やさしい女
merongree
やさしい女
けたたましい女の笑い声が響いた。倒れたままで笑うと、血のついた乳房や腹の肉が引き連れて震えた。ロマは血だらけの女が、よくああも大声で笑えるものだと思った。表通りで馬車に轢かれた後、そのまますぐに死ぬかと思ったのに。
「ナスターシャ、笑いすぎよ」
女の側でしゃがみ込んでいたフィービーがたしなめた。
「ひとの旦那のこと指してさ、まったく失礼しちゃう」
ナスターシャと呼ばれた女が、大きな緑色の目をあえぐように開いた。今やそれが、彼女が自らの意志で出来る精一杯の仕草であるらしかった。
「だって、あんたがあんな小さな子供を相手にするなんてさ」
フィービーは黙って彼女の手を取り、いつも通りの緩慢な仕草で、自分の豊かな黒髪を包んでいるショールのなかへと押しやった。彼女に食べられてしまうに緩慢な彼が、大柄な女に手を差し伸べる仕草に、まるで病気の妹にでも対するような、痛々しいばかりの労りが滲むのを、ロマは痛みに似た衝撃を感じつつ見た。
フィービーに友達なんかいないはずだった。ましてこの女ときたら彼の友達どころか、亡くなった彼の母親に近い年齢にも見えた。
フィービーは俯いたまま、女の手を頬にひたと当てて言った。
「僕だってまだ子供でしょう、違う?」
「はいはい、そうでございました。でもあんたはお年寄り専門なんだとばっかり」
「お姉さんたちに若くていい男は取られちゃうの。だから仕方なく」
「仕方なしに?」
そう言った時の女の目に、鮮やかな共犯の笑いが虹のように掛かるのをロマは見た。彼は内心、年増の女にこのような目つきが出来ること自体に、雲間に虹を見たような驚きを感じた。
「そう、仕方なく――、誰も取らないような、一番若い男を貰ったってわけ」
「お似合いだわよ」
「でしょう、同い歳かもしれないのよ。でも、あのことはまだ知らない様子よ」
そう言って彼女たちは、同じ巣にいた狼たちらしく肩を寄せ合って笑った。
(……まただ、早く、)
ロマはフィービーが、このように女と長々と話す時が苦手だった。道端に立っている彼女たちから漂う香水の匂い、顰めた話し声、傷ついた動物に対する獰猛なまでの愛着、蹴とばすような笑い声。ちょっと叩いただけで、発条が弾けるように飛ぶ悲鳴、大雨を想像させる暗い怒号、森の土のような濃い血の匂い……彼女たちから漂うもので、彼が苦手に感じないものはなかった。
(早く帰ってくればいいのに、)
ロマはそう思いながら、彼の相棒から三歩後ろに立ち続けた。長い黒髪をショールに包み、顔を半ば隠してはいるものの、彼の相棒は必ず少女に間違われた。フィービーは少女の群れに勝つほど、あるいは娼婦の群れに交じっても目立つほどの美貌を持っていたが、ロマはそのこと自体は、相棒が喧嘩の強い少年であるかのように嬉しかった。彼は美しさが一種の力であることを、相棒の振る舞いを見て知った。自分が持ちようのないその力に服従することは、ロマの少年としての本能にむしろ適っていた。彼は相棒を助けつつその我儘に従った。
しかしこんな風に、彼がふと女の群れに帰ってしまうことがあり、その時は不安で仕方がなかった。あの女たち特有のさざめき笑い。黒い瞳の美貌よりも、しなやかな身体の線よりも、顰めた笑いこそが、フィービーを恐ろしいほど女めかしく見せるのだった。このまま放っておけば、彼は女になってしまい戻って来ないのではないかという不安がロマを襲った。
背後にいるロマの焦れた様子を見て、ナスターシャが声を立てて笑った。そして喉に何かを詰まらせた。ロマが面白くないことに、フィービーはすっかりあちらの側にいて、
「大丈夫? ナスターシャ……」
と言って彼女の頬に触れた。しかし次に言った言葉はいかにも酷薄な彼らしかった。他方でその言い方には微妙な優しさがあり、どうやらそれは彼女たちの間でのみ通じる符牒の温もりらしかった。
「もう死ぬってわけ?」
ナスターシャは胸で息をするようにぐふっと笑った。
彼女はつい先ほど、往来に飛び出して馬車に跳ねられ、桃色の衣装を馬の蹄に割かれ、御者に罵らされ、潰れた果物のように倒れたばかりだった。そして野次馬の間から飛び出してきた少女が、自分に駆け寄って来るのを彼女は見た。そして同じ巣に暮らしていた少年だと分かると、彼女は懐かしさと小憎らしさで歓声を上げた。しかしすぐに鞭打たれるような痛みが彼女の全身を襲い、その声は悲鳴に変わった。
もう死ぬのか、という子供の小憎らしい問いかけに、この豊満な肉体を捨て損ねた娼婦は苦々しく笑って、
「そのはずだったわ、」
と言った。彼女たちの上に、彼女たちが独占しているかのような青空が広がっているのをロマは見た。
(ちぇ、面白くねえや……)
そう思いつつ、ロマは相棒を娼婦から引き剥がすことが出来ず、離れた所で待ち続けた。
彼はフィービーが、倒れている女の元に駆け寄った時の光景が忘れられなかった。悲鳴、馬の嘶く声、御者の怒号、鋭い車輪の音。無残に砕けた果物、それが潰れきり、汁が出て腐りきるまでを息を殺して見つめる人々。ふいに出来た無言の人々の温かくて厚い壁。
ロマとフィービーは偶々、通りにいて人混みに紛れたのだが、人々の隙間から倒れている女の顔を見るや、フィービーが矢のように飛び出したのにロマは驚いた。日頃滅多に物も言わず、身動きも緩慢で、作り物のように精巧な顔をしていることから「お人形さん」という渾名を持つ彼が、手負いの動物ように一心に駆けていくのを、ロマは半ば好奇心に打たれつつ見送った。実際、一年ほど一緒に暮らしてきて、彼が走るのを見たのはそれが初めてだった。
そして今――この潰れた果物たちが親し気に話す様子が、ロマには何かやりきれなかった。彼女たちがいるその場に、自分の身体が何かとてつもなく不似合いな気がした。なぜ自分がそう感じるのかは自分で分からないまま。
「あんた、ねえあんた」
