Dropping Melodies

藍雨

Dropping Melodies


大好きな女の子がいた。



けれど、その子はある日突然連れ去られた。



その過去を抱えながら生き、僕は二十歳になった。


記憶の中の彼女の時間は止まったままで。





「おい、スラム上がりの糞ガキが、ぼうっとしてんじゃねーよ」

「……っ。すみません」


慣れた暴言に、それでも反論しそうになる自分を抑えて謝罪する。


スラム上がりの糞ガキ。


そうだ、僕はスラム育ちだ。


僕に暴言を吐いたのは、普通の家庭に生まれ、普通の生活を、当たり前のように享受してきた、なんとも普通の人間だった。


スラムの人間を煙たく思うのは、その『普通』を生きてきた人間の証とも言える。



「やってるかーい?」


呑気な声に、ため息と共に全員が作業を止める。


「マコトか……」


小さく呟いて、直立不動の姿勢を保つ。


スラムから逃げ出して瀕死状態だった僕が、最初に出会った『普通』の人間である。


変人にして、この作業チームを仕切る主任、マコト。


マコトは、よく分からない人だ。良くも悪くも。


出会った時から印象は一ミリも変わっていない。




「なんだお前、死にそうな顔しやがって」


ケラケラと笑いながら僕の方に歩いてきた、その時は名前も知らない男に、僕はきっと必要以上に怯えていたと思う。


それはスラムの大人がどれだけ腐っていたかを示すには十分で……。


「腹減ってるのか?トイレか。なんだよ、喋ってみな」

「ご、ごめんなさい……」


責められているような気がして、謝罪が口をつく。


「いや、なんで謝るの。んー、それじゃあ、俺と一緒に来い」


何がそれじゃあなのか全くわからないまま、逆らってはいけないという強迫観念に駆られ、僕は後を追った。




それが一年前だ。最近やっとここの生活に慣れ始めたように思う。


衣食住が安定する生活が、こんなにも温かいとは知らなかった。


マコトは居たり居なかったり、ふらふらとしていたけれど、何かの節目に必ず戻ってきて、僕の様子を気にかけてくれた。


そして、ここの仕事に就かせてもらった。


死ぬような思いで抜け出してきたスラムと正反対の暮らしに、僕は、ゆっくり癒されていた。



––––––––でも思い出すのだ。


温かさを実感した時に。


彼女のことを、思い出す。


何処に行ってしまったのか、今何をしているのか。


彼女はスラムにいるのか。それとも、連れ去られた先には、この温かい生活が待っていたのか。


––––––––まだスラムにいたら。


生きているだろうか。……死んでいるかもしれない。


そもそも何故連れ去られたのか……。


僕はそもそもそれを調べるためにスラムから抜け出したのだ。


––––––––でも、何もわからないまま。


スラムを出ればなんとかなると思っていた。あんなに過酷な場所で生きてきたのに、僕はあまりに甘かった。


僕は成長はしたけれど、やっぱり昔の無力な自分のままなのだと痛感する。


何もわからないままで、時間は経っていくばかりだった。



「ユウ、ユウー」


ハッと我に返る。


「あ、ごめんなさい、何ですか」


僕を呼んでいたのは、マコトだった。


「ちょいと話があるからって、店主から呼び出し」

「えっ、僕なんかに何の用ですか……」

「それは俺も知らん‼︎」


そんなドヤ顔で言われても困るんだけど。


「まぁ、俺もついて行くから。行くぞー」

「はい……」


ここの女店主は、若作りが趣味らしいなんて、本人の耳に入ったら恐ろしい噂を聞いたことがある。でも、それだけだ。会ったこともなければ、僕のような労働者がいることを把握しているのかさえ怪しいという状態だと思っていた。


