閑話 ステファノの埋葬


 沫雪がひらひらと舞う真っ暗な朝。俺は、しんと静まり返った石畳の上に立っていた。土の香り。白煙の向こうから、男がこちらを見つめ返している。緑の虹彩。

「尾けて来たのか」

 真木はこちらを向いて、足元のランタンの光を浴びた顔で、ただ単にそう言った。いつもの革靴、いつもの上着にいつもの黒手袋をはめ、これといった感情もなく、感慨もなく、尾けて来たのか、とただ確認するようにそう言った。真木は大型のシャベルを片手にそこにつっ立っていて、奴のすぐ横で、奴の手によって掘られた穴と、掘り返された土の山が湿った匂いを放っていた。奴は俺のことをじろりと見定めている。俺の内心を抉るような視線。淡雪が降り落ち、白煙が舞い上がって両者が混じり合い、ほんの数歩先にいるはずの真木の姿をどこか遠く見せている。奴の姿は俺よりも一枚奥の世界にある。そう思えるのは白煙のせいなのか、それとも俺の「目」のせいなのか、俺にはどうも掴めなかった。しかし、俺と奴を隔てる薄壁を突き破って、今、白煙が鼻先に匂い、俺は顔をしかめる。目の前で起こっているのは、現実だ。

「いけなかったか」

 真木は息を吸い、声を吐く。

「いい趣味じゃない」

「そうだな」

 そうだ、と俺の言葉をぶん取って繰り返し、真木は穴の底を見下ろした。ぐったりと目を閉じ動かない女は、死骸だ。血の色のない肌をランタンの光に晒し、女は穴の底の暗闇に溶け込み、今にも消えようとしている。 真木は女のこめかみ辺りに目を落とし、そのまま唇はふつりと解けるように

「何にも面白いことはない。何も」

と言葉を落とした。俺は黙っていた。奴も黙った。奴の手が再び動いて山を崩し始め、穴の底の女が土を被る。真木は横に投げられていた麻袋にもシャベルを差し入れ、そこから白い粉を女にかけた。投げられた光の前にたちまち白煙がたなびく。奴の周りに舞って光を散乱させているのは、石灰の粉塵だった。


 ベッドに横になっていた時だった。がしゃがしゃと鉄柵が擦れるような音が聞こえて俺は目を覚まし、そろそろと床に降りて、窓辺へそっと忍び寄った。茜はぐったりと後ろで寝ている。出窓に身を乗り出しそっと外を覗くと、ちらちらと雪の落ちる霞んだ夜の景色の中で、ちょうど誰かが裏手の門扉を開けて出て行くところだった。垣根の間にひっそりと取り付けられた立て付けの悪い扉を何度か締め直し、出て行ったのは背の高い男で、それが真木であるのはすぐにわかった。

 奴はこんな時間、どこへ何をしに行くのだろう。時計を見れば朝の七時。掃き溜めには、ひとっこひとりうろつかない時間だ。奴の足音が消えて行くのを見送ってから、ベッドの上で布団に包まったままの茜にちらりと目をやり、俺は物音を殺して部屋を出て行った。

 人気のない暗い朝の街を進み、真木を必死に探して首を動かす、と、通りの向こうからきいきいと軋むような音が聞こえてくる。俺がその音を追っていくと、角を曲がったところで奴の背中に出くわした。ばっと身を隠し、再び通りを覗き込む。ちょうど月光の差す通りの中に奴のシルエットがくっきりと浮かんでいて、影絵のように見えた。奴の右手にはランタンと、何やら大きな得物。そして、左肩には──。

「人……」

 奴の左肩の上で崩れそうにぐらつくその大きな塊は、手足をだらりと下げた人間の形をしているのだった。真木は時折立ち止まってその大荷物を背負い直し、それからまたぐらぐらと影を揺らして歩いて行く。俺が追いつけたのは、奴がそれを運ぶのに随分手間取っていたかららしい。奴の靴音と、ランタンの持ち手が擦れる金属音をしばらく聞いていた俺は、音が遠ざかるのをじっと待ち、微かな足音が聞こえているうちに、再び真木の後を追いかけ始めた。