ナスターシャが、ふいに高い声でフィービーを呼び寄せた。その緑色に近い頬の色が示すように、彼女の寿命がもう残り少ないせいなのか、単に何かに気がついた昂奮のせいなのか、どちらとも取れるような声だった。
「なあにナスターシャ、」
フィービーはロマが聴いたことのない優しい声で言った。
「見違えたのよあたし、あんたって子はずっと……子供は駄目なんだと思ってた」
フィービーは微笑み、ナスターシャの厚い手を頬に当てたまま首を横に振った。
「違うの、僕が駄目なんじゃないの、あちらが僕を嫌うの」
「あんたの顔、ちっとも子供に見えないものね」
「それでソンすることも、トクをすることもあるわ」
「で、どうするのあんな子供連れて――」
そう言って彼女たちは同時にロマの方を見た。やはり母子ほども歳が離れていそうな顔には、同じ眼差しの目が揃いの宝石のように嵌っていた。
「お金、ないじゃない」
「近頃じゃ貰ってくるのよ、僕の半分ぐらい」
「身寄りもないんでしょ、孤児の男の子なんか、」
「大きくなれば女の子よりも役に立つわ」
「あんたまさか、まさかとは思うけれど――」
彼女はフィービーの掌をぎゅっと掴み、遊びのように血だらけの指を順に絡ませた。
「ただの子供に戻ろうっての?」
フィービーはぐすっと喉の奥で笑った。
「おかしなことを言うのね、ナスターシャ。僕はこれからどんどん大人になっていく、もう子供になんか戻れっこないのに」
「そうよ、あんたはとっくに大人だった。十二になったら女の子は大人も同然だけれど、あんたはそうやって私らの仲間入りをしたし、近所の子供からは石投げられてたじゃない」
「そうよ、それで僕も『自分の身は自分で守らなくちゃ』から、『誰かに守ってもらわないと』に考えを変えたんだわ。お姉さんたちに教わって、『旦那』を手に入れるっていうことを学んだというわけ――」
「それが、アレ?」
そう言って、ナスターシャは大きな目をごろりとロマの方へ向けた。フィービーは初めて彼がそこにいるのを知ったかのように、ちょっと肩をそびやかしてロマを見た。
その仕草が、ロマの目には棘を刺されたように痛かった。顔が美しかろうと、人目を欺くために女言葉を使おうと、乱暴な遊びが何一つ出来なかろうと、ロマが愛するのはあくまで少年のフィービーだった。しかしこうして自分を見返る時の仕草を見ると、彼が遥かに女の岸にいるのを感じずにはいられなかった。あんな風に振り向くことが出来る少年など他にもいるのだろうか。
「そうなの、アレが」
わたしの旦那さんよ――と女言葉で言い、フィービーは彼の大事にしている袋から、鮮やかな金貨を取り出し、ナスターシャの血のついた乳房の間に挟んだ。女の脂で滑って落ちかけたのを拾って、二枚も詰めた。
「貸しにしとく、僕はこの通りいまシアワセだから」
ロマが知る限り、『シアワセ』というのは彼女たちに通じる隠語で『お腹いっぱい』とか『客を待たせている状態』とかに使われ、一時的な充足を示す言葉だった。
「ありがと――でも『約束破り』になっちゃうかも。だってこの通り、あたし、死ぬのかもしれないわ」
「死にゃあしないわよあんたは、そのオッパイがある限り」
そう言って彼女たちはまた身体を寄せ合って笑った。
(何だ、そういうことか――)
ロマは背後で聴きつつ、二つの白い乳房を見てつくづく納得した。その乳房にはまだ傷がついていなくて、どうやら無事らしかった。彼はこの少女のような少年と暮らすうち、何やらただの生身の女性に対する慾を殺がれてしまった感があったが、この時もこの他人の堆い乳房を、「あいつが金を貸す確かな担保」として平気で見つめていた。
フィービーはとてもけちだった。金を何よりも――ともすれば石運びの仕事の給料をちゃんと渡すロマよりも大切にした。わけても彼自身が稼いでくる金の扱いに対する丁寧さときたら、臆病と言ってもいいぐらいで、まるで世話をしなければ死んでしまう雛のように思っているかのようだった。
その彼があっさりと、昔の朋輩とは言え他人に金を貸す、というのも奇妙な話ではあったのだが、フィービーがそれを乳房の間に埋めたのを見て、彼は単にその肉の値打ちを見込んでいるだけのことだと分かり、ロマは内心密かに「やはりあいつのやることに間違いはない」と見直した。
ロマは元々、浮浪児で友達同士で塒を構えて暮らしていたから、単独行動をしなくてはいけなかったフィービーと違い、それほど知恵というものを生活に必要としていなかった。しかし彼と相棒になり、共に生活するようになって考えを改めた。
彼らは他人の「優しさ」というものを信用しなかった。子供二人で暮らす時、何よりも重宝するのは「自分たちにとって(どのような意味でも)安全な大人」だったが、「そんな物はこちらで狙いをつけて征服してしまわない限り存在しない」というのがフィービーの説で、ロマの実感としてもその通りだった。
彼ら自身で手に入れられる物で、最も信頼できるのが「金」であり、「優しさ」などは信頼していいもののに入らなかった。むしろ身寄りのない子供に、大人がむざとくれる「優しさ」ほど、後で危険がつき纏うものはないことを、彼らは生活してみて悟った。
「『お気持ち次第よ』――負けとく」
どうやら利子のことまでフィービーは言い添えているらしかった。これも、「ただで優しくしても損にしかならない、親切にしてやる時はこちらが上に立たないといけない」という彼のいつもの説の通りだった。
(何だ、あいつ、すっかり女みたいになっちまったかと思ったけど――)
とロマは密かにすっかり安堵した。
(トモダチじゃなくて、獲物を見つけたっていうだけか、それで、あんなに)
「なあに豪勢ね。余裕じゃないの、あんな子供捕まえて――」
ナスターシャはナスターシャで、フィービーの子供連れを笑う余裕があるらしく、たっぷりと肉のついた胸と腹を揺らして笑った。
「そうよ、確かにまだ子供だけれど、あの子とっても、」
