37話 世は巡り、影紛れ

 彼女は血だまりの中に膝をつき、目を見開いた彼の恐ろしい顔を両手で包み込む。

「彼に予定調和は訪れなかったということさ」

 書架の上で僕はそう呟いた。

「ただ、それだけ」

 彼女は死骸の上に覆いかぶさるようにして、声を殺して泣いていた。どんなに堪え隠したって僕には全部お見通しなのに、それでも彼女はみっともなく泣き声を上げたりしなかった。彼女の高潔さはこういうところにある。僕は、彼女の痛む胸をそれ以上刺激しないように、けれど正しいことを伝えることにした。

「彼は、ハッピーエンドを手繰り寄せるほどのキャラクターじゃなかったんだよ」

 彼女は言葉を返さなかった。ただじっと、うつむいて涙を流すまま。

「何にせよ、これが、君が彼に与えた結末だ」

 僕の言葉は僕が思い描いていた以上に真っ直ぐに空間を横切っていったが、彼女はその体ごと両方の肺を震わせ

「この人はまだ、死んじゃいけない」

 と涙の奥から声を絞り出した。

「まだ物語は終わっていないわ」

 そうして吐き出された強い意志は、息の震えを押さえつけるようにして僕に届く。

「終わっちゃいけない」

 彼女の背後には、俯いて黙ったままの書き手の彼がいる。彼女は顔を上げず、涙に濡れたその顔を僕にも彼にも見せないままで、怒りのような心の惑わなさに突き動かされ、言葉を続ける。

「こんな結末では……だめよ」

 彼女の手が、死んだ男の頬を撫でてその涙の跡を拭い、汚れを厭わないその指先に彼の血が移った。僕は彼女の意志の恐ろしいほどの強さを見て取って微かにたじろぎ、けれど僕自身正しい人間であるよう努めることにした。

「君だってわかっていたろ? 彼は、それほどのうつわじゃないって……」

 彼女は答えない。僕は沈黙に耐えきれないみたいに言葉を続ける。

「でも君は、だからこそ、凡庸な彼というキャラクターを愛していた。そうして、観客席から懸命に声援を送ったんだ。君の声の幾らかは、彼にも確かに届いてた」

 彼女の履いているスカートの裾に、死人の血が染み込んでいる。

「でも結末はこれだ」

 どこか遠く、風がランタンを揺らす硬い音がする。

「変えられない」

 僕はひとり、かぶりを振った。

「彼は不可逆の領域に至った。僕らではもう、手出しはできない」

 釣り下がったランタンの灯りが、彼女の真っ黒な影を遺骸の上に落としている。

「僕らは彼にものすごく酷いことをした。可哀想なことを……」

 僕はそうして、遺骸の表情に目を向けた。無力感に叩きのめされて死んでいった、愚かで愛しい僕たちの主人公。彼が命からがらこの本の森を駆け、彼女のところに戻ろうとするのを、僕は上からずっと見ていた。彼の、狂人のように澄み切った眼差しを思い出す。そうすると、思考の海から岸へ打ち上がり、僕の口は自然と不安げに解けた。

「何か奇跡が起こるような気がしてたんだ。僕も。でも、そうはいかなかった。彼には力がなかった。彼は、大逆転を引き寄せるほどの存在じゃなかった。僕らは、彼が起こしうるかもしれなかった奇跡に、説得力を与えられなかったのかも、しれない……」

 僕の言葉は沈黙の中に吸い込まれて、ぐったりと落胆と諦めだけが周囲に立ち込めた。僕は涙が出そうになった。けれど、

「でも、良いじゃないか。僕たちにはもうひとり主人公がいる。彼女もまた、愛すべきキャラクターだ」

 そう口にすると、僕の頬は希望を含んで柔らかく解ける。

「彼がいなくなったのは悲しいことだ。でも、僕らは今残っている駒でなんとかするしかない。大丈夫だ。彼女ならきっと、上手くやれる──いや、むしろ、彼なんかよりももっと上手く物語を動かせるだろう」

