38話 いざ、真相へ

 掃き溜めの大通りなど、言ってしまえばちゃちなものだ。街路に生えた灯の黄味がかった色どりが、のっぺりと広がる石畳に薄い凹凸の影を辺り一面に刻みつけ、気取った飲み屋の飾り看板や、そっけない道路標識にふざけてスプレーされた落書きにさえその光を投げかけている。そういった安っぽい金色の通りが交差した角に、彼女は店を構えていた。稀代の宗教擁護者の名を頂いたそのカフェは、彼女がその支配下に置く掃き溜めの店屋の中でも、いっとう彼女のお気に入りであった。それは、店のがらんと開けたホールの趣がどこか寂しい清々しさを持っているからでもあったし、通りに向かって二面ともガラス張りの店構えが、往来を眺めるのにおあつらえ向きだからでもあったし、誰もいなくなった明け方、その誰かに見放されて時間の止まったような店の中でたったひとりになれる時間それ自体を彼女が愛していたからでもある。

 彼女は夜明けを迎えようとしている今この瞬間も同じカフェに居て、無人のホールで細々とした伝票や紙幣なんかの整理を終え、奥に上着を取りに行くところだった。グレーの毛皮のコートを細い肩に引っ掛け、白い石畳の床に靴音をかつかつと鳴らしながらテーブルの間をすり抜ける。表に出ると、ガラスの扉を閉じて、鍵を厳重に上下とも締めた。それから少し背伸びをして店の二面のガラスに格子を下ろし、それにも鍵をかける。じゃらじゃらとあらゆる店の鍵がぶら下がった束をハンドバッグにしまい、彼女は上着の前をきゅっと押さえて家路に着いた。

 いつもの道だった。カフェから彼女の根城までは十分もかからなかったし、彼女がこうしてひとりでいるっていうのは特段珍しいことでもなかった。彼女はいつも通り華屋の裏手をぐるりと囲んでいる垣根の途切れ、葉の間に埋もれるように小さな口を開けている門扉を押し開け、アパルトマン風の館の裏庭に滑り込んだ。庭木の間に点々と続く敷石の上をハイヒールのかかとを持て余すように大儀そうに歩いて、勝手口から館の中に忍び込むみたいに入る。すると、ダイニングから光と音が漏れ出している。誰かがまだ起きているようだ。それを横目に通り過ぎ、彼女は努めて音を立てないようにしながら忍び足で階段を上がり、自分の部屋の扉を開けて、慎重に閉めた。

 カーテンが開いたままの出窓の奥には薄青い夜の風景が覗いていて、しんと黙ったストーブが平常通り忠実な顔で彼女の帰りを待っていた。彼女は壁に天井のランプのスイッチをまさぐって見つけた後、ストーブを点けると、くたびれたように落とした両手を伝ってコートを滑らせ脱いでしまい、それをクローゼットの隙間に押し込んで、そこでやっとベッドの上に身体を落ち着けた。くたびれた背中を伸ばしながら大きく息を吸い、大げさな吐息と共に力を抜いて、はっとしたような風情で上げたままの髪を触る。朝整えて結い上げた髪は、よれて絡まっているようだった。彼女は腕を下ろすと大きく息を吐き、勢いをつけてまた立ち上がると、服を脱ぎ捨て化粧を落としにバスルームへと向かった。

 彼女がある確信に至ったのは、シャワーを終えて髪を乾かしていた時のことだった。濡れた髪をタオルで包み込み、鏡の中の伏し目がちの目が彼女自身を見つめているのに気づいたとき、ああそうか、自分のところの誰かがいなくなったのだ、と彼女はついに思い至った。呆然とした心持のままベッドの方へ戻ってくると、彼女は腰掛けてぼうっとランプの色を見た。いつものことだった。彼女のために誰かが死んだ後、彼女自身はその男のことを綺麗さっぱり忘れてしまう。けれど、なんでもない平常の生活をつつがなくこなしている最中、なんでもない、ほんとうになんでもないふとした瞬間に、「ああ、誰かがいなくなったのだ」と、彼女は「偉大なる喪失」に気づくのだ。彼女はそうしていつも──恐ろしく間の抜けて滑稽なことに──「いなくなったらしい」という、どこか現実離れして思えるのに厳然としてそこにある事実に、平常の生活の中で不意に突き当たるのだった。

 彼女は壁に落ちる化粧箱の影を見つめ、その影の形が目の奥に焼き付くほどそこから視線を逸らさないまま、さらに考えた。ここにいたのは、一体どんな人物だったのだろう。ベッドを振り返り、今は空っぽなそこに横たわっていたはずの人物の姿を頭の中になんとか描き出そうとする。歳は幾つくらいの男だったのだろう。そもそも男ではなかったかもしれない。私はいつ頃、どんな風にその人物に出会い、どのようにこき使っていたのだろう。その人間はここに来る前はどんな生活をしていて、どうしてこの街に迷い込んで来てしまったのだろう。そのひとに──私はどんな話をしたのだろう。

 壁を見つめても、その白いクロスの細かい凹凸はじっと黙ったまま彼女の思考を吸い込んでいるだけで、何の答えも返して来はしなかった。彼女はため息をつき、思い直そうとする。どうせ、知らない人間のことだ。確かに私は、昨日か一昨日か、せいぜい数日前まではその男の隣で寝起きをしていたのだろうし、くだらない話もしたのだろうし、嫌になる程その顔を見たんだろう。それは間違いのないことだ。けれど、記憶が抜け落ちた私にとって、「その人間のことを知っていた数日前の私」など、他人にほかならない。彼女はそう考えていた。つねに、そう考えることにしていた。そのようにして、彼女は自分のために死んだ哀れな人間のことを、どこか遠くで起きた不慮の事故の犠牲者を憐れむようにして、忘れようと努めてきた。

