邂逅ステーション
かなで
邂逅ステーション
時間にも相対性というものがあるらしい。それも、日常的に感じるほどに。
あの有名なアインシュタイン博士が言った言葉。可愛い女の子と過ごす一時間と、火を燃やすストーブの上に手をかざす一分間を比べるそのお茶目さは、おどけた表情で舌を出している写真からも見て取れる。お堅い相対性理論と、笑うのが苦手だったという彼のイメージとは対照的で、僕はなんだか好感を持っている。。
相対性と言えば、忙しい朝の五分とつまらない会議の五分が等しいものとは思えない。社会人はたまた学生にだって、朝の時間は恋人のようなもので、愛しい布団に別れを告げるのはまさに恋人との時間を終わらせるようなものなのだ。けれど悲しきかな、布団との情事に耽るようでは、この世界では生きてゆけない。
世知辛い世の中では、朝の一分一秒が命運を左右する。昔の人は言った、早起きは三文の徳である、と。もちろん文字通りに三文の得をするわけでないことも知っているし、今の世の中では三文は大した価値はないのだろう。けれども早起きして得るものは少ないが、寝坊して失うものはとても大きい。
ほんの少し、あと少し。そのつもりの二度寝が、後々取り返しの付かない事態を招くことを僕は知っている。だけどそれは僕の話じゃないんだ。些細な自慢だけれど、僕は今まで寝坊で遅刻したことは一度もないし、時間にはきっちりしているはずだ。
愛しい布団との別れに涙しつつ、今日も僕は少し早めに駅に着いた。駅までの道は歩くことに決めている。今日だって電車が来るまではまだかなり余裕がある。僕は自動販売機で飲み物を買った。がたん、と大きめの音を出して缶が落ちてきて、僕はそれを手に取るとホームの端のほうに歩いた。
心地良い春の息吹がそよぎ、桜の花びらをひとつひとつ爪弾いて風に乗せてゆく。隆盛を過ぎた桜は少しの風にも散らされて、容易くはらはらと舞い落ちた。
毎朝同じ電車に乗って一ヶ月あまり。そして気付いたことがある。
それは向かいのホームでいつも本を読んでいる女の子がいること。
二本の線路で区切られた向かいのホームはそれほど遠くなくて、毎朝熱心に本を読んでいるものだからついついタイトルが気になってしまう。けれどそれは落ち着いた色のブックカバーに隠されて分からない。まあもっとも、カバーをしていなくてもこの距離だとタイトルが読み取れるかは微妙なところだけれど。
それでも、本屋で付けてくれるような安っぽい紙のカバーではなく、しっかりとしたカバーを使っているのだから、きっととても本が好きな子なのだろう。
流行の本を読んでいるのだろうか。それとも純文学なのだろうか。もしかしたら恋愛指南書かもしれない。そんなことを考えながら僕はふと、自分が読書というものから遠ざかっていることを思い出した。
ホームの裏にある桜の木が、身にまとった花びらを風に託している。木から解き放たれた花びらは、春の柔らかな風に吹かれて舞った。それがまるでピンク色の絨毯をめくるように見えて、思わず目を奪われた。
花散らす桜の木の下。いつからだろう、舞い落ちる花に抱かれるようにして車いすを押す少年と、その車いすに乗った少女がいるのに、ふと気付く。
「行こうか、――」「はい、どこまでも。一緒に――」
そんな声が聞こえた気がする。
やがて軋む音と共に電車が到着し、僕は振り返らずに開いた扉へ足を踏み出した。
春風はどこまでも優しくて、僕は彼らの幸せを願わずにはいられなかった。
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雨を疎ましく思うようになったのはいつごろからだろうか。
小学生の頃は傘も差さず走り回り、水たまりに飛び込んでいたような気がするのだけど、そういえば最近の小学生がそうしているところをあまり見ない。きっと親が酸性雨の危険性について熱心に教え込んでいるに違いない。
駅まで歩く道の脇に紫陽花を見つけて、僕はふと立ち止まった。記憶が定かならば、土の酸性度だかによって花の色が変わるのだ。目の前に咲いた紫陽花の色は濃い紫色をしていて、花びらを伝って落ちた水滴まで染まった気がした。もっとも基準の色など分からないけど、雨で霞む景色の中に垂らした絵の具のように、それは僕が足を止めるのには十分だった。
雨は空気を冷やし、衣替えを済ませた人が身を抱くようなそぶりを見せた。煙るような梅雨の雨は些か肌寒い。