 僕はそう言うと、心臓にとくとくと血が回り出したような気がした。

「君は、必ずこの物語を勝利に導くんだ」

 僕は、顔を上げない彼女に向かって声援を送り続ける。

「女神様、君の役目は、まだ終わってない」


***


 テーブルの上を片付けながらガラス越しに通りの景色を見る。表を行く通行人たちの上着の色が、カフェの明かりに照らされて本当の色をほんの一瞬だけ取り戻して、また暗がりに飲まれてくすむ。その雑踏の中で誰かが私に向かって笑いかけたような気がして目を見張るけれど、誰も私の方を見てはいなかった。通り過ぎるのは横顔ばかりだ。だから、私に笑いかけたように見えたのは、私の頭の中に残っていた朝の衛の微笑みだ。

 きらきらと降り注ぐ朝日の中で戸惑う私に、衛はこう言った。

「俺の秘密を──秘密というほどじゃないかもしれませんけど──ひとに言っていないことを、明かしてしまってもいいですか」

 朝のしんと透き通った空気の中で、私の早まる息の音が、ふくらはぎが張ってつんと痛むような感覚が、どこに置いたらいいのかわからないまま伸ばされた指の居心地の悪さが、全部、衛に伝わって暴かれてしまうような気がした。でもその感じは、お腹がきりきりするような気持ち悪さではなくて、全てを知られて包み込まれるような心地よさだった。私はたぶん、うん、とも、はい、とも言えなかったんだと思う。でも、衛は安心したように笑って口を開いたから、私も何か言ったのかもしれなかった。覚えてない。

「俺の『まもる』という名前は、ここに来る前から持っていた名前なんですが、俺にはもう、字がないんです」

 困ったような彼の微笑み。私はきっと、字がない、とかおうむ返しをしたんだ。

「そう。俺の名前は、音だけが残った」

 彼が背負った青い光が、薄く伸びた影を私のほうに寄越している。

「自分では呼べない、音だけがね」

 困ったように肩をすくめる彼がそれから言った言葉を、私はきっと一生忘れないんだと思う。

「君、僕に名前をくれませんか」

 神聖な朝日の中に、彼の声が通って響いていった。それから私がどんな風に返したのかも、よく覚えていない。きっとみっともなくあたふたして、彼はそれを優しく聞いていて、私はまともに喋れなくて、でもきっと会話は最後まで続いたのだ。だって、彼は最後に

「君に頼んでよかった」

 と言ったから。そのとき私は何も言えなくて、ただ、ぐらぐらする心臓を元の位置に戻すみたいに深く息を吸っていたのを覚えている。冷えて乾いた朝の中で、必死に息をする喉の奥がひりひりして、胸は熱くなって、目の前に私にとって世界一好きな笑顔があって。この人の言葉があれば、それだけで私は百年生きられるんだと、わかってしまったのだ。

 テーブルの上の水滴を全部綺麗に拭き取ってから、私はまた通りに目をやった。今日この後、それか、明日、明後日、もっと先かもしれないけれど、街の中で衛に会って、私が彼のことを「まもる」と呼んだ時、私の頭の中には「衛」の字が浮かんでいて、彼もそのことを知っているってこと、そして、私たち二人の中だけに悪戯みたいなそういう小さな秘密があることを、誰も知らないまま、世界がいつも通り回っていくんだろうな、っていうことを、私はすごく幸せだと思った。


 真人間たちが皆んないなくなったホールを回ってナプキンや砂糖を足すのをおしまいにして、ひとつだけ灯った明かりの下のテーブルの椅子を引いて座ると、先にテーブルについていた茜は顔を上げないまま仕事を続けた。積み上がった伝票やお札の山を見て、彼女の仕事がしばらく終わらないのがわかった。私は手近の小銭をケースにしまって彼女の手伝いを始める。