急に名指しされて、何を言われるのかと、身を硬くしながらマコトの後について行く。



「ミヤビさん、マコトです」


ノックの後、入れ、と高いのか低いのかわからない渋い声が響き、失礼します、とマコトがドアを開ける。


「来たね」


一言。煙草の火を灰皿でもみ消し、ミヤビさんと呼ばれた女店主は立ち上がる。


「あんたがユウかい」


顔を近付けてくる。驚いて少し後退りした。


「あんたにね、見てもらいたいものがあるんだ」

「えっと、僕にですか」

「だから呼んだんだよ。他に誰がいるんだい」

「あ、すみません……」


余計な事を言ってしまわないように、口を閉じる。


店主は机の上にあった端末を手に取り、何やら操作を始める。


何度かマコトが使っているのを見たことがあったけれど、高そうだ、という印象しか受けなかった。きっと僕に扱える代物ではない。


「この子。見覚えないかい?」


差し出された端末を、恐る恐る覗く。


「この人は……?」


見覚えはないかと言われるほど僕には知り合いがいない。


そこに写っているのは女性で、髪がやたらと長い。こけた頬は、白く透き通っていて、今にも消えてしまいそうだった。


「幼い頃まではスラムにいたそうだから、あんたは知ってるんじゃないかと思ってね。知らないならいいけど」


この人もスラム上がり……。


「貧困層は増えていくばかりですから、スラムの人間を特定する術はないですしね……」


マコトが呟く。店主が溜息をつきながら、頷きを返す。


「この会社の裏稼業、知ってるかい」

「ミヤビさん、それは……‼︎」

「……結構な偉いさんからの依頼なんだよ」

「金になるから、ですか……」

「そうだよ。こんな稼業だからねぇ、相手も仕事も選んじゃいられないんだよ」

「あの、さっきから一体なんの話ですか……」


店主は裏稼業と言った。どういう意味だろう。


「ユウ、聞かないのも自分のためだよ」


珍しく真剣な表情のマコト。背筋に悪寒が走る。


「どうしたいんだい」


どうしたいか。分からなかった。


……その時、頭に浮かぶ。あの子が。記憶の中で、あの子が笑う。


もしかして、なんて考えてしまう。


もし、彼女なら。そうだったら、なんて、考えてしまう。


スラムは広くて人も多くて、腐っていて、こんな、僕の願望がまかり通るような所ではない。


「……聞きます」


でも、やっぱり、目を逸らせなかった。


「いいんだね」


店主の問いに、頷く。


「この会社はね、表はただの商社だけど、裏では臓器を売り捌いてるんだよ」


臓器を……。


何かがこみ上げてくる。吐き気だった。


膝の力が抜ける。フラつきそうになるのを堪えて、店主の顔を見据える。


「驚くよねぇ、そりゃあ」


さっき消したばかりだというのに、また新しい煙草を取り出し、火をつけ、ゆっくりと煙をふかす。店主は自分の言った言葉を少しも重くは感じていないようだった。


「それと、この女の人と、何の関係が……」


聞かなければいけないような気がして、口を開く。


「この人が臓器を必要としている。でも、適合者がいなくてねぇ。そこで、あんただよ。あんたはスラム上がりだから。……知り合いなら、良かったんだけどねぇ」

「ミヤビさん、それどういう意味ですか」


マコトの一切感情を抑え込んだ声が響く。


「あぁいやいいんだよ。さすがに知りもしない相手となると、話は別だからねぇ」

「ユウの臓器を売ろうとしていたんですか⁉︎」

「何か問題でもあるかい」

「問題って……ありすぎます‼︎」

「マコト。あんた今までこの稼業に一切何も言ってこなかったのに、ちょっと自分に関わるようなことになるといい顔するのかい」

「……っ。それは……」


自分が話の中心にあることは分かっていた。


でも、何だかとても遠いことのように感じられた。


……間違いなくそこは、自分の居る場所だというのに。


温かいだけの場所ではないのだと知ってしまった。


そんな場所はないのだと気づいてしまった。


そのことに、悲観的になるでもなく。


静かな諦めが、自分の心に沁みていく。不思議な気分だった。


「いいですよ」


よくわからないまま、言葉を発していた。


「ユウ⁉︎」


マコトが叫ぶ。肩を掴まれ、グラグラと揺らしてくる。


「何言ってんだ、目を覚ませ。ミヤビさんは、お前を売ろうと……」

「その人、もしかしたら知ってる人かもしれないんです」


冷静な自分と、混乱している自分。混在していたけれど、冷静な自分の方が優勢らしかった。


淀みなく話すことができた。


「検査を受けないと、結果はわからないじゃないですか」

「もし、適合したらどうするんだよ……‼︎」

「その時は、売ってもらって構いませんよ」

「馬鹿野郎」


睨まれる。物凄い迫力のマコトが近づいて来て、殴られた。