 ただ、今この瞬間、彼女の胸の奥は奇妙に濁って震え、手足は冷徹な意志に反して戦慄いた。いなくなった人間が誰かなど、覚えていなかった。何も思い出せはしなかった。けれど彼女には、自分の胸の中にあるその不快で正体不明な濁りが、彼女にとって決して手放してはならないもののように思われたのだ。だから彼女は立ち上がると、ベッドをぐるりと回り、重い足を引きずりながら黒い木製の箪笥の前までやって来た。彼女はそこにしゃがみ込むと、長らく閉ざしていた一番下の引き出しを見つめる。引き手の付いた黒い面が彼女の顔に真っ直ぐと突き当たっている。そこを開けてしまうのが恐ろしかった。震えの治らない彼女の胸が、ひくつくような浅い呼吸を続けている。この引き出しの中には、彼女が忘却の彼方に葬り去った人間の痕跡が確かに存在しているのだ。そうであるからして、もしそこを開けてしまえば、もう二度と、他人事の死を憐れむことへは戻れないだろう。閉じたまま、忘れ去ったままのほうがいい。それが自分の身のためだ。そういう風に生きるって決めたじゃないか。

 彼女は俯き、考える。その人間を失ったことから来ているらしい、腹のなかに居座ってじわりじわりと内側から己を蝕み続けるこの痛みも、一過性のものに違いない。この部屋の中でじっと耐え続ければ、この暗い街の中で息を殺し続ければ、いずれは消えていくべきものだ。つまりはいつものように、じっとそこに留まって痛みを殺し、大きな流れに逆らわず、日々の苦しみを出来るだけ最小にするように、ひっそり、ひっそりと、死ぬことを目指して息をする。彼女にとって、死は救いでなく、生は苦しみだった。だから、何かが変わることを望まず、そこに留まって、誰にも侵されないように、気づかれないように、浅く浅く息をすること。この掃き溜めの夜の中に溶け込んで、薄闇の中にそのまま飲まれていくこと。それだけが彼女にとっての使命であり、つまり彼女は、これから先の人生を一日一日を平穏に塗りつぶしていくことだけのものとしか捉えていなかった。

 けれど彼女は、今その胸の中に立ち込めている不快で、それでいて決して手放してはならないように思える胸の内側から熱く滲む干からびた慟哭について、その正体を知りたかった。知らねばならないと思った。だから彼女は、自分にこれから訪れるに違いない、粟立つ感情の渦に飛び込むことをついに覚悟し、己の危機感に逆らって目の前の引き出しを、開けた。

 引き出しの中には、彼女が思い描いていた通りのものが壮観と並び居座っていた。横一列、ひとつひとつ彼女自身の手で並べられた十三本の記憶の残骸たち。彼女は左から順に、その一本一本を右へと辿っていき、その目はとうとう右端に座していた真新しいそれの上で止まった。持ち手に数字の掘られた薄く素朴な鍵だった。ああ、「これ」だ、と、彼女は自分の体の中に四六時中漂い生きていた違和感の正体を見つけ、夢の中で見た光景を思い出した時のようなつまらなさを覚え、半ば倦怠感のようなものに包まれるような心持ちでもって手を伸ばし、その鍵に触れた。その時、不思議なことが起こった。彼女は箪笥に跪くように座っていたところから、のけぞるように立ち上がり、後ずさって鍵を取り落とした。彼女の驚いた両目に映っているのは、床に落ちたまま尚も黙して輝く白銀の鍵だ。彼女は両手を胸元に引き寄せ、細い喉を震わし強張らせながらも、なんとか上がった息を整えようとしている。彼女に起こったのは、一体何か。

 その鍵に触れた瞬間、触れたと思った彼女の手は、それと同時にまるで「触れられた」かのような感覚を得ていた。彼女の指が鍵を持ち上げたその一瞬、彼女は「誰かに手を握られた」ように思ったのである。彼女ただひとりの部屋に、彼女に触れることができる者などいるはずもなく、現実として、彼女に触れた者など居はしなかった。では、なぜ彼女がそのように思ったのかといえば、それは、感覚ではなく記憶だった。彼女にその奇妙な「感触」を催したものは、幻覚でもましてや幽霊でもなく、彼女の内側にあったもの、彼女のその手に実際の温度を持ったまま眠っていて今まさに目覚めた、誰かから彼女に向けて施された緩やかな抱擁の記憶だった。彼女は胸の前にあった両手を開き、顔の前に持ち上げて、表、裏、表、裏、と何度も返し、窓の方へとかざしてその見慣れた筈の形を確かめた。誰かの両手に包まれたようなしっとりとした感触が、その夜気に冷えた二つの手には確かにまだ残っていて、寄り添っていた相手の指の腹の感覚から、その手の持ち主の縋るような感情の湿り気が腕を伝って、確かに今、彼女の胸に届いているのだ。けれど、そうして寄り添っていた筈の人間の手から先、腕を伝って肩に登り、そこに据えられていた筈の、彼女を見つめていたであろうその顔についても、彼女は全く覚えていなかった。そして、自分の中から手の先だけを残して消えてしまった人間を思い、彼がいたのかもしれない、自分の両手の先の虚空に向かって彼女は無意識に手を伸ばし、その両目からは自然と涙が溢れていた。当然として空を掴んだ彼女の両手は力なくその体の横に揺れ落ちて、彼女は耐えきれずとうとう大きく息を吐き、項垂れうつむいて、指の腹で涙を拭った。そうして床へと落とされた彼女の視界の中に、依然としてそこにあった白銀の輝きが映り込む。震える息が口元から漏れている。涙は確かな温度を持って、見知らぬ人間のために彼女の頬を流れ、顎先を伝うほど激しくその顔を濡らしていた。


***


 春待ちゃんと手を繋いで帰りながら、私はこちらを心配そうに見てくる彼女の前でずっと泣いているわけにもいかなくて、さっき見たばかりのことについて話すのはもうやめることにした。私はその代わりに春待ちゃんに質問をしてみる。

「お父さん、どんなひとだったの」

 春待ちゃんは私の目を見て、それから自分の足先を見つめながら、

「んー」

 と喉を鳴らして、

「わたしのことが大好きなの」

 と答えて、こちらの返事を待ち始めてしまったから、私は

「それだけ?」

 と笑ってしまう。

「他には?」

 と答えを促すと、春待ちゃんはまた、んー、と悩んでいる。彼女の真剣そうな横顔を見て微笑んでしまった時、目の端に何かの影が映り込んだ気がして、私は思わず顔をあげ、そのついでに春待ちゃんの手を強く握ってしまう。