 そしてたどり着いたのが、この場所だ。俺は真木が消えて行った林の中へ続く石畳を辿り、しばらくの間木立の陰から奴のことを盗み見ていた。奴は木々に囲まれた空き地へと入っていき、シャベルを突き立てて土を掘り返し始めた。奴がこしらえているのが「墓穴」だと気づいたのはその時だ。真木はしばらく穴を掘り続けてから、隣に横たえていた女を穴の中へと寝かせた。俺はそこでとうとう陰の中から進み出て、奴の前へと姿を現した。


「お前は葬儀屋までさせられてるのか」

 と俺が呟いたのに

「ああ、そうだ」

 と真木は手を止めないまま返す。シャベルが土を裂く音が絶えず聞こえている。俺が穴の中を覗き込むと、そこには女が横たわっている。女の横たわる穴の壁面に何かちらちらと白いものが埋まっているのが見える。俺がその「白」に目を凝らしている間も、真木は次々と穴に向かって土を投げ込んでいく。そのうち、居心地悪そうな真木がとうとうため息を吐き、こちらを見た。

「どうすればお前は帰ってくれるんだ?」

「話を」

 俺の口はそう言っていた。真木は目を丸くする。

「話をしたくて」

 俺はからからになった喉の奥で息をし、俺のことを見つめ返す真木の目と見つめあっていた。そのとき、虚になった右目のあたりが、急ごしらえの眼帯の下でひりつき、俺は顔をしかめる。真木はそれを見て取ったらしい。

「病人だろ。早く部屋に戻れ」

 と目を伏せてまた手を動かし始める。

「戻ってやらんと、『あれ』が血相変えてお前を探しにくるぜ。どうやったか知らないが、随分仲良くなったらしいじゃないか」

 おどけるようにそう吐き捨てた真木の手で、穴の底の女は土にまみれ、今にも地の底に姿を失そうとしている。土の壁の中、青白い顔の中で閉じた瞼がそこに二本の線を引いている。黒く化粧を施された睫毛。

「娼婦だ」

 と俺が言うと、真木の手元が一瞬もたついた、気がした。だが、妙に確信した俺は迷わず真木の顔を見つめ

「そうだろう、こいつは、娼婦だ」

 と繰り返した。真木は何も言わなかった。真木は女に土をかけつづける。俺は一歩前に踏み出し、

「うちの娼婦なんじゃないのか? 華屋の」

 とまくしたてて真木の腕を掴み、動きを止める。真木は目を伏せて沈黙する。俺は深く息を吸い、冷気を飲み込んで声に出した。

「殺したのか」

「違う」

 真木はそこで俺の手を跳ね除ける。息を荒げた真木は、一瞬間、憤慨と困惑を確かにその顔中に滲ませた。奴はすぐさま取り繕うとしたらしいが、その目は怒るようにきっと俺を睨んだままそこに残っている。俺は辛抱強く奴の顔を見つめ続けた。土の匂いの中に沈黙が立ち上っている。淡雪は降り続き、俺と奴の視線の間を横切った。俺の手の甲に雪のかけらがぶつかって、溶ける。真木はやがて、耐えられないと言った様子でありあわせのすまし顔を崩し、口内の息を飲み込み、つかえるようにして

「違う」

 と繰り返した。

「死んだんだ。これは……」

 真木はそこまで言ってから、うつむいた横顔で、いや、と小さく口にした。そこからふらりと顔を上げ、目元を不気味にひらいて微かに口角を吊り上げた。

「どう言えば満足する? 殺したって言えばいいか? 俺が罪を認めて謝って、お前から『正当な』裁きを受ければ、お前は満足してお部屋に帰ってぐっすりか? なあ」

 そう言った奴の目つきには、俺の顔色を伺うような、どこか怯えた獣の表情があった。真木は、その怯えを自ら塗りつぶすように笑う。次々表情を変えおののき震える真木は壊れた操り人形みたいに滑稽で、俺は戸惑った。こいつがこんな風に振る舞うのを、見たことがない。俺は真木の自嘲じみた笑いを見ながら、できるだけ真っ直ぐな声で

