39話 君が望んだ物語

第三十九話 君が望んだ物語



 二人が書架の森から立ち去っていくのを、僕は黙って見つめていた。彼らの姿が白い羽ばたきの中に霞み遠ざかって全く消え去るまで、僕の足元にいた彼女もまた、二つの影をしっかりと目に焼き付け、彼らの無事の帰還にとうとうほっと胸をなで下ろし、僕の方を見上げた。希望に満ちたその空色の目は、いたずらっ子が共犯者を見とめたときみたいに見えて、僕は耐えられず目を逸らしたのだった。

 ところで、事の次第をあなたに伝えるためには、すこおし時間を遡る必要があるはずだ。そう、一つ前の晩までね。ほんの短い時間旅行に君は誘われる。次に場面が転換した後は、あの二人が娼館に帰ってからの話が始まるだろう。そこにたどり着くまでは、過去の時間の流れの中に、そして僕の手の中に、ゆるりと身を委ねてほしい。まずは、昨日の晩の話。


***


「出来ることは、あるよ」

 死体の上でうなだれ涙を流していた彼女は、声のした方を振り返った。その言葉を発したのは、ずっと黙ったまま僕らのやりとりを聞いていた「彼」だった。

「出来ることは、ある……」

 彼は自分の意志を確かにするみたいにそう言って、それから僕のことを見上げ、きっと睨みつけた。僕の背は思わず固まる。彼はそれから彼女のほうに目を向け、落ち着いた面持ちで歩み寄った。彼女は涙で濡らした頬を彼の方に向け、縋るように彼のことを見つめている。

「俺たちは、そこにいる彼を、舞台に戻してあげられる」

 彼女の顔にぱあっと希望の光が灯った瞬間、僕は声を発していた。

「駄目だ」

 口に出してから、彼に避難を含んだ視線をはっきりと向けられて、僕はたじろいだ。でも続けた。

「そんなことをしちゃいけない……」

「君は」

 彼は視線を床に落として、落ち着いた、いやむしろ、彼自身を落ち着かせようとするような低い声で話し出した。

「……君の話し方は、不親切だと思う。まるで、俺たちには彼を話の本筋に戻す手立てがない、みたいに聞こえたよ。そう、まるで──そこにいる彼女のことを騙しているみたいに」

 彼はそこで言葉を切って、彼女のほうを向いた。僕は喉の奥が詰まるような苦しさに苛まれて、彼の裏切りに、つまりは彼の予想外の行為に舌を巻いていた。

「君は、自分が何を言ってるのか、わかってるわけ?」

 僕は苦し紛れみたいにそう言ったけど、彼は頑として意志を曲げるつもりはないらしい。睨むようだった彼の視線は緩められ、駄々っ子を説き伏せる大人みたいな生ぬるさをもって僕に向けられた。

「俺たち、今までだって何度もそうやって……必要なひとたちを元の舞台に戻してきただろう? なのに君は、そのことを彼女に隠してるみたいだ。だまし討ち、みたいだよ。でも、今ここに倒れている彼だって、物語上『必要』なんだ。ねえ、そうだよね?」

 彼は言葉の最後で彼女に目配せをし、血だまりの中に座り込んだ彼女もまた必死に頷いてそれに応える。

「あれは、」

 僕は必死に口を開け、ひどく不恰好な声がその口から乾いた響きで投げ出される。

「彼らは特別だった。彼らにはそうしてあげられた。……でも」

「奇跡は俺たちが起こす」

 死骸の痛々しい顔に向けられていた僕の視線は、彼の言葉によって引き剥がされた。

「俺たちが起こした奇跡は、連鎖して何か途方も無いものを産むかもしれない」

 信じようよ、と彼は僕に向かって声を張り上げてみせる。

「ここにいる彼女は、俺たちに……この物語に、勝利を運んできたんだよ」

 彼の切実なまなざしは、僕の両目に突き刺さっている。

「彼女の言葉に従おう。俺たちを、この物語を救えるのは彼女なんだ。きっと、彼女だけなんだ」

 僕は、彼の切実な目線の奥にある異常な熱源が何なのかを知っていた。彼の目は、僕のことを見つめる頑なに揺るぎなく向こう見ずで疑いのないその目は、紛れもなく「恋する人間の目」だった。

