告白は雨に濡れて~番外編~

宮永レン

恋心は春風に舞う

 コンビニを出た途端、強風によろめいた春夏冬(あきなし)みのりはその場で足を止め、手に提げたビニール袋が飛ばされないよう胸に抱え込んで死守した。ビル風は毎日の事だが、春になると尚更ひどい。朝から時間をかけてセットした髪が一瞬で台無しになり、彼女は顔をしかめながら髪を手で押さえた。


 花粉を含んだ南風が盛大なくしゃみを誘発する。塵がコンタクトレンズと角膜の間に入り込んで彼女は泣きたくなった、と言うより文字通り涙が溢れ左目の視界がみるみるにじむ。この強風と花粉さえ無ければ気持ちの良い季節なのに、と彼女は顔をくもらせる。


 スカートが捲れないよう裾を気にしながら歩き出し、ビルの重いガラス扉を押し開く。中は静かなクラシックのBGMも手伝って穏やかな空気が流れていた。みのりはホッと息をつき、エレベーターに乗り込む。何度か瞬きすると異物感は消えていた。下瞼に溜まっていた涙を指で拭って再び瞬きする。


「もう大丈夫かな」

 後でメイクを直そうと思いながら昼休みのオフィスに戻りガラス越しに中を覗くと、極めて珍しい事に残っている人間は一人しかいない。その背中を見て彼女は心を躍らせた。


「羽根川先輩、お昼食べに行かないんですか?」

 ドアを開けてスキップしたくなるのを堪えながら近づいて羽根川悠人(はねかわゆうと)に声をかけると、パソコンの横にコンビニのおにぎりを食べた後を見つけて、既に済ませていることを知る。


「今日中に仕上げたい書類があるから」

 羽根川は少しも彼女に視線を送ることなくパソコンと手元にある資料を見比べながら、数字を打ち込んでいる。

「そうなんですか。あ、お茶淹れますね」

 みのりはサンドイッチとサラダの入ったビニール袋を彼の隣のデスクに置くと、いそいそと盆に茶を載せて戻ってきた。


「なんで二つあるんだ」

「私の分です」

満面の笑みを浮かべながら、羽根川の隣の椅子に腰かける。

「茂木(もてぎ)さん、もう少し机の上綺麗にすればいいのに」

 散らかった資料を無理やり端に寄せてから、彼女はサンドイッチの包みを開けた。トマトとレタス、そして卵の彩りが彼女は気に入っていた。


「こぼすなよ? 茂木が帰ってきたら怒られ……」

手を止め、初めて彼女の方を向いた彼は訝しげに眉を寄せて一旦言葉を切る。

「何だそのボサボサ頭」

「あっ、これは」

オフィスに戻る前にトイレに寄って来ればよかったと後悔しながら彼女は慌てて手ぐしで髪を梳いた。きっとアイメイクも落ちているだろう。説明しようとした刹那、くしゃみが飛び出した。


「風邪か」

「風、です。花粉も埃もびゅーびゅーで」

 鼻をすすって小さくため息をつくと、みのりは開き直ったように大きな口でサンドイッチにかじりついた。


トマトの酸味と卵の甘みが口いっぱいに広がり、一転して幸せな気持ちになる。おにぎりは自分で作ろうと思えば簡単にできるが、サンドイッチはなかなか有り合わせでというわけにはいかない。だから大抵コンビニで購入する昼食はサンドイッチやパンを選んでいた。