「昨日は悪かったわ」

 と、急に茜が口を開いたから、私はきょとんとして手を止めた。彼女の方は手を止めていないから、聞き間違いかと思った。でも、その後茜がすぐに

「どうかしてた」

 と続きを言ったから、聞き間違いじゃないとわかったんだ。

「ううん、私、私も……」

 頼りない女の子の声で私はそんなふうに喋った。そうだ、昨日の夜は、私、怒った茜に早く帰されちゃったんだ。衛とのことが私の中で大きすぎて、そっちだって大事なのに忘れていた。そうだ、私、そんなことも忘れて茜の隣にこうして腰掛けている。そうやってごちゃごちゃ考えていると、私が何か話すターンになったっていうのに、上手く言葉が出てこない、だからしばらくの間、カフェには茜のペン先が紙の上を滑っていく音と、私が触る小銭の音だけがしていた。足元が寒い気がしてきて、私は靴の中でつま先をぎゅっと握った。顔を上げる。茜は手を止めない。

「これからも、ここで働いていい?」

 詰まった胸の奥から勢いよく言葉を出して、声が大きくなりすぎて、ひっくり返りそうになってかっこ悪かった。でも、茜は私のことを笑ったりしないで、いつもの澄ました顔を崩さないまま、私の色んなかっこ悪さにはなんの気も止めないで、

「もちろん」

 と言った。私はほっとして泣きそうになって、うつむいて潤みそうになった目を隠した。茜は私の顔を覗き込んだりしなかった。その時、入り口のベルが鳴って、吉見の妹が私と茜の顔を見比べてから、

「終わったら教えて」

 とぶっきらぼうに言って扉を閉めた。ガラスの扉の向こうに、吉見の後ろ姿がうっすらと夜に紛れている。私が茜のほうを向くと、彼女は

「もう帰って。私が閉めておくから」

 と淡々と言った。私は店の奥に鞄と上着を取りに行って、座ったままの茜の横を通り過ぎて、吉見が待っているドアの前まで行ってから、振り返った。彼女はいつも通りこっちを見ないまま私を見送っていた。私の顔には自然と笑顔が溢れて、解けた唇が冗談ぽく笑う。

「私たち、何で喧嘩してたんだっけ?」

 茜は目を上げないまま肩をすくめた。いつも通り素っ気ない彼女が、いつにも増して優しく見えた。私がそんな彼女を見つめてなかなかドアを開けて出ていかないから、茜はため息をついて

「また明日」

 と私を追い出すので、私は表に出て、優しくドアを閉めた。


 通りに出てからは、吉見とだらだら歩いた。兄さんは今日いないの、とか、何か変わったことはあった、だとかそんな話をして、いつのまにかアパルトマンの前に着いていた。

「何かあったら相談してよ」

 と釘をさすみたいに吉見に言われて、私は思わず笑った。

「なんかね、昨日まではほんとうに大変だったの。何をどうしたらいいのかもわかんなくて、小さな子みたいに泣いてたくらい」

 吉見は黙ったままこちらを見て話を聞いている。

「でもね、今日になったらいろんなことがくるっと上手く行って……」

 私は部屋で私のことを待っている春街ちゃんのことを思い出した。

「いつまでも同じことが続くわけじゃないのね」

 私の口は弾んで、足先はふらふらとしてダンスを始めそうだった。

「世界はどんどん変わっていくんだわ」

 私がそう言うと、吉見はきょとんとしていたけれど、

「あんたが元気ならそれでいいよ」

 といつも通りつっけんどんにそう言って、

「じゃあ、あの子のとこ、早く帰ってあげな」

 と急かすから、私は頷いた。アパルトマンの門をくぐってから通りに顔を出し、ぽつんと小さく遠ざかっていく吉見の背中に

「また明日」

 と声をかけると、吉見は遠くから私の方を振り返って、少しだけ笑ったように見えた。


 階段を一段一段上がるごとに、気持ちも弾むみたいだ。昨日まではどん底みたいだった世界が、あの朝日に照らされてから、私に優しくなったみたい。カフェでのお仕事をやめようかとも思ってたのに、茜とは仲直りできて、春待ちゃんも結局「お部屋の中でちゃんと待つよ」と言ってくれた。なあんだ。大丈夫なんだ。私は大丈夫。大丈夫。そう自分に言い聞かせて、私は階段の最後のところを駆け足で上った。