「どうしたの?」

 という春待ちゃんの声を聞いている私の目には、急ぎ足で遠ざかっていく人影が映っていた。

「……茜?」

 肩を揺らしながら去っていく黒髪の女の後ろ姿に、確かじゃなかったけれど、私はそう呟いた。

「だあれ?」

 と聞いてくる春待ちゃんに

「私が働いてるとこの人なの……」

 と答えて、茜の後ろ姿が街の中に消えていくのを見ていた。この時間じゃ、もうカフェは閉めているだろうし、彼女はどうしてこんなところをふらついているんだろう。それに、あっちは華屋とは反対方向だ。

「春ちゃん」

 と私が彼女のほうに顔を戻した時、彼女ははっきり私のことを見ていて。

「ねえ、追いかけよう」

 と、私が言おうとしていたままのことを言った。


***


 鍵を握りしめたまま歩く彼女は、初めてこの掃き溜めにきたときぶりに、「手引かれるような」気分でもってひとつの扉を探し、人気のない住宅街へと入り込んでいた。かじかむ手のひらに握りしめた鍵をたびたび見返し、どこか不安になりながらも、然るべき扉の前に自分は必ずたどり着くはずだ、という絶対的な感覚が彼女の足を止めさせはしなかった。冷たいアパルトマンの林立の中に足を踏み入れ、どこか遠くできいきいと音を立てる金属の音を耳の端で聞きながら、彼女はふっと何かに引き寄せられるようにして顔をそちらに振り向け、目の前にあった階段を上がった。街灯がぽつりとひとつ灯って辺りを照らしているそこには、一昔前に建てられたと見えるくすんだ白のアパルトマンがひっそりと夜気に沈んでいた。人のない広場の中に彼女の足音がますます高く響き、壁にぶつかって反響する。彼女は一旦立ち止まって自分の身体をかばうように両手を擦り合わせ、唇の奥をぐっと噛んで心を決めると、目の前にぽっかりと口を空けたエントランスをくぐった。

 中は簡素な作りだった。コンクリート打ちっ放しの灰色の廊下を歩いていく彼女の連れ合いは、彼女の靴音と、その手に持った冷たい鍵くらいのものであった。彼女は肩を揺らしながら階段を登り、四階まで来るとその廊下を進んでいったが、ふと立ち止まり、後ろを振り返る。今しがた通り過ぎたばかりの扉だった。その左右にある扉と変わりのない、黒いアルミのドアがただそこにあって、目を閉じ眠っているのだった。彼女はやはりそこを通り過ぎようと思ったが、手元にある鍵を試してみるなら最初はここにしようと思い立ってその扉の前まで戻ってくると、なんということもなしにその鍵穴に鍵を押し込んで回す、と、中の錠は呆気なく外れ、扉が開いたのがわかった。彼女は今まさに自分で成したことについて飲み込めないまま、実感が腹の底からじわじわと湧いてきて、不安や恐れとなって胸に広がり、身体中を駆け巡っていくのを覚えていた。開いてしまった。ここに違いない、というのは明らかだった。彼女は黙ったままそこに据わっている銀のドアノブに手を伸ばし、それが何の抵抗もなくくる、と開く感触に電流の走るような微かな痛みを覚える。

 その先に痛みを伴った何かがあることを承知の上で、それでも彼女は、自分の隣にいたであろうその人間について、知りたいと思った。


***


 春待ちゃんと身を寄せ合って、茜が入っていったアパルトマンの階段に隠れ、時折廊下のほうを覗き込む。緊張が伝わっているのか、春待ちゃんも子供っぽく騒いだりはしないで黙ったまま私にひっついている。

「誰のお家なんだろうね」

 という春待ちゃんの囁き声に私は彼女の顔を見やりながら、確かにそうだと考えた。こんな寂しい住宅街に用事があるなんて変だ。私が知っているひとでなしの家はもっと街の中心から外れたところだったり、それとは反対に賑やかなところだったりする。なんていうか、こんな中途半端な──いや、私の部屋もここからまあまあ近いんだけど──ところに住んでいるひとがいるのって、なんだか不思議な気もした。そんな風にあれこれ考えつつ、またこっそりと廊下を覗くと、通路の奥で黒いドアが開いて、茜がそこに入っていくところだった。私があっけにとられている間にドアは廊下の奥でばたんと音を立てて閉まり、それを一緒に見ていた春待ちゃんは私とばっちり顔を見合わせた。それからしばらく足がかたまったみたいにそこにいたけれど、辺りは何にも音がしなくなって、茜が戻ってくる様子もなかったから、私たちは何も言わないまま示し合わせたように一緒になって廊下を走っていき、ドアの前までやって来た。私がドアにそろりそろりと近づくと、春待ちゃんも真似をしてそろりそろりと歩いてみせる。そして、部屋の中から物音がしないのに首を傾げながら、ふたりでそうっとドアに耳を当てる。何の音もしない。冷たい扉の向こうは、外と同じで静まり返っているらしい。話し声も、物音も聞こえない。私がドアから身体を離すと、春待ちゃんもそうしていた。それから私がそっとドアノブに手をかけると、春待ちゃんは私の目を真っ直ぐ見て、こくんとひとつ頷いた。私はそこで一度深呼吸をして、中にいる茜をなんなら脅かしてやろうと思いながら、ドアノブを引いた。


***


 彼女が放り出されたのは見たこともない場所だった。ドアを開けてそこに広がる荘厳な光景に目を奪われ、木製の床の上に二歩、三歩と足を踏み出しため息をつく。両側にそびえる黒い棚にはぎっしりと革張りの本の背表紙が並んでいて、その圧迫的な風景がずっと先まで霞むほど延々と続いているのに、一面ガラスで閉じられた天井は満天の星の輝きを拒まず、美しいままに彼女の瞳の中に落としていた。吊り下げられたランタンが風に揺れて鳴く声に彼女はくるりと振り返り、そうして彼女はとうとう、自分が通って来たはずの扉が忽然と消えているのに気づいた。彼女は狼狽し、薄暗い書架の森の中をよろめくようにして戻った。けれどどうしようもないので、手の中にある鍵のことを思い出し縋るようにその輝きを見つめる。その時、彼女の手の内で、その鍵がほんの一瞬閃いたように見えた。その輝きをもう一度捉えようと彼女が鍵を顔の前に掲げたとき、彼女の目の端を何からひらりと横切った。慌てて顔を上げた彼女の目の前を飛んでいくのは一頭の蝶だった。彼女はその儚い揺らめきの軌跡に目を奪われ、鍵を握りしめたまま足はすくんだ。喉が勝手に唾を飲み、その両目は必死に白い羽ばたきを追っていた。自分の目の前を惑わすようにひらり、ひらりと飛び去っていく蝶を見つめ、また鍵に目を落とし、それから後ろを振り返っていくらか逡巡してから、彼女は走って蝶の後を追った。

