41話 斯くして謀り身代わりばかり

 白煙の糸の隙間、金色の瞳がひときわ輝いた。初めて本当の秘密を打ち明け合った、あの夜のこと。


「いいか、まず」

 時化た部屋の中、喚きたてるロックバンドのボーカルを耳の後ろに留めながら、吉見は市井の瞳を見つめ、生唾を飲み込む。吉見が座り込んだソファの前の肘掛け椅子に、市井がどっかりと陣取っている。

「死んだ奴の鍵を手に入れなきゃならない」

 市井はそう言って、酒の入ったグラスを弄ぶ。

「死んだ奴の、鍵」

「そうだ」

 馬鹿真面目に市井の言葉をそのまま繰り返す吉見に、市井は静かに目を細める。


「前んときは、あそこにどうやって行った?」

 口を開きかけた吉見を止めるようにして、市井は言葉を続ける。

「あの、本だらけの場所」


 吉見は一度口を閉じ、確か、と声を出す。

「気づいたらあそこにいるんだ。行ったのは、四度。いや、同じような夢を見ただけかもしれないから、曖昧だ。でも」


「いつも同じことを考えている時にあそこに行くだろう」

 市井の言葉に吉見ははたとして顔を上げる。

「なんで」

 市井は勿体振るようにしてどっと煙を吐き、くるりと視線をひと回しして、ようやっと吉見の方を見た。

「ここでは、求める者には与えられる。知ろうとすれば、扉は開く。誠実な愚か者である限り、あちら側の奴らがそいつを手引いて連れていく」


「待ってくれ」

 吉見は耐えられずに手を上げる。

「話が見えん。全部を説明してくれなきゃ」

「お前はな、この街の仕組みに愛されているんだ」

 そう口にして淡々と煙草を咥えたままの市井を見上げ、吉見は戸惑ったが、出し抜け、吉見の顔に降参したような呆れ笑いが溢れる。

「なんだそれ」

「お前は愛する側の人間だ。愛されるってことより、ひとを愛すってことの方に向いていて、それを苦しみとは感じない。奴らは、『そういう』役者が大好きで、『そういう』奴だけがあの場所に通される」

「はあ」


 わかんねえな、と目頭を押さえる吉見の後頭部に向かって、市井は言葉を投げた。

「お前は誰の記憶を見た?」

 眉間からゆっくりと離れた手の下から、何かを恐れた吉見の目がぐるりと覗く。二人の目がびたりと互いを狙いあった時、市井はふっと目を閉じてしまう。

「それはどうでもいい話か」


 だがな、と市井は手の中でグラスを回し、話を続ける。

「あちらの気まぐれを待っちゃいられない。俺たちはあそこに自由に入れるようにならなけりゃ」


「どうするんだ」

 吉見がきょとんとした顔で尋ねると、市井はゆっくりと瞬きをした。

「そこで、死人の鍵だ」

「ああ」

 吉見は無意識か、肩をやや突き出して、市井の話に耳を傾ける。

「死人の鍵で開けた扉を通れば、あそこに着く」

 吉見は市井の言葉に一瞬喉を詰まらせたような顔をしたが、すぐにまた食らいつくような顔になって口を開く。

「どの扉からでも?」

「鍵で開く扉ならな」

「ふうん」


「鍵を手にいれる方法は三つある」

 市井が爪先でグラスを叩くと、きんきんと小さな音が鳴った。

「一つ目、誰かひとでなしをぶっ殺して、新しく『死人の鍵』を拵える」

「……おお」

 吉見の口元が慄いて曲がる。


「まあ、これはない。騒ぎを起こしたってしょうがないからな」

 ふーっと煙を吐く市井の横顔を見つめ、吉見は市井の今の言動に冗談が混じっていたのかを判別しかねる。


「二つ目、娼館の女郎蜘蛛から取ってくる」

「茜ちゃんか」

 吉見がぽつりと吐いたその呼び方に顔をしかめつつ、市井は言葉を続ける。


「あの女は趣味悪く、死人の鍵を溜め込んでてな。ただ、どうも後生大事にしまいこんで眺めてやがるらしい。外に持ち出したりなんてそうそうしないようだから、これもなし。あの部屋に入れるのはあの女と飼い犬だけだしな」

