲鳴を聞くまでもなかった。タックルを食らって転倒した兵士だけではない、あの撃たれた兵士が蠢いている。頭を小刻みに揺らし、公園のレンガを剥がさんばかりに爪を立て、踵を擦り付けるようにしてもがいている。それまでの統制の取れた動きが嘘のような異様な姿だった。やはりこいつら、人間じゃないのか?

 そして、真琴と目が合った。自分のこれからすることの馬鹿らしさに気づいた。下手をすると厄介事が倍になるかも知れない──とは言え、最初から選択肢などないのも確かだった。尻尾巻いて逃げるのか? お前の命の恩人を置いて?

 となれば、後は言うことは一つしかない。「……乗れ!」

 龍一も夏姫も真琴も、残る二人の娘も、恥も外聞もなく車内に転がり込んだ。リムジンの車体後部を兵士たちの握る銃床が乱打し、ウィンドウを叩く銃弾の雨が激しすぎる轟音を奏でる。

「出します、捕まってください!」

 リムジンが猛牛のように突進し、ライフルを向ける兵士を人形のように跳ね飛ばした。

「ひいい! ホラー映画は好きだけど、ホラー映画みたいな目に遭うのはやだよおおお!」

「アホなこと言ってないで頭を低くして佳澄!」


「……みんな、無事?」

「なんとか……」

 車が走り出してからしばらく、龍一含めて全員がしばらく息もつけなかった。折り重なるようにしていた三人娘がもぞもぞと身を起こす。

「やっぱりあの兵士たち、只者じゃないわ。戦術ネットワークへの侵入からしてできなかった。通信ポートどころか、プロトコル自体が存在しないみたいに」

「変な話だな。無線通信すらなしに連携をどうやって取ってるんだ?」

「……無線通信そのものをしていない、としたらどう?」

 夏姫のことばについて龍一は考えてみる。妨害も傍受も一切意に介さず連携して戦闘行為を行える部隊──もしそんなものが存在したとしたら。おそらく、通常の歩兵では太刀打ちできないのではないか。

「でもおかしいの……彼らの視野情報はほとんど赤外線か熱視に頼っているみたい。だから妨害撹乱も可能なの、それこそさっき龍一が使った煙幕程度のものでね。どうしてかはさっぱりわからないけど……」

