お題:最弱の動揺
お題:最弱の動揺
必須:個室
「絵画と記憶」
案内された個室で待っていたのは、一枚の絵だった。
所有者の名前は、知っている。その絵に名を視ながら、私はここまで案内してくれた執事の彼に尋ねた。
「どうしてこれを、私に見せようと?」
「主人より言伝を預かっております。紗倉様が訪れた際には、この絵をお見せするようにと」
蓄えた髭の下でゆるりと紡がれた言葉が、まるで糸のように私の足を縛り付ける。床と私を縫い付けるように、執事の彼は声を伸ばす。
「この絵、この部屋だけは、紗倉様の物となります。私どもは掃除と管理以外でこの部屋を使用することはございません。ご自由に、お使いください」
「……そうですか」
それではとコトリと言葉を置いて、執事が扉の音と共に居なくなる。
寂しい部屋だった。
時代に取り残されたタイル張りの床を歩く。室内をぐるりと回って、部屋に残された絵と対面するように椅子に座った。上等なクッション張りの椅子は、私の居住まいを正すには十分な柔らかさで緩むことのない意識を撫でる。
「この部屋を、私に」
空白に消そうとした言葉が、私の記憶を部屋に呼ぶ。
この家の主人と出会った頃、私はまだ、ランドセルを背中に背負っていた。
好奇心だけが取り柄の子供のくせに、妙に大人びて、クラスの子とは馴染んでいるようなそうでいないような境界線をたどっていた。大人と話をする方が好きだった私は、その日も、颯爽と家に帰っていた途中だったように思う。
一人の少年を、見かけた。薄いグレーの髪色が、黄色ではない肌が、目に焼きついた。
上等な服を着ていたその少年に、Tシャツを着るだけだった私が興味を惹かれないことはなく、道草よろしく、私は早速彼の後をつけた。
不気味な洋館に、彼は住んでいた。毎日掃除をしても足りない広さの館には、絵に描いたような庭があり、私が隠れるには十分の場所があった。ランドセルの色だけが、いっそ小気味よく見えるくらいの緑の敷地だった。
最初は、それだけで終わった。雨が降り出した上に、少年が館から一歩も外に出なかったからだ。
窓から覗くこともできず、ただただ、周辺を探検する日々が続いた。少年の生きている姿を探して、只管に、通い詰めた。
だが、私がその少年と出会うことは、ついぞなかった。
「いらっしゃいませ」
執事の彼に呼びかけられたのは、それから一年が経過した初夏のことだ。
日傘を差した執事が、姿勢よく庭に出てきたのを見て、じつと見守っていた。箒を取り出し、庭の掃除でもするのかと油断していた時に、さっと、その棒が伸びて頬の横を掠めて、私は時を忘れた。
どっどっと忙しなく騒ぎ始める心臓を押さえて、日の光を傘に受ける、執事の暗い顔を見上げる。
「主人がお呼びです。中へどうぞ」
防犯ブザーを持っていなかったことを、あの時ほど後悔したことはない。
しかし、私の不安を他所にやるように、執事は丁寧に道を進んだ。階段を上り、扉を静かに開けて待つ姿は執事と呼ぶべき風格があり、私の心臓を黙らせるほどの説得力があった。
「いらっしゃい」
屋敷の主人は、とうに還暦を超えた老獪だった。
小太りな腹はつんとシャツの生地を引っ張り、皺のないスーツが館の内装に似合っていた。
緊張と不安で固まる私に微笑み、彼はリビングへ、と目で促した。
椅子に座ると、私の足は地に届かなくなった。両手を腕置きにおけば、脇腹が不安定になり、仕方なく膝と手を揃えて座る。
私の前に、いかにもなショートケーキと紅茶が並べられ、向かいに座った主人はやはり絵に描いたような微笑みを浮かべて、執事を呼んだ。
「あの絵を」
「かしこまりました」
片手だけで促された洋菓子を、私はおずおずと銀のフォークで崩す。ほろりと溶けるように崩れた生地は、甘い香りで食欲を刺激し、一口への不安をさらっていった。
「君は近所に住んでいるのかね?」
「……はい」
「そうか。いやね、私が越してきてから、執事や召使たちが君を見かけるというものだから、気になってしまってね。ここは君の遊び場だったのかな」
「違う、けど……」
ケーキの一口で言葉を濁すも、主人は沈黙で私の声を引き寄せる。
執事の姿も音もなく、いたたまれない静けさに私は思わず、両手を置いた。
「見たことない子が、いたから」
「……君と同じくらいの、子供かね」
「そう」
白状すると少しだけ体が楽になる。静けさが遠のき、執事の靴音が私の意識に寄り添った。
「お待たせ致しました」
礼を述べて、主人は執事に椅子を用意させた。そこに置かれた絵を見て、私は息を呑む。
「君が見たのは、この子かもしれない」
写真のように描かれたその絵には、確かに私があの日見た少年の横顔があった。
天鵞絨のカーテンの向こうには開かれた窓があり、その手前に座った少年は、緑を背に目を閉じている。
「不思議な絵だと言われていてね。時折、この絵から少年が抜け出るという話があった。私は見たことがないが……もしやと思ったんだ」
背筋を凍らせるような話をしながら、主人は静かに両手を組み、顎を載せる。
「私が死んだら、この絵を君にあげよう」
まるで呪いを他人に譲るような言葉だったと、私は思った。
見つかってからは、私がその家に通う頻度は少なくなった。子供を心配する親が見回りを始めたこともあり、季節の流れや子供の意識の変わりようも重なったからだ。私が行っても留守の時があったことも、理由の一つに数えていいだろう。
そうして時が過ぎ、私がこの土地を離れてしばらくしても、館はひっそりと残り続けた。
主人の訃報を確認したのは、彼と出会ってからゆうに二十年もの月日が経過してからだ。
香りの焚き染めた時代遅れの手紙が届き、久しぶりにこの館を訪れた。絵の置かれた部屋に案内されたのはこれが初めてだというのに、どこか懐かしいような気分になった。
「……本当に、任されるとは」
溜息に似た吐息に言葉を載せると、開いた窓から風がそよいできた。心地良い緑の香りに、瞼を閉ざす。
『待っていたんだ、ずっと』
文字が脳裏に浮かんだのか、声が聞こえたのか、その時判断はつかなかった。
木々のざわめきに合わせて、カーテンが揺れる。レースの隙間からこぼれた陽に、影が落ちる。
『もう、一人じゃない』
透ける二人の少年をその目に見て、私は息を忘れた。
瞬きの間に、影が溶ける。
「ああ、なるほど……そういうことか」
彼の意図が分かってようやく、私は大きく肩の力を抜いたのだった。
即興小説まとめ 森越苹果 @Morietsu1
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