とフィービーは女の手を固く握ったまま、またあのやり方で振り返った。
「優しいの」
男たちはわっと身体を震わせて一斉に笑った。彼らがそれぞれに腰を下ろしている粗末な椅子が、軋んで割れそうな音を立てた。
「だから、早く帰んねーと、」
「『女房に怒られる』っつうんだろ、――」
そう言って彼らは地鳴りのような笑い声を立てた。彼らにとっては、息子や孫のような少年が、大人のように女房に怯えて、酒を飲まずに帰ろうとするのが可笑しくてたまらない。
「そうだよ、何度も言ってんじゃん」
「まあそう堅いことを言うな」
「ロマ、お前今いくつ」
「十二、」と、彼はそれを一人前であるしるしのように胸を張って言った。
「うわあ、ガキだな」
「生まれたばっかだ、まだ赤ん坊じゃねえか」
「ほらベビーちゃん、たんと飲まないと母ちゃんに怒られんぞ」
「女房なんて放っときゃあいいんだんなもん、男の付き合いがあるってんだなあ、」
「こいつガキのくせに全然酔わねえんだ、なあ、ロマが一番強えよなあ、」
ロマは黙って自分のコップに注がれる酒の表面を見つめた。実際、ロマは体質的にべらぼうに酒が飲めるたちで、自分よりはるかに体格の大きな男たちを潰すことが出来るのが、彼自身面白くもあった。
(いーや……、ちょっとぐらい、飲んだって別に変わらないし)
彼が椅子に座ると、男たちが喝采した。実際、彼は男の雛として、大人たちにとても受けが良かった。
「赤ん坊じゃねえよ、俺現場でおっさんたちと同じ仕事してるし、」
「そうそ、『飲む、打つ、買う』だな」
「『買う』はまだだろ、おめえと一緒にすんなって、『女房に怒られる』う――」
「女房なんか怒らしときゃいいんだ、んなもん」
「女房ってさ、」
とロマは注がれた酒をがぶりと飲みつつ尋ねた。
「分かんねーんだけど、何であんなにいつも怒ってんの?」
男たちは危うく笑い死にそうになった。
「なんだ、そんなに怖えのか、お前の母ちゃん」
「うん、家だと寝てるか、それかいつも怒ってる」
「お前が浮気したからだな、どっか他所の女と」
「してねえよ、俺女なんか大嫌いだ」
そう言った後に、ロマはひやりとしたのだが、男たちが笑ってろくに聞いていないらしいのを見て安堵した。
「じゃ稼ぎが少なすぎるってのか」
「いやあ分かるうー、ロマ、俺っちもよく身に染みて分かるよオー」
「あいつに渡すと知らないうちに減ってるんだ、だからどんだけあっても足りないと思う」
実際、ロマには「フィービーが渡している先」に多少の心当てがあったのだが、フィービーがはっきりとそれを教えることはなかった。ロマは複雑な思いを抱えつつそう言ったのだが、男たちの誰もそこまでは読み取らず、ただ笑いの渦が起こっただけだった。
「お前が殴るからいけねえんだな」
一人がそう言うと、彼らの笑いがふと弱くなった。ロマはその訝しがりつつも、正直に、
「あいつ喧嘩弱すぎるもん。皆のなかで一番弱かった。弱すぎて殴る気にもならん」
と言った。やや遅れてこの発言も皆に笑われた。ロマはまるで自分の女房を、少年のように思っているみたいだったから。
「じゃ分かった、あれだな、おい」
と言って男の一人が、羽搏くような動作をした。それだけで一部の男たちは湧くように笑った。ロマはその滑稽な仕草の意味が分からずに黙っていた。
「抱いてやらねえからよ」
ロマがぽかんとしている間、彼らは火を噴くように笑い出した。彼らは酒に酔うのと同じ程度に、何も知らない子供を囲んで笑うことが娯楽であるらしかった。
ロマは黙って、男たちが楽しそうに笑うのを見送った。娼婦たちの籠ったような笑いとも違う、男たちの身体の全組織を揺さぶる笑いを見て、ロマはどちらとも、自分の身体は違っているらしいと感じた。
ロマは男たちに何と言い返したらいいのか分からず、黙ってコップを握りしめた。
日も暮れて薄暗い家のなかで、ロマはフィービーに向かって両手を突き出した。
「何それ、」
と、ロマの「女房」であるフィービーは訝しんだ。彼らはフィービーの入れ知恵で、小屋を借りる時に人前で「夫婦」と名乗っていた。彼曰く「親のいない少年二人だと余計に警戒されるの。ただ暮らしてるだけでも、似たような少年の巣になると思われるから」ということだった。彼らは「孤児」と名乗るよりも「夫婦」と言い張る方が、彼らにとって都合のいい憐みを得ることが出来た。
実際、彼は相棒の少年を大切にすることについて、「女房に怒られる」という言い訳がとても便利に通じることに驚いた。なぜ共に暮らすようになったのか、なぜフィービーは外に出ないのか、いちいち説明などしなくとも、ロマはただ笑われるだけで、彼の愛する少年のいる家に帰れた。
「いいから来い、ほれ」
フィービーは、幼い子供が木によじ登るようにロマの腕によりかかった。それから、何やら慰めるようにロマの背中に手を回した。
「これでいいの?」
(何かオッサンたちが言ってたのと違う気がする)
ロマは内心そう思いつつも「うん、よし、捕まったか」と言った。フィービーはただ「うん、」と言った。
「しっかり捕まってろよ、それ」
と言い、ロマはフィービーを抱き上げた。そして彼を抱きかかえたまま、粗末な床の上をふらふらと四、五歩歩いた。それから床に穴の空いていない場所まで着くと、どさりと女房を下ろした。
「はあ……やっぱり赤ん坊と同じわけにはいかないか、お前小さいけど、」
「何やってるの?」
「抱いてやってる」
と彼は正直に言った。彼はその途端、フィービーが微かに眉を顰めたのを見た。
「あの人たちに、何か言われた?」
(もうばれてる)
彼は内心焦りつつ、「まあ、そんなとこ」と言い、それから女房の機嫌を取るように袖の下に両腕を入れてそっと抱き上げて、
「もういっぺん、もういっぺんだけやらせて」
「かまわないけど」
「せえの、」
そう言い、今度は七歩歩いてから落とした。ロマは肩で息をしつつ、黙って床に転がっている女房に向かって「楽しい?」と尋ねた。