裏手の道には足早に歩く人たちの色とりどりの傘。雨の日は、晴れや曇りの日よりも街に個性があふれる。コンビニで売っているような安っぽいビニール傘、ビジネスマンの黒い傘、小学生の黄色い傘、スーツで決めたお姉さんのお洒落な傘、はたまた幼稚園児のレインコート。表情からは見えないその人の気持ちを少し知ることができそうで、それは育った環境によって色が変わる紫陽花のように思えた。
そんなどうでもいいことを考えて、今日も電車を待つ。
抱えきれないほどに湿気を含んだ風がときどきホームを抜けるように吹く。癖毛がちな僕は少し髪が気になって、指先で確かめた。
向かいのホームを見れば、いつものあの子が今日も本を読んでいる。湿気で本が読みにくくないだろうか。そんな余計な心配をしてしまう。今日はどんな本を読んでいるんだろうか、その表情から読み取ることはできなかった。
疎ましい雨が降り、些細なことにだって落ち込んだりもするけれど、もう少しで来る夏に心が躍るこの季節が、僕は嫌いじゃない。
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陰鬱な梅雨が明け、本格的な夏を間近に控えた陽気は容赦がない。手にした缶が冷たい水滴をその身にまとう。ホームを吹き抜ける風が気持ち良くて、僕は思わず伸びをした。初夏の空のずっと向こうに見える雲はいつもより厚みがあって、とても触り心地が良さそうに思えた。ふかふかのベッドを思わせて、今度はひとつ欠伸。
そんな時に限って、向かいのホームで本を読む彼女はちょうどこちらに視線を向けていたようで、僕がばつの悪そうな顔を見せると、ぺこりと、頭を下げた。
青々と茂らせた葉からは若い夏の匂いがして、いっそこのままどこか遠くに出かけたくなる。この電車に乗って、いつも降りる駅を通り過ぎて遙か遙か先へ。今なら僕の心は夏の空をも越えることができる。行き止まりの駅まで行って、そこからバスに揺られてもっと先へ。坂道を下り、海の見える場所へ。
日常へのささやかな反抗は、到着した電車の音にかき消され夏の空気に霧散した。
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日が空の頂上から下り始めて少し経った頃、今日はいつになく早く帰宅の途につくことができた。蝉の鳴き声は時雨のように降り、夏の過激なほどの日差しは容赦なく照りつけている。けれど駅に近づくにつれ雲行きが怪しくなり、着く頃には夏特有の雲から大粒の雨が降り出した。
今日に限って傘を持っていなかった僕は、そのまま駅で立ち往生をせざるを得なかった。夕立はすぐ止むと言うけれど、果たして本当なのか疑ってしまうほどの勢いだ。遠くでごろごろと雷が鳴り、張り込めた厚い雲で一気に暗くなった世界は、ついさっきまでの様子を思い出すことができない。大粒の雨が地面を叩き、雷光が厚い雲を芯から照らすその様子を、僕は雨に濡れないベンチに腰掛けて眺めていた。
たまに来る台風が夏の名残をぬぐい去り、どこからともなく秋の気配を連れて来るのだろう。それは夏の夢を見ても、起きたらいつしか忘れてしまうかのように。
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秋というものは、どうしてこんなに物悲しいのだろうか。
何年か前のちょうど今の頃。陽が沈み、混ざり合う橙と群青の下。自転車をこぎながらそんなことを考えたことがある。当時はどれだけ考えても、結局納得できる答えが出せなかった。それでも少しだけ胸が締め付けられるような、そんな無力さを感じたことを覚えている。
いつの間にか日が短くなって、夕方の鐘が一時間早くなって、空が高くなって。薄着で寝冷えして、ふとした瞬間の風に香る金木犀を感じ、蝉の音と雨を告げる蛙の鳴き声が次第に弱くなり、透き通るような虫の音に移り変わるうちに、気がついたら秋が深まっている。それはまるで仲良く遊んでいたはずの友達が、自分に内緒で遠くに引っ越してしまったような感覚。夏は僕を悲しませないために、そっと別れを告げて去っていく。夏に片想いをしていたことに、僕は秋が来てから気付くのだ。
ふとホームの裏手の道を見れば、着物に羽織を着た女性がいることに気付く。空を見上げているのでその視線を追ってみれば、そこには薄く白い月が見えて、普段見落としていた大切なものを見つけたような、そんな気分にさせた。
やがてその女性は凛とした仕草で懐中時計を見ると、まるで時を刻むような歩調で優雅に歩いて見えなくなった。
向かいのホームに視線を移せば、今日も彼女は本を開いていた。風がさらさらと髪を撫で、少し俯いた表情はまるで絵のようだった。きっと良い絵になるはずだ。