「外傷はないな」

 と、淡々と言った。すると、真木の表情はふっと色を失った。

「刺し殺したわけじゃない」

 俺はさらに続ける。シャベルを握る真木の手が目に入る。

「この女はどうやって死んだ? お前は知ってるんだろ?」

 俺は、穴の底で未だ消えず、雪の最中になんとかその存在を持ちこたえている、女の腕を見つめる。

「お前は何がしたいんだ?」

 押し潰れたような声が、真木の口の奥からじわりと溢れた。

「何のためにここにいる」

「俺は」

 俺の脳は外気と同期するように冷えて痛み、けれど声は落ち着いた温度を保って喉から空気へ出て行った。

「ただ、知りたいだけだ。本当のことを」

 ほんとうのこと、と、真木の声がたどたどしく鳴った。好奇心か、と同じ声が弱々しく続ける。ひりひりと切りつけるような冷たさの中に、俺たち二人が依然として立っている。奥のランタンの火が、くらり、と踊るように揺らめいた。

「約束しろ」

 真木の諦めたような目がふっと上げられて、諦めたように俺に焦点を合わせ、留まって眩んだ。

「話し終わったら帰るってな」

 俺は疲れ切った奴の瞳の中に炎の微かな揺らめきを見、ゆっくりとひとつ、頷いた。真木はため息をつき、地面に突き立てたシャベルの肢に手をかけ、その手をとっくりと見つめながら、話し始めた。

「うちにいる真人間の娼婦たちには、この街を出てすぐのとこに部屋が割り当てられてるのを、お前は知ってるか? いや、知らなくたっていい。そのために今、話してんだから──それで、奴らはそこから掃き溜めの中に通ってくるんだがな、女ってのはすぐに……駄目になるんだ。あっという間だよ。綺麗で丈夫だったのも、いつの間にか。今そこにいる女も、梅毒に罹ってやがった。恐らくは随分と前から。お前も知ってるだろうが、うちは、『高級』を謳って女を売ってんだ。傷物を売るわけにはいかない。そしたら、そしたらな、駄目になって稼げなくなった女のことは、もう面倒見られない」

「それで、追い出したのか」

 俺が口を挟むと、真木は俺に一度ちらりと目をやった。

「珍しいことじゃない。毎年この時期には……年の暮れにはいつも、駄目になった女をひとりかふたり、追い出すことになっている。俺がここに来る前からそうだった。女は部屋から追い出されて、どこへなりとも行きやがれ、だ。だが、老い先短いんじゃ客もつかなくて稼ぎもない。そうなれば頼るのは、ずっと雇ってやってたうちくらいだ。助けてくれると思ってんだろうな。そしたら奴らはずっと、当て付けみたいにうちの店先に座り込んで、通りかかる俺たちが中に入れてやるのを待ってるのさ」

 真木はそこで深く息を吐いた。

「だが、あの手の弱った女ってのは、ほんとうに「もたない」。この寒空の下に一晩も締め出されりゃ、大抵そのまま死んじまう。家の中で看病したって、もがきながら死んでくような身体だ。そら、道理ってもんだよな。この女もそうだ」

 真木は女の死体を顎でしゃくった。

「昨日、朝が来る前に追い出して、そしたら店先で凍えて死んでいた。いつもそうだ。俺はそれをここに埋めに来る。それだけだ」

 真木が長く吐いた息が、白い煙になってぶありとたなびいた。

「話は終わった。帰れ」

「いつも」

 俺の口から転げた声に、奴はこちらを見た。俺は、自分が発した言葉にあらゆる意味を込めて、その中からひとつだけを抜き出した。

「いつも、決まってこんな……」

 俺が目線を落とすと、石畳に何かアルファベットのような文字が刻まれているのが目に入る。

「わざわざ『こんな日に』女を追い出すのか?」

 顔を上げると、真木は俺のことをぎょっとした顔で見つめていた。俺が「こんな日」と言ったのは、今日、この日がちょうどクリスマスだったからだ。

「どうしてそんな、酷なことをする……」

 俺の声は、俺が思っている以上に苦々しく、悲痛な潰れ方をして俺の口から吐かれ、滑り落ちる。内臓が全て、骨の内側で熱く燃え、小刻みに震えているかのようだった。寒くて、何もかもが覚束なくて、俺は助けを求めるように真木の顔を見た。そこでは、冷たい輝きを持った緑の一対が俺のことを待っていた。

