最終話 透視する探偵
その日も加奈子は諦観した瞳で私を見ていました。
私だけに限らずあらゆる物に対して、加奈子はいつもそんな目を向けるのです。
加奈子が涙を流しているところを、私は見たことがありません。
それどころか、加奈子が笑っているところすら私は見たことが無いのです。
忘れ物を取りに行くために、ロッカールームへ向かう途中でした。
「加奈子は、私といて楽しい?」
私が心配になって問いかけると、加奈子は明後日の方向を見て
「感謝してるわ。でも、同時にね」
その日の空は既に暮れて、橙色が校舎を包んでいました。
「死にたくなるの」
そう、呟くのです。
加奈子はいつも、自分がそこにいる意味を探していました。
自分がどうして生きているのか、自分は誰のために生きているのか。
そんな命題を清らな胸に抱えて、いつもどこか違う世界を見ているのです。
「どうして、死にたいなんて……」
私は加奈子が羨ましかった。
頭が良くて、顔も綺麗で、達観した価値観を持っていて。
何もかもを超越した天人のような加奈子に、私はなりたかった。
だから、加奈子が抱える
ましてや、死にたいと願う動機なんて。
「死にたい、というより。死んだ方が良いのよ。私は」
「だから、どうして」
「だって、私がいる限りみんな不幸になるじゃない」
加奈子は淡々と、詩の朗読をするように言葉を重ねました。
「なんでそんなこと。私は、少なくとも私は……」
不幸なんかじゃなかった。
加奈子に出逢って、こうして傍に居れて、不幸なんかじゃなかった。
支えになれて、力になれて、それだけで幸福だったのに。
「そんなことを言ってくれるのは、貴方だけよ。怜香」
水晶を埋め込んだような澄んだ瞳で、私を射抜く様に見つめる加奈子。
「母さんは私が事故に遭ってから、すっかり落ち込んでしまって……。それに中てられたようにして、父さんも家に帰らなくなった。私、もう三か月は父さんの顔を見ていないわ。電話で話すことはあるけれど……」
「でも、それは加奈子のせいじゃないじゃない。むしろ」
加奈子は被害者の
なのにどうして加奈子がそんな顔をしなければならないの。
本当に落ち込みたいのは、加奈子の筈でしょう。
そう言いたかったけれど、その言葉は加奈子の瞳で封殺されてしまった。
「そう言ってくれるのは怜香だけなのよ。誰も彼も、自分のことばかりだから」
私は両手で加奈子の車椅子の持ち手を掴みながら、前へとゆっくり押し出す。
もう慣れたものだ。
加奈子の重みも、車椅子の車輪の回り方も。
「ねぇ……怜香」
「なに?」
ふと胴体だけを後ろに振り返して、黒い髪が
「…………」
腕に巻かれたリストバンドを捲ると、加奈子はやっぱり、と呟きました。
「怜香」
もう一度、私の名前を呼ぶ加奈子。
「死にたいんでしょう?」
「……え」
「違うの?」
「…………」
違わないけれど、そうとは肯定できなくて。
「私と、同じね」
「加奈子……も?」
思わず私は目を見開いてしまいました。
あの加奈子が、私と同じ思いを抱いて生きていたなんて。
そんなことは考えもしなかったのですから。
「もう、この足は治らないの。ずっと前から分かっていたことだけれど」
加奈子は視線を行儀よく並んで車椅子に載った二本の足に移しました。
「言ったでしょう。感謝しているけれど、同時に死にたくもなるって」
「どういうことなの」
「だって、私はこれから自分で歩くことすら出来ない。つまりは、自分の意志で、自分の力で思うままに動くことすら出来ないってことなのよ。誰かに支配されて、監視され続けなければ生きることすら……いや、移動することすら儘ならないってこと。それって……まるで罪人みたいじゃない」
「…………」
加奈子のその言葉に、私は何も言えませんでした。
「怜香の親切には感謝してる。これ以上ないくらいにね。でも、同時に申し訳無くも思うのよ。私に付きっきりで、他の子達ともコミュニケーションが取れなくて、一人にさせてしまったから。そう。私は誰かの手を借り続けなければ生きていけない、これまでも、そしてこれからも。そう思うたびに自責の気持ちでいっぱいになる。中身がね、空になるの」
「でも……加奈子と出会えたことは、私にとって」
天啓でした。
