即興小説まとめ
森越苹果
お題:ねじれた女
[ねじれた女 Woman twisted]
ナースコールが響いていた。朝陽に緑が透けるような木漏れ日の落ちた庭は彩度が高く、眼鏡で石板の照り返しを受け止めながら進んだ先の病棟で、一人の患者が発作を起こしたのだ。
精神障害が病気だと、障害だと認められたのは最早本に記されるような時代の話だ。
古びた鍵を差し込み回せば、ガチャンと二重の鍵が内側で外れる。押せば開く自動扉ではないのは、この病棟に収容されている患者が、外に出ることを許可されていないからで、決してこの病院が時代に取り残されたわけではない。
「あっ、先生!192号室です」
「あいはい」
煙草のフィルターでも噛み潰すような口の動きで返事をし、看護師の開けた扉をくぐる。入った瞬間から、この病棟に充満している空気以外の篭ったなにかが、鼻腔を侵食した。
感覚が、ずれる。
「先生、先生、今日はわしの孫の面会があるんじゃが」
「井上さんは数日前に面会終わったでしょ」
「先生、あんなあ、あの看護師さんどうにかならんのか。今日も私の机の上の花を持ってって、もう、困っとるんですよ」
「田中さん、あの花は売店から盗んできたって聞いてますよ。だめ」
わっと子供のように群がる老獪じみた患者に対応しながら、間を抜ける。数字の数はでかくとも、この病棟にいるのはたかだか80人の患者で、8割が今のような、病院に押し込まれ、外に出る機会を奪われた老人たちが占めている。
「アサヒさん、失礼しますよ。なんのために拘束外れたと思ってます?」
「だって、先生。向かいの人がね、私の方を見ながら死ねとかぶつぶついうんですよ」
「幻聴がひどい患者さんだと紹介したでしょう。耳栓は?」
「あれはね、隣の宮田さんが食べてしまって」
「そんなことがあればうちの看護師が駆けつけてます。失くしたの?」
「先生、聞いて。今朝ね、夢を見たんですよ。先生とね、出かける夢」
旭泉というその患者が、この病院に入院をしたのは、かれこれ10年以上も前になる。
はじめは震災のPTSDを疑われ、母親に連れられてやってきた。その当時、アサヒはまだ高校生で、親離れ子離れがうまく進んでいない家庭にあった。
精神科の受診すら初めてなせいで、母親も含め治療への理解が悪く、数ヶ月で中断。その後アサヒの症状が悪化したのをきっかけに再度受診し、リストカットを重ねて大量失血をしたことで最初の入院が決まった。
当時、先生と呼ばれる自分はまだ研修医を抜けたばかりの若手だった。多くの患者、スタッフとの関わりに慣れることが第一の目標で、治療についての経験は少なかった。
「……今度はどこに行った?」
「今度はね、車で出かけていてね、道を間違えて、海に突っ込んじゃうんですよ」
「それは怖い。苦しかっただろうね」
「そりゃあもう、先生。苦しいですよ、水がね、ばあーっと、こう、入ってくるんですよ」
見舞客用の椅子に座り、アサヒの顔を観察する。手を伸ばすと自ら口を開け、側頭部に触れると大人しく片目を閉ざす。瞳孔含め眼球の様子を観察し、所謂「神経が昂ぶっている」様を会話に示すアサヒを見つめる。
アサヒは、汗をかいていた。春先に入ったばかりの、まだ寒さすら感じるこの時期に、大量の汗だ。
視線を外して、ベッドの周囲に散らかったものを確認する。備え付けの棚は流石に外せなかったようで傷が入り、その中に置いていた着替え、飲み物、菓子類、作業療法で作ったと言っていた折り紙やカレンダーが散らばっている。
この程度は日常茶飯事なので、次にアサヒの手を確認した。
爪先が割れ、血がにじむ。それだけにしては血生臭い。手首や背中を確認しても傷はない。
「小越さん、ここ……」
「先生、隣もです」
異変を感じて入り口を振り返ったところで、看護師に訂正された。それなら先に言わんかい、というささくれた言葉が浮かんだが、二人の患者が同時に騒ぎ、落ついてこれなのだ。歩きやすい室内を横切り、真向かいのベッドに顔を向ける。
