第四期 懸けた星は天界を領る

40話 ジャックの心臓

 雨が降っている。と、茜が思ったのは、目を覚ましたベッドの上でまどろむ彼女の耳にざあざあと水の音が聞こえていたからで、けれどそれだけでなくて、聞き覚えのある「歌」が雨の合間に降っていたからだった。彼女は一本の映画を覚えていた。

 どこで聞いた歌だろう、と思いながら茜の聴覚は完全にそちらを向いていて、彼女は毛布の下に埋もれながらも、朝を指した時計を見るために身体を起こし、ベッドの上でぐうっと伸びをする。気づくと水音は止まっていた。雨の音と思ったのは、背後のバスルームから落ちてくるシャワーの音だった。寒い冬の空気の中で茜は洟をすすり、近くのソファーにかけてあるカーディガンを取ろうとしたところで、がちゃり、とバスルームの扉が開く音が聞こえてくる。振り返ると、男の裸足が床のカーペットを踏むところだった。彼女は顔をしかめ、少しの間開いた口を持て余していたが、半裸の男がのしのしと自分の方に歩いてくるのを見ながら、

「切ったの……?」

 と困惑に満ちた声を吐いた。八手は柔和な形の左目をひとつ瞬かせてから、くるりと自分の額を見上げ、はにかみながら、

「あれじゃ、長かったろ? 鬱陶しいなと思っていたんだよ」

 と、今しがたバスルームの中で散髪した頭に触れる。昨日まで彼の額から目元に掛かっていた前髪も、後ろに撫で付けてあった髪も、全体がざくざくと刈り込まれ、ムラのあるその切り方は滑稽だったが、幾分清潔にも見えた。彼女の怪訝な目つきに気づいたらしく、彼は

「そうだなあ、本職に切りなおしてもらおうと思うよ。キャバレーお抱えの散髪屋がいたはずじゃ、なかったかな?」

 そう言いながら髪をがしがしと拭いて笑い、そのまま茜のほうに近づいてくる。一方、茜は身をよじらせてベッドの上を後ずさり、ネグリジュの裾を踏みながら彼の左目を睨みつける。

「ねえ、変よ。今のあんた……」

「変?」

「なにか、『なにか』……おかしいんじゃない?」

 そう言って毛布を掴み後ずさる茜の前に膝をつき、男はにこにこと笑いながらベッドに這いつくばり、彼女の上に覆いかぶさった。男は彼女の怯えた顔を見下ろしながらゆっくりと息を吸い、吐いて、虚になった右目をじわりと開いて見せる。その隙間に見えた赤黒い暗闇に、彼女はぞっと胸を震わせる。男はそれを見て満足したように笑い、今度は自分の手で右目を覆った。茜は、彼の意図がわからなかった。男は肩をすくめ、それから彼女の朱色の両目をじっくりと眺め、かすれた声でこう言った。

「思い出さない?」

 柔和な八手の顔を見つめながら、茜は何も言えずに固唾を飲んでいた。そうすると男は大げさにため息をつき、一転身体を起こしてベッドサイドテーブルのほうを睨んだ。灰皿の中に一本だけ残った燃えかすと、開けたばかりの煙草の箱と、蓮の文様を背負ったジッポライター。

「俺はね、君にきちんとヒントを残していった筈だよ」

 男の首はぐるりと回って、再び茜の方を見た。すると、茜は戸棚の上にあったろうそく立てを掴んでいる。

「ああそう、そうね……」

 と男は平坦な声を出して、ろうそく立てを構えた彼女の方に近づき、自分の方に突き出された両手を撃ち払いながら、彼女の頭を強かに殴りつけた。茜は驚きながら声を失して倒れこみ、歯を食いしばって起き上がろうとしたところで、男は彼女の上に馬乗りになった。