「……忘れないことだ」

 僕は湧き上がりそうになった感情を抑えて、できるだけ冷静な声で続けた。

「自分が何を選択したのか。何をわかっていて、何を知っていて、その上で何を選び取ったのか。……つまりは」

 彼はまた、僕のことをあの忌々しいほど真っ直ぐな目で見つめている。

「君は覚悟を持ってひとつの選択をしたんだっていうことを、ね」


***


「おやまあ、どうも、おふたりお揃いで」

 俺が華屋に着いて最初に顔を合わせたのは、着物を着込んだ見知らぬ「白い男」だった。黄色く透けた瞳の奥からこちらを見つめるしなやかな風態の男は、どうやら俺のことを知っているらしかった。細い首筋を洋間の入り口に沿わせて、すらりと妙なる神聖の空気を纏ってそこに立っている。ゆるりとカールのかかった白髪の下のどこか読めない表情を一寸も変えぬうち、男の視線は滑らかに俺の腕の中の茜へと移っていき、

「俺がここに来たのも、長兄殿の先見の明ってやつだねえ」

 などと、飄々としたまま喋っている。そのとき、奴の白い髪の奥からぐらりと背の高い黒髪の男が現れた。切れ長の目を持つ地味な顔立ちの男は黒いスーツに身を包んでいて、強そうな肩がベストからはみ出ている。そうしてその切れた目元で俺の顔にちらりと目をやった。すると、そののっぽの黒髪は

「先生」

 と、恐らく手前にいる白い男のことを呼びながら出てきたらしいのだが、俺の腕の中の血塗れの茜の姿を認めると、なんと目の前にいた「先生」を突き飛ばし、必死の形相で俺ごと茜を部屋の中へと引きずり込んだのだった。

 どうやら、奴らが噂に聞く「掃き溜めの医者」たちらしい。茜は微かに息をしている状態のままカウチに寝かされ、しばらく床に転がったままだった「先生」も、黒髪ののっぽに急かされて起き上がり、床に跪くようにして彼女の怪我の具合を伺った。洋間には枇杷をはじめ、椿や真木も揃っていて、ぐったりと目を閉じた茜のことを黙って見つめている。

「猟犬かね」

 と口にする「先生」は、茜の着ていた服の袖をぺろりとめくりあげ、俺の方を見る。俺が、そうだ、というように頷くと、やれやれと頭を振った。

「こいつを呼びつけておいて良かったよ。お前たちがいなくて、嫌な予感がしていたんだ」

 と、寝不足気味に見える枇杷が忌々しげに目元を歪めている。

「連れ帰ってくれたからには治して差し上げよう」

「先生」は着物の袖をぐいと脇へ避け、引き裂かれた茜の腕の付け根に手を当てる。

「俺がこうして手を差し伸べれば」

 骨ばった「先生」の生白い手が腕の付け根から裂け曲がった茜の腕の上をするりと撫でるように移っていく。

「全て綺麗に元どおり、さ」

 と、「先生」の手が離れた時、茜の引き裂けた衣服の中に、元どおりの白い腕が横たわっていた。そのあっさりと繰り広げられた奇怪な現象に狼狽えたのは俺だけだ。真木の手足を元に戻したのも、仏頂面のあいつにまた腕を生やしたのも、目の前にいるこいつなんだ。他の奴らはつまらなそうに「奇跡」を見届け、勝手に話をし始める。

「どこに行ってた? 二日も、お前……」

 と話しかけてくる真木を受け流して、俺はカウチに横たわっていた茜を抱き上げた。

「ちゃんとしたところで寝かせてやりたい」

 と俺が奴らの顔を見回すと、奴らは顔を見合わせ何やら渋っている。しかし「先生」が

「そうさせてあげなさいよ。彼らどこへも逃げたりしないさ。だろう?」

 とのったりと声を出し、俺に向かってウインクする。

 俺は他の奴らの視線の中をくぐり抜けるようにして茜を連れ部屋を出た。


***


「二日ぶりだって?」

 医師がそう声を出すと、華屋の幹部たちは互いに目線をやった。

「ああ、そうだ」

 と返事を返した真木に向かって、医師はちらりと閃くような黄色の視線を寄越し、

「お嬢さんの方は治したけれど、大丈夫かねえ、『彼』のほうは」

 と言葉の後ろを濁らせ、彼の声の余韻がじわりと室温に溶ける。そうしてゆるりと肘掛け椅子にもたれかかった医師の横で、黒髪の助手がハットを被り、上着を着込んで帰り支度を始めている。