「倉下さん、開けますよ」
カーテンを開くと、より強い血の匂いが鼻をついた。
「……ああ、先生」
にこりと、嬉しそうに破顔したのは、茶色と黒と白の髪が入り混じった、気弱そうな患者だった。
既に処置を施され、落ち着いたところで部屋に戻されたのだろうが、どうやらそれでは不満だったらしい。包帯は解かれ、すっかり真っ赤に染まっている。
「先生にね、診てもらわないと、やっぱり止まんないんですよ」
「担当の岡野さんはベテランの看護師ですよ。私なんかよりも止血はずっと上手です」
手袋をポケットから取り出し、倉下の片手に触れる。表にひっくり返すと爪で何度も掻いてざらついた皮膚が光に晒される。
「アサヒさんの着替えは、すぐに。倉下さんは一度診察室にと行ったのですが、先生が来るまで動かないと聞かなくて」
「ああ、そうなんですね」
ちらと視線を倉下に合わせれば、倉下は変わらずの笑顔で頷く。
見た目と言葉と態度は従順で、しかし、頑なに自分の思うことしかしない。そう見えるのが、健常と呼ばれる自分たちからの視点だ。倉下から見れば、こちらの方こそ「そう」なのかもしれない。
適切な、適量な優しさと配慮をくれるから自分を呼ぶだけで、そう対応しなければここも終わりだ。
入院の経歴はアサヒより少ないが、両親や家族には煙たがられており、一回の入院が長くなっている。次の退院でもうこの病院は終わりだろうとスタッフは誰もが思っていて、ケアマネも協力的なのもあり、グループホームさえ決まれば確実だ。
診察室までやってきた倉下と向き合い、処置を行う。血を拭き取り、傷の状態を確認、写真としてデータ化し、消毒をしたところで岡野と代わる。数値を打ち込み、データを取り込み終える時にちょうど包帯巻きが終わり、最後の確認となった。
「……倉下さん」
「はい、なんでしょう」
「私は毎日、いつも病院にいるわけではありません」
「そうでしょうねえ」
「他の先生も同様です。どうしても手が離せない時があります。そんなときに重なったら、倉下さんの命が危ないんですよ」
「でも、ここは病院でしょう? 岡野さんも処置がお上手だし」
「なら、私は呼ばなくて構いませんね。他の看護師共々、無茶な話は誰もしていないと思います。ちゃんと話を聞いて、自分の体を傷つけたり、ご飯をひっくり返したりはしないでください」
「ねえ、倉下先生」
パジャマ姿なのを今更気にしたように肩を竦めて、笑顔のまま変わることのない表情が、光のない瞳を細くする。
「明日も、ご出勤でしょう。診察、よろしくお願いします」
「……はい、もう行っていいですよ」
「はい」
立ち上がり、看護師に寄り添うように診察室から出て行く倉下の後ろ姿は物静かな女性そのもので、だからこそまとわりついた執着が鳥肌を呼ぶ。
「先生、倉下先生。大丈夫ですか?」
「たまたま同じ苗字だったからと、結婚相手みたいに誤解されるのは止めてほしいですね」
白衣越しに腕をさすり、小越という看護師に言葉とカルテを渡した。多くは電子カルテに直接記入となっているが、今のような対応をとった場合は、紙カルテにも記載するような手順をとっている。
万が一のデータが飛んだとき、あるいは、他病院が違う媒体のカルテだったときなど、迅速に情報共有するための応急処置のようなものだ。
「アッハハ、先生美人だから。女の方にももてますもんねえ」
「はは……それじゃ。私午後休なので、あとは菅野先生に」
「はいー」
病棟をあとにし、来たときと同じく鍵をかける。
手袋のない指をすんと嗅ぐと、先ほど香った血の匂いが染み付いていた。
陽光に開いた花を白衣の裾で遊ばせながら、道を行く。
「……本当、早く行き先が見つかればいいのに」
複雑な願いを込めて呟きながら、指の甲にキスをした。
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