「わからないんだな」

 いや、と真木は視線を横に滑らし、

「知らないんだ、お前は」

 と吐き捨てる。奴は目を細め、俺を眩しそうに見遣った。訳がわからないまま、俺は言葉の真意を探ろうと、奴の目の奥を覗き込む。だが、俺が答えに行き着くよりも前に真木は話し出していた。

「自分にとっての、決定的な日だ」

 決定的な日に、と真木は続ける。

「『その日にそれが起こった』ということを、何か意味づけたいと思うのが人間というものだ。人間の性質だよ」

 俺の目が自然と見開かれた。真木は話し続ける。

「特別な日に死んだとなれば」

 奴がはめている革手袋が、シャベルの持ち手の上で、ぎり、と音を立てる。

「きっとそいつは自分の人生を意味付けられる」

 真木の声は不可解なほど落ち着いて、淡雪とともに石畳に降りる。押し殺したような息が、奴の声の端から流れ出て、空気中をゆるやかに揺蕩っていく。

「自分の死には意味があったんだってな」

 奴の言葉のひとつひとつが重しになって、俺の心臓の下側に溜まっていくみたいだった。恐怖とも嫌悪ともつかないその胸の重さに、俺は微かな吐き気を覚え、すぐにこの場を立ち去らねばならない、という感覚に呑まれる。止まった空気の中で、穴の中の死骸がにわかに臭い始めた。これ以上、この場所に居る必要はない。俺の口はそこで一度開き、こう言った。

「お前はそうやって、他人の人生を演出して、神様にでもなったようなつもりなのか?」

 そう言った後、俺自身、小さく目を見開いた。その目は、真木の歪んだ目元を見据えていた。言葉を発した後、不快だった胸の中がかっと熱くなってきたように思えて、俺はその高まりに急き立てられるようにして、さらに言葉を継いでいた。

「いや、そうじゃないな。お前は」

 俺はそこで言葉を止め、奴の目が俺のことをしっかりと睨んでいるのを確かめる。

「お前自身が救われるために、他人の心を『救ったことにしようと』しているわけだ」

 俺の口元はにやけ、真木の顔が強張る。真木の目が頑なな怒りを宿して行くほど、俺自身の胸中は熱を上げていくようだった。真木は地面を踏みしめぐっと俺に近づくと、無言で俺の胸倉を掴み上げた。白い息が、歯を食いしばった奴の口端から、堪えきれずに漏れ出している。奴は何も言わなかった。俺の口はなおも喋った。

「そう怒るなよ。お前は賢く立ち回ってるだけじゃないか」

 俺の嘲りはくるりと道化師のように戯けて回り、奴の心臓をもろに抉ったらしい。真木が乱暴な調子で俺を離し、俺はよろめきながら後ずさった。奴の目はその後も執念深く俺の顔を付け狙っていたが、奴はそれからきっと横を向いて無理やり視界から俺を消したようだった。

「結局は、罵りに来たって訳だ」

 真木は俺に顔を見せないままそう言って、地面に突き立てたままだったシャベルの持ち手を掴んだ。俺はその姿をひとしきり観察していたが、俺の目の前にひらりと雪のかけらが過ぎ去り、それが地面に落ちていくまでの映像を追い切ったとき、今まで胸の中に湧き上がっていたあの感情の滾りはごっそりと消え去っていた。俺は夢から覚めたような気になって、足を動かして地面の硬さを確かめ、震えた足は自然、いくらか後ずさる。

「お前だってわかってるはずだ」

 真木の背中が俺にそう唸った。その背中は震え、頑なに傾きながら墓地の中央に突き立ち、雪の流れを耐えている。

「何でもかんでも……何もかも全部を、救えるわけじゃないってことは」

 そう吐き捨てた奴の剣幕に、俺は何も言えなかった。俺のお遊びじみた言葉遣いに叩きのめされ、丁寧に塗りたくられていたはずの、奴のメッキは剥げかけだ。俺はそれを見て、自分で引き起こしたその惨状に、あろうことか戸惑っているのだった。真木の背中はうなだれたまま、手を顔のあたりに持って行って、汗を拭ったように見えた。