 彼女の前を悠々と飛んでいく蝶は、彼女を振り返るような素振りこそ見せないが、彼女には自分を導いているように見えたし、自分を置いていくことなくゆっくりと羽ばたく蝶の姿を彼女はじっくりと観察することができた。目の前を飛ぶ蝶が平常の蝶とは違い、文字の書かれた紙でできていることに彼女はすぐ気づき、その不可思議な光景に唖然としたが、あたりの光景の異様さの中に溶け込んでいる奇妙な蝶の姿は彼女をむしろ夢の中にいるような心地にさせ、彼女の足を止めることはなかった。すると、目の前を飛んでいた蝶がゆらり、と羽ばたいて書架の彼方に飛び上がり、彼女が驚いている間に行方を眩ませてしまった。彼女がそれからどれだけ見回しても蝶の姿はなく、蝶は彼方に飛び去ってしまったようだった。

 彼女は当然として途方にくれ、今更になって夢見心地な気分は覚めて来て、どうしてこんなところまで来てしまったのだろうと自分の心を責めた。けれどどうしようもない。彼女はまた自分の道しるべになるものはないかとあたりを探し、手近の書架に並んだ本の背表紙をひとつひとつ読んでいくことにした。

 日本語や、アルファベットや、それ以外のどこか異国の文字で刻み付けられた本のタイトルと思しき文字列は、どれをとってもなにやら抽象的で謎めいており、彼女は小首を傾げながら書架の前を進んで行った。ほの明るいランタンが作る自身の影をハイヒールの足でこつ、こつと踏んで歩き、背表紙のひとつひとつを確かめていく。ここにある本は、一体何が書かれた本なのだろう。どうしてこんなにも沢山の本があるのだろう。そもそもここは、どこなのだろう。そういった疑問が彼女の胸中を渦巻き、考えるたび彼女は不安になった。その不安を紛らわそうとでもいうように、彼女はますます熱心に背表紙のタイトルを読んでいった。小説のタイトルのような何やら詩的な文言、そう思えば今度は簡素な二文字の熟語、そうしたら今度は知らない文字の入ったアルファベットの並び……幾つものタイトルが、彼女の目線の上を滑って行った。

 そうしているうち、彼女の視界の中に、何かきらりと光るものが入り込んだ。彼女が横一列ずうっと追って来た段の一つ下、しゃがまなければ見つけられないようなところにその輝きの正体はあった。しゃがみこむと、書架の中の本に立てかけられるようにして一個のライターが据えられているのだった。彼女の足は自然と崩折れ、床にべたりと座り込んでしまう。彼女は震える手を伸ばし、その銀色の体躯を手に取った。彼女は、それに確かに見覚えがあったのだ。いや、それどころではなかった。彼女にとってそれは、決定的な「あのひとの証拠」だった。ぐったりと重い銀の体の表面に掘られた蓮の花の文様をなぞり、彼女の吐息は戦慄いてその唇からこぼれた。傷つき凹み使い回されて疲弊しきったその冷たい体を両手で包み、額に掲げて、彼女は自身の両手を包まれたあの感触を再び呼び起そうとしていた。そうして冷たい銀の身体に彼女の体温が移って行った頃、彼女はふと目を開けた。次いで手を開くと、ライターと共に手の中にあった鍵の持ち手の文字が、彼女の目の中にやけにくっきりと浮かび上がって来て、涙の滲む視界の中で彼女はそれをしばらく見つめていた。そのとき、ふと、彼女の潤んだ視界の中に、全く同じ文字列がぐらりと浮き上がり、涙の粒の流れと共にかき消えた。

 彼女が驚いて涙を拭うと、今度ははっきりとその文字が浮かび上がる。彼女が見つめていたのは本の背表紙で、さきほどライターが立てかけてあったその本には、「四二二」と、鍵に振られているのと同じアラビア数字が刻まれていた。彼女はとうとうはっとして、彼女の手は意志が望むよりも早くその本へと伸ばされていた。周りの本の隙間に隠れるようにして挟み込まれているその小さな本に指先が触れた瞬間、彼女は、いつか聞いた言葉を思い出した。

「『夜の終わり』を待っているだけだなんて、言わないでくれ」

 ぽつりと浮かんだその言葉が、手の先だけを残して消えたその人物に確かに声を与えていた。彼女は頭の中に響いたその言葉、その声の余韻に浸るようにじっと動かないでいたが、そこで初めて、確かにその人物がいたということを思い出したように実感された。彼女はようやく胸の中から生き血が湧いて来たような、耐え難いほどの喜びと胸の高鳴りに後押しされ、その背表紙を優しく撫でた。

「ここにいたのね」

 彼女はそう口にして、自分のその言葉に己の心がますます高まっていくのを覚えていた。指の先で触れてわかるざらりとした背表紙の感触、それがそこにあるということ自体に、彼女は胸を打ちふるわせた。

「ずうっと、ここにいたのね」

 わななく口は、もはや半狂乱の風情でひとりでに喋っていた。

「あんたは、ここに、いたんだよね」

 自分がその場所にいるということ、そしてその物体が共にそこにあることに、彼女は耐えきれず、嗚咽を漏らした。やっと思い出せたその人間の存在が彼女には途方もなくかけがえのないものに思えて、鼓動は大きく太く彼女の胸の中で鳴っていた。彼女は離れていた身体をにじらせて書架に寄り添うと、その背表紙を間近に古い紙の匂いで満ちた冬の空気を胸いっぱいに吸い込んだ。それから恐る恐る書架に並んだ本に手をつき、それらを傷つけないよう両手を寄り添わせながら腰を上げ、何かに引き寄せられるようにして、涙に濡れたその唇をそこにある記憶の束へと触れさせた。