「それもまた変な話だな。わざと狙われやすくしてるってことか?」

 兵器のことはさっぱりわからないが、設計者がそんなわかりやすい弱点をそのままにしておくものなのだろうか。

「あの……さ、お二人で納得してるところ悪いんだけど」真琴がおずおずと口を挟んでくる。「どういうことなのか、説明する義務があると思いません?」

「道理だ」「道理ね」意図せず夏姫と同時に言ってしまう。

「うお、運転手さんや! イケメンの運転手さんおる!」

「……龍一様、そちらのお嬢様に座るよう言っていただけませんか。安全運転を心がけてはおりますが、万が一ということもありますので……」

 食いつき気味に運転席を覗き込んでいる佳澄に、滝川が本気で困惑している。

「『乗れ!』って言われたから有無を言わさず乗っちゃったけど、僕ら乗ってよかったのかな?」

「そうよ、ただでさえお尋ね者なのに、さらに誘拐罪まで上乗せされちゃうじゃない。龍一、ちゃんと謝っておくのよ」

「すみませんでした……いや、どうして君だけ他人事みたいな顔してるんだ?」

 穴が開きそうなほど龍一の顔をまじまじと見つめていた可乃子がいきなり身を乗り出してくる。「お前、あのでかぶつだよな? 前にあたしを助けただろ?」

「……なんでわかった?」

「あの兵隊どもを薙ぎ倒した動き見てたら一目瞭然だろ。どんな仕組みかはよくわかんねーけど、あんな変態じみたスピードで動ける奴、世の中にそうそういねーよ」

「俺は変態なのか……」

 龍一ってつくづく嘘が下手よね、と傍らの夏姫まで半目になっている。

「可乃子こそどうして龍一さんを知ってるんだよ? そもそもそのでかぶつって呼び方何?」

「新田こそ、このでかぶつと知り合いなのかよ? 虫も殺さねえような顔してんのに」

「待った待った、それ言うなら、ハロウィンの時に会ったお兄さんお姉さんだよな? なんでこんなところでアクション映画みたいなことしてるわけ?」

 一斉に視線が集中し、龍一は焦った。「説明すると長くなる」

「「「それだけ?」」」三人娘の声が重なる。

 佳澄が眼鏡のブリッジを押し上げながら口を開く。「ところで、結局このお二人さん……どういう関係なのかな?」

 可乃子が愕然とした顔でその顔を見る。「お前……一丁前に恋バナとか興味あったのかよ? やめろよ、そんな急にまともな人間らしいムーブすんの……びっくりするだろ……」

「普段からどういう目で私を見てんだよ?」

「いや……そこからして、長くなる話というか……」

 思わず歯切れが悪くなる龍一を放置し、夏姫はにこやかに言う。「共犯者パートナーよ」

「………………は?」

「だから、共犯者パートナー

夫婦パートナー!?」

「そうよ」満面の笑みを浮かべる夏姫に、龍一は本気で頭を抱えたくなった。三人娘の視線まで心なしか冷たくなっている。

「龍一さん、夏姫さんってもしかして天然気味なのかな?」

「俺もそう思い始めたところだ……」

「ええ……差し出がましいようですが龍一様、まずはこちらのお嬢様方を安全な場所まで送るべきかと」

 もっともな提案ではある。むしろ、けちの付けようがない正論と言ってよい。夏姫の台詞ではないが、自分たちの面倒を見るだけでも精一杯なのに真琴たちを連れての逃亡生活など馬鹿げている。

 だが龍一は考え込まざるを得なかった。今のこの街に安全な場所などあるのか、という疑問はさておき、その後は? その後、俺も夏姫もどうしたらいい? どこへ行けばいいんだ?

「〈のらくらの国〉はどうだろう」

「……悪くないわね」夏姫は数秒ほど吟味してから頷いた。「教育に悪い逃亡場所であることを除けば」

「一番教育に悪いのは俺たちだろう」

「俺『たち』って言わないで。……あーあ、これで私も見事にお尋ね者の一味か」

 隣席の真琴がおずおずと聞いてくる。「あの……話だけ聞いてると、この騒動の原因ってお二人にあるように聞こえてくるんですけど」

「縁もゆかりもないとは言えないな」

「正確に言えば、喧嘩を仕掛けて、今思いっきり殴り返されている最中よ」

「君たち、おかしなことになったけど……ひとまずは俺たちを信じてついてきてくれるかな。俺たちが信用できる人間かどうかは、まあ、信じてくれとしか言いようがないけど」

 佳澄がずいと身を乗り出してくる。「なー真琴、この兄ちゃん姉ちゃんは信用できる人なのか?」

「裏切る人じゃないと思う……犯罪者だけど」

「返す言葉がないわね……」

「ま、真琴が言うんなら大丈夫だろ。真琴はあたしの親友ってことは、見る目も確かだからな。じゃ運ちゃん、ひとっ走り行ってくれや」

「ふんぞりかえらないで? タクシーじゃないんだよ?」

 こちらのお嬢さんも結構な大物ですね、と運転席の滝川が苦笑する。「話はまとまったということですね」

 車が走り出す。

「みんな、何か飲む?」

「それじゃ……オレンジジュースで」と真琴。

「あたしは水でいいや……」ややげんなり気味に可乃子。

「あ、じゃ、あたしは梅酒ロックで」

「佳澄?」

「わ、悪かったよ真琴! 何も一瞬で目を三角にすることないだろ! 緊張感をほぐすための軽いジョークじゃないか!」

「むしろお前は緊張感足りねえよ」

 おかしなことになったな、とは思う。だが一方で、龍一の中に何とかなるのではないか、という一抹の望みが芽生えたのも確かだった。崇や百合子、テシクたちの安否を現状では確認しようがない焦燥までは消しきれなかったが……。