「ひとつを救えば、ひとつ例外を作れば、そのひとつに連なるものが幾らでも、幾らでも、俺の目に入ってくる。キリがない。芋づる式だ。だからな、俺は、俺たちは、その『蔦』を、自分の手で冷徹に断ち切らなきゃならない」

 奴はそれからふらりぐらりと背筋を揺すり、背中を返してこちらを見た。ぐったりと瞼の下にすわった緑の両目が、俺の肩越しに遠くを見つめている。

「俺たちは、救えるものと救えないものとを選別する。選別して、救える方を取る。取るということは、すなわち別のものを取らないということだ」

 奴の声は静かに、しかし確かに発されて、雪の中、夜の底を打っていく。

「『俺自身を救うため』? ああそうだ、そうだよ。俺はまず、第一に俺を取る。真っ先に自分自身を救うよ。俺は何よりもまず、俺自身のために身を粉にするさ」

 語尾は狂った調子で跳ね上がり、自嘲じみた臭いを撒き散らし、やがて辺りに搔き消える。

「俺は、自分が何を捨てたのかをちゃんとわかっている。だから、だったら、取らないことにした物の中に、その、捨てた物の中に、俺がどんな小細工をしようが勝手じゃないか?」

 そこまでまくし立て、奴は不気味な微笑みで顔を崩し、どっと白い息を吐いた。肩はこわばった呼吸をしながら、なお震えている。奴はうつむき、自分自身の作る影を真剣に見つめていた。俺は奴の言葉を反芻し、無意識に首を振る。俺はこいつに、ここまで言わせたかったわけじゃない。俺は、別に、ここまでこいつを追い詰めたかったわけじゃ、なかったはずだ。

 真木は半狂乱に陥りかけたのを自覚したように見えて、徐々に呼吸を落ち着け、それからがばりと髪をかきあげて大きく息を吸った。奴の目は、もはや俺を見ていない。

「俺は俺のやり方を、ただ貫くだけさ。ああ、そうだな。間違っているさ。間違っているんだろうな。お前からすりゃあ」

 奴の後ろには今もなお、土山が崩れかけながらそこにあって、穴の中には死んだ女が横たわっている。

「だがな、人間には、できることとできないことがあるんだよ」

 奴の顔の前で、白い息と淡雪のひとひらが溶け合った。

「俺にはそのことがよくわかっている。自分に何ができて、何ができないか、つまりは、できることとできないことの境ってのがな、俺にはもう、痛いほどわかってるんだ」

 俺はそのとき、自分自身が今ここにいるということを、全身でまざまざと感じ始めた。今踏みしめている石の硬さ、肌に当たる服のごわつき、夜気に当たる首元の冷たさ、そして足指の先の痛みから口の中の湿り気まで、すべてが今、ここにある。

「俺たちは、救うと決めたものだけを救わなきゃならない。そして、それ以外のものを、それ以外のものをなあ、自分の手には収まらなかったものたちを全部……諦めることだ。諦めることなんだよ」

 諦めることなんだよ。真木は俯いたままそう繰り返した。

「俺たちには、身体は一つしかないんだから」

 自然、俺の手は拳を握り、爪が内側に食い込むその痛みのすべての瞬間を俺は敢えて享受しようとした。真木の口は言葉を吐き終わった後も苦しそうに開いたまま。俺は俯く奴の視線の中に、俺の知らない何か遠い景色の影を見たように思った。こいつが救うと決めて救ってきたもの、救えずに手放し見捨ててきたもの。奴はきっと、今それを、記憶の中に映し出している。

 降る雪は弱まることなく、ただ虚しく落ち続けて、俺たち二人の熱を次第次第に食んでいく。俺たち二人の間に広がっているのは、暗い夜の果てにある、音のない死だった。俺は何も言わずに、自分の身体がどうしようもなく今、ここにあるということを身体の痛みで理解し知覚していた。