「ただいま……!」

 と、自分の声が部屋の中にぽかんと響いたのに気づいて、私は面食らった。寒いのにストーブは付いていないし、天井の明かりは消えていて、窓も開いている。そこにはそこに小さな影。彼女は暗闇の中で小さな顔の中にある両頬を濡らし、泣きながらこちらを見ている。

 私の足は勝手に前へ進んでいって、私はいつのまにか彼女に寄り添うようにベッドに腰掛けていた。

「亜ちゃんは、時間を戻したいって思ったりする?」

 涙でぐしゃぐしゃになった顔の春待ちゃんは、出窓に腰掛け、裸足をベッドの上に放り出して、声を震わせた。

「前に戻りたいって、おうちに帰りたいって……」

 私は靴を脱がないままベッドの上に膝をついて、彼女のそばへ寄るとそのまま震える彼女を抱きしめた。彼女の胸はひくひくと震えていて、おびえた子猫みたいだった。その小さな肺の震えが収まった時、彼女がまた声を出す。

「真っ暗な部屋の中にいると、そんなことばかり考えるの」

 そうして声を出すと、彼女の胸はまた痛々しいくらい戦慄いた。春待ちゃんの身体は、胸が震えると、体ごと全部壊れそうになる。私は、壊れて今にも弾けそうなその背中をできるだけ優しく包み込むように手を置いて、

「私の家はここよ。春ちゃんの家もここ。ここでいいの……」

 と、恐る恐る声を出した。壊さないように、解けないように、小さなその背中に自分の身体を寄りそわせる。

「違う……違うよ」

 彼女にぐっと手で押されて、私はびっくりしながら彼女の背中に回していた腕を解いた。彼女の息はまた上っていた。

「わたしのおうちは、ここじゃないもん」

 そう言ってからはあはあと口で息をする彼女の氷みたいな目を見て、私は、最初に会った時彼女のことを小さい頃の友達に似ていると思ったのを思い出した。私はあの子がどこに住んでいるのかもわからなかったし、今じゃ名前も覚えていない。両親に連れられて、私の家までやってきて、私と遊んで帰っていったあの子。どこに帰っていったのかもわからないあの子。

 そう考えてから私は気づいた。そうだ、春待ちゃんには、自分の家があって、お父さんとお母さんがいて、友達も居たんだ。この子には、この子の生活があったのだ。いつも通りで、変わらなくて、穏やかで、少しずつ厄介なことが散らばった、彼女にとってありきたりでつまらなくて幸せな生活が。ここに来る前の私と同じように。

「亜ちゃんも、ほんとはそう思ってるんでしょ?」

 私の世界の真ん中で、氷の目の彼女はそう言った。

「ほんとのお家はここじゃない」

 彼女の声は今すぐ大声で泣き出しそうに震える。

「嘘ついてるんだ」

 そのとき、とうとう彼女は堪えきれなくなって、両手を顔にやってわあっと泣き始めた。私が彼女の腕に触れようとすると、彼女は払いのけた。私はそれにびっくりしてしまう。彼女は涙をぼろぼろと零しながら、つっかえつっかえ喋った。

「わたし、戻りたい。ここに来る前に」

 身体を守るみたいに両腕をぐうっと曲げて、彼女はそこに顔をくっつけて泣いた。

「お父さんとお母さんと一緒にいたい」

 下を向いた彼女の声がベッドの方に落ちていくのが聞こえて、私はたじろいでしまう。何かこの小さな女の子に、元気が出るようなことを言ってあげなきゃいけない。うまく、この子の気分がぱあっと変わるような、年上のお姉さんとして正しいことを……。