「先生、何にせよ、僕らの仕事ってのはここまでのようですよ」

 それから、そこらのソファの背もたれにかかっていた医師の羽織を手に取り、くるりと翻して医師の背中に着せてやる。

「帰りましょう」

「どうにかここに留まって貰うことはできないかね」

 という枇杷の声に助手の黒髪はしかめ面をし、医師は涼しげなその顔を微笑みで濁した。

「俺はすべての患者を平等に扱うんだ」

 医師の肩に触れるように載せられた助手の左手は、いつでも主人を守れるようにと身構えられ、右手は医師の持ち物である杖を握りしめ、殺気を孕んだ。

「俺にとって、患者に貴賎はなくてね」

 困ったように眉をハの字にした医師に、枇杷は

「冗談だよ」

 と飄々とした微笑みを返し、

「それじゃあ、どうも」

 と礼儀正しく挨拶をして出ていく助手と、その助手に背中を押されるようにして去っていく医師の白い後ろ姿を、華屋は見送ったのだった。


***


 横になった茜の胸が呼吸で上下するのが見える。俺はベッドの横に跪き、マットレスの上に顎を乗せて、天井を向いた茜の横顔を見つめていた。ぐったりと疲れてほつれた髪がこちらに流れている。先ほど「治った」ばかりの彼女の手に触れ、それが確かに人の手の形をしていることを確かめる。

 あの時、そうだ、あの時。書架の前で目を見開く彼女の手を引き上げ、彼女が俺にしなだれかかって。細い身体は血塗れで死にそうだった。茜は、今にも死にそうなのに、俺のことをあそこで待っていた。いや、俺のことをあそこまで迎えにきた。あんなところまで迎えにきた……。俺は彼女の手のひらに自分の手のひらを寄り添わせて、力の抜けたその指に指を絡めて握った。このひとは、俺の言葉に突き動かされて扉をくぐった。俺の言葉は、ちゃんとこのひとの胸に届いていたんだ。そう思うと、胸の奥にぐっと熱いものがこみ上げてくる。そうして彼女の温い手を何度か握っては緩めて、と繰り返し、自分の記憶を辿ろうとしていた。

 俺は裁判所の猟犬女にぶっ殺された、はずだ。いや、今ここにいるってことは、死ななかったってことになる。そうだ。俺は死ななかった。だけど、あんな目に遭ったんだぞ? 俺は腹を裏返されたあの時のことを思い出す。息もできない痛みの海だ。あんなことをされて、俺は死ななかったってのか? どうして助かった? なぜ俺は今、五体満足でここにいるんだろう。俺は裏返されたはずの自分の腹を左手でさすって確かめ、無意識に、親指の腹で茜の爪の先の尖ったカーブの形を探っていた。俺は、また茜の指をぐっと握って、離す。

 書架の合間で目を覚ました時、俺は自分が何をすべきかをわかっていた。書架の並びの何枚か向こうから聞こえてくる女たちの乾いた叫び声、足を進め開けた視界の中に見えた、茜に覆いかぶさった猟犬女の黒い背中。俺はそれに向かって、迷うことなく真っ直ぐに日本刀を投げた──。

「計算は合っていたな」

 俺ははっとして茜の手をきつく握りしめた。背中にじわりと冷えた汗が滲んでいるのがわかる。跪いていた足先が、急に冷たく凍えそうに思えてきた。そうだ、あの時、俺は、俺の口は確かにそう言ったのだ。「計算は合っていた」と、確かに、そう言った。そう言った覚えがある。俺の舌がそう動いて、声帯の振動に合わせて、確かにそう聞こえるようにこの口から言葉が鳴った。だが、だけれど。

 いつしか開いていた朱色の目がふたつ、睫毛の下から俺のことを見ていた。微かに開いた唇が、俺を俺と知った瞬間に薄く解けて、微笑む。俺が戸惑っているうちに、彼女は強く握りしめていたままだった俺の手を力なく握り返し、

「少し痛いわ」

 と困ったような声を出していて、俺は急いで手を緩めた。けれど、その手を離さないでいたくて、寄り添わせたままにしておいた。彼女はそれを許してくれて、だから彼女の手のひらの柔らかさに再び安堵を覚えたまま俺は考えていた。俺が言ったあの言葉、あれを発したのは、ほんとうに俺だったのか?