「全然、」
「そう? 俺ちょっと楽しい」
実際、ロマはこの女房を運びきれないのが少し楽しかった。彼の女房は大人と争えるほど強かだったが、力といえば赤ん坊も同然で、組み打ちをすれば常に自分が勝ってしまうことがロマには不満だった。時折失敗したり負けたりするような相手でないと、遊びはそれほど面白くないのだ。女房には彼の手首を捻ることすら出来ないのだが、全身でもたれかかってくると流石に彼の手には負えないらしい。
フィービーの低くて厳しい声が続いた。
「どうせあの人たちに余計なこと言われたんでしょう、だから他人の言うことなんか聞くなっていつも――」
「『女房がいつも怒ってる』つったらさあ、どこの女房もそうだって。そんで教えてくれた。女房が喜ぶにはどうしたらいいかって」
「そしたら?」
「『抱いてやらねえからだ』って。何だよ、それならそう言えって。俺、赤ん坊抱くの上手いぜ、泣かさないし落とさなかった。たまに抱いてやらないとむくれるなんて、女って赤ん坊みてえだなあ――」
「僕が女でも赤ん坊でもないことぐらい、知ってるくせに」
彼がそう言うと、ロマは飛び上がってその口を手で塞いだ。フィービーは呆れたようにその手を剥がしつつ、
「うちのなかじゃ他に誰もいないんだから、本当のこと言っても構わないでしょう」
「ああそうか、お前俺と同じなんだっけ……」
そう言いつつ、ロマは目の前にいる少女のような少年を見て混乱した。彼の女房は少年で、首から上は少女のように美しく、頭は大人と遣り取りできるほどに良く、首から下はロマと同じで、しかし赤ん坊並みの力しかなく、友達といえば年長の娼婦しかない。果たして彼の身体の何パーセントが少年と言えるのか、ロマには次第に分からなくなってきた。
「見てみる?」
とフィービーが顎を軽く上げて、首の下の紐をほどく仕草をした。
「いいよ――」
彼は平気で服を脱いで示そうとするが、ロマは一つ屋根の下に暮らすようになってもなお、女の裸よりも閉じられたものを見る気がして、彼の裸をまともに見ることが出来なかった。
(確かに女でも赤ん坊でもねえし……「男の女房ってどうしたらいいか」なんておっさんたちに訊くわけにもいかないし……それは家のなかでしか喋っちゃいけないことだし)
「ロマ、」
とフィービーが静かな調子で言った。それは彼を叱る時の調子だったから、ロマはつい身構えた。
「何、」
「あのね今の『抱く』って話――、大人に聞いたんでしょう? 今の話。だからだよ、話が違うの。あのね、『抱く』って色々あって、大人が大人を『抱く』のと、子供が子供を『抱く』のとは違う。それに大人が子供を『抱く』のも、また子供が大人を『抱く』のもね、全部『抱く』だけど、やり方がそれぞれ違うの」
ロマは言われていることの複雑さに頭が混乱した。
「え、じゃ俺が赤ん坊を『抱く』時の抱くってのは、」
「子供が子供抱くやつ」
「そっか……じゃ女房にするのは、それじゃだめなのか、俺たち子供だけど」
「いいけど、僕は別に好きじゃない」
「そっか、俺赤ん坊落とさないから、『抱く』の慣れてると思ってたけど、だめかあ」
「僕だって出来るよ、というか、僕は今言ったの全部出来る」
「ほんとか」
ロマは驚いた。フィービーには出来る遊びなんかないと思っていたから。彼は力の弱い女房が、彼と共に出来る「遊び」を一つでも出来るということが嬉しかった。それも、大人を相手にするものを含めて四つも!
「すげえな、お前子供なのに、大人と同じことが出来るって」
「知りたいなら教えてあげるよ、ロマに」
「ほんとか」
「うん、こっち来て」
フィービーに手を引かれると、ロマはつい目を閉じかけた。彼は遊びのルールを教わる子供の従順さで、言われるままにフィービーの前に座り、床の上で彼と向かい合った。促されて彼の薄い背中に手を回すと、フィービーはロマの首に両手を回してしがみついて来た。
ロマはすぐに『抱く』が起こることを待ったが、しばらく何も起こらなかった。どうやら首にしがみついたまま、フィービーは何かを思案しているらしかった。ロマは可笑しくなり、赤ん坊をあやすように彼の背を揺すって「どーすんだよ、」と言った。
ふいにフィービーがロマの服の裾を引っ張り、ロマは彼の身体の上に倒れた。フィービーが床に後頭部をぶつけた音がした。
「おい大丈夫か――」
そう言った時、ロマは下から彼を見上げる黒い目にぶつかって怯んだ。フィービーは溺れる人のように両手をわっと出して彼の首に再びしがみついてきた。彼の腕から微かな震えが伝わってきて、どうやらフィービーは自分にしがみつきながら、先程頭をぶつけた痛みを堪えているらしいと分かり、ロマは彼のためにしばらく動かずにいようと決めた。
だがその間、彼を下敷きにしていることが気になった。
「フィービー、重くないか」
彼はロマの首を抱きつつ微かに首を横に動かした。何やら喉の奥で笑いを殺したような気配が感じられた。
「痛くないか」
彼はすぐさま頷いた。痛い、とも痛くないとも取れそうだった。
「面白いの――だからこうしてて」
「うん、」
「僕がいいって言うまで、動かずにこうしてて」
「分かった」
彼らは床の上で、重なったまましばらく動かずにいた。彼らの小屋の薄い戸の外では、親の手を離れたらしい子供たちが走り回り、転んだ子供が泣き出した声が浸透してきた。
フィービーが、ロマがそちらに注意を向けつつあったのを見透かしたように、彼の背に触れた。それから彼の襟から、裸の皮膚の続く首筋の方へと細い指先を動かした。
「何だよ、」
ふいに来た手の感触に、ロマが思わず笑い出した。
「くすぐったいじゃん、止めろよ」
「きみ今いくつ」
ロマはふいに歳を訊かれて驚いた。彼の同僚の男といい、なぜ他人は何かの行為の前に自分の年齢を気にするのだろう。自分を赤ん坊扱いにする大人ならともかく、彼とは恐らく同い歳だというのに。
