至高なるアレキサンドライトの恋

倉野 色

至高なるアレキサンドライトの恋


 宝石である私が"心"を得たのは、いつの話だったか。

 そんな事は、とうの昔に忘れてしまった。


 通常、宝石に"心"という概念がいねんは、存在しない。

 だが現状、私の心はここにる。


 そして──この無機質な身体の奥底にひそみ続ける"それ"は、己の存在価値すら見出みいだせないままでいる。


  *


 私は、至高しこうなる宝石〈アレキサンドライト〉。


 他にない完璧な色彩に、輝き。私のショーケースの周りは何時いつも、私に見惚れた人間達が取り囲んでいた。


 私の右に出る者は、この世に誰一人としていない。私は至高であり、私以外に至高は存在しないからだ。


「……これが、アレキサンドライト」


 私の独り語りを断ち切ったのは、一人の女の呟きだった。


 突如、ガラス越しに伝わる館内のざわめき。それは、私に見惚れた人間達のものではなく、"ひとりの人間"に対して湧き上がった騒めきだった。


 目の前で私を静かに見据みすえる、紅色の瞳。


「素敵な宝石ね、爺や」


 群衆の騒めきにも掻き消されぬ、透き通った声。私の中の何かがまるで、廻りだした歯車のように段々と速度を速めていく。


 成る程。おそらくこの感情は、私に見惚れた人間達がいだいていたものと、同じ感情なのだろう。


 私は──ひとりの人間に、恋をした。


  *


 それから彼女は、他の展示品になど目もくれず、私を眺め続けていた。


 腰まで伸びた金色の髪は絹のように煌めき、黒いドレスに包まれた背中は、すらりとした曲線を描いていた。


 彼女は、紅色の澄んだ瞳で私を見つめる。


「いつまでも見ていたくなるわ。こんなに綺麗なものがこの世にあったなんて……まだ信じられない」


 それは、私の台詞だ。私こそが至高の筈だった。私以上に、人を魅了みりょうする存在は無いものだと、そう確信していた。


 だが、それは間違いだった。


 至高であるはずの私は今こうして、一人の"至高"に胸を高鳴らせていた。無い頬を赤く染めて、無い喉で息を呑んでいた。


「……あら、もう時間なの?」


 彼女の言葉に、速まるばかりだった鼓動は、一瞬にして凍りつく。気付けば私は、口を開いていた。


「そんな……私はまだ君を見ていたい。君もそうだろう? そうだ。君も、宝石になればいい! そうして私のように、ガラスの内側に並べば……私達は、もっと一緒にいられる。もっと近くにいられる!」


 私は、必死に彼女を引き止めるための言葉を並べた。勿論、彼女に私の声は届かない。


 彼女は、眉を下げて残念そうに続けた。


「まだ見ていたいけれど……我儘わがままを言うと、貴方が叱られてしまうわね。またここに連れて行って頂戴、爺や」


 彼女の返答は、予想に反したものだった。きっと賛同してくれるだろうと、思っていた。


 だが、何故か私の心はいきどおることなく、むしろ彼女の言葉が腑に落ちていた。


 ……そうか。彼女は宝石ではきっと意味が無い。人間だからこそ、こんなにも美しいのだ。


 宝石としての至高を持つ私とは違う魅力──例えば、人間としての温かみや儚さといった魅力を持っているからこそ、彼女は美しいのだろう。


 それでは、仕方がない。人間である彼女に見惚れた私が、彼女をガラスの内側へと招き入れるのは、いささか道理にかなっていないというものだ。


 足の無い私は、君を迎えに行けない。 だからどうか、また会いに来てほしい。名も知らぬ、うるわしい……


「私はディアーナ。また会いに来るから、覚えていてね。アレキサンドライト」


 彼女はそう言い残すと、優しく私に微笑みかけて、ショーケースの前から去っていった。


「これは、参ったな」


 そうやって君は、私の無い心臓を何度も射抜いてしまうのだ。


  *

 

 彼女が私に会いに来てから、数日が経った。あれから彼女はまだ、この美術館に足を運んでいない。


 時刻は、朝方の8時半。向かいの壁に立て掛けられた時計の針が、カチカチと静寂に時を刻んでいる。

 毎日、あの時計が10時を指すと、客を乗せた馬車がぞろぞろと入口の前に押し寄せてくる。


 だが、今日はいつもと少しだけ違った。


 時計が9時半を回ろうとしていた頃。ひとりの白髪の男が靴音を響かせながら館内に入って来た。

 モップを片手に床掃除をしていた数人の男は、手を止めて彼に一礼する。


 私は、彼をよく知っている。

 彼は、この美術館の支配人オーナーというやつだ。


 彼はゆっくりと私の方に向かい、目の前で立ち止まる。

 すると彼は、ふところから一枚の赤い紙をショーケースの隅に貼り付けて、そそくさと部屋を出ていった。


 ──何だ、この紙は?