***


 彼女は目の前で心細そうに自分の手を握っている男の顔を見、ほっとした様子で寝返りを打つと、ぎこちなく身体を起こしてベッドの上に座った。

「ほんとうに、死んじゃったと思った」

 やつれた彼女の顔の中には確かな穏やかさがあって、彼はそれを見ながら彼女の両手を探し求めた。彼女はそれに応えて彼の両手の間に手を差し伸べ、ぐっと息を飲み込んだ。彼女の不思議なほど清らかな顔つきに彼の口からは言葉が自然と漏れ出して、

「死なないって言ったろう」

 と彼ははにかみ、

「約束した」

「そうね」

 と彼女も返す。彼らの足元のストーブの中で燃える火が小さく音を立てている。そうしてふたりはしばらく無言で見つめあっていた。相手の指がそこにあることを確かめるみたいに、じっと手を握り合ったままだった。彼女の朱色の目の中にランプの黄色い光がてらりと写り込んで照っているのを見、その瞳の奥に飲み込まれそうになりながら彼は

「そうだ、俺、見つけてきたんだ」

 と、うわ言のように喋った。微かに首をかしげる彼女に向かって、彼はふっと一言、

「あかり」

 と、あまりにもさりげなく、溢れるような声で呼びかけた。彼らの両手は互いに、確かに触れ合っていた。

 すると、ひらり、部屋の電灯の光が落ちた。二人は突如として世界に飛び込んできた暗闇に驚き、互いに両手を強く握り合って、真っ暗な部屋の中で相手を縋った。部屋の電灯と同時にストーブの火もまたかき消えていて、部屋の中に温度を保っているのはどうにも彼ら二人だけに思われた。月の光が際立って強く差し込むように思えたその夜の街は、彼らのいる部屋を中心にして辺り一帯、電灯や火器の類いが黙り込み目を閉じてしまっていたのだった。そんなことを知らない彼らは、かろうじて相手の輪郭が見えるかどうかという闇の中で、次第に相手の顔かたちを見つけ出し、心細さに引き合うようにますます近づいていった。そうして二人の顔が間近に迫った時、彼はついに、彼女の頬に伝う涙の形を見出していた。彼の手は涙を拭うままに彼女の頬に触れ、彼女もまた彼の手を己の手で包み込んだ。

「名前」

 私の名前、と鼻の詰まった彼女の声がぎこちなくそう繰り返して、彼はその言葉を発した彼女の唇の形が、いつにもまして薄く貧相に思われた。

「ほんとうに、見つけてきたのね……」

 彼女が瞬きした時、再び大きな涙の雫がその両頬を伝わり駆けるように降りていって、そのうちの一粒が彼の腕に滑り落ちた。滲むその体温が、あまりにも普通の人間のそれに思えて、彼は目を細めて彼女の顔を両手で包み込んだ。

「君は……」

 彼の両手の親指が彼女の頬を押さえ、暗闇の中で彼は彼女の朱色の両目を覗き込んだ。

「こんな目をしていたっけ……」

 彼女はそこではっとして、両目の中に恐怖の色が閃いた。それを見つめる彼は身を乗り出し、瞳の色を確かめようとしていた。

「こんな……」

 そうして戸惑い固まったままの彼女の顔をしばらくつねっていた彼に彼女は声を震わした。

「……違って見える?」

「かもしれない」

「私ね」

 暗闇の不確かな視界の中で、彼女は彼の両手の甲に手を添えていた。

「兄さんが生まれたのは、両親が北陸にいる頃だったの。それから、堺の方に移ってきて」

 彼は、彼女の話の意図がわからないまま、朱色の両目を見つめていた。

「私は、移ってきてから生まれたの……海の方に」

 彼女は自分でそう話しながら、なぜそう話しているのかわからなくなりかけているようだった。

「私は」

 彼女はそこでひとつ深呼吸をして、

「海辺にあった灯台から名前をつけられたの。『誰かの導になれるように』って、そう教えられたから」

 彼女は口の中にあった唾を飲み込んだ。

「だから、あんたが見つけてきてくれた名前は、間違ってない……母さんがそう話してくれたこともみんな、今、思い出した……」

 俯いた彼女の瞼の丸い形を、彼はじっと見つめていた。

「だから、私……」

 そのとき、にわかに世界が明るくなって、彼らはきょとんとしたまま電灯の光の下にいた。部屋の中でストーブの火が再び燃え始め、何事もなく始まった先ほどの続きの世界に放り込まれ、ふたりは自分たちが妙な距離感で身を寄せ合っているのに気がついた。彼女は彼とまともに目があって、思わず彼を突き飛ばした。けれど彼は突き飛ばされたまま目を丸くして立っていて、慄く彼女にもう一度近づいていった。

「違う」

 彼の指が彼女の頬に触れ、冬の空気にがさついた女の皮膚のざらつきを拾っていった。彼の目に映っていたのは、怯えたつり目の娘だった。震え縮こまった彼女の姿が、彼にはなんだか、みすぼらしい少女のようにも見えた。乱れた黒髪に囲まれた青白い顔の中で、目つきの悪い少女が彼のことを見つめ返していた。彼女がそのまま何もできず黙っていた時、彼は突然、はは、と声を出して笑った。