「殴るのは趣味じゃない、趣味じゃないんだけど」

 乱れた髪の間から、茜は八手の顔を見た。

「なあんか君は、俺の『予定』通りにはなっていないらしいんだよな」

 ゆらゆらと揺れる男の目が、世界の中央から彼女に向かって降り注いでいる。

「思い出すんだ。思い出すんだよ」

 男の背が曲がって、彼女の上に影を作る。

「俺は四年この方、君のことばかりを考えていたのに」

 男の手が空にじわりと開いて、震える瞳の彼女の首を、捕えた。

「君の『過去』ってやつ、無理というから全部攫ってきた。なあ、俺は君のいう『いつか』を成し遂げてきたんだよ。そうだ。やっぱり俺は、欲しいと思うものは全て、手に入れられる男だった」

 全て、と繰り返す男の親指が彼女の喉仏を探り当てる。彼女は男の足の下で震え、もがいたが、男はそれに気づかぬまま言葉を続けた。

「なあ、俺はさあ、君の中に『調和』ってのを見たいわけだよ」

 男の体重がじわりと腕にかかり、彼女の喉はぐっと詰まって、折れそうなほそい指が男の両手を必死に引き剥がそうとする。男は尚更力を込めて、そこで残った右目の内側から、彼女の目をまっすぐに射抜いた。圧死しかけた朱色の両目が、男の顔に落ちる影を、右目の中の空洞を、切られた髪の端を、見ている。

「俺が君のことを覚えているんだから、君だって俺のことを思い出すべきじゃないか?」

 酸素の欠乏した脳で、彼女は考えた。どうすれば目の前の男は自分の首を絞めるのをやめるのか。どうすれば、助かるのか。彼女の口がかすかに開き、彼女自身の舌を吐き出すように動いて、二文字の言葉を差し出した。男は彼女の言葉の正体を知ると、たまらず笑い、けれど腕の力を緩めないまま、黒髪の女の顔が赤黒く変色していくのを愉快そうに眺めていた。

「そうだなあ」

 男は笑う。

「『俺』は、『復讐心』だよ」


***


「何が起こっているの……?」

 彼女の不安げな声が揺れ、星の瞬きが震えるその瞳に映り込んだ。目の前の彼が書き綴った「前述通り」の彼らの近況に、彼女は戸惑いを隠せないでいるのだ。あなたも彼女と同じかな。僕らの主人公に一体何があったのか、僕からきみたちに向かって話さなくちゃならないだろう。というわけで、いつも通り、時計の針は巻き戻る。


***


 書架の林立の間に横たわった血まみれの死骸を抱き上げ、彼は彼女とともに作業場へと向かった。不安げな彼女が見守る中、彼は腕の中の死骸を机の上へ横たえ、仕事道具の一式を取り出した。鋏、鉈、糸、針山、髪の束……。

「彼をもう一度舞台に戻す。そのために、『スイッチ』を入れる」

 彼はずたずたになった死骸の腹を睨みながらそう口に出し、それから一念発起、背筋を伸ばして、辺りの書架を巡り始める。

「彼の身体になじみながらも、それと同時にショックを与えるものじゃなきゃならない……」

 彼はそう呟きながら書架の上の背表紙にすばやく目を滑らせていく。

「同質でありながら、異質の、他者の記憶さ。それで彼を『起動』するんだ」

 彼がそう言って彼女のほうを振り返った時、彼女はとうとう、彼がずっと自分に向けてことの次第を説明していたことに気がついた。と、彼の目線が止まる。彼はそばにあった梯子を引き寄せて足をかけ、いくつか段を登ると、本棚の高いところの一角に目を凝らし、その棚の前でいくらかその手を泳がせる。彼の手は引き寄せられるように一つの背表紙の上で止まり、彼はその本をそっと抜き出して、ばらりと中をめくって確かめる。僕が