小学校の頃から、いや、もっと小さな時から私は要領が悪い子でした。
他人のように狡猾に、器用に振る舞うことが出来ないのです。
そう言えばまるで長所のようでもあるけれど、集団生活においてそういった子は不適合の烙印を押される運命にあるのです。
私がそうだったように。
小学校も中学校も、綺麗な思い出は一つも無かった。
汚れた上履き、消える学習道具、机の落書き。
どれもこれも汚くて臭くて醜い思い出。
だから、あの時加奈子と出会えたことは天啓のようだったのです。
入学式の日、私は式辞の練習を行うために他の生徒よりも早く学校へ入りました。
リハーサルを終えて教室へ戻ろうとした時、桜を見る貴女に出逢ったのです。
春風が髪を靡かせて、それが絹の糸のように空に舞って。
天女がこの世に舞い降りてきた時のように、荘厳な光景だった。
そして貴女は私の姿を認めると、こちらへ来て、小さく頭を下げたのです。
自分が車椅子であるが故に式辞を押し付ける形になってしまったことを謝ったのです。
それを言うためだけに、加奈子は体育館の外の桜並木で私を待っていたのです。
誰も、そんなことしてくれなかった。
誰も、私を待ってはくれなかった。
誰かに頭を下げられたことなんて一度も無かったから。
「ねぇ、怜香」
そう思い出に浸っていると、加奈子は私を現実へ引き戻しました。
「どこかへ、二人で逃げ出さない?」
「どこへ……」
もしそれが叶ったのなら、それはきっと素敵でしょう。
加奈子と私しかいない世界。
想像するだけで思わず溜息が漏れそうな光景です。
「貴女の願いを、叶えてあげる」
「願い……?」
「自由は、何処にあると思う?」
「それは……」
きっと、この世界には無い。
「身体って、不自由」
詩人が吟じるように、加奈子は吹き抜けの上にある天窓を見つめました。
「魂は、身体という器に縛られている」
加奈子はこちらをちらり、と見ると今度は階下へ目を向けました。
「逃げ出すことは、許されない」
小さな唇が動く。
「人は自由を手にした瞬間、自由に縛られてしまうから」
加奈子はすると、最後に目を細めて私を見つめました。
「ねぇ、怜香……」
「……なに?」
「逃げ出そうか」
「どこから……」
「この場所から」
「……どこへ」
「自由な場所へ」
「……どうすれば」
加奈子は、ふふ、と少しだけ
初めてそんな加奈子を、私は見たのです。
「天国は、
加奈子はゆっくりと口を開きました。
「天国はね、
それが、加奈子が私に最期に言った言葉です。
加奈子はそう言い終えると、電池が無くなったロボットのように項垂れて、ただ微笑みを顔に張り付けたまま、階下を見ていました。
天国が、まるでそこに見えるかのように。
私、途端に怖くなったのです。
自分が押している車椅子に載っているものが、まるで人間じゃないようで。
加奈子の皮を被った異形が、私を唆しているかのようで。
それとも本当の加奈子の中身は、こんな異形なのかと思って。
恐怖というより、畏怖に近い感覚でした。
人間では無い、神の営みを覗き見てしまったかのような畏れを。
気付けば私達は階段の踊り場にいました。
そこには加奈子と私以外に誰もいなくて。
加奈子は依然として私に笑みを残していて。
それが怖かった。
怖くて、だから、私。
思わず、車椅子を掴んでいた手を。
前に……押し出して……。
一瞬でした。
車椅子は加奈子を伴ったまま、階段を転げ落ちていって。
加奈子は何の悲鳴も、呻き声も残しはしませんでした。
ただ重力の思うがままに階下へと身体を投げ出していっただけ。
階下に広がっていたのは、天国ではなくて真っ赤な海でした。
加奈子は肢体を
顔は見えなかったけれど、まだ笑っているような気がして。
「あ……あ……」
回る車輪の音だけが耳に残っていて。
加奈子はもう事切れてしまったのかぴくりとも動きませんでした。
その時、私、思わず
「や、やっと……」
嬉しくて、声を殺して笑ったのです。
「死ねる……」
真尋が事務所に入って来たことに、速水は気が付かなかった。
仮眠に適していないとは分かりながらソファで眠ってしまっていた速水は、真尋が運んできたミルクティーの香りで、やっと目を開いた。
寝起きの視界は、まるで霧の街の