「そうか、これが、本当の顔ってわけだ」

 彼は笑い、細めていた目をもう一度見開いて、彼女の顔をもう一度見て呆れたようにけらけら笑った。彼には、彼女のその顔が、ずっと前からそこにあったように思えるのに、吸い込まれるようなあの魔性じみた魅力が失しているようにも思えるのだった。顔の中で居心地悪そうに据わっている、尖ったつり目と、疲れ切ってやつれた頬に点々と落ちたシミ、薄い唇は微かに開いていて、顔立ちはなんだか育ちが悪く不健康に見える。その娘が、彼の前で何を言うべきかもわからず震えているのだった。

「そうか、そうか……」

 彼は、ひとしきり笑うと気が抜けた様にしゃがみこみ、それから彼女の顔を見てまた笑った。彼女は苦虫を噛み潰した様な顔で口を引き結び、次第次第に顔中不機嫌な怒りが広がった。

「あのね」

 今度は彼女が身を乗り出して、彼の首元に両手を沿わせた。

「勝ったような気にならないで。あんたは私に逆らえないのよ」

 と口にしながら、彼女は朱色の両目で彼のことをじっと睨みつける。彼は彼女の視線を自分の両目でまともに受け止めたが、彼はただ、彼女の瞳の色の中に、いつか彼女の記憶の中で照っていた夕日の色を思い出しただけだった。彼は魅了される代わりに気の抜けた笑顔を返し、彼女ははっとして彼から離れた。

 ベッドの上に再びひとりきりで座り込み、彼女はいじけて唇をかんだ。そうして、そっぽを向いたまま居心地悪そうに身体を動かしてみせる。彼から見て、彼女のその横顔にはもう、他人を地獄に引きずり込むようなあの魔性はなかった。注がれ続ける彼の視線に、彼女はとうとう顔を覆い、

「見ないでよ」

 と、指の隙間から苦しそうに声を出した。それから幾度か深く息を繰り返し、とうとう漏れ出た言葉こそが、彼女の本心に思われた。

「失望しないで……お願い……」

 彼女の押し潰れた声を聞き、彼は少し考えた。額に手を当て、彼は口の中で拍子抜けしたという感情を噛み砕き、飲み込んだ。

「今までの方が、おかしかったんだよ」

 言葉を選ぶ彼に、彼女は顔を手で覆ったまま、黙って聞いていた。

「君の顔が見れてよかった。本当の……」

 彼女は何も答えなかった。ただしんと黙って、部屋の中の音を聞いているだけだ。彼は、彼女が自分の話を聞いているとわかって言葉を続けた。

「でも君は、それじゃ困るんだよな。俺が言うことを聞いてくれないと、君はこの街で生き残れないから……」

 彼女は黙って彼の言葉を肯定した。

「俺は今から馬鹿げたことを言うんだけどさ、聞いてくれる?」

 と、口を開いた。彼女は彼に見えないように向こうを向いて、うなずきもしない。彼は立ち上がって彼女を自分の方に向かせ、ぎょっとした彼女の顔を両手で包み込んだ。彼女の痩せた首筋に彼の指先がかかっている。

「俺は、もっと酷い呪いのかけ方を知ってるよ」

 間近に迫った彼の心の内を測りかねて、彼女は背筋を伸ばしたまま彼の顔を見つめ返していた。

「実はね」

 と、彼はいたずらっ子のように笑う。

「君がかけたのよりも、もっと酷いの」

 と彼は言って、そう言いながら自分で恥ずかしくなって一度目を伏せ、それからまた彼女の朱色の双眸を見とめ直した。彼女はそのとき、今から何が起こるのかを悟ってしまった。ベッドの上に彼の膝が乗り上げて、崩した彼女の足に微かに当たった。彼が強張った唾を飲むのが見えて、彼女は自分の胸が震えるのを覚えていた。彼女は口元で微かに笑い、呆れた様な目をして一度瞬きをした。彼は彼女の頬を包み込んでいた片手を彼女の肩の上に滑らせて、身体ごと彼女に近づき、それから、彼女が言葉を返すのを待っていた。彼女の顔は覚悟を決めたように微かに持ち上がって、彼女本来の小悪魔じみた表情がそこに灯り、細い顎が彼の方を向いた。

