セッション!

りじん

ラムチョップ

 そろそろ来るだろうか。店の前でスマホを取り出して、時間を確認する。ちょうど17時になる。周りを見渡した。ちょうど右手側に人影を見つけて、それが彼女だと気づいて手を挙げる。

「マコ」

 黒のスニーカーに、同じ色のジーンズ。真っ白なシャツに、黒のロングカーディガン。なるほどまだ涼しい春先にはぴったりの格好だけど、相変わらずシンプルな格好だった。整えられたショートボブだって、きっと伸ばすのが面倒だという理由なんだろう。一度も染められたことのない黒い髪は羨ましいくらいつややかだった。

 そして、彼女は驚くぐらい身軽だった。手ぶらで目の前にいた。腕時計すらしていない。毎回これには違和感があってそわそわしてしまう。サイフは? 家の鍵は? スマホはちゃんと持ってるの? 全部持っていることを知っているのに、尋ねたくてしょうがない。

「あれ、ごめん。待たせちゃった?」

 私が彼女をまじまじと見たからか、そう尋ねてきた。とはいえ、そういう割にはずいぶんのんびりした言い方だ。きっと彼女はちゃんとわかっているのだ。自分がきっちり時間通りに来たことを。その上で、私に尋ねてきているのだ。だから私は首を横に振った。

「全然大丈夫。時間ピッタリ。入ろっか」

 店の扉を開けて入ると、店内は薄暗くて静かめのジャズがかかっている雰囲気の良い店だった。ラムチョップが美味しいと評判のこの店に、一度来たいと思って彼女を誘ったのだ。

 席についてメニューを広げ、目の前に座るマコに声をかける。

「ワインでいい?」

「うん。お肉だったら、やっぱり赤?」

「あ、でも、このスパークリングワインが美味しいって書いてあるよ」

「じゃあそれにしようかな」

 二人一緒に、スパークリングワインを頼むと、メニューを広げて食事を考え始める。彼女がメニューを覗き込むためにこちらに顔を近づけたので、そっと引いた。

「ラムチョップはこの三種類全部頼むとしてー。あ、ラム肉のたたき美味しそう。あとこれだ。ポテサラ。ほか食べたいモノある?」

 ひょいひょいと簡単にメニューを決めていく。軽快な彼女は心地よい。「メインにパスタでも食べよう」と伝えると、彼女は店員さんに声をかけて料理を注文した。

 スパークリングワインが運ばれて来て、二人で乾杯する。口当たりが良くて、渋みもなくて飲みやすかった。

「先月行ったうなぎ屋も美味しかったけど、ここも美味しそうだねえ」

 マコが目を細めて笑った。細くなるその目が好きだった。

 彼女とはひと月に一度、美味しいものを一緒に食べに行く仲だった。こうやって二人で食事をするようになったのは、大学を卒業してからのことだ。

 大学は一緒だったけど、学部が違ったため、在学中に二人で話すことはなかった。校内でたまに見かけるくらいで、接点がなかった。たまたま卒業後の同窓会で、共通の友人を介して挨拶したのがきっかけだ。マコがちょうど同窓会に来る時に読み終わった本が面白かったという話をしていて、それを借りたのだ。それが、始まりだ。

 借りた本を返すために、次の約束を取り付けた。きっとそれは口実だった。美味しい食事ができそうなところを探して、連れて行った。そしてうまい具合に美味しい食事と本の話がはずんで、その時彼女が持っていた本をまた借りることが出来た。そんなことを繰り返しているうちに、いつの間にか月一で美味しい食事の会へと変貌し、三年ほど続いている。

「最近仕事どうなの?」

 マコに尋ねられて、私は運ばれてきたポテトサラダを突きながら答えた。

「普通かなあ。仕事も別にって感じだしねえ。マコは、最近仕事は?」

 彼女はフリーのイラストレーターだ。本人曰く、少しお堅いイメージのイラストが得意で、企業が使うプレゼンテーション用のイラストなどを描いている。

「まあ、概ね順調かなあ。忙しいイコール、儲かってるだし」

「ああ、いいねえ。そういうの」

 一企業の経理である私にはそう言った実感がないから、好きなことを仕事にしている彼女は羨ましい。

「まあでも、働けなくなるのが怖いから常にストレス感じてるけどね」

「ああー、想像できないけどしんどそう」

「そうなんだよ。明日も締め切りだしさあ。このポテサラ美味しいね」

「え? 明日締め切りなの?」

 驚いて顔をあげると、マコはポテサラを口に運ぼうとしているところだった。フォークに乗ったままのポテサラが目に入る。

「うん? そうだよ」

「今日大丈夫だったの? お酒も飲んでるし……」

「うん、平気だよ。やばかったら言うし」

 軽やかにそう言ったマコに、私は内心ため息をつく。いつもこうだ。危ないのではないだろうか、とこちらばかりが心配になる。

 マコのことは大学時代から知っていた。いつもみんなに囲まれていて、その中心にいた人だ。ムードメーカーというわけじゃなく、大抵は誰かに話しかけられていて、静かに微笑んでいる人。その相づちが綺麗で、時々大学で見かけると、目で追っていた。