「それ?」

 と非難の滲んだ声を上げると、彼はこちらを真っ直ぐに見つめ、

「これくらい反発が強いのじゃないと、彼はきっと帰ってこれないよ」

 と、はっきりとした声を出した。

「彼の『帰ってこなきゃいけない理由』はさ、この物語全体の規模として、小さすぎるんだ。だから、与えるショックは、これくらい大きくなくちゃならない……そうだろ?」

 彼は落としていた視線をきっと上げ、信念を持ったまなざしで僕のことを睨んだ。

「……間違いないね」

 僕はそう肯定してやる。彼は軽やかに梯子を降り、手に取った本を作業台の上に置く。

「うまく行かないかもしれない。そもそもこれを『挿れ』たって、彼は起きないかもしれない」

「もっと酷いことになるかもしれない」

 僕がそう口を挟むと、彼は食らいつくように

「そうはならないかもしれない……!」

 と声を出す。

「全ては彼の資質次第、というわけじゃないかもしれないだろ。何か、複雑な……何かが絡み合って、話の運びに今度こそ奇跡が宿るかもしれないんだ。彼は、ひとりで生きていくわけじゃないから。この街は、幾多の物語が絡み合って生きているのだから」

 彼女は彼の真摯な声音にうっとりと聞き入りもはや呆然として、そこに立ち尽くしている。彼は僕に軽蔑を含んだ一瞥をくれると、そのまま本を片手に梯子を降り、死骸の横に立った。

「彼を起こすよ。彼の身体が記憶の束に還らないうちに、彼を舞台上に戻す。これは、俺たちの使命だ」

 彼はそう言って、手元の本を解き始める。彼がカバーから外れた紙の肉体を手に取ると、彼の手の中で重なった記憶の束は魔法のように組み合わさっていき、織り上げられ、ひとつの形を成していった。やがて彼の手の中に収まっていたのはまさに心臓の形をしていて、彼はその「紙の心臓」にいっとう優しく息を吹きかけた。紙製の臓器の面をびっしりと覆う文字列が彼の吐息に撫でられて、一斉に閃いた。彼の手の中で止まっていた鼓動は動き出し、紙の心臓は精巧な機械に変わる。かくして記憶は再生される。彼は動き出した心臓を掲げ、作業台の上に横たわった死骸に哀れみのまなざしを注いだ。

「俺たちの物語に、勝利をもたらしてくれ」


***


 あの日の記憶を遡るのはこのあたりまでにしておこうと思う。なにせ、今、僕の目の前にいる彼女は不安で壊れそうになりながら、今も僕の答えを待っているのだから。

「『何が起こっているか』だっけ? 君が聞きたいのは」

 僕の声は冷淡に床へと落ちていった。

「これを望んだのは君だろう? いや、君たち?」

 ちくりと刺すような声がうねる。

「君たちは、望んで、彼の中にあの男の記憶を埋め込んだ」

 僕がそう話している間も、「彼」のほうは黙っている。僕は彼女の方を向き、

「その『記憶』がさ、彼の身体を使って喋っているというだけだよ。しかしまあ、『主人公』があんなに丸ごと飲み込まれちゃうなんてさ、君だって想像していなかったんじゃないの?」

 と、わざと彼の方に話を振った。

 僕の目線を追いかけてうつむく彼の方を見つめた彼女は、信じられない、という顔で

「こうなることを、わかっていたの?」

 と彼を問いただす。

「いや」

 彼は俯いたまま答える。

「ここまで、『記憶』のほうが勝ってしまうなんて……」

 彼はそうして彼女の目線から逃げ切ったまま、顔を覆う。

「君が言った通りさ」

 僕は鼻を鳴らす。

「君たちが起動した彼自身には、本筋に戻ってくるだけの理由がない。話を動かすほどの原動力がない。だから彼は、三流役者の身体にもっと上等の『役』を入れ込んでやったのさ。君が、君がね! 君自身が! ああこれで、凡人に箔がついたってもんさ」