「教えて」

 彼にとってその瞬間の彼女は、彼がそれまで見たどの彼女よりも一番映画じみていて、彼はふと、女優というものがカメラの撮り方によって幾らでも美しくなれることを思い出したのだった。彼は彼女の鎖骨のあたりに右手を置き、左手を首筋から顎の先あたりに置いて、ゆっくり身を屈めていった。彼は自分ごとその一瞬を一枚の絵画のように思っていた。するりと伸びた彼女の首筋の上の横顔に、彼は息も詰まりそうな心地で近づいていき、自分の息が彼女の顔に当たるのを世界で一番恐ろしいことのように感じながら、背中を強張らせている。彼はとうとう覚悟を決め、自分と彼女の間に開いていた最後の距離を詰める。彼はそうして、二人の間に深く重く広がっていた傷のような断絶を埋めてしまった。


***


 茜の伏した瞼の下から、黒いまつ毛が伸びている。俺は彼女から両手を離して、その隣に座りなおした。彼女は黙っている。俺も黙っている。誰も何も言わない真夜中の中に、柱時計の針が確かに時間を刻み続けている。彼女が何か言おうとして口を開いたが、言葉にはしないまま口に含んだ息をおかしそうに吹き出している。馬鹿なことをしたな。けれど、彼女もこの茶番を受け入れたのだから共犯てことになる。責任は俺だけにあるんじゃない。

 居心地が悪くて、けれど決して嫌じゃない風に胸が濁るのを覚えながら、俺ははっとして上着のポケットに手をやった。ライターの四角い形状と、鍵の持ち手に施された微かな彫刻に指先が触れた後、ポケットの一番そこにあった「それ」を、俺はとうとう探り当てた。

「あか、ね」

 茜は俺の顔を見た。どこか夢見がちにぼうっとした両目が、微笑んだままそこに据わっていた。

「君の名前と一緒に、拾ってきたものがある。君にとって大切なものだと思う」

 俺はポケットの中にあった「それ」を両手の中に握り込み、差し伸べられた茜の手のひらの上にその拳を乗せた。

「渡されたんだ、これを」

 彼女は俺の目から手のひらの上へと視線を落とし、俺の手の覆いが去った後、自分の手に残ったものを見た。

「君の人生の根幹に関わるものだ。きっと……」

 彼女の手のひらの上には、見覚えのある銀の十字架が横たわっていた。


***


「医者、医者は……!」

 階上からどたどたと降りてきた足音に洋間にいた三人が振り返ると、そこには茜に肩を貸されてなんとか立っている八手が居た。彼はとうとう耐えきれずに彼女の肩から床へと滑り落ち、顔を抑えてのたうつと、うめき声を上げた。

「医者は帰した。もういない」

 と言う枇杷の横から真木が八手のそばに駆け寄り、彼を立たせようとするが、痛みに震える彼は真木の手を払いのけますます身をよじった。目を覆った彼の指の隙間からは、赤黒い血が流れ出している。

「だめ、だめだ、俺は……」

 気が狂ったように声を上げる八手から椿は後ずさり、なんとか身体を起こした彼の背中に茜が縋り付いた。そのとき八手が一際大きくうめき声をあげ、背中をそらして両目を見開いた。彼の右目からは、血が滝のように流れ出していた。彼の背中、体の全体がびくりと大きく震えると、彼の体は再び弓のようにしなって床にうなだれる。絨毯の上に黒いしみを作る自分の血液を己の影の中に見、彼はくらんだ視界の中で激しい痛みが次第に引いていくのを覚えていた。

「あ、少し、マシに……俺……」

 彼はそれから顔を上げ部屋を見渡したが、そこには顔を強張らせ、彼を見下ろす枇杷と真木と椿の姿があった。茜の寄り添った身体が震えているのを覚え、彼は困惑に包まれながらも、視界の中の三人が見つめている床の上を見た。自分が作った血の跡の先に、小さな影が落ちている。彼はどこか狭いように思える視界の中でその影をまじまじと見た、が、小さな影を作るその塊もまた、彼のことを見つめ返していた。彼がその正体にとうとう気がついた時、彼の喉は勝手に生臭い血まみれの空気を吸い込み、両方の肺が締め付けられるように痛んだ。彼のことを見つめ返していたその「塊」、それは、先ほどまで彼の顔の中に収まっていた「右目」に他ならなかった。