「でも、死んだ人は戻ってこないわ」

 そうして私が喋った言葉は、慎重な響きでキッチンの奥まで届いたように思えた。

「私たちはその先で生きなくちゃいけない」

 あの始まりの夜のことを思い出す。もう会えないひとたちの顔が浮かんで、私は弱気になりかけて、そんな自分を奮い立たせる。ここに来てからずっと、寂しくて辛くて不安だった。それでも私はやってきたじゃない。身体や心がどこかにこぼれ落ちそうになりながら、私は何度も、何度もこの街の夜を越えてきたのだ。そうだ。私が追いつけなくたって、世界は変わっていくんだから。

「生きなくちゃいけないのよ」

 私がまっすぐ声を出すと、両腕の囲いの中から、彼女の声が

「ほんとうに?」

 と鳴った。

「亜ちゃんは、思い出の中にいたいと思ったことないの?」

 そうして彼女はゆっくりと顔を上げ、透き通った眼差しがベッドの上の皺の形を見つめていた。

「わたしは、ずっと思い出していたい」

 彼女の声はさっきよりも落ち着いていて、どこか冷たく、遠く聞こえる。赤く腫れ上がった目元の中に座っている瞳は、潤みながらもじっとしている。

「忘れないままずっと、その中にいたい。目を閉じたまま、わたしが昔の時間の中にいると思っていたいの」

 そこまで言って、彼女はとうとう私の方を見た。

「なくしたくない。ずっと一緒にいたい……」

 彼女は赤ちゃんみたいにわめいたけれど、彼女の言葉は切実で、真剣で、本物だったから、私は彼女のことを無理やり抱きしめた。今度は壊れ物を触るみたいにじゃなく、彼女が潰れちゃうんじゃないかっていうくらい強く、ぎゅっと、堅く。大丈夫だよ、そう言おうとした時、彼女の小さな手が、助けを求めるみたいに私の背中に回されて、彼女が私の方にぐっと身を乗り出すのがわかったから、私は言葉を止めた。彼女の髪の毛が私の横顔に当たっている。背中に回された小さな手の指先が、私の上着をつかんでいる。彼女の口から吐かれた息が、その小さな唇から溢れて、私の頬に当たるのがわかった。

「亜ちゃん、もしもわたしが」

 彼女の囁き声が、私の耳たぶの辺りに当たって、誰のも聞かせまいとするように小さく、細かく、高く鳴る。

「『死んだ人に会える』って言ったら、信じる?」


「謝らなきゃいけないこと、あるの」

 夜道を歩きながら、春待ちゃんは俯いて話した。私は、春待ちゃんに強請られて、結局部屋の外に出てしまっていた。彼女の声音があまりに真剣で、私は彼女の言葉を信じたわけじゃなかったけれど、彼女と一緒にひっそりと静まり返った夜道を歩いている。

「ほんとはね、わたし、何度も部屋を抜け出してた……」

 そこで彼女はこちらをぱっと振り返り、ぐうっと口を引き結んだ顔を私に見せた。

「ごめんなさい! 危ないってわかってた……でも、部屋でじっとしていられなかったの……。ドアに石を挟んでおいたりして、亜ちゃんが帰って来る前に部屋に戻るの。そういうこと、何回も、してた」

 彼女の声はだんだん小さくなっていって、最後には消えてしまって、けれど、間髪入れず彼女はまた顔を上げ、

「でも、それで見つけたの」

 これからほんの少し先、と彼女は言って、私の手を引っ張るみたいに進んでいく。

「もう少し行ったところにね、橋があるの……小さな川の上の橋。お家に囲まれたところの、小さな橋なの、そこでね……」

 春待ちゃんはそこで立ち止まってこちらを向いた。

「会ったの。お父さんに」

 夜の中に立ち尽くす彼女の顔の中の二つの瞳が、ひらりと光ったように見えた。

「死んじゃったはずの、お父さんだった」

 誰もいない通りで私に話しかける彼女は、どこか人間ではないもののように見えて、私はたじろいだ。確信したようにはっきりと、何かに取り憑かれたように話をする彼女のことを、私は神様の使いみたいに思った。でもそのとき、私の中にかすかな疑問が湧き上がった。この子は、どうして。