 表に何か書かれているようだが、言うまでもなく私からは見えない。

 どうせ見えたとしてもロクに内容を理解する事はできないだろう。


 考えても仕方がないと悟った私は、例に習って無い瞼を閉じ、開館の時間まで眠ることにした。

 眠気は、すぐにやってきた。


  *


 次に目を覚ましたのは、開館して間もない時間帯だった。目を覚ました私を早々に歓迎してくれたのは、私をおおい込むように落とされた沢山の客の影だった。

 そしてその人影はどれも、やけに騒ついていた。中には、すすり泣く者や怒鳴る者までいる。


 今朝のことと言い、今日は妙な事ばかり起こる日だ。

 だが、それもすぐにどういう事か、察しがついた。


 支配人が貼っていったあの赤い紙だ。きっと、アレに客が騒つくような"何か"が書いてあるに違いない。


 それならば、ここにいるやかましい客達から聞くまでだ。


 私が聞き耳をたてるイメージを頭の中で膨らませると、館内の騒めきは明瞭な個々の呟きへと形を変えた。

 私は、彼らの言葉をひとつずつ拾い上げて、それらを咀嚼そしゃくする。


 アレキサンドライト。

 買い取り……シンブリッジ家。


 買い取り? シンブリッジ家?

 これは、どういう事だ。まさか、私がシンブリッジ家とかいう何処の馬小屋かも分からぬような家に買い取られるという事なのか?


 成る程、まるで訳が分からない。もっと具体的に言うならば、納得ができなかった。


 私が買い取られるということは、この美術館から私が消えるという事に等しい。この美術館にとっては驚異的な損失と言えるだろう。それを何故、支配人は了承したのだろうか。


 否、そんな事はどうでもいい。

 だが、この美術館から私が消えるのは、この美術館だけでなく、私にも重大な損失があるのだ。


 どうにかして、私が買い取られずこの美術館に留まれる策を──


「どうしてそんなに深刻そうな顔をしているの、アレキサンドライト?」

「ルビー。アレキサンドライトに顔なんか無いよ。でも、確かに深刻そうだ」


 ……誰の声だ? 私の耳が、妙に二人分の声だけをよく拾う。

 それも、彼らは明らかに私に対して話しかけていた。私に意思がある事を知っているような、そんな口振りで。


 "ルビー"? まさか。


「お前達、宝石か?」

「当たり。名前で私達が宝石だと気付くなんて……貴方って、意外と自分以外の事にも興味があるのね」

「彼に失礼だよ、ルビー。あぁ、ちなみに、僕はエメラルド。君の言う通り、僕らは君の隣に展示されている宝石さ」


 これは驚いた。私以外にも意思を持った宝石が居たのか。

 話が物理的に通じる相手が居るとは思いもしなかった。


「それで、私に何の用だ?」

「いや、君が深刻そうな顔をしていたからね。なんというか君は、ここが嫌いそうだったから。よかったじゃないか、買い取りだなんて。きっと大切にされるに違いない」

「この美術館には興味も愛着も無い。だが……私は、ここで待っている人がいるのだ」

「ディアーナ嬢でしょう?」

「……何だ? お前達、冷やかしのつもりで話しかけたのか?」


 私が敢えて喧嘩腰でそう返すと、彼らは「まさか」「知らないのかな」と小声で言い合い、エメラルドと名乗った宝石が後にこう告げた。


「アレキサンドライト。君が会いたがっている彼女は、シンブリッジ家の一人娘なんだよ」

「何だって?」


 シンブリッジ家の一人娘? ……ディアーナが?