「……なるほど」


「だから、三つ目だ。俺たちは、死人の鍵を外に持ち出す奴から、鍵を借りなきゃならん」

 市井の顔をまともに見た吉見は、目を丸くする。

「いるのか? そんな奴」

「いるとも」


 市井は深く、深く煙草の息を吸い込んで、熱い煙を押し殺すように目を閉じた。吉見の視線の先に、押し寄せる青煙の帯。


「どこにいるかも知っている」


***


 虫の声が聞こえない。冬の只中、真っ黒なコートを肩から下げた華は、墓地にいた。柊に囲まれた石畳の上に西洋風の平たい墓石が埋まっている。この石畳の下には、仏教徒の身体は眠らない。誰も寄り付かない静かなこの場所で、知らない死人たちの上で夜の空気を飲み込むのが彼女は好きだった。優しい夜の女神に抱かれているような気がして。


 本の森で八手に手ひどくやられてから、華の自信は痛ましいほど喪失していた。鳥が向こうで羽ばたくような音がして、けれどそれもすぐ止んでしまう。彼女はゆっくりと土の匂いで胸を満たし、心の痛みを抑えようとする。


 あの時、ひとのいなくなった図書館の中に置き去りにされ、喉から絶えず血を吐き出す不恰好な彼女の頭上に、別の影が覆いかぶさった。

「ああ、可哀想に」


 優しい声に抱かれて、彼女はぶるりと心臓が震えるのを感じた。すでに目は見えていなかったから、「それ」に身をまかせるだけだった。


 彼女がはっきりと意識を取り戻したとき、切られた腱は繋がっていて、彼女は自室にひとりだった。


 あの声の正体は誰だろう。ひとりきりの墓地で、彼女は石畳に腰を下ろし、考える。あの森には何かが「いる」。彼女も、それ自体には気づいていた。その姿も、声も、物音も聞いたことがなかったが、「あの時」彼女の頭上に一冊が落ちてきたとき、彼女はそれを確信したのだ。あそこには、「私を愛さない」者がいる。じゃあ、その「愛さない」者が、私に向かってこう言ったのだろうか。

「『可哀想に』」

 彼女のかすれた声が、墓地の上を、とん、と落ちていく。


 華は、わからない、と思う。他人の思考はきまぐれだ。ましてや、それが「人間でない」のであれば、尚更のことわからないに決まっている。気まぐれな本の怪物が、とうとう己に慈悲を与えたのかもしれない。

 女の声だった。華は両手を組み、指と指とを抱きしめ合わせる。


 あの夜、ベッドから起き上がり、食堂前の居間に降りた時、十夜は華を振り返らなかった。


「帰ってきたの」


 その声は微笑んでもいなかった。その問いのような、独り言のような十夜の声に自分が何と返したのか、華はもう、よく覚えていなかった。


 失望させた。失望させた。また、あの人を。彼女は思わず顔を手で覆い、歯を食いしばった。あの人に見放されたら、どこにも居場所なんてないのだ。


 目を閉じる。幻覚のように今もって愛しく響く「可哀想に」を再生して、彼女は惨めにも心を満たそうとする。ああ、「あの人」が同じことを言ってくれたなら……! そこまで考えてから、彼女はふと目をあげ、ひとつの思案に耽る、が、十秒もしないうちにそれを打ち消した。


 そんなことは「ありえない」。第一、あの人はあそこに入る鍵を持っていないのだし、それに──。

「私のことを可哀想と思うひとなんて、いないのに」


 吐き出された自分自身の声音の奇妙なほどの冷たさに、華はなにより安心した。ああ、大丈夫だ。自分はまだ、あのひとの下で「猟犬」をやっていけるだろう。


 その時彼女は、顔から外した黒手袋の両手を見つめていたが、はらりとなびく花のような髪の下で、その翡翠の瞳がぎっと横を見た。

 そこには男が立っていた。ぬうっと背の高い男は金色の目で彼女を見つめ、何もせずただそこに立っている。立ち上がった華は、男を静かに睨みつけた。


「何の用でしょう」

 ぐ、と足を開き、華はぼうっとそびえる木偶の坊に牙を剝く。市井は華のしかめ面から目をそらし、一、二歩と彼女の方に近寄って、止まる。彼女は退かず、胸を握り潰すような警戒心に耐えた。


「いつもここにいるな」

 市井はふ、と首を回す。彼の横顔が華の視界の中にくっきりと浮かんで、彼女の左目がぴくり、と細められる。「いつも」、と頭の中で繰り返し、華は意図せず身体を後ろへ逸らした。


「あの女のとこにはいられないのか」

 石畳に視線を落としていた市井が投げたその言葉に、華はぐっと唇を嚙む。けれど、何も言わずに耐えた。そうすると、市井は目を上げて、華のしかめ面を捉えた。


「またいじめられたんだな」

 市井の声に微かに乗った憤慨した調子に、華は奇妙さと嫌悪感を覚えながらも、自分の胸の奥が生ぬるい感覚に「満たされたがっている」のに気づいていた。目の前のこの男は、今まで一体何を見てきて、何を知っていて、何を目的に、私に向かって、今、こんな話をしているのか。