「言われたの、しんじゃった、って」

 彼女は私の心の中を読んだみたいにそう言った。

「制服の、一番えらいひと。『私が殺した』って、そう、言ってた。お父さんとお母さんのことを……」

「……そう」

 彼女は私の声を聞いて、黙り込んでしまう。それから足をにじらせて、もう一度顔を上げ、こちらをまっすぐ見た。

「だから、だからね、亜ちゃんも会えると思う。亜ちゃんのお父さんとお母さんも、しんじゃったん、でしょ?」

 私は、なんて返事をしたらいいのかわからなかった。父さんと母さんのことを言われると、私の心は私だけでいっぱいになってしまう。目の前にいる、私よりももっと弱くてかわいそうな子を抱きしめてあげられなくなる。私は、私のせいで目の前の別の人を抱きしめられなくなるってことが、すごく嫌だった。それでも私は、立ち止まったまま何もうまく言えないでいた。そうしたら、小さな両手が私の手に添えられていた。まるで、包み込むみたいに。

「大丈夫だよ」

 彼女はそれから私の方に歩み寄って、小さな手をさっきみたいに私の背中に回して、それから、私の胸元に顔を押し当てた。彼女の頭のつむじが見える。そうして、彼女の声が、私の上着の上から私の身体の中まで届くみたいに、優しく、ゆっくりと響きだした。

「目を閉じて、祈るの。会いたい人のことを思い浮かべて。そのひとのことを出来るだけたくさん思い出すの。どんな顔をしてて、どんな声をしてて、どのくらい背が高くて、どんな匂いがして」

 春待ちゃんは私のことをますますきつく抱きしめる。

「どんな風な手の形をしていて、それで、どんな風に自分のことを抱きしめてくれるのか」

 くぐもった彼女の声が、澄んだ空気のなかで私の耳に嫌にはっきり聞こえて来る。

「できるだけ、たくさん」

 彼女はそれからしばらく私に抱きついていた。私が戸惑って彼女を抱きしめ返せずにいる間に彼女はぱっと私から離れて、今度は天使みたいににっこり笑って、私の身体の横にあった手を取る。

「わたしにできたから、亜ちゃんにもできるよ」

 彼女の指が、私の指と組み合わさって、痛いほど締め付ける。その痛みで、私はやっと目が覚めたみたいだった。

「信じて」


 それから私は一人で歩いていた。

「ここから先は、亜ちゃんだけで行って。多分、周りにひとがいるとだめなの……何度も来たけど、わたしがお父さんに会えたの、一回だけだったから」

 そう言った春待ちゃんは、狭い路地に入っていって、ゴミ箱の向こう側にしゃがんだ。

「ここにいるから、後で絶対迎えにきてね。先に帰ったりしちゃ、やだよ」

 彼女はそのままゴミ箱の向こう側に隠れてしまったから、私は返事をして真夜中の狭い通りを歩き始めた。お店なんかのない、小さなアパルトマンが集まったこじんまりとした街並み。ひとでなしたちも住んでいないみたいで、街灯なんか点いていない。私は上から差してくる月明かりを辿るようにして歩く。暗がりに慣れてしまった私の目には、薄青い景色はそんなに怖く見えなかった。でも、制服の奴らに会ってしまわないとも限らないし、早く春待ちゃんの言っていた橋を見て、さっさと彼女を迎えに行って、二人で家に閉じこもろう。

 ぱっと視界が開けた。水の音が下の方からしている。そのまま足を踏み出すと、ほんとうに小さな、この辺りに住む人しか知らないんだろうなっていうような、石造りの橋の上に私はいた。欄干に手をかけて下を覗くと、小さな用水路が街並みの向こうからこちらまでずっと続いていて、振り返った向こうにも続いている。浅い川の水面に月の光がきらきらと照り返して、苔と土の匂いがする。空を見上げると、街並みの隙間の星空が私の上に伸びていた。ああ、結構綺麗だなと思って、それから辺りの家々を見回した。誰もいない家がこんなにたくさんある。そもそも、こんな寂れたところ、夜の間だって誰も来ないのかもしれない。誰もいない街の中に、小さな用水路が流れ続けているってこと。