 僕がそう畳み掛けると、彼は辛そうに息を吸い、奥歯を噛みしめる。

「でも」

 と、彼女が口を挟む。

「言っていたじゃない。今までだってこうして……死んだ人を舞台に戻してきた、って……そのひとたちは、どうしたの? そのひとたちは……?」

 僕がひと睨みすると、彼女は喉の奥にパンでもひっかかったような顔をして黙った。

「うまく戻せた役者たちはね、彼ら単体として、物語を動かすだけの力を元々持っていたんだ。彼らは、他に代わりのきかないキーパーソン。ああ、『ひとり』はそうでもないか。でもね、鍵になるような奴らはね、今も、そう、今この瞬間も舞台の上でその役割をしっかりと果たし続けているともさ」

 僕はそう言って、足を組み直す。

「この掃き溜めで、今もうまく動いている『死人』は三人。ひとりは僕らが突っ込んだ他人の記憶を、その人格ごと全部自分の人格で押しつぶした。もうひとりは、自分の中に他人の人格が入り込んでいることを知りもしない。そしてもうひとりは、混ざってきた他の人格たちと滑らかに統合した」

 僕は三本立てた指を振って、

「けれど四人目になった件の彼は、そうは行かなかった。ダメなんだよ、やっぱり。『我』の弱いやつを舞台に戻しちゃあさ。そんなのは、だめなプロットなんだ」

 と続けた。

「君には話したことがあったろ? 僕が昔、『我』の弱いやつを舞台に戻したときのこと」

 じろりと彼を睨むと、彼はようやくその頭を上げた。泣きそうな顔をしている。

「君はそいつがどうなったかよぉく知ってるのに、それなのに、彼を舞台に戻した。リスクを知っていて壊れた身体によりにもよって『心臓』を埋め込んだ。何が起こるか想像しながら断行した。僕の制止を振り切った!」

 僕の言葉には、皮肉を越えて、猛烈な怒りが表出している。

「なぜなら、そこにいる彼女が、彼を舞台に戻すことを望んだからさ! そして、苦しむのは君じゃなくて、哀れな黄泉がえりの彼だから! 君は彼を見ているだけの傍観者で、実際のところ、彼がどうなろうが、痛くもかゆくもないんだからさ!」

 僕は頭に血が上っているのを感じて、それからゆっくり、ゆっくりと息を落ち着けていった。彼は再び僕から目を下げて、床の上を睨んでいた。何も言い返してこない。言い返せないんだから当然だ。僕の主張は徹頭徹尾正しいのだから。けれど、彼のその諦めたような横顔に、僕は心底腹が立った。僕はそのままぐるりと目線を滑らせると、ぞっと身をすくませて立っている彼女をまっすぐに見つめた。

「『そいつ』がどうなったか教えてあげようか。知りたいだろ? 君だって……。身の程知らずに舞台に戻された、哀れな役者がどうなったか」

 僕の口元はひくひくと強張りながらもほころび、笑うように開いた。僕は言った。

「そいつはね、入ってきた他人の人格をねじ伏すことも、統合することもできなかった。身体の中に入ってきた異物を受け入れられず、抵抗して、反発して、磨耗して、終いには精神が破綻して──最期はひどかったよ。自分の身体を引き裂いて、まさに自力で、紙束に戻っちゃったんだからさ」


***


 低い声が二つ、掠れながら会話を交わして、深緑色の通りの上を歩いている。

 男の片方は煙草を咥えたまま肩をいからせて歩き、もう一人の男は首をぐるりと回し、ほう、と息を吐く。

「後悔しないか」

 そう聞かれ、男はくわえタバコの隙間から呻くような声を出した。それが「No」の意思表示であることは、凍えたように首を振るその頭の動きから明らかだった。

「お前は絶対に恨まれる。一生許してもらえない」

 男は答えない。代わりに、その口の隙間から煙が溢れる。

「どんな言い訳を考えていようが無用。言切らなかった言葉は届かないまま、曲解と憶測を巻き起こして一生相手を悩ます。お前は相手を苦しめ続ける『空かない箱』になる」

 男の背中は丸められて、その口元からは細い煙がたなびき続ける。

「本当に、後悔しないか」

 男は立ち止まって、自分の連れもまた言葉を止め、一緒になって石畳に両足を落ち着けるのを待った。震える右手が己の口元の煙草の胴体を探り当て、ほとんど取りこぼすようにして、白い筒ははらりと路上に落下する。