 いつも軽やかで、どこにでも行けそうな人だった。それは遠くから眺めるだけの憧れだったのかもしれない。

「このたたき、めっちゃうまい」

 店員が運んできてくれたラム肉のたたきを食べて、彼女が少し仰け反った。それに私もラム肉を口に放り込む。ホースラディッシュと合わせるとツンとした香りと、くさみのない肉の味が口の中に広がる。

「うん! 本当だ。すっごいおいしい」

「本当幸せそうに食べるねえ」

 おかしそうに私を見てくるマコ。笑われた私は恥ずかしくなって目を逸らして言った。

「幸せだよ、そりゃ」

 だって、とても美味しい料理と、とても好きな人がいるのだから。

 その言葉を飲み込む。

 ――彼女が、好きだった。

 最初はただの憧れだったのに、話すようになって、それは確かな形となってしまった。きっと目で追っているうちだったら忘れられたのに。彼女と月に一度会うことは、私の中の好きの形をどんどん固めていった。

 今では誤魔化せないくらいの、好きの形になってしまっている。

「確かにここ美味しいねえ。よく調べたね。ありがとう」

 マコにお礼を言われて、私は首を横に振った。

「先輩に教えてもらって、ずっと気になってたんだよね。大正解だった」

「いや、でも本当美味しいよ。食べてる途中だけど、また来たいわ」

「じゃあ、また来ようよ」

 震えそうになりながら、そう言った。いつまでこの時間が続くのかと、後ろに佇む薄い暗闇が濃くなるのを感じる。振り向いてはいけない。それを見てしまえば、あっという間に闇の中に飲まれてしまう。

 だって彼女は軽やかだ。思い出してしまう。大学時代、友人の隣で静かに微笑む彼女を。あっという間にどこかへ行ってしまえそうなくらい、通りかかっただけのような存在に見えた。

 今の私とマコも同じじゃないだろうか、と何度思っただろう。次に会える確証なんてどこにもない。月に一度、食事をするだけだ。マコが飽きればそれで終わり。驚くほど脆い絆だということは自覚している。会社も違えば、職種も違う。会おうと思わなければきっと会わなくなるだけ。そうして段々と遠い存在になっていくのだ。暗闇に引き込まれたら、相手が見えなくなる。

「それじゃ、来月もここにする?」

「すごい、大好きじゃない」

 マコの提案に、笑って返す。

「だってさ。いい雰囲気だし、デートにも使えそうだよねえ」

 マコの何気ない一言に、身を固くした。息を止めて、次の言葉を待つ。次はなんだろう。「今度彼氏と来ようかな」か「彼氏がいたら良かったな」とか。どちらにせよ絶望だ。なんだか寒気がしてきた。

 けれど彼女の言葉は、なんてことのないコメントだった。

「カップルも多いし、みんな幸せそうだね」

「あ、うん……」

 構えていた分、拍子抜けして、適当な返事になってしまった。沈黙の時間。その話の隙間に店員がラムチョップを置いていく。

「いっただきまーす」

 マコが早速ラムチョップを手にとって、そのままかじりついた。私も真似する。お行儀よくなんて言ってられない。こうやってがっついたほうが、満足に頬張れるのだから。

 ラムチョップは柔らかくて、噛む度にラムの香りを楽しめる。食べごたえがあるはずなのに、全然足りない。もっと食べたい、と思ってしまう。

「めちゃくちゃ美味しいね、これ」

 マコが唸るように言うので、それに私も頷いた。

「うわー、もっと食べたい。次はこの柚子胡椒にしよ」

 頼んだ3種類のラムチョップ。最初に食べたのは塩コショウのオーソドックスなものだった。もう2種類は柚子胡椒とトリュフマスタードだ。

「幸せだなあ」

 ラムチョップにかじりついたマコ。それを見て、好きな人と美味しいものを一緒に食べる幸せが、暗闇をやっつけてくれないかと願わずにはいられなかった。この時間が続けばいいのに。いつか失われてしまうなんて、嘘みたいだ。

「また来ようね」

 後ろの暗闇なんて、どこかへいってしまえばいいのに。「また来よう」なんていう、儚い武器を何度振り回しても、到底追い払えない。

 だってこれは、約束なんかじゃない。


***


 会計を済ませて店を出ると、辺りは真っ暗だった。よく食べて、よく飲んだなあと空を見上げる。これで今月は終わり。来月も、彼女が気に入るようなお店を探さないといけない。

 駅に向かって歩こうとしていると、隣にマコがいないことに気がついた。足を止めて、彼女を探す。

「ミズキ」

 名前を呼ばれて振り向くと、マコがこちらにつかつかと歩み寄ってくるところだった。

「どうしたの?」

 ちょっと身を引いて尋ねると、彼女は一冊の文庫本を取り出した。手ぶらだったのにどこから取り出したんだろう。そのロングカーディガンの大きなポケットに入っていたんだろうか。

「これ、来る途中に読み終わって。面白かったから……読んでみて」

「あ、うん。ありがとう」

 渡された文庫本。それに頬が緩む。これは武器だ。小さな約束の武器。

 薄い暗闇が、遠くなる気がした。



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