 そんな龍一のささやかな希望を打ち砕いたのも、肝心の〈のらくらの国〉だった。

 元は放棄された魚河岸市場に建てられたプレハブ住居と、つみかさなったコンテナで作られた市街を、いわくつきの住民が歩き回り、怪しげな品が取引され、広場では豚が丸焼き(!)にされている──そんないつもの〈のらくらの国〉を想像していた龍一の予想は、早くも裏切られた。

「おいでかぶつ、だいぶ話が違ってきてないか? 安全なところへ逃げるって話だったろ、なんだって戦争の真っ最中なんだよ?」

 傍らの雑居ビル、その窓という窓が全て炎と爆圧で吹き飛んだ。連続射撃音に引き続き、腹の底から響く鈍い爆発音。最上階から誰かが燃えながら身を乗り出し、絶叫とともに真っ逆さまに落ちて路面へと叩きつけられた。燃え盛るビルの中へ自動火器を乱射しながら突入していくのは、あの物言わぬ兵士たちだ。

「どういうことだ? あいつら、俺たちだけじゃなく自分たちのインフラまで攻撃してるぞ?」

 違う──直感にぞくりとする。

「やられたわね……〈犯罪者たちの王〉は私たちを叩くついでに、マルスもリストラする気なのよ。資金・設備・人員ともに大ダメージを受けた組織を無理に立て直すよりは、跡形もなく壊して一から作り直した方がいい……是非はともかく、筋は通っている」

「俺たちが思うより、マルスはヨハネスにとって重要じゃなかったってことか」

「一人で納得してるところ悪いけど、龍一さん、これ結構まずくない?」

「言われるまでもないよ……」

 銃声や爆発音に比べればひどく呑気に聞こえるクラクションの音が響いた。外を見ると、よく動くなと感心してしまいそうな骨董品もののトラックが前方から近づいてくる。

「龍一様、どうもあのトラックはあなたの知己のようですね。不愉快な用事ではないようですが……いかがいたしますか?」

「話を聞いてみよう。ただし、油断しないでくれ」

「てめ龍一、お前らまた何かおっぱじめやがったな!」

 トラックの助手席から煤けた顔を出したのは、あの武器商人のチャオ安国アンクウだった。

「やあ趙さん……『また』ってのはひどいな。俺たちが全部悪いみたいじゃないか」

「原因はお前たちに決まってるだろ! マルスだろうが〈月の裏側〉だろうがお互いに不干渉でやってきたんじゃないか。騒ぎを起こす奴らが他にいるかよ!」

 放り投げられたものを反射的に受け取ると、秘匿回線用の使い捨て携帯電話だ。〈のらくらの国〉では珍しくもない代物で、盗聴も傍受もできないが一回分、数分間しか喋れない。

「林って野郎から電話だよ……お前に直接だとさ。夜逃げするのは構わないが、こいつをお前に渡してからにしろとよ。まったく、人を丁稚扱いしやがって」

「林って、リム永生エンセンのことか? でもどうして?」

「知らねえ。知りたくもねえ。同じ中国人だから仲が良いってわけでもねえんだ」

 それはそうだろうが。

「じゃ、確かに渡したからな……おい、出せ」運転手に命じると、トラックは走り去った。

「もしもし?」

【やあ、相良龍一先生さん。お元気そうで何よりです。それにしてもやってくれましたね……あなたも、〈月の裏側〉も】

「何のことかわからないとは言わないが、全部を俺たちのせいにされても困る」

【でしょうね。ですが、今となっては責任の所在などどうでもいいのかも知れません。私たちも店じまいですよ】

「〈ヒュプノス〉が回収できなくなった以上、もう用はないってか」

【はは、そこまでご存知なら話が早い。私が滞在する理由の大半が消失してしまいましたからね……完全撤退とまでは行きませんが、国内の資産はほぼ引き上げです。次に来られるのはいつの日になるやら】

