満ち潮の季節
長尾麦星
第1話
金属フレームに合板を貼った椅子は記憶にあるそのままで、まだ古びている様子はなかった。
教室の壁も何も変わらないクリーム色で、懐かしさだけが原因だとも思えない。夕暮れの、少しだけ暗い時間のせいか。
「嘘みたいだよね。」
ケイヨのつぶやきが、耳に残る。
潮の香りがする。
否定も肯定もできなくて、あいまいに微笑んだ。
「ルツはさびしくないの。」
波の音がする。ずっとしていたのに、今はじめてわかった。
「そうだね。」
海が来る。
ルツの返事は答えになっていないが、ケイヨは何も言わなかった。
ここもあと少しで、海の中だ。
ふたりの育った街は、ひたひたと迫ってくる海に飲まれていく。
街は日に日に後退し、庭のある家で暮らしていた人々は、高層の集合住宅へ移ってゆく。
それは自然の摂理だ。
学校の備品の搬出は、この夏休み中には終わるだろう。そもそもふたりが卒業してから、そこそこ時間も経っている。
「また会えるよね。」
ケイヨは机の表面を撫でた。
誰に言ったのだろう。自分とはいつでも連絡が取れると思うのだ。
「ティーハは友達と会うの、嫌がるの?」
ケイヨは笑う。
「そんなひとじゃないよ。」
空は青く晴れていて、たぶん明日も暑くなるだろう。
「うん、知ってる。」
ケイヨは秋になると、誰よりも幸せになるだろう。街路樹はだんだんと海に適応した、落葉しない葉をつけ始めているが。
いや、もう誰よりも幸せなはずだ。幸せは、日を決めてやってくるものではない。
「おばあちゃんがさ、海は、また行ってしまうものだから、引っ越しもまたするものだって言うんだよね。」
高齢の人々は、一度高層集合住宅へ移ると、ずっとそのままだ。もう、海だった街には戻れない。
海鳥が、高く鳴く。
ふたりが小さな頃は、海はもっと遠くにあった。遠足で浜辺へ行き、潮の香りを感じながら昼食を食べた。
海へ行くのには半日ほどかかった。なにしろあの頃は、大気圏外へ行くより遠かった。
海がそのうち来ると聞いて、ただ喜んでいた。
この教室で勉強した時も、波の音はしなかった。この教室の中では、潮の香りはしなかった。
薄れて行く時間を、取り戻すことはできない。
来月には、建物に入ることも、出来なくなる。
ルツにはそれがかなしいことなのかどうか、わからなかった。
「海が来るだけで、私たちが移動するだけで、ただ、それだけなんじゃないかな。」
海がまだ遠くにある頃でも、街は不変だったわけではない。
校門の前にあった菓子店は、まだ自分たちが学校へ通っているときに無くなっている。
時は移る。海はやってきて、またそのうち行ってしまう。それは自分たちが老人になってはじめて、知る光景だとは思うけれど。
「戻っては来られないって思ったからかな。」
ケイヨは笑った。とくに面白くも楽しくもないというのは、ルツにもわかっている。
「そのうち全部海の底に沈んで、無くなっちゃうんだよね。」
ケイヨは窓から身を乗り出して、大きな声で言った。
通りの向こうで、水面が夕陽を映して輝いている。
「ケイヨ、あそこ行こう!お菓子屋さんのあったとこ!」
ルツはケイヨの手を取った。
「でも、海だよ?もう…」
「裸足になればいいよ?大丈夫、深いとこまでは行かないから。」
窓を開けてたまま、ルツは歩き出す。
この暑さなら、たぶん海は気持ちがいいだろう。
「暗くなる前に帰ればいいよ。」
海へ行こう。
ここがすっぽりと海中に沈んでも、また来ればいい。
大気の替わりに海水があって、ヒトの替わりに海の生き物がいるだけだから。
時は流れて行ってしまうだけだが、ここは変わらずここなのだから。
「ちょっと面白いかもね。」
ケイヨが笑ったので、ルツは少しほっとしたのだ。
どんなに季節が過ぎて海が懐かしい街を隠してしまっても、街はある。
徐々に深く沈んでしまっても、ここにある。
海の中に。
満ち潮の季節 長尾麦星 @arcturus10
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