***


「何をしているの?」

 と、聞き覚えのない声に振り返ると、銀色の髪をした女が戸口に立ってこちらを見、微笑んでいた。瞬間、

「いばら!」

 と、枇杷が女に駆け寄って、頼りなく立ち上がるその背中を抱きしめる。

「駄目だ、無理に起きてきては……」

 彼女の銀色の髪を撫で付け、心配そうに彼女のことだけを見ている枇杷は、あまりに仰々しくて滑稽なほどだった。彼女はそんな枇杷のことを押しとどめ、

「無理してないわ」

 と、人形のように微笑むと、

「なにか、困ったことが起こっているようじゃない」

 と俺の方を指差し、それから枇杷のことを柔らかく押しのけて、俺の方にやってきた。波打つ白いドレスを引きずりながら音もなく歩いてきた彼女は、俺の前に跪き、落ちたままだった俺の眼球を手に取った。俺ははっとして、右目に手をやる、が、瞼の内側にはそれまでになかった「虚」が開き、冷気を迎え入れている。

「私と会うのは初めて?」

 と、女は俺の残った目を覗き込み、薄く微笑む。銀色の滑らかな髪は床までゆるりと垂れ下がっていて、白いドレスとほとんど一体のように見える。俺が枇杷を追いかけて入った部屋の奥、あの場所にいたのは、間違いなくこの女だった。赤い目をした女はそれからちょっと眉をよせて、

「いえ……知っていたのかしら?」

 と、俺の心のうちを読んだ。俺が動揺するのも素知らぬ顔で、女は

「私も貴方のことを知っているわ」

 と微笑みながら手の中にある眼球を弄ぶ。

「でも、おかしいわね」

 と、女は俺の顔を見つめ、ひとりで首を傾げている。

「やっぱり知らない人……?」

 空になった目の中からひっそりと滴り落ち続ける血のぬめりとぬくさが、俺の頰と手の隙間を伝っていく。俺の視界の中で、銀色の女はひとつ首を傾げ、

「いいえ、違う。私、ふたりとも知っているもの」

 と、言って、ああ、と合点がいったように微笑んだ。

「あなた、その『欠け』を、どこかで拾ってきたのね」

 俺の喉から声は出ず、けれど、いばらの銀の髪の後ろに枇杷が歩み寄り、俺に不審の目を向けているのが見える。

「僕は、いや僕らは、その欠けを……そして、この現象を知っている」

 寄り添っていた茜が、俺の服を指で掴むのがわかった。枇杷は呆然とした俺を見下ろし、それからこう言った。

「お前、『死んできた』な?」


***


 軽快なギターの音が流れる蓄音機を背にして、男はバーカウンターに肩肘をつき、利き手の左手で煙草を吸っている。天井で回るシーリングファンの下で黄ばんだ明かりを灯し、二人の男が部屋にいた。グレーの髪をした男は、ワイシャツの袖をまくったラフな格好で煙草を咥え、背の低いグラスに砕いた氷を転がしてブランデーを注ぎ、ぐいと二杯分まとめてバーテーブルに置き、得意げな顔で客人をもてなしている。ここは、男とその妹の住むアパルトマンである。

 肘をついたままだった長髪の男は少し身体を起こしてグラスの片方を取ると、ぐるぐると回し、バーテンダー気取りの友人を見遣った。グレーの頭の後ろには、彼の気に入りの酒たちがずらりと誇り高く並んでいる。

「バーテンをやったことが?」

「いいや」

 男は咥え煙草を一度指に摘んでから、残った指でグラスを持ち、少し飲む。それからにやりと笑った。

「行きつけの店で『盗んだ』ってやつ」

 長髪の男は顎でうなずいてみせると、こちらも少し飲む。

「妹は」

「奥の部屋で寝てる」

 大きな音楽のかかる部屋を見回し、長髪はまた何度か頷くと、

「話したいことがあるわけだな」

 と確信めいてグレー髪の男の人相の悪い顔を見た。相手は一瞬、顔を強張らせたが、そこで真顔になって

「そうだ」

 と頷いた。

「教えて欲しいことが、あるんだよ」

 奥で燃える薪ストーブの火の揺らめきに気を取られているふりをしながら、もう一度煙草をくわえた。

「『教えて欲しい』? これ以上何を教えてやれるって言うんだ? ここでの金の稼ぎ方、力と金を持ってる奴らの繋がり、外の人間との取引まで、もう十分教えてやったろ?」

 長髪の男もまた煙草を口にやって、ん? と声を出して目の前の悪人顔に返事を促す。

「そうじゃねえんだよ」

 グレー髪の部屋の主人は俯いてため息をつくと、バーカウンターの中から出て、長髪の後ろを通り、窓の方を向いたソファーに座った。背の高い椅子に座った長髪からは、ソファーに座った友人の後頭部と、その横にある低いガラスの天板のテーブル、黒いラグ、二人がけの黄ばんだソファーやらなにやら、薄汚れて生活用品の散らばった、けれど住み心地のよさそうなリビングルームがそっくり見えた。友人は振り返らないまましばらく煙草を吸っていたが、首を動かさないまま、ぽつりと独り言のように