「ずいぶんと正直だな」

【餞別代わりとお思いください。そうだ、もう一つ教えて差し上げますが、龍一さん、あなたご自分で思われている以上に厄介なことになっていますよ】

「言われるまでもない」

【いいえ、おそらくはよくわかっていらっしゃらない。私があなたなら、そこから後も見ずに逃げ出しますね。もう一度お会いできるかどうかは何とも言えませんが……ですが、やはりこう言っておきますよ。再見ツァイツェン、と】

「おい、何が来るって……」

 林が通話を切ったのか、それとも別の理由で通話が途絶えたのか──龍一にはわからずじまいとなった。


 次の瞬間。

 

 


 洗濯機の中の衣類のように天地が逆転した。誰が悲鳴を上げているのかも定かではない。気がつけば、シートベルトのせいで逆さ吊りにされた上、エアバッグと座席のサンドイッチになっていた。ドアは歪み、クラクションが鳴りっぱなしになっている。

「皆様……外へ!」

 滝川に言われるまでもない。龍一が真琴を、そして夏姫が佳澄と可乃子を抱いて車外へ転がり出る。そうするしかなかった。たとえ防弾防爆だろうと、ビルやコンテナの倒壊で生き埋めにされてしまえばそこで詰みだ。

「滝川さん、無事か?」

 もうもうと立ち込める粉塵の向こうから切れ切れに声だけが聞こえる。「私は大丈夫です。お気をつけください……今のは何らかの攻撃です!」

 冗談だろう、と思う。輸送用コンテナを丸ごと一つ投げつけてくる『攻撃』だって?

「真琴、立てるか?」

 平気、と龍一の手に掴まって立ち上がる真琴の足取りは意外にもしゃんとしていた。冷静というより、驚きの閾値が振り切れてしまったのかも知れない。もう少し何か励まそうと口を開きかけた時、何か──ひどく危険なものを感じた。

 次の瞬間、

「……は?」

 ひどく間の抜けた声を漏らしてしまった。まるで巨人の掌で真上から押し潰されたかのように、ぎりぎりと耳障りな音を立ててリムジンのボディがへこんでいく。ウィンドウが粉々に砕け、タイヤが破裂し、ホイールは外れて転がって路上でからからと転がった。龍一たちを乗せてきたリムジンは、今や残骸ですらない、平たい金属板と化そうとしていた。

 信じられなかった──

「龍一さん、僕、目がおかしくなったのかな……」

 真琴が妙に白っぽい顔で一点を示してきた。龍一はそちらを見、そして真面目に返した。「安心しろ。君の目は正常だ」

 暮れなずむ夕闇の空を背景に、まるで虚空から湧き出してきたかのように。

 男が一人、宙に浮いていた。

 奇妙なことに、男の両目は黒の目隠しで覆われているにも関わらず、龍一にはそいつがこちらを注視していることがはっきりと感じ取っていた。

 

「浮いてる、な……」

「浮いてるね……」

 二人が息を呑む中、その男は糸で吊られているかのように、音もなく路面へ降り立った。

 平時に見たら失笑していたかも知れない光景だ。手の込んだトリック、何らかのイリュージョン、疑おうと思えばいくらでも疑える。だがこんな状況で、そんな仕掛けを弄する必要がどこにあるのか。

 何より、龍一の勘が告げているのだ。と。

 ガウンにも似た、ゆったりとした黒一色の服を着た男だった。それが裁判官の着る法服であることぐらいは、龍一にもわかった。

 長身の男だった。背は高く筋骨たくましく、龍一とほぼ変わらない体格の持ち主だ。服装そのものはおかしくなかった――なぜそんなところに裁判官がいるのかという点を除けば。

 いや、それならなぜその両目が黒い布で塞がれているのか。なぜ手に青銅製らしい古ぼけた天秤を掲げているのか。煤けた、壊れていないものの方が少ない破壊の光景の中で、その男はあまりにもきちんとしすぎて見えた。シュールレアレズムの絵画にも似た姿だ。

「……私は、あなたがたを裁かない」

 男が口を開く。なぜかその声だけは、はっきりと耳に届いた。

 法服の男が高々と掲げた天秤が甲高い唸りを上げる。まるで泣いているように。

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