 私は少し目を閉じた。会いたいひとのことを思い浮かべる。春待ちゃんが言ったように、その人の姿や香りや手の感触を思い出す。そうはいっても、はっきりと浮かんできはしなかった。それに少し驚いた後、ああ、案外覚えてないもんなんだなとがっかりして、私は寂しくなった。愛してるって思っているのに、確かにきっと愛しているのに、それなのに覚えてないなんて、私って冷たいんだなあ。そう言って閉じていた目を薄く開けてみる。欄干に身体を預けていた私は、川面に落ちる自分の影が酷く寂しそうに見えて、悲しくなって、春待ちゃんのところに戻ろうと思って身体を起こした。そうして回れ右しようとしたとき、視界の左側に、誰かの足が見えた。

 制服の奴らのうちの誰かが来たのだと思った。なんでかっていうと、私の目に映り込んだその足は、黒く見えたから。私は思わず身体をのけぞらせて後ろに飛び退いた。夢中で橋を一歩二歩と後ずさって、その影の全部が見えたとき、それがこちらに向かって一歩踏み出し、その身体中にかかっていた黒い影がふわっと後ろに消えた。そのひとは、私に向かって震えながら手を伸ばす。

「あ……」

 私の喉から声が漏れて、足ががくがくと震え始める。それなのに足元が固まって動かなくなる。喉がつまった私に向かって微笑んだそのひとは、

「つぐ」

 と、あの日と同じように私のことを呼んで、私が逃げ出すよりもずっと早く、私の身体をひしと抱きしめてしまった。あの日着ていたのと同じ着物の生地の艶々とした面が、私の顔に擦れた。薫きしめられた竹の香。その奥から匂う、懐かしい肌の匂い。背中に回された、少し骨ばった、あの日と同じ手。

「苦しかったでしょう。辛かったでしょう。ごめんね、こんなところにひとりにして」

 その両腕に抱えられながら私は動けずにいて、けれど、胸の中は懐かしさで溢れかえっていく。

「ずうっと心配してた。貴女の手をちゃんと握れなかったあのときから、ずっと、後悔してた。貴女のこと、たった一人で生きていけないと思って」

 声は泣いていた。

「でも、貴女、頑張ったのね。頑張ったのね。ずっとずっと、頑張ってきたのね」

 懐かしくて愛おしいその手が私の頭を撫で、私の身体をますます自分のほうに引き寄せて、私の全部を抱きしめようとしてるみたいだった。私は確かさに打ちのめされて、こわばっていた自分の身体がだんだんと解けていくのがわかった。私は、そのひとに身を委ね、その背中に夢中で腕を回した。その身体は、私への愛に震えていた。

「貴女のことを産んで、後悔したことは一度もないのよ」

 耳のそばから心臓の中までぐうっと染み入るような、私がずっと聞きたかったその声が、涙の中からこちらに喋りかけている。

「愛してるわ。永遠に。貴女の何もかもを」


 私は来た道をふらふらと戻り、今自分の身に起こったことを頭の中で整理しようとしていた。正直に言っちゃえば、何が起こったかわからなかった。あのひとは私から離れると、そのまま名残惜しそうな顔で後ずさって、影の中に消えてしまった。しばらく辺りを探したけれど、もういなかった。でも、抱きしめられたあの感触は、匂いは、あの声は、間違えようがなくて。私は自分の目元を拭い、泣いたことがバレなければいいなと思った。けれど、そんなこと出来そうにもなかった。そうしているうちに、あの脇道から春待ちゃんがひょっこりと顔を出す。私に駆け寄るなり、

「……会えた?」

 とおどおどした様子で聞いてくる。私はなんだか笑ってしまって、涙を隠すのを諦めてしまった。私は笑いながら

「うん」

 と返事をして、

「あれは、母さんだった」

 と、自分の心を確かにするみたいにそう言った。

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