 そのとき、彼女の体温と本の中の記憶がじわりと自然に溶け合って、閉じ込められた記憶が津波のように彼女に押し寄せ、流れ込んだ。部屋の中でとつとつと語られた自分の人生のこと、それを聞いていた誰かの神妙な声、君のことを助けてやりたい、と震えた健気で情けない様子の言葉も、全てが揃って彼女の元へと大挙して、彼女の記憶の蓋をこじ開けた。驚いて身を引いた彼女はしばらく何もできず佇んでいるだけだったが、とうとうやるべきことを思い出したように見えて、夢中でその本を引き抜き、表紙を開いた。中に書かれているのは物語風に綴られた誰かの日記のように見えた。その一文一文を読んでいくうち、彼女はその内容に引き込まれて行った。


 サンダル越しに伝わる、湿って滑る地面を蹴って、頭の上に延々と覆いかぶさる木々の下から逃れようと走り続ける。いつもと同じ林の筈なのに、たったひとりでいるとなれば、ここが薄暗く土の匂いが立ち込めていて、揺れる枝葉の音がざわざわと背筋をなでるのが恐ろしく思え、薄暗い影の形が刻一刻と形を変える怪物のように見えてくる。俺はとうとう自分がどこにいるのかもわからなくなって、けれど足を止めれば後ろから何かが追いかけてくるような気がして、どうしようもないから涙が滲んでくる自分の臆病を振り切るみたいに必死に走り続けた。

「にいちゃん、にいちゃん」

 震える俺の声が口から漏れるが、木々のざわめきや、どこか遠くの山の中から響いてくる不気味な鳴き声にかき消され、土の地面に吸い込まれて消える。俺は声を上げて泣きそうになるのを堪え、けれど半ば泣いているような声で、

「にいちゃん、にいちゃん!」

 と喚きながら走り続けた。

 置いてかないで、置いてかないで。ひとりにしないで。怖い。怖い。こんなところに置いてかないでよ。そういう言葉や気持ちの全てを込めるように、俺は、にいちゃん、にいちゃん、と叫びながら走った。どこかの木の裏でこっそり俺を見ているかもしれない、兄貴に向かって……。

 俺はそのとき、あっと声を上げた。足を滑らせたのだ。枯葉の上を滑って転び、サンダルの中は砂利と土塗れになっていて、打ち付けた膝はじんじんと痛んだ。ぐうっと歯を食いしばって泣かないようにして、後ろに手をついて立ち上がろうとした時、落ち葉の地面をがさがさと踏みしめながらこちらにやって来る足音を聞いた。俺は半べそで立ち上がり、俺のすぐ後ろまでやってきてぐいっと右腕を掴んだそのひとの方を、くるりと振り返った。

「惜別は済みましたか?」

 クヌギの林の中に浮かび上がる異様な黒衣の姿。彼女の腕を掴んでいたのは、裁判所の猟犬女だった。

 思い出の世界から現実に引き戻された彼女は、ぎょっとしたまま女の手を振りほどこうとする、けれど、猟犬は頑として動かない。眼鏡の奥の冷徹な目で彼女のことをじっと見すえたまま、堂々とそこに立っている。

 驚いて声も出せない彼女に向かって、猟犬は淡々と口を開く。

「やっぱり、貴女にそれを持たせておくべきじゃなかった」

 猟犬の両目は、彼女の左手に握られた鍵のことを指している。

「とっても残念ですね」

 猟犬の右手に力が篭り、彼女は身構えたが、一瞬ののち、彼女が予期していた以上の、内側から張り裂けるような痛みがその右手に炸裂した。引き裂かれた腕から血がほとばしり、彼女は痛みの渦の中、酸素を求めるように口を開き、声なき叫びを上げる。痛みに崩れ落ちる彼女の姿を忌々しく見つめていた猟犬は、背後に迫る物音にふと振り返り、舌打ちする。

「どこまでも……」

 悪態をつく黒衣の背中にはすでに間近まで白いざわめきが迫っていて、崩れ落ちる彼女の目の前で、黒い立ち姿はあっという間にその白いざわめきに覆い尽くされた。そののち、その白いもやの向こうから、猟犬のものとは違う甲高い女の声が

「走って! 走って! 走って! 走るのよ!」

 と切実な色合いを持って彼女に乞い願うのだった。

「走って、走って、走って!」

 彼女はなんとか身を起こすと、残った左手で床に放られたままだったライターと本を拾い上げ、震える足を必死に前へと動かし、よろめきながらも映画の主人公のように必死に書架の間を走った。猟犬に襲いかかるざわめきの中から白い蝶たちが飛び出して彼女の後を追い、彼女の姿を猟犬の容赦ない眼光から眩ませようとしているようだった。彼女は視界の全てを花のような白い羽ばたきに囲まれながら、必死に前へ前へと走った。走って、走って、走って、力尽きるまで走らなくてはならなかった。

 そうして前へと一歩一歩踏み出すたびに、彼女の記憶の中で、かの人物の発した言葉の一つ一つがより鮮明な輪郭を取り戻していくのだった。あの時は信じられなかったけれど、あの人が言ったことはほんとうだったんだ。あのひとは、ここに、私が今いるこの場所に来たんだ。きっとここに何度も何度もやってきて、ここにきっとあるはずの私の本を繰り返し読んだんだ。私が意固地になって心を開かないでいた間もずっと、私に語って欲しかったことを探して──そうしているうち、彼女はまたやるせなくてはらはらと泣けてきた。何もかもが終わった今になって知るのだ。こんなことを。こんな、大事なことを。こんな、どうしようもないことを。

 彼女は涙を拭う暇もないままそれでも走っていったが、弾けた右手の痛みが彼女の歩みを後ろへと引きずり、流れ出した血に彼女の顔はみるみる青ざめていった。もつれた足はとうとうぐにゃりと外向きに曲がって、彼女はその場に息急き切ったまま崩れ落ちた。彼女の後ろをばたばたと落ちた血の道が途切れながらも嫌にはっきりと続いていて、彼女はその赤黒い道の一番先で、床に這いつくばるようにして倒れているのだった。彼女の左手からぶち撒けられた本とライターと鍵は、ひくつくような呼吸の中で彼女が必死に伸ばした手の先に落ちていて、彼女の視界がそれらの全てを捉えているのは悩ましかった。ぐうっと意識が遠のいて、風前の灯火のごとく消えそうになるのを、彼女はなんとか意志の力だけで持ち直そうとし、崩折れた足をなんとか立て直そうと試みた、が、彼女の脇腹は強かに蹴り上げられた。