 ぎっと自分を睨んだ華の目線に気がつき、市井はもう一歩彼女に近づこうとしたのをやめた。両手をぶらりと身体の横に下げて、何も持っていないのを見せた。目の前のこの女を、怖がらせてはいけない。彼に睨まれて背筋を硬くする目の前の女に、市井は確かに哀れを覚えていた。


「あんたがあの女に嫌われてるんじゃないさ」

 市井はしっかりと言葉を選んで、柔らかく声を出す。


「あの女はな、ひとを虐めるのが好きなんだ。ずっと前から。あんたが来る前からそうだ。近くにいる奴のことを捕まえては少しずつ痛めつけて、不機嫌な顔をして見せたら、自分の言うことを聞くまで腹のなかを突っつき回す。ああ、ほんとうにガキみたいにな」


 華は言葉を返さず、仏頂面のままだったが、それでも市井の言葉に耳を貸し始めている。


「だから、あんたがあの女のために傷ついてやる必要なんかないわけだ」

 そこまで言って、市井は居心地悪そうにまた横を向いた。


「……そんなことを言いに、わざわざここまで来たと?」

 華は、そんなわけがない、という言葉を奥歯ですりつぶす。

 喉の奥を引きつらせ、市井のことを睨みつける華の中に、確かな苛立ちと戸惑いを見出した市井は、確信した。あとひと押し、いや、ふた押しで。


「あんたに必要な言葉だったろう」

 市井は再び華に向き直る。

「ずっと前から、言ってやらなきゃならないと思っていたし、俺以外にそういうことを教えてやれる人間がいないことも知っていた。だが、そうだな。もっと早く言いに来てやらなかったことを、悪かったと思ってる」


 そうしてすまなそうに再び視線を落とした市井に、華はますます戸惑った。華は、この男のことを書架の森の記憶の束から、「役者」のひとりとして知ってはいるものの、今夜のようにまともに言葉を交わしたことは、一度たりともない。彼女はそもそも、彼に対して興味すらなかった。けれど、一方でこの男は、恐ろしいほど、自分のことを知っている。その事象の、奇妙さと、不可解と、己の心の中に手を入られているような不快感と、しかし、それらの感覚の中に密かに、けれど確かに、割り込もうとしている別の感覚がある。彼女はそれを打ち消したかった。けれど、男の言動に時折混じる「慈しみ」のような温度が、彼女の中の「その感覚」を証明する。ああ、この男は、自分のことを「的確に慰めてくれる」だろう。


「微笑まれた時、嬉しいだろう」

 市井の言葉に、華は弾かれたように顔を上げた。

「あの女に愛されたくて仕方ないんだな。あんたは」

 市井は、一歩、彼女の方に近づき、華も一歩、退く。


「でもな、違うんだよ。それは」


 市井はゆっくり、ゆっくりと、その重たい足を華の方に踏み出して近づき、華は市井の顔から目を離さないまま、少しずつ、後ずさった。このまま話を聞いてはいけない。これ以上この男に近づかせてはいけない。けれど、一体何が「違う」のか、彼女は知りたくて堪らなくなっていた。猜疑心の海の中に、ふらりと浮かび上がるのは、信じたい、という彼女本来の弱さだった。

 彼女の足にはまったハイヒールの踵が背後の暮石の縁に突き当たり、はっと息を飲みきる前に、彼女は腕を掴まれていた。市井は目の前に立ちはだかり、確かに彼女の手首のあたりを掴んでいる。確かな重たさのその右手が、彼女を壊さないように妙に優しく捕まえていた。


「あんたは呪いにかかっているんだ」

 市井の言葉が至近から華の上に降ってくる。

「あの女に愛されたいと思うように、呪われているんだよ」


 瞬間、市井の手が振り払われる。ぎっと見開かれた翡翠の目は、微かに驚いた形をした金色の両目を捉え、それから、振りかぶられた彼女の右腕が空を裂いて、市井の身体に降りかかる──そのとき、場面が「千切れた」。市井の左肩に降りかかろうとしていた彼女の手は、彼の肩を「通り過ぎ」、掴みかかった形のままで、市井の「奥」を空へ開いていた。耳の近くに聞こえる、押し殺された呼吸音。両腕の下に差し込まれ、背中に回った男の腕。喉を詰まらせる華のことを、市井はその懐に抱きかかえていた。


 は、と、彼ら二人のことを並木の向こうから覗いていた吉見は思わず声を漏らすが、幸いその声は華には届かなかったらしい。空中に両手を突き出したままの不恰好な姿勢で、華は顔を歪めていた。今、何が起こっている?