「……後悔するさ」

 男の声は泣いているようで笑っている。

「するよ、俺は。俺は、弱いからな……お前とちがって」

 相手は黙ったまま、男の顔から地面に落ちてなお煙を上げ続ける煙草へと目を移す。

「でも、諦められる」

 男の土気色の耳が、この冬の寒さを知らないまま、夜の音を聞いている。

「諦められるよ、俺」

 は、と男は笑うように息を吸った。震える右手がゆっくりと持ち上がり、男の顔のほころびを抑えるように、彼自身の口元へと押し当てられる。

「だって俺は、今まで散々、散々」

 乾いた口が冬の中に開く。

「裏切るために信頼を積み重ねて来た男なんだぜ」

 は、は、と声が漏れる男を、もう一人の男は哀れむような顔で見ていた。男はもう一度路上から上がる煙に目をやり、それから一歩踏み出して、ぐしゃり、と煙草の白い胴体を踏みにじった。それから、呆然としてそれを見ていた男から一歩引いて、真っ直ぐな目線で男の顔を射抜く。

「協力しよう。お前の揺るぎない信念に」

 ぽかんとした顔が、金色の両目に向けられる。憐れみの金のまなざしは、この世いちの「敬意」で満ち満ちていた。

「お前は至高の人間だ」


***


 パンプスのかかとが石畳を、ひとつ、ひとつと打っていく。こつん、こつんと地下の石壁に跳ね返る自分の靴の音が、なんだか不安定な感じに耳に届いて、一歩進むごとに私の心が暴かれているみたいな気がする。両手は胸の前にある。私は何か悪いことをしているような気持ちのまま、それでもそわそわとした心で、あのドアを叩いた。

 衛はいつも通りの少し驚いたあの目をして、私のことを部屋に入れてくれた。

「どうしたんですか」

 と聞く声は、私の期待していた通りに優しくて、私はそれが嬉しかったけれど、なんだか申し訳ないような気持ちにもなる。石壁にランプの灯りがてらてらと反射している。私は衛の言葉にふるふると首を振って、なんでもないんだけど、と言おうとしたけれど、うまく口が動かなかった。

「少し、ここにいてもいい?」

 肘掛け椅子に腰掛けてそう口に出した私に戸惑いながら頷いて、しばらく私の様子を伺っていた衛は、私が椅子の中でじっとしているのを認めてから、静かに本を読み始めた。

 手の中のカフェオレがだんだんと冷めていくのを見つめながら、耳の奥で時折本のページがめくられる音を聞いている。部屋のどこかにある時計の針が、小さく、確かに鳴っている。椅子の中でどのくらいじっとしていたんだろう。私の喉の奥が小さく擦れる音がして、息を吸う。衛は本に目を落としたまま、こちらの音を聞いているような感じがした。

「死んだ人が帰ってくることがあるの?」

 衛がぱっと目を上げたのが視界に入りきる前に、私はもう一度声を出していた。

「この街、では」

 衛はしっかりと瞬きをして、私は彼の目線を捉えて覚悟したようにした唇を軽く噛んだ。衛はしばらくじっとしていたまま、ちら、と目線をその手元に落として、落ち着いた表情で本を閉じた。