僕は自分の鞄から本を取り出した。なんの変哲もない文庫本だけど、自分で選んだブックカバーを付けているのは、彼女の影響であることを認めざるを得ない。一度も会話をしたことがないけれど、誰かに変化を与えることができる。そんな僅かな生活の変化が、僕にはとても心地良いものに思えた。
秋色に染まって落ちた葉が、足下で乾いた音を立てて風に吹かれてゆく。そよぎ吹かれ飛んだその葉の行方さえ、僕は知ることができない。
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夕方になって降り出した冷たい雨は、すぐに雪に変わった。都会からこの街に来て初めての冬。すでに何度か雪は降ったのだけど、こんな勢いで降ったのは今日が初めてだ。雪はみるみる積もり、すべてを白へと覆い隠していった。
翌日。なぜだか落ち着かなくて早く目覚めた僕は、いつもより早く家を出たのだけど、どうやらもっと前に電車は運転見合わせになっていたようだ。駅は普段より幾分ざわざわとしているけれど、もともと利用者はそれほど多くない駅だ。暖を求めた少ない人たちが駅舎や、止まって動かない電車の中にいるのがちらほらと見える。
僕は会社へ遅刻する連絡を入れると、自動販売機で飲み物を買った。
このあいだ買ったばかりの安くて薄い手袋は、刺すような冷たさの風を和らげるには頼りない。かじかんだ手に伝わる缶の熱さがじんわりと染みた。
発車できないまま止まっている電車のせいで、向かいのホームの様子は分からない。けれどどうしても乗り込む気になれず、僕は外で雪をずっと眺めていた。手にした缶は次第に冷めて、そろそろ僕の手から熱を奪い返すのだろう。
降り頻る雪を見上げると、まるで宇宙空間をとても早く進んでいるように感じた。雪はさながら光る恒星のようで、自分は空間を高速で進む船に乗ったような錯覚。そんな感覚に酔った僕は、冷たいベンチに腰掛けてずっと空を眺めていた。
雪の日、静かな世界、待ちぼうけ。
積もった雪は周囲の音を吸収して、世界を静寂で覆っていた。
やっと電車が動く見通しが付いたのは昼も近くなってから。僕はとうに冷えた手を擦りながら、乗らない理由はないはずなのに、それでもなぜだか電車に乗る気にはなれなかった。昼の日差しとはいえ弱々しく、手のひらを暖めるには足りない。
向かいのホームの電車も動き出すようだ。彼女は無事に学校に行けたのだろうか。彼女が本を読む姿が見えないだけで、なんだか今日は落ち着かない。
しばらくすると、駅員はようやくの発車を告げる。
手動に切り替わって閉まっていたドアが、がたん、と無骨な音を立てて一度開く。そのあともう一度、扉はがたんと音を立てて閉まった。
枕木を走る規則正しい車輪の音が、次第に間隔を早めてゆく。巻き上げた風が積もった雪に冷やされ、僕の頬をつん、と撫でた。
電車を見送ってため息をひとつ。冷たい空気に触れた吐息は、大げさなくらい白くなって広がってから広がって消えた。
もう一度。深呼吸のようにため息をつきながら向かいのホームを見たとき、僕の胸は冬に似合わないくらい熱くなるのを感じた。
誰もいないと思ったホームに、彼女の姿を見つけたからだ。けれど彼女はいつものように本を読んでいるわけじゃなくて、僕と同じように初めから向かいのホームを見ていたように感じた。その表情はどこか憂いをおびたように見えて、雪でしっとりとした空気にとてもよく似合っていた。
瞬刻。彼女は僕を見つけると驚いたように表情を変えた。そのあと彼女はぺこりと頭を下げると、僕に向けて小さく手を振った。
ぎこちなく手を振り返した僕は、それだけでは居ても立ってもいられなくなって、向かいとこちらのホームを繋ぐ橋へと体が動く。ちらりと彼女を見ると、こちらを見ながら同じように駆け出す彼女の姿が見えた。
最初の一言はどんな言葉がいいのだろう。そんな少しの不安と、それを上回るうれしさで、僕は階段を一段飛ばしながら上った。
ほんの数秒。それでも長く感じられる相対性を持った瞬刻を待ってから、彼女も同じ場所に辿り着いた。寒かったからか、階段を駆け上ったからか、あるいは別の理由――僕は心の中でそれを望んでいた――か、彼女は上気して少し頬を染めていた。
少しの距離を置いて見つめ合った僕たちはとても滑稽かもしれない。けれどいつものように僕たちを隔てるレールはもう、ない。少しだけ変化しそうな日常を思いながら、胸で静かに鼓動を高める気持ちに素直になろうと、僕は一歩を踏み出した。
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