「わからなくて怖かったろう」

 低い声が依然として彼女の耳に滑り込んでくる。

「ほんとうのあんたは、何を望んでいるんだ?」


 押し当てられた他人の胴体が、確かに彼女の存在を認めている。彼女は言葉を失い、ぎょっとした顔つきのまま、抱きしめられている。彼女の肺がひくついて、その足が確かに動きを止めているのを、市井は誰よりも精彩に知っていた。出し抜けに彼女の喉奥から乾いた息が吐き出されるのを聞きながら、市井は慎重に、彼女の背中に回した右手を剥がした。彼女に気取られないように、左手で彼女の身体を抱き直し、自分の方に引き寄せて、右手がようやく、狙いのものを──彼女の腰にぶら下がっていた鍵束を、捉えた。それを見た吉見は、唾を飲み込み、息を殺して移動し始める。


「思い出せ」


 市井がそう口にした頃には、彼の右手に銀の鍵束がぶら下がっていた。華の髪に自分の横顔を触れさせながら、鋭く冷たい色を被った市井の金色の瞳は、吉見の姿を捉えている。彼は鍵束を放ったりしなかった。半ば放心状態でくずおれそうな女を一人抱えたまま、ごく普通に手を伸ばし、吉見にその鍵束を手渡した。後ずさっていく吉見が、木立の向こうに消え、最後に怯えたような顔で自分に目配せをしたのを確かめてから、市井は目の前の哀れな女に視線を戻した。自分の背中の向こうに伸びていた両腕は力なく萎びれて、垂れ下がっている。女は泣いているらしかった。


「何もない。何もないんです。どこにも」

 彼女の脳裏には、あの日頭の上に落ちてきた一冊の本が浮かんでいた。あの本には、前半にはなにも書かれていない。「掃き溜めに来る前のこと」は、何も書かれていない。突然この街の猟犬になった、「誰とも知れない女」になってからの記憶しか綴られていない、彼女自身の本だった。


「『私』は、どこにもない。何も思い出せない」

 彼女を両腕で抱えなおし、彼は子供にするように彼女の身体を揺すって見せた。

「手がかりがあるはずだ。人間ひとりの人生を消し潰すことなんて、誰にもできやしない」

 市井ははっきりとした口調を崩さない。

「あんたの本当の記憶は、この身体の中に必ずある」


 上向いた華の顎に、涙が流れて透明な跡を作っていた。


***


 抱き合う二人から十分に離れてから、吉見は息急き切って走り出した。鍵束の中からそれらしいものを見繕いながら、頭の中で市井に教えられたことを反芻する。


「扉をくぐったら、あちらの住人を探せ」

 自分の方を指す市井の人差し指の先を見つめて、吉見はごくりと唾を飲んだ。

「お前はあいつらに気に入られているし、お前ら兄妹は妙な役者な形の役者だから、口利きすれば、『処理』をしてくれる筈だ」

「処理」

「役所みてえなもんだからな」


 市井はそうしてグラスを一口分傾けた。

「お前らはふたりでひとつの欠け、ひとつの力。そいつは、ほんとうは、『ひとりぶん』だ」

 片眉を吊り上げ素直に「話が読めない」を表明する吉見に、市井は微かに笑った。


「だからさ、俺は最初からお前の質問に答えるつもりでここまで説明をしてきているんだろうが」

 市井は呆れた顔でため息をつき、吉見の肩を小突いた。

「この街が必要としたのは、一人分の人身御供だ。お前らがその『役割』を仲良く分け合ってんなら」

 罪の色がその瞳の中に灯る。

「お前らのうちのひとりだけ、この街を出ていけるかもしれねえだろう」


 市井の言葉を思い出しながら、吉見はとうとう鍵束の内から、何やら「霊感」を覚える一本を選び出し、その感覚を辿るようにして夜の街を走る。祈るように寒空を見上げながら。


***


 月の光を見た時、やっと息ができたような気がした。私は思わず手近な壁に触れて、そこにもたれかかった。待っていたみたいにため息が出る。ほんとうに疲れちゃってる。

 さっきまでいた衛の部屋の中の空気がまだ肌を刺すようで苦しい。石畳の坂を登りながら、衛の言葉や、仕草や、尖った声音を思い出す。さっきの衛、変だったな。聞いちゃいけないことを聞いちゃったんだ。でも、知りたかったことも教えてくれたから、聞いてよかった。よかった、よかったんだ。


