エピローグ
高校に通っていた時間より、三十分ほど余裕が出来た私の朝は、静かな甘美の時間へと様変わりした。
目を覚ます時間は今まで通り。目覚まし時計を止め、寒い朝はカーディガンを羽織り、暑い朝は髪を纏め、明クンの部屋に向かう。
音をさせずにドアを開け、明クンの机の椅子をゆっくりとベッドに横づけすると、背もたれに肘をついて静かに彼を見下ろす。
多くの人を魅了する明クンを独り占めしている気分になるからだろうか。
自分でも笑えるほど、このただ見つめているだけの時間が、なぜか愛おしくてしょうがない。
稲垣先生の提案後、私は何かを明クンに伝えることはしなかった。もう十分に伝わっているとも思えたし、先生の言ったとおり、何かを隠す必要性もないと思えたからだ。
結局、私が明クンに恋をしてもしなくても、明クンは私に何もしないのだ。それが悲しくもあるけれど、幸せでもあるわけで、つまりこのままでいいのだと思う。
もし何かを変えたくなったとき、私はいつでも行動で示せばいいのだ。私の起こしたアクションに明クンがどう反応しようと、私はきっと明日も、ここで彼を静かに見つめている。
部屋の時計が明クンを起こす時間をさし、私は椅子から立ち上がると、彼のベッドの横に膝をついた。そして、いつものように顔を近づけて煙草の香りが残った息遣いを確認する。
鼻の下には髭の姿が見えていて、私は幼い頃を思い出して触ってみようかと試みたが、ふと思い立ち、手を戻してから顔を近づけてみた。
明クンの薄くて、手入れのされていないカサカサの唇数センチのところで、私は思いっきり息を吹きかけられた。
「何をしようとしてた?」
その問いに答えないまま、私は指で鼻をつまむ。
「はあ~マジで煙草臭~い。禁酒だけじゃなくてさ、禁煙もしなきゃだよ。あ、忘れてた。明クン、朝だよ…って起こさなくても起きれるんじゃん!」
横になったままの明クンに私はそう切り返す。
まだ寝ぼけている明クンには、それ以上の突っ込みは不可能のようで、体を起こすと、お決まりの体勢で私を不服そうに見つめている。
「まさか、キスでもされちゃうとか思った? それ、絶対にないから。私のファーストキスは、私の告白に応えてくれた人とするって決めてるの」
ベッドに肘をついたままの私の額を、明クンは指でピンと弾くと、歯を見せてニカッと笑う。 私は思わず、自分の表情を両手で触って確かめる。
「絢のファーストキスは遥か昔に無くしてるぞ~」
勝ち誇った明クンは、固まったままの私を見て、らしくないほど派手に笑う。
そんな彼の向こう側で、私のスマホの中と同じ家族写真が、私たちを優しく見守っている。
そういえば最近、ママの幻想が姿を見せない。もしかしたら約束どおり、祖母が私の代わりに謝ってくれたのかもしれない。
それにママに会いたくなったら、この写真を見ればいい。そして写真が無いときは自分の姿を鏡に映せばいいのだ。
明クンがたまに私を見つめながらママを思い出すように。
そんなことを思いながら、私は笑顔の明クンに視線を戻す。
「記憶にないからショックだろうけど、絢は小さい頃から積極的で」
幼かった私の話をしながら明クンは楽しそうに笑っている。
私は少しだけ、今日はママに勝てたことを確信して、彼の手を取った。
「私が覚えてないことはいいの。ほら起きて、会社に遅れるよ」
「それは絢が勝手に起こす時間を遅くしたからだろう」
ベッドから彼を引き離すと、私は部屋のドアを開ける。
今日は珍しくいつもとは違う朝だ。
けれど決して嫌な朝ではない。
「絢」
そう明クンの声がして私は振り返る。
「ありがとう、今日も起こしてくれて」
そう告げた彼の表情も、いつもの顔とは違う。
それに私も同じように私らしく笑った。
完
明クンと私と、恋と愛とエトセトラ 綾瀬 ーAYASEー @shu-mi
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