第6話 言えてなかったんですよ。家内には。

「あんなことになっているとはおもわなかったよな。」

夫と私は二泊三日の温泉旅行を楽しんで帰路についていた。ゴールデンウィークに運良く予約できた民宿は老夫婦が営んでいて、ひなびた感じが心地よかった。浴室は小さかったが、囲炉裏があり野趣あふれる食事を堪能できた。しかし、聞くと、近年源泉の湯量が減り、それをカバーする売りとして近隣に岩盤浴の施設を持つ宿が増え、客の多くはそちらに流れているという。後継者のいないその宿は、今後の経営を考えた末、今シーズンで廃業を決めたのだそうだ。

「ああいうアットホームな宿もいいのにね。でも、なくなる前に行けてよかったじゃない。岩盤浴に興味がないわけじゃないけど、そんなのあの場所じゃなくてもいいし。」

レンタカーからわずかな荷物とお土産を下ろしながら、私たちは3日間を振り返った。

「さて、コーヒーでも入れようかな…」

私は落ち着き体勢に入ろうとしていた。

「ああ、僕、先に車返してくるよ。…ねえ、君、疲れてるかもしれないけど、ちょっと付き合ってくれないかな。報告したいことがあるんだ。」

報告?いったい何の?

「なんなの?言いたいことがあるなら旅行の間にいくらでも時間あったでしょ。おかしな人。」

しかし、まあ、いいからいいからと助手席に押し込まれた。何がいいのだろう。ところが、駅前のレンタカー屋で返却手続きをするところまで、夫はその報告とやらを何も口にしなかった。

車を返したから、この先は徒歩となる。自宅の方向に戻るのかと思いきや、夫は別の道を選んだ。どこへ連れて行かれるのやら。あれ?この道は…

「ここでコーヒー飲もうと思って。」

私たちはあのブックカフェの前にいた。前を行く夫は、ドアの取っ手に手を掛け力をこめて一発でドアを開けた。力加減を知っている。ということは、何度かこのドアを開けたことがあるということだ。ここで、夫と会ったことはない。いつここに寄っていたのだろう。

「こんにちは!」

夫ははっきりした声でマスターに声を掛けた。かなり常連ぽく映る。

「ああ、珍しいですね、昼間だなんて。」

「ええ、休日ですし。…ああ、家内です。」

カウンターに近づいた夫は私を振り返った。その瞬間、マスターは小さく頷いた。

「こんにちは。…あの、この人、こちらによく来るんですか。」

「ああ、奥さんですか。それはどうも。ご主人は…まあ、時々いらっしゃってますかね。」

マスターは少し曖昧に返事をした。

「あの、ホットコーヒーを。」

「私も。」

と、注文してカウンターの席に座ろうとした私たちに向かってマスターは、

「あちらへどうぞ。」

と、言いながら、首を伸ばして頭をぐるっと回した。視線の先と思われる方向には背の高い観葉植物があった。まさか…あの席かしら?

その席だった。夫と一緒にこの席に座ることになるなんて思ってもみなかった。なんだか落ち着かない。

「ここって、ブックカフェよね。ちょっと、本棚見て来ていいかしら。」

私は立ち上がった。そして、一人のときとは違うコミックの棚に向かった。しかし、手に取ることはせず、ただ背中の文字を目で追った。

まもなく、カウンターの跳ね台を上げる音が聞こえた。私たちのコーヒーが用意できたのだろう。振り返ったとき、背中に電気の走るような感覚を覚えた。あの人の席に、あの人の佇まいがあった。そこへ向かうマスターの後をついて行く。

「お待たせしました。」

マスターが声を掛けたのは、もちろん夫にだった。

「あ、どうも。あの、これどうぞ。」

夫は小さな紙袋をマスターに渡した旅行先の地名があちこちに印刷された袋だ。

「小旅行に行って来たんですよ。いつも無理聞いてもらってるんで。」

「これはこれは…そんな気を使わなくてもいいのに。ま、ありがたく頂戴しますよ。」

マスターは紙袋を受け取って、片手で握った持ち手を自分の目の高さまで持ち上げてお礼の姿勢を取った。

「でね、ついでって言うか…報告なんですけど、合格したんですよ。例の資格試験。」

なんだろう、この展開。報告というのは私にではなく、この人に対してだったの?ポカンとしている私とは対称に、マスターは満面の笑顔を夫に向けた。

「おめでとうございます。よかったですね。私が言うのもなんですが、ある程度のお年になってからの勉強は骨が折れますからね。奥さんもご心配だったでしょう。」

急に奥さんに振られて、私はどんな顔をしてよいか困った。そして、困ったのは夫も同じだった。

「言えてなかったんですよ。家内には。自信がなかったんで。だから、ここで勉強してたのも残業だって言ってて。」

夫は頭をかいた。

「でも、あ、いや…それじゃあ、今全部お話になってはいかがですか。…ごゆっくりどうぞ。」

マスターは私にだけ見えるように顔を向け、いたずらっぽく笑って戻って行った。

コーヒーの香りの中で半年間の話を聞かされた。正直、それは初めと終わりだけでよかった。そして、私が言えることは、その半年間、私は夫に恋をしていたのだ。でも、それは言わない。


「ここ、いいお店よね。私も時々、仕事帰りに寄ってもいいかしら。」

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ブックカフェにて カミノアタリ @hirococo

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