「兼業様がおっしゃられていました。貴女は『人を殺したことを覚えておかねばならない』役回りなのだと。そこに貴女の性質があるから、私たちはそれを奪えないのだと」

 猟犬は不気味に澄んだ目で彼女を見下ろしながらそのようにまくし立てた。

「けれど、行き着く先が、これですか」

 仰向けにされた彼女は、目の前にそびえる黒衣の長身を見上げ、なんとか息をしていた。

「結局は貴女も、『愛』なんていう勘違いのために死ぬんですね」

 猟犬はため息をつき、彼女の腹をハイヒールの足で踏みつける。彼女は悲鳴をあげた。その悲痛な叫びを楽しむかのように猟犬は彼女の腹に尖った踵をねじ込み押し付けた。咳き込む彼女の反応に急にうんざりしたかのようにそこから足を退け、今度は彼女の胸ぐらを掴んでその身体を持ち上げる。

「貴女は、『こういう役回り』じゃなかった。貴女は、せっかく『特別』だったのに」

 相手の顔までほんの一寸のところで二人の顔は突き合わされていて、疲弊した彼女は猟犬女の顔を今にも意識の飛びそうな目で見つめながら、なんとか息をしている。

「でも、こうなれば」

 猟犬は空いていた方の手で彼女の首を掴み、とうとう両手で絞め上げた。猟犬はそのまま彼女を横の書架に叩きつけるように押し当て、ぎりぎりとその首を絞め続ける。

「悔いなく処分できる」

 彼女の身体は床から持ち上がり、つま先が微かに床を離れた。ぐったりと血が上り赤くなっていく顔の中から、彼女は猟犬を見下ろし、こう言った。

「殺したのね」

 猟犬は一瞬、自分に向けて吐かれたであろう、その言葉の意図を理解できなかった。彼女の掠れて消え入りそうな声は、自分の手が絞めている細い喉から発されていて、か細く消え入りそうなのに、確かな意志と強情さを秘めているように思われた。

「あんたが、殺したんだ」

 首を絞められほとんど喉の掠れるような声だけで、けれど彼女ははっきりとそう言った。

「こうやって」

 そう言いながら、だらりと力なく垂れ下がっていた左手が持ち上げられ、猟犬女の手首を掴み、どこにそんな力が残っていたのかというほど強く締め付けた。驚いた猟犬の視線がその左手にちらりと移った一瞬、その隙間を狙い撃ちするように、彼女は猟犬女に向かって足を蹴り出した。猟犬の胸に彼女のハイヒールの踵が刺さり、猟犬は彼女を留めていることができずに、バランスを崩して手を離し、彼女から離れた。

「あんたが、こうやって殺したんだ!」

 書架の前に崩れ落ちながら、彼女はぜいぜいと息をし、床を向いていた視線をぐっと上げて猟犬を睨んだ。その目には、狂える闘志と激しい感情が燃えている。鋭利な、飢えた獣の顔だ。

「許さない」

 彼女がぐらりと立ち上がるのを、一種の慄きに顔を強張らせながら猟犬は見ていた。

「ぶっ殺してやる!」

 喚き狂うその獣のような声には研ぎ澄まされた怒りが宿っていて、猟犬は違和感にその胸が濁るのを覚える。ほんの今まで、自分の方が目の前の売女を殺し滅し捻り潰そうと殺意の情動を叩きつけていたはずだった。弱いくせに腹立たしいこの女を残酷なほど圧倒し捻り潰す自分という構図を、猟犬はその脳裏に克明に描いていたのに。

 どう考えても助かりようのない絶望的に不利な状況で、己可愛さに命乞いをするくらいのものだろうと考えていた目の前の「弱き者」が、自分に対して明確な怒りの感情を向け、あまつさえこちらを「殺そう」とまで思っているらしいことに、猟犬はひどく狼狽したのだった。彼女がここまで反抗的に自分に立ち向かってくることを猟犬は予期していなかった。ましてや、「この女」が。よりにもよって、「この女」が──と、猟犬は、死にかけた目の前の獲物に「怒り」の感情を向けられたことを、うまく解しかねた。

 そうして呆然と立っている猟犬に向かって彼女は飛びつき、猟犬ははっと我に帰ってすんでのところを避け、彼女はぐしゃりと崩れるようにして書架にぶつかって転げた。彼女の口から息の漏れる声が聞こえ、猟犬女は嫌悪感にじり、と後ずさる。彼女は俯いたままぜいぜいと息を漏らし、開きっぱなしの口を一度閉じて、唾を飲み込む。

「『あのひと』が言ってくれたの」

 彼女の声ははっきりとした響きがあって、到底今にも殺されそうな人間の風体ではいなかった。

「『助けてやりたい』って」

 彼女のその声を聞きながら、目の前の理解しきれない光景に猟犬は眉をひそめ、けれど、その目は彼女に釘付けになっている。彼女は喋るたびに益々荒くなっていく息の間で、なんと再び自分のその足で立ち上がった。ふら、ふらと不気味に体を揺らしながらも猟犬の方へとやってくる。その前髪の間から覗く朱色の目は、今もなお目の前の仇敵の姿を捉えている。垂れ下がった右手の残骸を左手で押さえて、彼女は息をし続ける。

「こんな風な私でも、まだ『助けて』って言ってもいいのかもしれないって、思えたの」

 彼女の足はそこで止まった。俯いた彼女の口から、鳴き声のように、うわ言のように

「言ってくれたんだ……」

 と声が漏れる。彼女はそこで肺の震えに耐えるようにぐっと唇を噛み締め、その顔を上げた。乱れた髪に囲われ、自分の血を浴びて汚れ疲弊しきったその顔の中の瞳には、信じられないほどの高潔さが燃えていた。

「私はやっぱり、この世界で」

 彼女は、目の前に立ちはだかる女に向かって、そして、自分に今まで立ちはだかってきた、冷酷で過酷な夜に向かって、それら全てに歯向かうように、痛みに震える燃え尽きそうな体を抱えて叫んだ。