「どうしてこんなに上手く生きられないのだろうと、思ったことがあるはずだ」

 真木がぽつりとそう言った。悲しげな温度が奴の喉で揺れている。お前だって曲がりなりにもここの住人だからな。真木はそう続けて、少し視線を上げ、俺の胸辺りに目を泳がせる。

「死んだ方がマシだと、思っているか?」

 俺は何の反応できずにいたが、真木は俺に返答を求めているわけじゃなかった。真木は、独り言のように、虚空に降る雪の軌跡を追うように、言葉を続ける。

「足掻くことをやめた人間は、絶望に沈み込んで、その味を嘗め尽くした顔で、こう言う。『殺してくれ』と」

 俺はそこでふっと脳が冷えるのを覚えた。奴の声は軽蔑をありったけ込めた、薄ら笑いに包まれている。「ああいうのは」と真木が言ったとき、俺は奴が頭の中に恐らく具体的な人間を思い描いているのに気がついた。

「自分で死ぬことさえできん哀れな連中だ。俺は、そういう人間にだけは、絶対にならない。そんなのは、人間存在の脆弱さの、生への不誠実の体現というものだ。俺は、そんな、『抜け殻』にだけは、絶対に、ならない」

 俺は唇を噛み締め、それから少し間をおいて口を開いた。

「同感だ」

 俺の言葉に、真木は目を上げる。

「俺もそうだ。俺だって、救えるものだけを救う。そのためなら、それ以外のものを容赦なく捨てよう」

 俺の声は静かな響きを持って、雪のちらつく夜の底から奴に確かに届いていた。

「俺は生きるためにそうするよ。俺自身を守るために、俺の人生を守るために。俺はいつだって要らないものを切り捨てる。そうやって、俺自身だけは絶対に、生き延びてみせる」

 俺は俺自身の心を後押しするように、できるだけ強く声を出すことにした。

「俺はこれからも、今まで通り、俺の視界に入るものの大半を黙殺して生きていく。なかったものとして諦めて生きていく。そうするしかない。そうすることしかできない。出来ないことを出来ると約束するのはぺてん師だ」

 そうだよな。俺が尋ねると、真木はしばらく動かないまま俺を見ていたが、凍るような沈黙の中で奴の首が微かに傾き、

「本気で言っているな」

 と、整った顔が淡々と言った。

「当たり前だ」

「お前は」

 石灰の煙が、奴の足元の麻袋から漂っている。真木の声は、微かに震えて壊れそうな風情を引きずり、助けを求める悲鳴のように俺の方へと投げられた。

「それが正義だと思っているのか」

「いや」

 土の匂いが夜気の底にじっとりと染み付いて消えない。

「正義なわけがない」

 木々の間に立ち尽くす俺たちの間に、声以外の音はなかった。

「でも、身体はひとつしかないんだろ?」

 俺と奴の見解は、言葉の上では一致しているように思った。実際俺は、ほとんど奴の言ったことをおうむ返しにしたまでだ。だが、奴はその胸中にある全てを白状したわけじゃないだろう。だって奴は、間違いなく、正義というものの手に負えなさと、自分という存在の小ささの不釣り合いを、嫌という程理解しているのだから。奴は目を閉じ、深く息を吸って、吐いた。石灰の煙が、奴の足に絡みついている。真木は疲れ切った顔をうつむかせ、

「そうだ」

 と緑色の目で言う。墓場は夜の中に沈み、頭の後ろで木々の枝葉が揺れる音が聞こえる。俺はその時、俺が墓穴の中に見たあの「白い」ものたちが、今までこの男に見捨てられその死を意味づけられて埋められた、女たちの骨であることに、不意に、けれどとうとう気がついた。