「お前は死んだことがある」

 と、声を出した。それからまた、何事もなかった風を装うように煙草を吸い始める。長髪男は、はあ? と冗談めかして笑い、煙草と酒とを数回往復してしばらく友人の後頭部を観察していたが、ため息をついて天井を見上げ、煙草の穂先から出た煙が天井に吸い込まれていくのに目をやった。

「『どこで』知った?」

 長髪がそう問うと、グレーの後頭部がかすかに揺れた。

「いや、質問を変えよう」

 長髪は間を空けず、言葉を続けた。

「新しい質問は、こうだ。『お前は、書架の連なる空間に行ったことはあるか?』」

 グレーの後ろ姿は男の声が聞こえなかったかのようにしばらく煙草と酒を行き来していたが、その後ろ姿から大きく息を吐く音が聞こえた。蓄音機から流れる歌謡曲の中で、ボーカルがリズムに乗り切って『助けてくれ』と喚いている。グレー髪は長髪のことを振り返らないまま、ソファーの上で足を組み直し

「……ある」

 と、小さく、しかし間違いなく呟いた。


***


「死んだ人間が帰ってきたと」

 黒髪の美青年は、根城の一番奥の部屋に部下たちを集め、ゆったりと背中を後ろに預けたまま言った。美青年のその声に、仏頂面の中の紅い目が頷き、それを見ていた優男がその仏頂面から男の方へと目を移した。

「君は見たわけだね、自分の目で」

「俺の記憶から消えていた男だった」

 仏頂面は淡々とそう喋るが、横にいる女は不安げに緑色の瞳を何度も瞬きさせている。

「『狂犬』だ、華屋の。あれが、死んで戻ってきた」

「本当に……?」

 女は不安げに仏頂面に話しかけるが、美青年が手を上げて女の言葉を止め、落ち着き払って話し出す。

「いや、これは喜ばしいことだよ」

 驚いた女は美青年の顔を見遣り、彼は彼女がしっかりと自分のことを見ているのを確信してから続けた。

「物語は私たちにヒントを与えながら続いている。確かにこちらにも勝算を与えながら、着実に先へと進んでいっている。つまりは、本格的に動き出すべき時期に来たということだ」

 美青年の言葉を半分も理解できていない様子の女は、けれど美青年の「喜ばしい」と言う言葉を愚直に信じることに決めた。

「具体的には何をやるんだよ」

 と少年のような声が聞こえて、そこには青い目をした背の低い青年の姿があった。やせぎみの背中は丸まって、部屋の隅の椅子の上に収まっている。彼の横には、落ち着き払った顔の眼鏡の男が、青年と同じようにして長い背中を丸め、床を見つめて煙草を吸っていた。美青年は青目に向かって微笑み、

「それに関しては、『女神様』にお伺いを立てようか」

 美青年の目がくるりと部屋の中を滑っていき、壁にもたれてすらりと立っている黒い長髪の女の方へ向いた。女は自分に注意が向くとは思わなかった様子で、思わず驚き笑うと、

「そういう呼び方はやめて頂戴」

 と屈託なく笑って見せた。鼻のすっと通った凛々しい顔立ちの女は周りの注目を浴びて居心地悪そうに肩をすくめると、

「でも、そうね、『時期』だと思うわ」

 と笑う。

「足場は固まった」

 美青年は女から言葉の続きを引き取って、深く息を吐いた。

「裁判所からも、娼館からも、そして別のところからも……私たちに攻め手はある。あとは……選ぶだけだ」

 美青年のその言葉に女は壁際からにこやかな笑顔を返す。

「私たちはもう少し深く……いや、一段上の階層に進むべきだ」

 美青年が顔を上げると、丸天井の油彩が目に入った。青空の上に柔らかなローブを漂わせるふくよかな女たち、腰布を巻いたたくましい男たちに囲まれ、天井の中央には、穏やかな顔をした老爺の姿がある。

「どうやら、この世界を、君よりよほど上から見下ろしている者がいるらしい」

 長髪の女は上向いた美青年の美しい横顔を見つめている。

「暴かねばなるまい」

 美青年は顔を戻して部屋中に目を向けた。誰もが美青年のことを見ている。彼は部下たちの全員と視線の交差を終え、そこでくふりと口に息を含み、その完成された笑みを振りまく。

「全知の神の脳髄を」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る