「恐らくは、『はい』」

 彼の口調はとても慎重な感じがした。

「噂の彼のことですが、俺も、実際に死人が帰って来たのは、初めて見ました。自分の記憶から消えていた人間が、急に、ふと、思い出されるようなあの感じ……」

「待って」

 私の声に、衛は壁を睨んでいた目をあげる。

「やっぱり、知っていたのね。ここじゃ、死んだ人が帰ってくるのは常識ってこと?」

 私の声は急いだ風になっていて、私はそれに気づいて恥ずかしくなる。口をつぐむ。

「常識、常識、というか……」

 衛の指が手持ち無沙汰な感じで本の皮表紙を叩く。

「皆んなが知っているわけではないかも知れません。俺は、市井、さんに、教えてもらって──」

 私が思わず椅子を立っていて、だから衛はちょっと驚いた顔をして声を止める。

「わ、たしにも、教えて、よ」

 私の声ががたつきながらそういう風に喋って、衛が目を丸くする。私自身もびっくりしている。けれど、止まらない。

「衛が、市井から教えてもらったこと。この街の、こと──」

 衛はぽかんと口を開けていて、私は今更目を逸らすことが出来なくて、そのまま彼の顔を見つめた。

「知りたいの。私。知らないままでいたくないの。もうちょっと手を伸ばせば、何かが掴めるような感じがする。私、もう」

 私の喉は必死になって息を吸っていて、胸は熱くて、頭の中では橋の上に伸びた影と、竹の香りが手と鼻の先をかすめては、消えるのを繰り返していた。

「何にもわからないまま、置いていかれるのが嫌……」

 あの日解けたままの手が、はらりと抜け出した着物の袖の手触りが、指の間でじわりと痛みになる。時計の針が鳴っていて、地下の静かな空気の中に、自分の身体が熱く息づいているのがわかった。ぐっと涙の滲む目元を押さえられないまま、私は、自分は一体何をしているんだろう、と胸の奥が冷えそうになるのを堪えている。

「……わかりました」

 はっきりとした声が床に落ちる。涙が溢れるのを堪えながら、私はちゃんと衛の顔を見た。彼の顔には真剣さがある。私はその顔つきに今更怖くなりながら、けれど心臓が心地よく高鳴り始めるのを感じていた。衛は膝の上で手を組み合わせている。息を吸う音がした。

「話しましょう。君の知るべきことを」


 立ち上がった時に放り出したカフェオレが、じんわりと染み込んだクッションの上にタオルを引いて、私は衛が口を開くのを待っていた。

「そうですね……どこから話せばいいんだろう」

 衛はそこで諦めたように少し笑った。それから、考えあぐねて指を動かしている。そうすると、私の口をついて言葉が出てくる。

「あなたは、どんな風にしてこの街に来たの? 私、そのことも、知らないの」

 私は自分の言葉にどきどきした。この人は一体、どうやってここに来たんだろう。衛はゆっくりと瞬きをして、私の顔を見ている。ランプの灯りがゆらゆらと揺れている。伏せられた衛の紫の瞳が、その時、嫌な感じでにじり、と歪んだのが見えた。

「俺が来た時のことですか。それって本当に、君の知るべきことなのかな」

 彼の声には微かに良くないほうの笑みが載っていて、私は声を出さずに驚いていた。けれど一瞬後、彼がこちらに目をやった時には、いつも通りのやわらかいはにかみがその口元に広がっていた。

「ごめんなさい。何か、俺の、悪い癖が出てしまったようです。そうですね、君がそう言ってくれるなら、俺がここに来た時のことも簡単にお話しましょうか。でも、ひょっとするとこれは、俺の話ではなくて『彼』の話になるのかも知れない」

 ランプがちらりと陰る。


***


 声を失した彼は、目の前の少女に、とあるひとでなしの「あらまし」を語り始めた。

 彼が掃き溜めの住人となったのは、おおよそ一年前。雪の降らないくすんだ夜のことだった。よどんだ夜の街の空気をかき分けて、彼はとうとうその広場にたどり着いた。煌々と灯る白く黄色い光の中に踊り出て、彼は真正面からその人物の顔を見た。

「俺もね、こう見えて帝都で学生をしていたんですよ。そうしたら自然と、噂が耳に入って来た。『掃き溜め』には、道化のようなアジテーターがいると」


「誰だ、君は」

 ギロチンの前、一脚の椅子に腰掛けた制服の美青年は、広場の中央に踊り出た一学生を睨みつける。ひとりぼっちの学生は、美青年の鋭利な視線と、彼ら二人を囲む聴衆の好奇の目に刺されながら、真っ直ぐに立ち続けた。