「ねえいくつ」
そう言ってロマを見上げてきた黒い瞳には、なぜか怒りの影らしいものが湧いていた。
「十二、」
フィービーは既に何度も聴いたはずのそれを聞くと、彼の背にどすんと手を落とした。それから赤ん坊にするように優しく背を撫でて、ある地点でふと静止した。
ロマは、自分が下敷きにしている身体が、全身に微かな震えを湛えているのに気がついた。彼はそれを笑いだと思い、つい一緒に笑おうとしかけた。しかし手触りの違いから、それは押し殺した怒りであるらしいとふと感じた。
「フィービー、」
ロマが上半身を起こし、彼を宥めるように話しかけると、フィービーは抱いていた彼の首がなくなって自由になった手で顔を覆い、それから宙に向かってあえぐように突き出して、
「本当に、本当に、本当に何にも知らないんだね――十二歳のくせに!」
と叫んだ。
ロマは、頼まれて毎日ただ抱きしめて眠っている少年の身体から、見知らぬ年増の女の声が羽ばたくのを呆然と見送った。
〇
翌日、明け方にフィービーが戻って来ると、よくあることだったが足取りがおぼつかず、戸を開けたところでそのままころりと倒れた。入口の床に倒れていた酒瓶がいくつもぶつかって倒れた。
「わ、わ……」
ロマは悲鳴を上げた。葡萄酒の瓶、酒の瓶が割れ、また栓が落ちてじわじわと中身が広がったものもあった。それらが混じった水溜まりのなかに、フィービーは髪と頬を浸していた。
「だあーもう、お前どけって、濡れるだろ、風邪引く、ああー、勿体ねえー」
と叫びつつ、ロマは酒だまりにちょっと指を浸して舐めた。それから酒浸しになった彼の女房をずるりと引き揚げ、抱きかかえつつ寝床の方へと引きずっていった。
「それ乾くまで俺の服着てろって、男の服だけど我慢しろ、あともう寝るだけだから」
そう言い、ロマは床で倒れている女房に向かって、一着きりしかない自分の着替えを放った。
(ここまで酔っぱらって来ること最近なかったけどな……)
と、ロマは布団をずらして女房の寝るところを作りながら考えた。
(やっぱり怒ってんのかな、何が、って言うとまた怒るけど――)
ロマが振り向くと、フィービーが酒瓶に残っていた葡萄酒を頭から被ったところだった。髪を覆っていた赤いショールが葡萄酒に濡れて、肌の上にべったりと貼りついた。正気のないことのしるしのように、濡れそぼった髪の先端から赤い滴がひたひたと落ちた。
「どうした……、お前何してんだよ」
「ロマ、見てまだこんなに残ってた」
「残ってたじゃねーよ何やってんだ、」
「舐めて」
そう言うと、彼はどさりとロマの上半身にしなだれかかって来た。濡れたショールがロマの耳や首に貼りついてずれた。彼の目の前に、フィービーの肌についた葡萄酒の匂いがむっと来た。ロマの全身も、彼から伝わる葡萄酒のために真っ赤に濡れた。
フィービーはロマの首にしがみつき、彼の頬についていた葡萄酒の滴を舐め取った。それから同じ滴を舐めるように促し、ロマの口のなかへと舌を入れて来た。フィービーがこういう、赤ん坊がむずかるような仕草をすることにロマは慣れていたから、しばらくの間彼のしたいままにさせていた。その滴をロマが舐め取ってやった後も、フィービーはなお舌に噛みついて来た。
「痛っえな、噛まないの、こら」
ロマが慌てて彼を引き剥がすと、黒曜石のような黒い瞳がふと目の前に来た。その目は白い顔のなかで一際輝き、それ自体がロマに何か語りかけているかのようだった。ロマがつい恐れを感じて目を逸らすと、ショールが外れて露わになった髪の奥の、白い首筋に、赤い痣が雲のように連なっていくつも浮かんでいるのが見えた。
ロマがその痣を見たのと、フィービーが低声で彼に囁いたのが同時だった。
「舐めてごらん、ロマ、ねえ僕の言うこと聞いて、」
そして彼は、遊びのルールを教えるような自然な強引さで、ぼんやりしているロマの手を引いた。彼に言われるままにその首筋に鼻を埋め、葡萄酒の味のする傷口を舐めたのが、ロマが女房の身体を知った最初だった。
(あいつそんなに酔ってなかったんじゃ……)
と後からロマには思われた。その時、フィービーは狂ったように全身に葡萄酒を浴びたりしたが、それも彼自身、全身に傷を負っていることを分かっていないと出来ないことだった。
ロマは濡れた服を脱がせてやり、彼が命じる通り、頭から順番に傷口に唇を当てていった。その傷はロマの知る限りのどんな遊びをしても、傷つくはずのない所にまで及んでいた。彼は「遊んで来た」というが、彼自身頭からつま先まで、一頭の獣の餌に与えてきたとしか思えなかった。
(『抱く』って、これか)
と、酒に塗れても一向に覚めたままの頭で、ロマはフィービーのしてきたことの痕跡を見つめた。彼が行く先も告げずに「遊びに行く」という時は、ただの遊びではないらしいことはロマにも分かっていた。決まって彼らの小屋の家賃が不足しそうな時で、また出かけるのは夕暮れ時で、戻るのは朝方だった。彼が説明したことはなかったが、寝床で死んだようになって眠る身体から、揉み消しようのない強い男の匂いがしたから、彼の「遊び仲間」が娼婦ではなく男であるらしいことは分かっていた。それも、どうやら子供でなく、ロマの同僚と変わらないぐらいの年齢の大人から漂う体臭だった。
またフィービーは外出して戻ると酒臭かったが、家にあっても飲まない程度に酒好きではなかった。ただ酔うと痛覚も薄れるのか、転んであちこちぶつけても悲鳴も上げずになおぶつかっていた。酒は彼にとって、あくまでも全身に痛みを感じないようにするための薬でしかないことを、ロマはこれまで暮らしてきた日々から知っていた。
全身に勢いよく酒を浴びた時、フィービーは彼の方を見返って、微笑みつつ静かな調子で言ったものだった。
「まだこんなに残ってたよ、ロマ、」
(痛いとか怖いとか、何も感じないようにするための、しびれ薬みたいなもんだとしたら――)