 予想外の返しに、思考が追いつかない。

 ルビーが隣で「前言撤回。やっぱりこいつ、自分以外の事に興味が無いわ」とか何とか言っているが、そんな事は心底しんそこどうでもいい。


 私を買い取るシンブリッジ家が彼女の事ならば、話は別だ。

 私はその話に賛成だ。大いに賛成だった。

 この退屈極まりない美術館からおさらばできる上、彼女の物になるのだ。これ以上の幸福はない。


 そう思っていたのも、つかだった。


「でも、本当によかったわね。愛する人のひつぎに、納められるだなんて。そんな事、中々無いわよ」

「……は?」

「あら、これも知らなかったの? シンブリッジ家のお嬢様は、もうすぐ死んじゃうの。だから、彼女に気に入られた貴方は、買い取られる事になったのよ」


 何を言っているんだ、こいつは。

 ディアーナが死ぬ?


「どういう事だ」

「あのお嬢様、凄く綺麗だったでしょう?でもそれが災いして、幼い頃に魔女から呪いをかけられたんですって。先日ついに寝たきりになって、あと2日もせずに亡くなると診断されたって、今日の客人が噂していたわ」

「呪いだって?馬鹿馬鹿しい」

「そうよね。本当に馬鹿馬鹿しいわ。お嬢様みたいな人を何人殺したって、その魔女がどうにかなれる訳じゃないのにね」

「……」


 冗談だと、言ってくれ。


  *


「アレキサンドライトが、泣いている」

「至高なる宝石が、泣いている」


 月夜が青白く照らす人気ひとけの無い館内。

 人気が無いはずなのだが、意思を持った展示品達のせいで、館内は矢鱈やたらと騒がしかった。

 何だ、こいつら。全員喋れたのか。


「私が泣くのは、悪い事か」


「良くはないよ。何故なら君は、宝石だから。宝石の僕らは、涙なんか流さない」


「私には、心があるんだ……泣いて何が悪い」


「人間なんかに恋をするからこうなるんだよ」

「至高を神様から与えられているだけ、君は十分幸せだと思うけどなぁ」


 何が、幸せだ。

 神よ。私に至高と心を与えた、何がしの神よ。

 至高なんて物を、私は望んでいない。与えるならば、足をくれ。彼女の元まで今すぐ走れる、足をくれ。


 ────彼女がいなくなる今、こんな至高はあっても、意味が無いのだ。


  *


「こんにちは。今日は世話になるよ、モリー殿。急な申し出にも関わらず、本当に──」

「男爵。 実は」


「……何? アレキサンドライトが、消失した?」


  *

 

 私は、海沿いの道を懸命に駆けた。

 人間らしい足は砂を掴み、人間らしい喉は、息を切らす。

 神様とやらの悪戯いたずらか、目が覚めると私は、人間の男になっていた。祈ってみるものだなと、思った。


 今頃、美術館は大騒ぎの筈だ。盗みだと勘違いされているかもしれない。

 私は、彼女の住む屋敷へと向かい走り続けていた。

 場所は、通行人から教えてもらった。シンブリッジ家は、ちまたじゃ相当有名らしい。

 海沿いの道を抜けたところで、彼女の住む屋敷は見つかった。全体が白く塗られた屋敷の入り口には、二人の門兵が待ち構えている。成る程、確かに富豪の家だ。

 私は門兵の間を通り敷地内に入ろうとするが、予想通り行く手を遮られる。そのまま間も無く、私は門兵の片方に羽交はがめにされた。


「貴様、何者だ!?」

「来客ではなさそうだな。一般人か?どうする、念の為確認を取るか?」

「必要ないだろう。拘束して牢にぶち込んでからでも遅くあるまい」


男達の腕に一層力が篭もる。まずい、これは良くない。噂が正しいならば、もう時間が無いのだ。

私は、よじるように男達の腕の中で藻掻いた。今しか、ないのだ。せっかく足を手に入れたというのに、この有象無象どもはなんだ。


「離せ。 アレキサンドライトだと言えば分かる!彼女と会わせてくれ!それだけでいい……!」

「アレキサンドライト?」


 玄関先の騒動に気付いたのか、二階の小洒落こじゃれた窓からディアーナが顔を出してそう訪ねた。

 彼女は少し、やつれていた。


「ディアーナ!」

「その人を、通してあげて」


 ディアーナにそう言われた門兵は、顔を見合わせると怪訝な顔を浮かべたまま頷いた。


  *

 