「『生きたい』と、思っていたい」

 彼女のはっきりとした声に押し流されるようにして涙が溢れ、けれどそれは彼女の意志の弱まりからくる悲哀の涙ではなかった。彼女の目から流れ出したその熱い感情のほとばしりは、むしろ、彼女が今後一切迷うことなく進むことができるという決意の表れに違いなかった。その覚悟に裏打ちされた涙は、いつしか彼女の顔の中で溢れるのをやめ、彼女は再び憤然として目の前の敵に挑みかかっていた。

 彼女の言葉を最後まで聞いていた猟犬女は、呆気にとられたまま空白となっていた自分の胸中に、再びぐらぐらと感情が湧いてくるのを覚えていた。忌々しくも自分に立ち向かおうとする目の前の女の真摯な眼差しが、その瞳に宿った希望のような光が、猟犬の胸に激しい嫌悪感をもたらしていた。自分の方によろめきながら近づいてくる彼女に向かって、猟犬は冷静な足取りで近づくと、その顔を掴み、右手の本棚に向かって投げ飛ばした。彼女の細い体はそこに叩きつけられ、棚から幾冊もの本が彼女の上に降り注いだ。

「うるさい、うるさい……」

 猟犬はうなり声のように喉を鳴らし、彼女のほうに近づいていく。彼女は自分に降りかかっていた本の下で体を起こすが、猟犬はその身体を強く踏みつけた。

「感情ばかりが肥え太って、現実には何も為すことのない無力で愚鈍で醜悪な」

 猟犬は足を持ち上げ、彼女を再び踏みつける。彼女は乾いた悲鳴を上げた。

「穏やかに絶望することを知らずに、飽くことなくあがこうとする」

 彼女を何度も何度も踏みつける猟犬女の翡翠の目は、眼鏡の奥で不気味な落ち着きを持って据わり出し、その視線は目の前に転がる彼女を見ているだけに止まらなかった。

「くだらない存在……悲劇を搾取されるだけの素材でしかないくせに」

 猟犬は、目の前の彼女をきつく痛めつけながら、自分のいる宇宙のことを思い、その宇宙に見放された一人の女としての自己憐憫に震え、その身に受けてきたありとあらゆる不条理に対する怒りと悲しみと苛立ちに心を支配されていた。猟犬は目の前の死にかけの女に再び目を向け、息も止まりそうなその両目の朱色が今尚自分の顔に意志を持って向けられているのに再び憤る。猟犬は今度目の前の女の腹に膝をつくと、その胸ぐらを掴んで首を引き寄せ、朱色の両目と向かい合った。

「貴女は、もう戻ってこない人間のことを追いかけているんです」

 黒手袋の両手が、ぎりりと鳴るほど握りしめられる。

「貴女があれと会うことなど二度とない。地獄に落ちても出会わない。私が、出会わせない。貴女は、永久にひとりぼっちなんです。暗闇の中で、永劫己の罪を呪い続ければいい!」

 彼女は、猟犬が歯をむき出してそう喚き、勝ち誇った様に彼女の顔を見たが、彼女は猟犬の言葉を静かに聞いているだけだった。猟犬は彼女のその穏やかさに慄き、彼女の胸の中にその静けさの理由を探したが、わからなかった。

「生きているとか死んでいるとか、そんなのはもう、問題じゃないのよ」

 彼女の落ち着いた声音が、猟犬の耳に滑り込んでくる。

「私が死ぬのも、生きるのも、大したことじゃない」

 澄んだ朱色の両目は、目の前にいる黒衣の女の浅はかさを貫いている。

「私は変われたから、変わってから死ねるから」

 彼女はそこでうっすらと微笑んだ。猟犬は彼女の顔を凝視し、彼女の声を、いつしか夢中で聞いていた。

「私の心は救われてるの。あんたにはもう、手出しできない」

 黒髪のはりついた血濡れの微笑みが、ぎりりと攻撃的に猟犬を睨む。

「地獄に落ちても、私はあのひとを絶対に捕まえる。捕まえられる。あんたがなんて言ったって……」

 猟犬はとうとう彼女の首に掴みかかり、ぎりぎりとその喉を締め上げる。

「貴女は、絶望して、死ななきゃいけない」

 猟犬の声は怒りに震えていたが、彼女はその翡翠の瞳の中に頼りのないひとりの女の心細さを見た気がした。猟犬女はふっと顔を伏せ、今しがた放った声とは裏腹に頼りなく消えそうな声を漏らす。

「そうじゃなきゃ、私は」

 俯いた猟犬の目の色に見入っていた彼女は、自分に覆いかぶさるその黒い影に悲しさを覚えたが、その瞬間、黒衣の体が痙攣した。びくり、と揺れたその胴体の上の顔の中で、悲哀の目がかっと見開かれ、両手は彼女の胸ぐらを掴んだまま固まる。間も無く黒衣の身体は再び波打って、ぐっとそらされた首がもう一度激しい動きとともにうなだれた時、その口からは赤黒い血が吐き出されていた。目の前でそれを見ていた彼女は、驚きのあまり口を開け、猟犬がぐらりと体勢を崩して自分の方に倒れてくるのをただ呆然と見ていた。目の前の黒い壁がぐしゃりと崩れ去ったとき、その黒い背中に銀の刃が生えているのが見え、その刀に二等分にされた彼女の視界の中央に、黒いコートを着た人影が浮かんでいた。彼女にとって見慣れた顔をしたその男は、刀を投げたまま差し伸べていた右手を下ろし、あの人懐こそうな顔でふと笑った。

「計算は合っていたな」

 ぐらりと起き上がった猟犬が男に向かって猛然と駆け出し、獣のように飛びついたが、男は悠々とそれを交わすと、自分の横を弾丸のように過ぎていく猟犬女の背中から刺さったままの日本刀を抜き取った。猟犬はぐっと足を止めて引き返し、男の方へと再び挑み掛かるが、男はほんの一瞬で、容易に、的確に、まっすぐに、猟犬の喉を貫いた。男はそのまま刀ごと猟犬を床に叩きつけ、猟犬は喘ぐように口を開け床の上でもがいている。男はただ冷徹にその喉から刀を引き抜いて、黒衣の身体を蹴って転がし、足で押さえつけながら猟犬の両足に刃先を差し入れ、腱を二つとも丁寧に切った。男は猟犬の身体を再び蹴って仰向かせると、彼女の目を見つめて親しげに話し始める。