ロマは、それが終わって堅く目を閉じて眠っている少年の、血の気の失せた頬を見て思った。
(子供でも良かったのかもしれない、この先まだ『足りる』から――)
行為の時、ロマは服を剥がした後の少年の裸身を、一種の凄まじい光景として見た。首筋から胸、腹、尻や足首に至るまで続く傷が、ロマの唇や歯形の大きさには合わず、葡萄酒の下から滲み出る体臭の示す通り、彼らの父親ほどの大人の男の歯によって付けられた傷だということを、ロマは傷の一つ一つに触れるうちに知った。ロマには自分の伴侶を傷つけられたことに対する怒りはなかった。彼は自分の伴侶を時に大人であるかのように感じ、彼の得た選択が彼にとって不本意なものであるとは想像しなかった。
ロマはそれらに手当てするように、優しく指先で触れ、時にフィービーが彼に触れて促す通りに唇で触れ、舌で舐めた。時に噛め、とさえフィービーは命じた。彼があたかも果物を齧るように噛みつくと、フィービーは笑いながら悲鳴を上げ、しばらく怒りを顰めた笑いに全身を震わせ、「こうやってするの」と言ってロマの指を口に入れた。それからロマは己の伴侶に、他人の肉の舐め方や噛みつき方を教わり、言われるままに彼の全身に彼に教えられた接吻をした。
ロマはそもそも女の身体の構造を知らなかったから、少年をどうやって抱くものかを知らなかった。フィービーの方では全く問題にせず、ただ彼に首筋の痣に接吻させた時と同様に、戯れながら自らの足の付け根の傷深くに簡単に導いた。
そこでロマは、フィービーが奇矯な振る舞いと裏腹に、全然酒に潰れていないことを感じた。ロマの手を取ってする彼の仕草は、ロマが見て初め狂ったかのようにも見えたものの、物慣れた手順を辿る冷静さが感じられ、それは刃物を使って水中で花の茎を切る仕草のようだった。暗闇のなかで仄々と見える桃色の舌、また時に敏捷に動く白い指の明るさを見て、ロマはそこで起きている行為そのものの汚さを忘れたほどだった。
またロマは決して器用に出来なかった割に、己の持つ体格の歪さを感じずに済んだ。彼にとって初めてのその行為は、まるで暗闇のなかを進むようで、決して円滑にはいかなかったが、フィービーの手のなかで彼は冷たい鍵ではなくなり、鍵穴に塗られる一握の柔らかい泥に変えられた。実際、彼が引き入れられたのは鍵穴でさえなく、既に大人の男の力が捻じ込まれ、金の泥によって塞がれた壁の割れ目だった。ロマはその閉じるでもない、輝く粗い継ぎ目をなぞるだけで良かった。その継ぎ目の粗さから、彼自身二つとない痕跡を残したとも思わなかったし、またそれを受け取るフィービーにしても、彼を通りを行く人々の一人としてしか扱っていないことが、ロマが離脱するときの感触の淡さからも明らかだった。
ロマは、彼の身体のどこまでがただの自然で、どこからかが作為による仕掛けであるのかは分からなかった。いずれにせよその複雑な仕掛けに触れたことで、ロマは女房のその振る舞いが狂気のためとも酒のためとも思えず、いつも気難しくて慎重で聡明な彼の意志による行為であることを信じた。
酒を全身に浴びたのは血の滲む傷跡を覆うため、ふらつくほど酔ったのは行為の兆しを見分けられないようにするため、浴びるほどに飲んだのは全身に走る痛みを和らげるため、また濃く匂うほど男の脂をつけてきたのは、何も知らない子供に触れる時、自分の肌で直に掴むことを避けるため――彼自身の既に「同じではない」手触りを感じるのを避けるため。
「ロマいくつ」
とぽつりと尋ねた時の女房の声をロマは思い出した。そして彼の黒い瞳が怒りで濁っていたことも。
「子供を捕まえてどうするの、」と娼婦に笑われたこと、また自分の身体の上に載せてみて(きっと兆しが起こるかどうかを知ろうとしたのに違いないが)「十二歳のくせに」と罵ったこと。
考えるほどに、酔った彼が突然思い立った悪戯ではなさそうに思われた。からかわれたり、問いかけたり、最後には彼自身予め苦痛を浴びながら――彼はとうとう己の計画した通り、自分と同じ場所にロマを落とそうと決めて実行したらしかった。
(でも、なんで)
ロマは眠っているフィービーの黒髪をそっと掻き分けて触れた。彼自身そんな意図はなかったにも関わらず、それを知った後で相棒に触れると、何やら労わるような優しさが滲むのが自分で不思議だった。
(あんな痛そうなことを、なんで)
ロマはその行為を知らなかったし、教えられて知ったほどだったが、それが本当に大人たちの言った「女房が喜ぶこと」なのかと不思議だった。フィービーはそこで、ロマを受け入れるために皮膚を裂かねばならず、その苦痛のために青ざめて震えるほどだった。触れ合って起こる快楽のなかで、その苦痛は次第に薄らぐらしかったが、それでも彼の黒い瞳のなかに稲妻のような光が過るのを、ロマは自分がそれを起こしていることを恐ろしく感じながら見た。それは決して快楽や喜びに繋がる閃きではなかった。また、ただの恐れや苦痛とも違っている気がした。
『怖い女房だな』
と、ロマの同僚たちが彼を笑うのをふと思い出した。彼らはいつも、女房が許さないのだという彼の言葉を聞いて笑った。しきりに女の言うことなど聞くなと言った。そしてそれは「大人の言うことなんか聞くな」「僕の言うことだけを聞いていればいい」というフィービーの主張と要するに同じだった。
黒い稲妻は、女房に触れた時でなく、むしろ女房がロマに触れた時に彼の瞳のなかで何度か起こった。ロマがその兆しを見据えようとすると、細い首を動かして彼は頬を背けた。
『妬いてるんだろ』
という言葉がふと、ロマの頭に閃いた。フィービーがその行為の時、自分の身体に触れながら何を感じていたか――。