「好きなんです」

 食べかけのサンドイッチの断面を見つめながら彼女はおもむろに呟いた。キーをたたいていた羽根川の手が止まる。彼女は具をこぼさないように慎重にもう一口頬張った。


「何が?」

 再び手を動かし始めた彼はパソコンの画面から目を離さずに尋ねた。

「これです、味のバランスが絶妙で」

 欲を言えばこれにチーズが挟んであるともっと美味しくなるのにと思いながら彼女は残った三角のパン生地を口に入れる。


「主語をつけろ、主語を」

「え、何にですか」

 パンを飲み込んでから熱い茶を一口すすったみのりはリスのように愛くるしい瞳を瞬かせて首をかしげる。


「もういい。食べたらさっさと自分の所に戻れ。気が散る」

 羽根川の捲った資料の残りがまだ数枚ありそうなのを見て、彼女は急いでもう一つのサンドイッチに手を付ける。


「すみません。だってお昼休みに先輩と二人っきりなんて初めてで嬉しくて」

 彼女はパタパタと足を動かした。目線を落とすとパンとトマトとレタスの組み合わせがどこかの国旗のように見えた。


「よくドラマであるじゃないですか。残業してる時に好きな人と二人っきりになるとか、憧れますよねえ」

 キーボードの上に置かれた彼の長い指先が軽快に踊っているのを見つめながら、みのりは口元を緩めてうっとりと呟いた。


「俺なら早く帰りたいと思うが」

 表情一つ変えずに羽根川は答える。彼女は思わず噴き出した。

「先輩はあんまり残業しないですよねえ。じゃあ、今日早く仕事終わったらご飯食べに行きません?」

 答えは予想できるのに、わずかな可能性に賭けてみたくなる。このサンドイッチにチーズが加わる日が早いか、それとも彼がデートの誘いを受けてくれる日の方が早いか、どちらにしても彼女にとっては美味しい出来事だ。


「断る」

 まるでインプットされたような機械的な返答が彼の口から告げられる。しかし、それだけでは引き下がらないのが彼女だった。


「あの、新しくできたイタリアンのお店があって――」

「あ、デートの約束してる」

 彼女が言い終えないうちに、二人の間に声が割って入る。

「きゃっ!」

 彼女が驚いて椅子を蹴って立ち上がった勢いで、椅子が後方のデスクに大きな音を立てて衝突する。羽根川は無言で顔をしかめた。


「動揺しすぎ」

 その様子を見て、オフィスの入口に立っている声の主は腹を抱えて笑い出す。

「も、茂木先輩。心臓に悪いです」

 彼女は食べかけのサンドイッチを手に持ったまま頬を膨らます。


「ははは。俺で良かったじゃん。でも、もう少しで他の奴も戻ってくるからね」

 風に吹かれたのか前髪が大きく跳ねている茂木はひとしきり愉快そうに笑うと、小さく手を振って男子トイレのほうに歩いて行った。


 何だか気を削がれてしまい、みのりはサンドイッチとまだ開けていないサラダのパックを袋に入れて腕にかけると茶の入ったカップを手に取る。

「あの、それじゃあ、お邪魔しまし……」

 た、の代わりにくしゃみを一つして彼女は目を潤ませた。痒みを堪えるとさらに涙が湧いてくる。やはりこの季節は苦手だ、早く食べ終わってメイクを直しに行かなくてはと頭を切り替える。


「おい。ちょっと待て」

「はい?」

 自分の机に戻ろうとしていた彼女は呼び止められて振り返った。彼の手から放物線を描いて飛んでくる物をあたふたしながらも片手でキャッチすることに成功する。腕にかけた袋の中のサラダが無事かどうかは不明だが。


「市販薬だが、それでも飲んどけ」

 手にした物に焦点を合わせると、それは鼻炎やアレルギーの内服薬だった。開封した跡がある。

「先輩も花粉症なんですか」

 薬の箱から顔を上げると、彼はすでにパソコンの画面の方を向き直っていた。


「少し」

 好きな人との共通点が見つかり、みのりはちょっと嬉しくなった。発症してから嫌で嫌で仕方がなかった症状がそれだけで和らぐような気がする。


「あ、ありがとうございます!」

 大きく頭を下げると、茶が波打ってこぼれそうになる。

「その代わり、夕飯おごれよ」

 羽根川は返事も聞かずにパソコンに向き直る。するんと滑り込んできた言葉に耳も顔も熱くなる。ぎゅっと箱をつかむ彼女の手に力が入った。


 あっさりと自分の願いが叶い、こわいような気もしたがここで余計なことを言うと発言を取り消されてしまいそうで、彼女はぐっと吐露したい気持ちを飲み込んで言葉を選んだ。


「お、お店予約しときますね!」

 少女のように紅潮した頬が緩んだ所で、ちょうど他の同僚達がオフィスに戻ってきた。同僚に対して何事もなかったように振る舞う羽根川を見ながら、わずかだが彼と秘密の時間を共有できた気がして心が温かくなり、みのりの顔には笑顔の花がほころんだ。

 


おわり

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