「俺は、誰でもない」

 紫の瞳が、美青年の青白い顔に対峙する。彼の足が震えていない、といえば嘘になった。凍りついた冬の空気の中に、彼の怒りと正義が燃えて、聴衆の表情を歪ませていた。

「俺は、名前のない、ひとつの『言論』です」


「彼はね、あの夜、ひとりの犯罪者を裁いていた。いつも通り、あの中央広場で。馬鹿みたいに大手を振ってね」

 彼の目は遠くなって、その奥ではあの夜の光がちらちらと瞬き出した。

「裁かれていたのは、帝都で児童福祉をやっていた男でね。子供たちを十何人も乱暴して、獄中で死ぬくらいの懲役刑を言い渡されていたんです。広場の中心で、彼は聴衆たちの感情を欲しいまま、あの大層な言葉で操っていた」

 吐き捨てるような彼の口調に固唾を飲み、少女はじっと彼の話を聞いている。


 美青年は「殺されるべき人間」が「殺されるべき」であることを、聴衆が満足するように、もっとも最適な言葉選びと、身振り、手振り、話の運びで語って聞かせ、サーカスの曲芸師になる。曲芸師の独壇場、テントを打ち破りその中央へひとり踊り出た学生に、美青年は確かに一瞬、怯んだように見えた。


***


「君の言葉に、彼を裁く権利はない」

 衛の顔は壁の方を向いたまま、冷たくそう言った。

「俺は確かあの日、そんな風に言って。それで少しは、彼の言葉を……ほんとうの言葉を引き出せたように思ったんですが、上手くいかなかった。俺は制服たちに取り押さえられて、口を塞がれて、聴衆に罵声を浴びせられて、そして、最後は」

 衛の両目が、悔しそうに細められるのが見える。

「あの犯罪者は、俺の目の前で首を落とされました。俺にそれを見せた、あのときのあいつの表情ったら、なかったな。勝ち誇った、けれど、自分のしたことが間違いだということをちゃんとわかっている、子供の顔でした」

 衛はそう言って、椅子の中で固まっていた私にあのやわらかい微笑みを投げかけた。

「そうしてあの夜、俺はひとでなしになったんです。口を塞がれて、言葉を失った。だから、俺が持っているこの『欠け』は、あの夜の『彼ら』が俺に与えた罰なんです」

 紫の瞳が、不安定に微笑んだふたつのまぶたの中に、ゆらゆらと据わっていて、私は背中に寒いものを感じていた。

「俺も君も、後から心臓を得たひとでなしは、そうして掃き溜めの住人になるんですね。見ている聴衆が、俺たちを『そうだと思う』と、俺たちはそうなってしまう。これは経験則でもあって、市井さんから教えてもらったことでもあります」

 私は浅く息を吸い、石壁に囲まれた部屋の中で、なんとか溺れずに済んでいた。この部屋は、寒い。

「俺の話は、このくらい。君が知るべきことは、他にもっとたくさんあります。今この時間だけではとても話しきれないくらい……でも、そうですね。死人が帰ってくることについては、今、話してしまいましょうね」

 彼のはにかみの視線が、私の足元に投げられる。

「ひとでなしになった俺の面倒を見てくれたのは市井さんで、親しくなるうちに教えてもらったのが、『黄泉がえり』です」

 やけにゆっくりとした時間の中に、衛の言葉だけが浮かんで、私の目の前を漂っている。空気が流れていかない。指先が痺れそう。

「何故だかわからないけれど、死にゆくひとでなしの中には、稀に帰ってくる者がいる。忘れ去られたはずの人間が、突如として、記憶の中に再び姿を現して、もう一度生き始める」

 私はひっそりと唾を飲み込み、衛がゆっくりとその面を上げるのを見ていた。彼の瞳が小さく閃いて、私に、ほんとうのことを、教えてくれる。

「そして、市井さんもまた、死んで戻って来た『黄泉がえり』らしいのですよ」

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