それは恐らく「嫉妬」だった。何も知らない子供の肌に触れながら、その手触りの硬さに、また自分がとうに捨てた無知を守られて持ち続けていることに対する、また男の群れに愛されて庇護されて傷つけられずにいるロマに対する――フィービー自身が堪えようのない嫉妬に押し流されて、ロマに襲いかかるに至ったらしいことを、ロマは全身に浴びた悪罵のような手触りから感じ取った。ロマは少年の嫉妬のために噛みつかれ、元に戻らないように捻じ曲げられ、縫い合わされ閉じられていた。
ロマが気づくと、フィービーが黒い瞳を開いて彼を見上げていた。「ねえ、」と呼ぶその声には、不思議なことに、やはり昨日までとは違う労りらしいものが滲んでいた。彼の瞳はむしろ、ロマを責めるかのように輝いていたというのに。
「気づいた?」
「なにが、」
「寝てる時、僕が触ったの、気づいた?」
ロマは首を振った。彼はむしろ、女房は眠ったきり死んでしまったように動かない、と思っていた。フィービーは笑って首を竦めながら、
「ここと、この辺、」
と言い、顎を上げて喉を指し、それから平らな胸の中央を指した。ロマは知らない、と言って首を振った。
「僕人が寝た後に身体に上って、色んな音がするの聞くのが好きなの。きみが子供だっていうこと忘れてて、あんまり音が小さいから死んじゃったのかと思ってびっくりした」
「大人とは、違うのか」
「うん、違うよ」
彼らは互いを傷つけるつもりなどなく、ただ遊びの仕方を言うように喋った。
「あのね、大人の心臓の音がこのぐらいだとすると、ロマの音はこれぐらい、」
そう言って彼は硬貨のような丸い指の形を作った。大人の指の形より、ロマの輪は二回り小さいようだった。
「こんぐらいか、」
「そう、このぐらい」
彼らは同じ指を作って笑った。ロマは戯れつつも、フィービーが何かしらの感情のために崩れる気配があることを感じながら指を曲げていた。
「まるで銅貨だ、僕は銅貨の心臓を掴んじまったと思って怖かった……」
彼は丸い指をして、黒い瞳を大きく見開いたまま震え出した。やがて来る大雨の気配が漂ったが、彼はなおはっきりした声で話し続けた。
「きみはでも、すぐに大きくなる」
「おお、大きくなるさ、心配しないでも――」
「十二歳で、まだ子供だけど、十五歳になればきみは『銀貨』になれる、」
まだ全然細いけど、そのうち力もついて腕もこのぐらい太くなる、と言って彼はロマの薄い筋肉のついた二の腕を掴み、それからふわりとその輪を広げた。自分は殆ど肉のない薄い身体をしているくせに、他人の身体が未熟だと平気で語るのが何だか奇妙ではあった。
「二十歳ぐらいになれば、きみは『金貨』になれる、」
「お前は、」
ロマは薄々、女房が何の話をしているかを感じ取っていた。彼は、寂しそうに自分を褒め始めた女房に対し、彼が日頃感じている通り、彼の方が余程美しくて素晴らしいのだと言いたかった。しかしどんな言い方をすれば、この気難しくて訳知りな女房に通じるかが分からなかった。
「この先生きてても、僕は『金貨』にはならないよ。今が『金貨』なの、まだ子供だから」
彼は淀みない口調ではっきりとそう言った。そう言ってロマの顔に向かって両手を伸ばした。
「こんな子供を抱いたのかって……そのことが怖くなってた。ごめんね、きみはまだ子供だから知らないでもいいことなのに、僕みたいにどんどん小さくなる金貨じゃないのに、」
彼が話している間に、見開いた両目からガラスのような涙の滴がほろほろと零れた。
ロマは、これほど赤裸々に悲しそうにしている女房を見たことがなかった。他の少年に虐められて泣く時も、彼はショールで顔を隠しながら密かに泣いていた。彼自身が虐められたわけでもないのに、自分と同じ身体にした相手を見て赤裸々に泣くことに、彼がその行為によって知った恐怖や苦痛の大きさが表われているようだった。
『抱いてやらねえからだ』
ロマはふと大人の言っていたことを思い出した。フィービーは大人が女房にするように抱くその仕方だと言ったが、ロマは恐ろしいその方法を知った後、なぜそれが女房が嬉しがることなのかがふと分かった気がした。
ロマは女房の裸身をぎゅうと抱きしめた。腕のなかで微かに彼の身体が強張り、そしてすぐに緩むのが感じられた。流石にそれを知っている身体らしく、ロマにその気配がないことを察したらしかった。
「おっさんたちが、『女房が喜ばないのは、抱いてやらねえからだ』って言ってた」
「うん、知ってる、でも」
と言ってフィービーは微かに目を潰して笑った。
「僕らも――女たちも同じこと言ってるの、知ってる?」
この反応はロマには意外だった。
「何て?」
「『男が不機嫌なのは、赤ん坊に母ちゃんを取られるから』『もう女房に抱いてもらえないから』って。『もう可愛がってもらえないんで、寂しいのよ』『だからお金をもらって、あたしたちが代わりに抱いてあげるっていうわけ、ベビーちゃんを!』って」
僕もそう思う、と言って彼は目を細めた。その仕草は、ロマが見てやや眩しく感じるほど、すっかり女のものだった。
「それでああいうことをするの。あれは女の人がすることよ。今は僕は憐れむ側で――、抱いてあげられるけど、きみも見たでしょう――僕は男だから。そのうち偽物らしくなって、醜い女よりも酷い扱いを受けることになる。きみが銀貨になる頃には、僕は銅貨の値打ちもないかもしれない。
もうきっとあと何年もないと思う、抱いてやる側じゃなくなるのは目に見えてる、だから、」
ロマは女房がなお悲しいことを言うのを遮るように、彼の首をぐいと自分の胸に押しつけた。
「だからいいよ、俺がずっと抱いてやるっつうんだ」
フィービーは彼の胸に顔をもたせかけ、少し黙った。
「……そうだよ、そのために僕はきみをこうやって、」
「『抱く』って言っても色々あるってお前言ったろ、お前が教えてくれたのは、大人のする『抱く』だって――」
フィービーは俯いたまま頷いた。
「でもそれはいいよ、大人のする『抱く』は俺は嫌いだ。俺まだ子供だから、」
そう言うと、何か恐ろしいことを聞いたようにフィービーが鋭く顔を上げた。
「どうしたの、なぜいけなかったの、」