 私は、ディアーナの部屋に招かれた。


 彼女は噂の通りベッドに横になっており、心無しか、顔色が少し悪くなっているような気がした。

 とても死にかけには見えなかったが、それでもやはり死んでしまうのだろう。


「……じゃあ、私が貴方を見に来た日は、どんな服を着ていたでしょう?」

「黒いドレスだ」

「凄い! 本当に貴方、アレキサンドライトなのね」

「このくだり、もう3回目だぞ」

「ふふっ……あぁ、そうだったわ。本題に入りましょうか。それで貴方は、どうして私の家まで来てくれたの?」

「それは勿論、君が……」

「私が?」


 言いかけて、ふと思った。

 まさか、彼女は自分が今日中に死んでしまうことを知らされていないのではないか。私を買い取ったのは彼女自身ではなく、彼女の両親なのではないか、と。

 それならば、勝手に彼女の状況についてあれこれ口にするのは、よろしくない。


「……君がまた会う約束をしてくれたから、こちらから会いに来たのだ。私もあの時、いつまでも君を見ていたいと、そう思っていたから」


 私は、事情は明かさずに答えることにした。ディアーナは「何それ」と、可笑おかしそうに笑った。


「ありがとう、アレキサンドライト……会いに来てくれて嬉しいわ。宝石の時と同じで、男の人になっても素敵ね」

「それでも君には、敵わない」


 そう私が返すと、彼女はまた笑った。照れ笑い、というやつだろうか。


「でもね。貴方は帰らなきゃ駄目よ。貴方が居なくなったら、美術館のお客さんは皆悲しんじゃうわ」

「分かった……だがせめて、今日まで君と話をさせてくれ」

「ええ、そうね……じゃあ、私が死ぬまで一緒に居て頂戴。それからちゃんと、美術館まで帰ってあげて。嬉しいけれど、私のお墓までついてきちゃ駄目よ」

「……知っていたのか」

「ええ。どんなに酷くなっても呪いのことは隠さずに教えてってお父様にお願いしていたの。私はこれから、死ぬんでしょう?」


 ディアーナは、寂しげにそう訪ねた。私は「ああ。そうらしい」と返す。ついに不幸な噂は、確かな事実となってしまった。

 私は、心に穴を空けられていくような。胸の辺りが苦しく、窮屈きゅうくつになっていくような気分になった。あの日の息苦しさとは、また違う。この感情は一体、何だ。


「もう! そんなに暗い顔をしないで。下を向いていたら、貴方の綺麗な顔がよく見えないわ。楽しいお話をしましょう」

「あぁ、そうだな。じゃあ──」


 それから私達は、互いの思い出を語り合った。


 私が心を持ってからの話や、彼女のお世話をしてくれるメイドやあの執事の話。

 窓から見える夜の海が綺麗な話や、彼女が昔好きだった絵本に登場する、小人の話。

 美術館に犬を連れてやってきた富豪の話や、彼女が私に会いに来た時の話。

 飽きるほど語り合ったが、飽きる事は勿論無かった。


 結局、語らいは彼女が眠るように息を引き取るまで続いた。


 彼女はやはり、死んでもなお美しかった。

 そういう心の病み方をしているわけではない。素直にただ、そう思った。


 私は枕元まくらもとに添えられた彼女の手を取り、それを更に両の手で包み込む。

 そういえば、彼女の手を握ったのは初めてだ。そしておそらくこれが、最後だろう。


 彼女の亡骸なきがらと私だけが残された部屋に、海風が吹き込む。白いカーテンが風に揺れ、彼女の頬に薄い影を落とした。


 ああ、美術館に、戻ろう。

 彼女の頼み事だ。断る理由は無い。


 私は別れの挨拶として、彼女の手の甲を顔の高さまで上げると、そっと口付けをした。

 目を閉じて眠る彼女が、少し笑ったような気がした。


「私は君に、一目惚れだった。君の方は、どうだった?」


 彼女からの返事は無い。やはり、笑ったように見えたのは勘違いだったようだ。

 私は彼女の顔を目に焼き付け、立ち上がる。

 扉に手を掛け、そっと目を閉じた。


 私は、至高なる宝石〈アレキサンドライト〉。


 だが今はもう、至高ではない。

 至高は、ひとりの人間に捧げた。


 部屋には、美しい亡骸と小石だけが残った。

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