「どこから……」
喉が渇いている。
「詩織さんのところから、ちょっと拝借」
「そう……」
甘い茶葉の香りだ。
「自白剤とか、入れてないよな」
「自白するようなことがあるの?」
「いや……」
そう言われれば無いのだが。
速水はなんとか上半身を起こすと、ミルクティーを口に流す。
喉元過ぎればなんとやら。
口元に入れた時には熱かった液体は、嚥下するとすぐに気にならなくなった。
「真尋」
「なによ?」
真尋は冷ますために息をふう、と吹きながらこちらを見つめる。
「訊きたいんだろ、昨日のこと」
飲むことを諦めたのか、真尋はカップを机に置く。
「良いの?」
「まぁ……な」
いつまでも
風見怜香が樋浦加奈子を突き落とした道理は、頭の中にはある。
しかし脳内で構築されていても、それが言語にならなければ意味はない。
言葉にならないものは、この世に存在していないものと同じだからだ。
「そうだな、何から話せば……」
今回の事例はそれぞれの案件が絡み合いながら構築されている。
雪塚の窃盗、降旗の暴行、そして怜香による殺人……。
「真尋が気になってるのは、なんだ?」
「そりゃあ……どうして加奈子さんを突き落としたか、でしょ」
「動機ってことか?」
「まぁ……そうなるかしら」
「前にも言ったが、動機はあくまで傍から見てる人間の想像だ。だから、今から話すことは事件の真実……というより、あくまで全てを補完して説明できる俺なりの仮説だと思って聞いてほしい」
真尋は小さな首を縦に動かす。
「真尋、バンジージャンプはしたことあるか?」
「え……いや、ないけど」
「バンジージャンプって、つまりは凄い高いところから飛び降りる訳だろう? 好きな人間もいるだろうが、大抵の人間にとってはとんでもなく勇気がいることなわけだ」
そう語る速水の人生には、バンジージャンプの記憶はない。
「たとえ命綱が付いているとしても、やっぱり足が竦むものじゃないか」
「待って。バンジージャンプと今回の事件って関係あるの?」
「喩え話だ。今回の風見怜香の心理状態はバンジージャンプをする人間の思考に少し似ている。でだ、真尋がもしバンジーをする時、どうする?」
「そりゃ……覚悟決めるしかないでしょ。自分は出来る、って思いながら飛び込むしかないわよね……」
「そう。それが風見怜香の犯行の動機……いや、落とした心理だ」
「は? いや、どういう……」
「真尋は今、飛び降りる時に覚悟するって言っただろう。自分は出来るって鼓舞するとも言ってたな。それってつまり、飛び降りる恐怖を克服しようとするために行動したってことだろ。風見怜香も同じだ。自分が自殺する恐怖を克服するために……いや、お膳立てか。それをするために樋浦加奈子を突き落としたんだ」
「じゃあ……」
「風見怜香の最終的な目標は、自分が飛び降りて自殺することだ。樋浦加奈子を突き落としたことはあくまでそれの
やっと、真尋はカップに口を付けた。
既に湯気は上がっていない。
「風見怜香の母親が、怜香の小中学校時代をなんて言っていたか、覚えているか?」
「体育着や上履きが必要以上に汚れていたり、物を頻繁に紛失したり……つまり、イジメられていたってこと?」
「そう。風見怜香は小中学校時代にイジメを受けていた。その上、風見由紀子はこうも言っていた。露骨に嫌そうにしたり、相談をしたりもしない、と。つまりは怜香はイジメられていた事実を誰にも相談せずに一人で抱え込んでいる状況だった、ということだ」
「だから自殺をしようとして、加奈子さんを突き落としたと?」
「時系列が違う。この時期から自殺未遂……いや、自傷行為はしていただろうが、この時期は小中学校で、樋浦加奈子とはまだ出会っていないはずだ」
待って、と真尋は両手をつき出して話を止めた。
「どうして自殺をしようとしてたって、言えるのよ」
「風見怜香の手首だ」
「手首?」
速水は自分が着ているパーカーの腕元を捲って、手を裏返す。
手の平から青い静脈が腕へと伸びている。
それをもう一方の人差し指でなぞって、ジェスチャーを行う。
「……リストカット」
「そう。風見怜香には自傷癖があった。一番簡単に傷付けられて、また出血量や痛みもそれなりにある。死ぬところまでは行かずとも自殺しようとしたという実感が達成感と充足感を得る。そしてまたそれを得たくてリストカットを繰り返す」