「いけないとか、そうじゃねえよ。『抱く』って何だか分かった。俺は馬鹿だけど、今じゃお前の言うことがちょっと分かるんだ。これで俺もお前と同じんなっただろ――」
そう言って彼は女房の身体をぐいと両腕で抱きしめた。女房が怒ったように一瞬抵抗し、それから再び彼の胸に頭を付けた。
「同じじゃないよ、ちっとも」
「うん、でもさ、前よりちょっとだけ分かるんだ。でも、俺はお前にあれをしたくない、おっさんたちは女が喜ぶって言って、おばさんたち――お前の姉さんたちは男が喜ぶんだって言うけどさ、」
「うん、」
「したくねえだろ、お前は、俺と同じ」
フィービーは俯いたまま、ロマの二の腕に爪を立てた。
「したくない……したくないよ、でもそれを知らないときみは、」
「俺が?」
「あの人たちの所から帰って来ないでしょう、ちっとも」
ロマは女房を抱えたまま笑い出した。この気難しくて、ロマが子供の身体を持っていることに嫉妬した女房は、ロマが男の巣を持っていることも気に入らなかったらしかった。ロマが瀕死の娼婦の匂いに気圧されて下がっていたように、彼は彼で、汗と泥の匂いのする労働者たちの輪に近づけず、放っておけばあのまま男になって戻らないのではないか、と恐れていたらしかった。
(だからって、本当にやるか、あんな)
ロマは行為の最中に、彼に首を絞めさせられたのを思い出した。ロマは流石に恐れて力を入れることが出来なかったが、それを命じる彼の目には、力の加減で相手に殺されることも厭わない覚悟が滲み出ていた。男の輪には近づけなかった彼が、己の知る領域では、彼を奪い返すために全身を投げ出していたのをロマは見ていた。
日頃口数が少なく、何か言えば理屈っぽいことばかり言うフィービーのことを、ロマはてっきり欲が薄いかのように思っていたが、彼は願望を言葉にするより先に、己の身を切って対象と交換する仕方に慣れてしまっているだけのようでもあった。実際、これまで一年もの間、彼はそれを言葉にすることもなく、あちこちの肉を金貨と換えてロマを養ってきたのだった。「まだ子供」の旦那こそ彼の未来であり、彼が生き延びたいという願望の表れであることも、当のロマには秘密にして!
(何するか分かんないのも、あれと同じだ)
ロマは、彼が笑い出しても黙っている相棒をひしと抱きしめた。
「帰るよ」
彼はそれを口にして、それが約束として響くのをやや不思議に感じた。相棒の湿った髪が、ロマの裸の腕のなかでずれて衣擦れのような音を立てた。
「うん、」
と彼は頷いた。
「なるべくすぐ帰るよ、俺おっさんたちよりお前の方がよっぽど好きだ、」
「うん、」
「女はヘンな匂いがするから嫌いだし、お前が一番好きだ。おっさんに怒られるよりずっと、お前に怒られる方が怖えや」
「うん、」
「お前が一番きれいだと思うし、あのことがなくたって、」
「もういいよロマ、分かったから離して、」
「よいしょ、もうちょっとこっちずれて」
ロマは幼い子供にするように、両腕を脇の下から通して彼を抱き寄せた。
改めて目の当たりに見ると、フィービーは少女というよりやや険しい女のような美貌と、滑らかで平たい身体とを持っていた。ロマと同じと言っても、抱き上げると二の腕の色が明らかに違った。労働で日焼けしたロマの腕と、彼が眠った頃にしか出かけない彼の腕とでは、肌の色が昼と夜ほどに違うのだった。
彼は日向の色に染まった手を、寝てばかりいる女房の青ざめた頬に当てた。
「男だとか、女じゃなくなるとか、そんなの気にすんな。俺はおっさんより女より、友達全部よりお前の方がずっと好きだ。俺が持ってる金貨も銀貨も全部、お前にやる。――もしお前が大きくなっても、俺がもっと大きくなってお前のこと抱いててやる。俺、落とさないし上手いんだ、よく女に褒められた」
「女がきみを褒める?」と彼は頬に当てられた手を取りながら言った。「へえ……知らなかった。きみには僕の他に女もいたの」
「違う、違うよ、赤ん坊が」
「赤ん坊が?」
女房が大きな目を見開くのに、ロマは耐えられずに大きな声を出した。
「俺『赤ん坊』を抱くの上手いんだってば。母親がいなくなって泣き止まない赤ん坊とか、よく女に頼まれて抱っこしてた。多分『子供が子供抱く』のやつだな、それだったら出来るし、ずっとお前にしてやれる」
「僕が――、」とフィービーは少し間を切って言った。「『母親のいなくなった赤ん坊』だと思えば、きみはずっと僕のことを抱けるっていうの?」
ロマはやっと本意が通じたと思い、急いで頷いた。
「おうよ、お前の美人の母さんほど上手くはないけどさ、赤ん坊みたいに抱くんだったら、俺その辺の男になんか負けないぜ。『ちょっとした母親の代わり』ってよく女に言われたもんさ、試してみるか、――ほれ」
ロマは矢のような速さで飛び込んできた、彼の赤ん坊のような相棒を胸に抱きしめた。彼が生き写しだと言われたという美人の母親は、彼をどんな風に抱いたんだろうと想像しながら。
「馬鹿なロマ、馬鹿なロマ……」
ロマは自分の腕のなかで、フィービーが早口で呟くのを聞いた。彼は赤ん坊がむずかるのには慣れていたから彼が落ち着くまで背中を摩った。そして彼が胸に頭をつけた時、ふと赤ん坊を怒らせた時のことを思い出して慌てた。
「あ、そうだ悪い、俺赤ん坊抱くのは得意だけど、先に言っとく、俺大人になってもあれは出来ねえや――たぶん、」
「あれって、何、」
ロマは説明しなくてはならないと思いつつ、羞恥のためにやや口ごもって言った。
「男だからオッパイは出ないと思う、たぶん」
彼は驚いている女房の顔を見ることさも恥ずかしくて、その背をぐいと抱き寄せて肩越ごしに言った。
「それでもいいか、お前、許してくれるか――」
「うん――、許す」
ロマは肩越しに女房の笑う声を聞いて安堵した。
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