一発。けれど、今まで受けたどの暴力よりも、重みがあった。


「そんなこと言うな」

「……でももし僕の知っている人であれば、僕は彼女に会いたいと思ってるんです」


睨み合う。頰が鈍く痛む。


「マコト、黙りな」

「嫌です」

「とりあえずこの子を連れてきてやるよ。店に来てるんだ。話はそれから。あんたもそれを望んでるんだろ?マコトがとやかく言うことじゃないよ」

「……わかりました」


マコトが拳を震わせているのが視界に入る。拾ってもらったくせに、なんて罰当たりなことをしたんだろう……。


けれど、僕はやっぱりそれ以上に、彼女に会いたいと思ってしまった。


……もし写真の女性と記憶の中の彼女が別人だったら、とは、今は考えたくなかった。



「入りな」


そして、店主が戻ってくる。開いたドアから女性がゆっくり姿を現す。


……あぁ。


うつむき気味だった彼女が顔を上げた。目が合う。きっと向こうも気づいてくれたはずだ。


「初めまして」


発された声に、僕は頭に何かがぶつかったような衝撃を受けた。


「は、初めまして」


何かの間違いではないか。いや、でも、しっかりと目が合った。僕の様子がすっかり変わったからだろうか、なんて。


……そもそも、彼女だという確証があったわけでもないのに変に期待をして、一人でがっかりして。


でも、記憶の中の彼女と、今目の前にいる女性は、雰囲気がまるで一緒だった。


目の色が……死んではいるけれど。


僕には彼女だとわかる。僕にはわかる。


「私の名前は、シノダサクラといいます」


綺麗にお辞儀をした。


シノダサクラ。僕のように、誰かに与えてもらった名前だろうか。


「そういえばシノダさんと来たんじゃないのかい?」

「父は、あの、ヒメノ様に会いに」

「あぁ、そういうことね。ったく、嬢さんも大変だ」


……父?父親代わり、ということだろうか。


もしかして、あの時彼女を連れ去ったのは父親だったのか。そんな風には見えなかったけれど。


って、同一人物かもわからないのに……。


「マコトは仕事に戻りな。ユウはここでサクラさんと待機だ」

「わかりました」

「……ユウ、落ち着いて判断してくれよ」

「うん」


マコトと店主が出て行く。二人で取り残され、気まずい雰囲気が漂う。


「あの、あなたは……?」

「あ、すみません。ユウ、といいます。貴女と同じところの出身で……」

「そうなんですか?クリトン州は、とても良いところですよね」

「え……?」


クリトン州、という耳慣れない名前に、とても良いところ、という、とスラムには似合わないような褒め言葉。


––––––––おかしい。


そう思った時、扉が開いて店主が顔を覗かせた。


「ユウ、ちょっといいかい」

「はい……」


彼女を部屋に残し、外へ出る。


「あの子、記憶をなくしているらしい。シノダさんはスラムからあの子を拾ってきたあと、記憶を消して、自分の娘にしたようだ」

「そんなことが可能なんですか……⁉︎」

「簡単ではないが、それを出来るだけの財力を持っている人だ。残念だが、もしあんたの知り合いだったとしても、向こうはスラムにいた頃の記憶がないから確認のしようもない。この話はナシだ。仕事に戻りな」

「……でもあの人、適合者が見つからなければ」

「死ぬよ」


死。スラムでは、日常だったのに。死が身近だったあの頃より、死に対する恐怖を感じている自分がいた。


もう、彼女かどうか確かめる術はない。けれど、もしシノダサクラさんが、彼女と同一人物だったら。スラムにいた頃の辛い記憶を全て忘れて、幸せなのだとしたら。


……僕だってあの頃よりはずっと幸せだ。


でもきっと、彼女は本当の意味で新しい人生を生きているはずだ。


僕はあの頃の夢を今でも見る。スラムで過ごした、死と隣り合わせの記憶にうなされる。


彼女はきっと、そんなことはないはずだ。


逃げ果せて、僕は少しの温かみを知ることができた。もう、いいのではないか。


「……僕に検査を受けさせてください」

「正気かい」

「正気です。本気です」

「……シノダさんを呼んでくるよ」


無表情のまま、店主は行ってしまった。


「あっ、お願いが」

「なんだい」

「マコトには言わないでください」


ふぅ、溜息を一つ落とし、店主は行ってしまった。肯定か否定か悟らせないような溜息だった。



検査の日がやって来た。


検査は淡々と進んで行った。この途中で、やっとどの臓器を売ることになるのかを知った。


心臓、らしかった。心臓なんて適合するものなのか、と今更考えてしまうのは、少し戸惑ったからだろうか。



「検査結果が出るまで待っていてください」


医師にそう言われ、待合室のソファに腰掛ける。検査結果が当日に分かることにも驚いた。きっと僕は、本当に狭い世界で生きてきたのだ。初めて聞くような言葉、初めて見るような建物に車に、機械に人に……。