 そうやって自分に言い聞かせながら、私は胸を押さえて立ち止まった。じわ、と、路面が黒く濡れる。私の目から涙が落ちていた。いや、なんで泣いてんだろ。わけわかんなくない? 心の中にはそうして茶化す自分がいるのに、両目からは変わらず涙がぼろぼろこぼれ落ちていく。


 なんでだろ、なんでこんな、泣いてんだろ。あ、そっか、びっくりしちゃったのかも。いつもと違う態度を取られたから。それが好きな人だったから。いつもは物凄く優しいからさ、ほんとに、意外だっただけだったっていうか。


 私はそこで思い切り息を吐いて、きっと前を向いた。衛はきっと、気分が悪かっただけだ。タイミング、タイミングの話。そうして、少し大きめに息を吐きながら、鼻歌を歌ってみる。上を向くと星が目に入る。夜空に願いを込めながら、歩く。


 歌が後半に差し掛かった頃、私はやっと大通りに出た。ここまでくれば、自分の部屋までもう少し。ますます鼻歌を大きくしながら歩いていたから、通りの向こうに人影が見えて、私はびっくりした後、顔がかっと熱くなるのを覚えた。聞かれたかも。いや、これ間違いなく聞かれてるし。うわ、無理。聞かなかったことにしてくんないかなあ。


 そう思いながら近づいていって、私はほっとしてしまう。こちらを振り返ったのは、吉見の妹の方だった。グレーのボブヘアがいつも通りに彼女の首に触れていて、私はなんだか嬉しくなって走り出した。


「なーにしてんの? ていうかさあ、もしかして鼻歌聞かれちゃった?」

 私は彼女めがけて走っていくと、その身体に思い切り抱きついた。彼女は私のことをそのまま受け入れた、のだけれど。


「え」

 私に飛びつかれたまま、後ろに尻餅をつき、私のほうも石畳に両膝をぶつけてしまう。3秒くらいきょとんとしていた私は、それからわあっと彼女の足の上からどいて、

「え〜っ! ごめん、ごめんね! ほんとにごめん」

 と謝るが、彼女は声を発さない。私は何が何だかわからなくて、そこでやっと彼女の顔をまともに覗き込んだ。彼女は私の顔を驚いたように見つめている。けれど、驚いてるっていうよりは、この、顔の感じは。


「つぐ」

 私は彼女のその声を聞いて初めて、その顔つきを一度だけ見たことがあるのを思い出した。私にもたれかかった血みどろのこの子。


「助けて」

 そうだ、あの時も、この子ははっきりとそう言った。この子は、いつもあんなに強くて、やさしくて、つっけんどんなのに、困った時はちゃんと「助けて」を言える子なのだ。

 私は、崩折れてしまいそうな彼女のことをちゃんと自分の目でとらえ直した。


「ないの」

 足を投げ出したまま石畳に座った彼女に、私はもう一度身を寄せる。

「あたしの鍵」


***


 兄妹が分け合った元来ひとつの鍵は、兄の胸ポケットの中で互いにぶつかりながら揺れていた。彼は住宅街を歩きまわり、「開く扉」を探している。このあたりのような気がする、のだが、手近な扉はなかなか開かない。焦っているからだろうか。彼は痺れを切らし、無意識に幾度となく後ろを振り返る。誰にも見つかれないように、さっさとあちらに行かなきゃならない。


 ベージュの外壁のアパルトマンで手当たり次第に鍵を試しながら、吉見は

「くそ」

 と悪態をつく。


「お前、何をしてんの?」

 突然降ってきた男の声に、吉見は背後を取られていた。身構えようと思った瞬間、彼の体は空中に投げ出される。蹴り飛ばされた吉見の身体は、アパルトマンの廊下を転がってぐしゃりと止まる。


「なんだ? これ」

 しゃらり、と音を立てたのは、先ほどまで吉見が握っていた銀の鍵束だ。それを人懐こそうな顔で持ち上げたのは、吉見の嫌いな男だった。

「……狂犬野郎」


「それって俺のこと?」

 おどけたような口調でそう言いながら近づいてくる八手は、前よりも髪を短く刈り込み、黒の眼帯を引っ掛けているのだが、吉見を苛立たせる人の良さそうなその顔の造りからして、確かに八手本人に違いなかった。


「イメチェンかよ」

 吉見は強気な目をしてからかってみせるが、八手は吉見の頭を蹴り飛ばし、彼が壁に頭を打ち付けるのを見てから、首をかしげ、鼻で笑う。

「別人だよ。俺は」

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笑止千万 曲瀬樹 @mgsitk

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