「別に俺は、あんたを殺したいわけじゃないんだよ。そんなのは、今となっちゃいつだって出来ることだしね」

 男は刀に付いた血を払い、それを腰元の鞘にしまって、猟犬の顔をじっと見るようにしゃがみ込んだ。猟犬は咳き込むたびに喉に開いた穴から血と息を吐き出している。

「ただ、これで『借り』は返したわけだ。借金はなし。もうフラットな関係ってわけだな。ゼロからのスタート。いいね、気持ちがいい」

 男はそのままふらりと立ち上がり、ぐうっと伸びをするように群青の夜空を見上げ、はにかんで、猟犬に踵を返した。

「まあ、俺たち、また会う機会もあるさ。楽しみはそのときにとっておくことにしようじゃないか」

 彼のその台詞を聞きながら、猟犬女はその後ろ姿を見つめ、困惑に満ちた己の身体を血に浸らせていることしかできない。

 男はそこらに散らばった鍵やライターをコートのポケットに収め、最後に例の本を手にとって品定めするように見回した後、書架の前に崩れ落ちたまま自分にずっと視線を送っていた彼女のところまで歩いて行った。驚きに目を見張る彼女の左腕を掴んで立たせたとき、もう片方の手に開いた本からは白い蝶たちがひらりひらりと飛び立ち始めていた。驚いたまま見開かれた朱色の両目に向かって、彼女の記憶の中のままの柔和な顔が微笑んで崩れ、血まみれの震える体を抱き寄せた。

「帰ろう、茜」

 彼女は自分に向かって発されたその声に、とうとう目の前にいる人間のことを、ほんとうに知覚したかのようだった。彼女の左手が男の服をぎゅっと握りしめ、男はそれを了承の合図と受け取って、もう一度口を開く。

「しっかりつかまって、離れないで」

 地面に転がったまま虚しく続いていた猟犬の視界の中で、白い羽ばたきが徐々に二人を飲み込んでいく。猟犬は、それを苦々しく見つめていた。あの男は、私が殺したはずのあの男は、死んでいなかったのか、それとも……。不恰好に転がる己を憐れむ暇もなく、二人の姿がかき消えた頃、猟犬の記憶も途切れた。


 クヌギ林を走っていた。滑るような土の上を走り、一人ぼっちでわめきながら。彼女は、自分が見ているその光景を今度ははっきり他人の記憶として見つめていた。彼女はその人物の記憶の中で、同じように滑って転ぶ。そうしているうち、後ろから足音が近づいてきて、右手を掴まれた。掴まれた腕の先を振り返った時、記憶の中の彼はわあっと夢中でその人物に抱きついた。


 気づくと、彼女はコンクリートの床を踏みしめ、目の前の人間にもたれかかるようにしてそこに立っていた。目を見開き、ぐるりとあたりを見回すと、そこはくすんだ住宅街だった。

「……ここは?」

 自分の頭の上からした声に顔を上げると、男は不安そうな顔であたりを見回している。彼女はしばらくその顔を見上げたまま固まっていて、じっと彼の横顔の形を観察し、実感もわかないうちにぽつりと

「八手……?」

 と、彼の名前を呼んだ。彼は彼女の背中に手を回していながら、彼女がそこにいることに改めて気づいたような風にその顔を見て、その姿を捉えなおすように両肩を掴んだ。彼女の心が、彼がほんとうにそこにいることをじわりじわりと確信し始めると、その口は自然と解けた。

「私、あんたが死んじゃったんだと思って、だから、私……」

 息を上手く吸えないまま喋る彼女を見つめ、彼は少しの間考え、それからどこか夢見心地で喋り出した。

「俺も、死んだのかと思った。いつの間にか何もかも、全部、押し潰されて、ばらばらになりかけて、どこかを漂っていたんだ。全部、解けて散らばって、俺自身が崩れていくみたいで。でも、たったひとつだけ、俺がなんとか守り抜いたのは、縋り付いて俺の中に残し続けたのは、なんとか、抱きしめ続けていたのは、一個だけで」

 たどたどしくまくし立てた彼のことを、彼女は切実に見つめていた。彼は自分に向けられたその眼差しに向かって、ただ、胸の中にあることをそのまま言おうと思った。

「俺はただ」

 彼の口から頼りなく揺れる声が溢れた。

「『君のところに帰らなきゃいけない』と」

 彼女はぼうっと彼の顔を見ていた。彼は言葉を続けた。

「それだけで、俺、間に合った。君のいるところに、俺」

 彼はそこでついに、目の前の彼女が血まみれなことに思い至った。

「ひどい怪我だ。こんな、こんな……酷い」

 垂れ下がった「右手であったもの」が今なお血を流して彼女の生命力を奪い続けている。

「痛かったろ? そうだ、君、あいつにひどいことされたんだ。戻ろう、すぐ、安心できるところに」

 彼女は彼の必死な顔を見て、不思議なほど落ち着いた表情で微笑み、一つ瞬きをして、

「そう」

 と口に出すと、その身体は糸の切れた操り人形のようにぐったりと倒れかけ、彼はそれを抱きとめた。

「そうね……」

 彼女は、彼の頼りない顔つきを見て、心底安心したようだった。彼は焦る心と一緒に彼女を抱えて、くすんだアパルトマンからしんと静まり返った街へと駆け出して行った。揺れる彼の腕の中に埋もれて、彼女はぐうっと眠りそうになる意識の縁で、微かに口の端を動かした。

「おかえり」


***


 足音がしなくなったのを確かめてから、私たちは二階からエントランスに降りてきて、廊下の奥を覗き込んだ。赤い血がばたばたと落ちている廊下で春待ちゃんのことを抱き寄せ、こっそりと覗き見していたふたりのことを考えた。春待ちゃんは私の身体にぎゅうっと抱きついて、

「亜ちゃん、もう帰ろう」

 と不安そうに言ってきたから、私たちは誰にも会わないようにと念じて、部屋まで急ぎ足で帰って行った。

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