涙が溢れていることに気付いて、慌てて拭う。


やっぱり怖かった。投げやりに決断してしまったということに気付いた。


恐怖を実感すると、さらに涙が溢れる。止めどなく、止めどなく。


……彼女が幸せならそれでいい。僕は、彼女が連れ去られた時のことを後悔している。


仲間が死んでいったことや飢えに苦しんだことより、一番夢に見たのは彼女のことだったのだ。


連れ去られた時の彼女は、嫌だと泣き叫んでいた。少なくとも、記憶を消される以前の彼女はどんなに『普通』の生活が待っていようとも、スラムにとどまりたいと叫んでいた。


今の彼女は忘れてしまっていたとしても。


彼女と過ごした思い出がなくなるわけではない。僕は覚えている。


だから、これでいい。


この決断に意味を持たせるも持たせないも、僕次第だ。どうせなら、意味を持たせたいじゃないか。意味もなく死んでいった、スラムの仲間のためにも。



色々なことを考えているうちに、すっかり時間が経っていたようだ。


医師がやって来て、少し興奮気味に「適合しました」と告げた。


「……そうですか」

「これからの予定は後日、お伝えします。今日はお疲れ様でした」


ねぎらいの言葉が寒々しく響き、僕は返事もせずに腰を上げ、外へ出た。



吐く息が白く染まる。すっかり冷え込んでいて、僕は手を擦り合わせた。


「終わったのか」


声がして、その時ようやく足音が近付いてきていることに気付いた。


「うん……」


マコトだった。


「適合したのか」

「したよ」

「そうか……」

「ごめんなさい」

「なんで謝るんだよ。お前が決めたことなんだから、もう俺は何も言わん」

「……ごめん」

「謝るクセ、結局直らなかったねぇ。……お前を拾った時、直してやろうと思ってたのに」

「僕そんなに謝ってる?」

「謝りすぎなんだよ。謝罪と、感謝の言葉は本当に必要な場面に取っておくべきだ」

「そうなんだね……」

「……俺がお前を拾ったのはさぁ。死んだ弟に似てたからなんだよ」


突然のことに、僕は何も返事が出来なかった。


「結構俺、お前のこと大事なんだけどなぁ。伝わんないもんだな」

「……っ、ごめんなさい」

「おいおい、お前、自分の決意を揺るがせるなよ。泣くのは今だけだぞ、そうじゃないと俺、どんな手を使ってでも止めに入るぞ」

「……うん、マコト、ごめん」

「だから、謝んなって……」


泣き声と、足音と。響く音は静かに空へ馴染み、代わりに、というように雪が舞った。



日程が決まり、再び彼女と会うことになった。


「貴方が、私を助けてくださるんですね……」


ありがとうございます、と頭を深々と下げる彼女の隣には、僕を値踏みするように見下ろす父親。対照的な二人の間に、親しげな雰囲気は全くなかった。


僕はなんと言っていいのか分からず、ただ黙って頭を下げた。


「シノダさん、向こうで話を」

「そうしようか」


立ち上がり、部屋を出ていく二人。また、彼女と取り残される。


「あの、なぜ私を……」

「……僕の好きな人に、貴女はよく似ているんですよ」

「……それは」


余計なことを聞いたか、というような表情をしたので、僕は手を振って、気にしないでくださいと笑った。


静かになる。写真よりは顔色のいい彼女と向き合いながら、間接的にでも想いを伝えられたことにホッとした。


今の彼女は僕の中にいる彼女ではない。でも、きっと伝わった。そう信じたかった。



あと数日の命だというのに、少しずつ恐怖が鈍っていくように感じる。思い残すことがないからだろうか。


きっと、好きな人のために死ぬなんて他の誰にもできない。普通なら、一緒に生きたいと願うと思う。


でもそう出来ないから、せめて。


僕は彼女の幸せを願う。


fin.

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