ビタースウィート

かおり

ビタースウィート

雨が降っている。

 梅雨の走り。湿気を帯び、洗濯物をなかなか外に干せず、傘を持ち歩かねばならない日が続くこの時期は、鬱陶しくて、人々に倦怠感を抱かせる。私もその例に漏れず、一番奥のカウンター席から、右手にある窓の外をぼんやりと見つめていた。

 傘を差し水たまりを避けながら、注意深く歩く人。反対に傘がなく、水たまりも気にせず駅に駆け込む人。店の屋根下に立ち退いて、眉をひそめて空を見上げる人。窓の外に見える人々は、みんな雨に気を取られている。

 喫茶店の中は今、私一人だ。マスターは常連の私に気を許しているのか、不備のあるものを買いに、近くのホームセンターへ出掛けている。店内はとても静かで、ぽつぽつ、ぱらぱら、という雨が地面や屋根に当たる音、それから店内で流れているマスターのお気に入りだと言うジャズ音楽が、この落ち着いた雰囲気を形作っていた。

 俄然がぜんとして、短い着信音と共に、携帯の液晶画面がパッと明るくなる。私は飛びついたが、間もなく肩を落として携帯を置いた。届いたのはただの広告メール。待ち望んでいるものではなかった。

 お昼過ぎ――昼食を終えたあとの、この時間帯、普段であれば、幸福な満腹感と眠気に満たされる頃合だ。しかし私は現在、それらを一切感じておらず、はたまたそんな気分にはなれそうにもなかった。それは梅雨から来る倦怠感だけにらない。

 ふたたび、携帯の液晶画面に目を向ける。真っ黒な反転世界。その中に、自分の浮かない顔が映るだけ。後を引くように、先ほどから、私は何度も何度もこの行為を繰り返しては、幻滅して憂えている……。

 彼からの連絡は、一時間前に途絶えていた。いつもながら、ひどく一方的である。受け取ったメッセージには、今日の約束を破棄しなければならなくなったこと、それについての謝罪の言葉が、二文程度で簡素に書かれていた。読んですぐに返信したけれど、それに対する彼からのメッセージは来ないどころか、既読すらつかない。

 なんて未練がましいんだろうか、私は。

 まだ、この黒い世界に、彼からの返信が映ることを期待している。

 けれど会えないのなら、せめて、文字上でも良いから話がしたかった。言葉を交わすことすらできないなんて、そんなのはあんまりだ。

 私も彼も、最近は仕事が忙しく、お互いにスケジュールが合わなかったりして、隣同士の市に住んでいながら一ヶ月も顔を合わせていなかった。久しぶりに取れた休日が、偶然に彼のものと同日で、私たちはすぐさまデートの約束を取り付けたのだ。楽しみだね。どこに行こうか。そう二人で語り合って、ますます期待は膨らんだ。

 それなのに。今日、貴方に会えることを、何よりも心待ちにしていたのに。

 相変わらず、彼は勝手だ。私との約束よりも仕事を優先したか、もしかしたら雨が降り始めたから面倒になっただけかもしれない。以前もそれらと同じことがあった。彼はそういう人だ。私のことは、いつも後回し。私にはいつも知らん顔で、自分勝手に事を決めてしまう。私は、そういった性格を知った上で、彼と付き合っている。

 それでもやはり、悲しくなるのだ。彼にとって、私との約束は、不意に飛び込んだ予定や天候で左右されてしまうほど取るに足らないものなのかと、実感するたびに。俺も楽しみだよ。そんなのは結局、口先だけ。今まで何度、裏切られてきた? 数え切れない。

 このまま、この停滞した関係を細々と続けていても、どうしようもないのは分かっている。それでも、どうしても彼を放っておけなくて、離れがたく、嫌いにもなれなかった。どんなに裏切られても、どんなに不満があり怒りたくなっても、最後には許してしまう。悪い癖だ。今回だって、きっとそうなってしまうはずだ。

 私は彼に執着している。だから、私から別れを告げることはできそうにない。だが彼は恐らく、私に執着などしていないだろう。何かあれば、彼はただちに私を棄ててしまうのだろうとすら思う。しかし――……

 私は、すっかり冷え切ったコーヒーをひといきに飲んだ。ほろ苦い。何だか、泣きそうになる。

 棄てられてもいい。これが、恋だとか愛だとか、そういう類いの感情では、もはやないのだとしても。彼との関係性や、今まで過ごした長い時間に対する、ただの執着であるのだとしても。私は彼の傍にいて、彼に尽くしたい。彼が私と縁を切ることを望むのだとしたら、それでも構わない。彼の望んだ通りにしよう。

 ふと、窓の外を見る。雨はまだ止みそうにない。

 傍らに置いていたハンドバッグから財布を取り出し、お代を空になったカップの傍に置く。マスターは、もうそろそろ帰ってくるはずだ。携帯を持って、席を立ち、壁と椅子の間の狭いところをゆっくり歩く。出入り口に辿り着いて、がらんとした傘立てから自分の傘を取り出した。まだ少し濡れている。持ち上げると、雫がぽつぽつと数滴落ちた。

 お気に入りだからと数年使い続けてきた、白のフリルが可愛らしいこの傘。改めて見ると、穴は空いていないものの、随分古くなった。少し黄ばんでいるような気もするし、の部分の皮も少し剥げている。

 でも、まあ良いか。壊れているわけではないし、買い換えるほどではない。せっかくのお気に入りなのだ、使い続けよう。

 私は喫茶店を出ると、お気に入りの傘を差して、雨の町中へ踏み出した。

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ビタースウィート かおり @da536e

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