「だが」

 真木の口が再び解ける。

「だがもし、救うはずの、救うと誓ったはずの譲れないものまで取りこぼしたら」

 真木の声は、恐ろしく正確に鳴り渡る。

「もしも、大半を切り捨ててでも守ろうとした『大事なもの』が、にも関わらずお前の手の内から滑り落ちるとしたら」

 緑の目がぐるりと回って俺を見る。

「お前はどうするんだ」

 俺は奴の視線とその意味を解しかねて、つい奴を睨みながら問うた。声は怒りを孕んでいた。

「……脅しか?」

「違う」

 奴は短く返し、

「戒めだ」

 と、再び目を伏せた。

「余計だ。何もかも」

 馬鹿らしい、と真木は顔を覆う。それから肩で大きく息を吐き、

「俺がここでお前と話したことは、何もかも、余計だった」

 と苦々しく吐き捨てると、

「何もかも」

 と崩れ落ちそうに頭を振った。

「くそ」

 真木は何かを振り払うように首を振る。奴はそこで顔を上げ、俺を一瞥してからすぐさま墓穴の方へと身体ごと向き直り、

「帰れ、もう、全部俺の仕事だ」

 と余談を許さぬ頑なさで言い放つと、俺をとうとう墓場から追い出した。


 人気のない夜の街を歩く。震えていた真木の肩、怯えるような顔つき、遠く記憶を彷徨う一対の緑の虹彩が脳裏にちらついて、淡雪の間に明滅し、消える。足はゆっくりと石畳の面を踏んでいくが、膝はがたつき軋み、時折平衡感覚を失って背骨ごと傾く。ぐらついているのは世界の方なのか、俺自身なのか、わからない。

 何事も不明瞭で不可解なのに、俺はなぜかひとりで泣きそうな気持ちになっていた。今日死んだ女と、いつか見た記憶の中の夕日の色。真木が今まで見てきたもの。あいつが見てきた世界の中、生きてきた人生の一番先で、今も生きているあいつの土まみれの靴の底。

 何が正しいんだ。頭の中に浮かんだその言葉が、俺の神経を揺すぶって止まない。他を捨ててでも救いたいものを救う。それは、俺たちにとって当然のことのように思えた。救いたいものを救い、抱えきれなかったものを見殺しにして生きていくのは当然のことで、けれど俺たちはいつだって、その線引きに苦しむのだ。その線のこちら側に残るものと、そして残らずに捨てられるものを隔てる最後の一線を他ならぬ己の手で引き、そして、自らこぼれ落ち「させた」ものばかりを見つめて、必ず後悔する。なんで俺たちは、こんな。

 どうしようもなく覚束ない気持ちで通りの先を眺めた時、遠く向こう、ぽつりと立ちすくんだ人影が見え、その人が俺のことを見ているのが見え、そしてその人がすぐさま俺の方へ走ってくるのが見えた。だんだんと近づいてくる足音と、不安げに切れながら繰り返される浅い息の音。彼女は俺から数歩のところで足を止め、それからゆっくりと、俺の目の前まで近づいた。両目を見開き肩で息をしながら、茜は俺の顔を覗き込んだ。どっと吐かれた白い息が、必死に俺を探していたであろう彼女の奔走を思わせて、俺は心臓のあたりがきりりと痛むのを覚える。

「どこに行ってたのよ」

 俺はどんな顔をしていたのだろう。茜はケープ代わりに羽織っていたストールを素早く翻し、俺の肩に着せかけた。柔らかな布地が背中に被さる感覚と、俺の胸の前で垂れたストールの端を握りしめたままの茜の指の白さ、その両方が確かに俺に寄り添っていた。俺がなおも彼女の瞳を見つめ続けていると、彼女は当惑したような目で俺の顔をじっと見たままだったが、出し抜けに

「……それじゃ、寒いでしょ」

 と、諭すような声を漏らした。雪は止んでいた。俺はその声音のどこか困り果てて優しい息遣いにとうとう耐えられなくて、彼女の肩を引き寄せ、抱きしめた。彼女は戸惑ったまま俺の胸に寄り添っていたけれど、まもなく俺の背中に手を回して俺のことを抱きしめ返す。彼女は確かにそこにいて、俺の腕はしっかりと彼女の背中を捕まえていた。彼女はばらけて塵になったりはしないまま、確かにそこに居続けた。通りには俺たち以外誰もいなかった。きいんと冷えた冬の夜の中に、確かに俺と彼女が存在し続けていた。

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