「いや、だからそれを繰り返していた証拠は……」
「実際に傷痕を見た訳じゃないが、風見怜香に話を訊きに行った時に彼女はリストバンドを両手の手首にしていた。つまり」
「傷痕を隠すために?」
「そう。本来リストバンドは片手に付けるものだ。流行りかとも思ったが、わざわざ家の中ですることか? あとあの部屋にはやけにカッターが多いくせに、木版画の種類の絵は一つも無かった。まぁ……そういうことだろうな」
「ねぇ。さっき時系列が違うって言ったけど、そうするとおかしくない? 怜香さんが小中学校の時にイジメられて、それが原因で自傷行為をしてたってところまでは合ってるとして、高校に入ってから怜香さんはイジメられていない筈よ。それって、自傷行為に及ぶような理由も無いってことでしょう? だとすれば自殺をするために加奈子さんを突き落とす必要性もなくなるはずだけど……」
「そう。風見怜香がイジメを受けていたのは小中学校時代だけだ。高校に入ってからはイジメは受けていないだろうし、それどころか加奈子という友人も出来て幸せな日々を送っていたんだろう。もしかしたら一時的に自傷癖も止まっていたかもしれない」
「じゃあ……あ。怜香さんの証言で、加奈子さんが二年生に上がったぐらいに性的暴行を受けるようになったって言ってたでしょ。怜香さんはそれを止められないストレスから再び自傷癖に走るようになった。となると、加奈子さんを突き落としたのもそのストレスから解放されるため? 加奈子さん自身がいなくなれば性的暴行も無くなるでしょうし」
真尋は話しながら思考し、思い付いたままに言葉を接合する。
思考過程が本能的で、どうしようもなく飛躍的だ。
こういった物の考え方は真似しようと思って出来ることではない。
所謂、天才型というやつか。
「いや、そうじゃない。再び自傷行為をするようになった要因に、降旗の性的暴行が絡んでいることは間違いないだろう。でも、それは加奈子が受けていることを阻止出来なかったから、じゃない」
「じゃあ、どういうことよ」
「降旗から性的暴行を受けていたのは、樋浦加奈子じゃなくて風見怜香自身だ」
少し話が途切れた。
お互いにカップの中身は空になり、水分も完全に飛んでしまっていた。
真尋はそれを見て、おかわりを汲みに行ってしまった。
既に温かかったミルクティーが懐かしく思える程に時間が経っている。
間もなくして電気ケトルのスイッチ音がする。
真尋は足早に定位置へ戻ると、再び速水を見た。
「で、話の続き。どうして加奈子さんじゃなくて怜香さんなの?」
「……まず、おかしな点がいくつかある」
三秒、次に言う言葉を考える。
真尋の思考方法だと考える時間自体が存在しない。
それが速水と真尋の相違点だ。
「一つ目は証言をしたタイミングだ」
人差し指を立てて、一つ目という箇所を強調する。
「風見怜香が性的暴行に関する証言をしたのは聴取しに行った次の日、厳密に言えば俺達が帰って行った後の夜のことだった。これはどう考えてもおかしいだろう。本当に加奈子が暴行を受けていたとすれば、それは真っ先に言うべきことだし、加奈子に執心していた怜香に限ってそれを忘れていたなんてことは現実味が無い」
「つまり?」
「風見怜香は、俺達が行った後に加奈子が暴行を受けていたことを思い出したんじゃなく、思い付いたんだ」
今度は中指を立て、じゃんけんで言うところのチョキの形にする。
二つ目、のジェスチャーだ。
「二つ目は証言の内容だ。確か立ち上がることすら出来ないことを良いことに、首筋や背中、尻を撫でまわして……みたいな内容だっただろう」
本当はもっと気色の悪い内容だが、簡単に要約する。
「これ、日本語的におかしいと思わないか」
「んー……」
「立ち上がるのが困難な加奈子……つまり加奈子は車椅子に座っているということだ。それなのにどうやって座っている人間の背中や尻を触れるんだ。これは盲点だった。証言の文書だから目が利かなくて嘘かどうかを見抜けなかったんだ。それどころか真実の供述だと一瞬錯覚してしまった」
嘘を視覚化する速水の目は、万物に適用するわけでは無い。
文書の中の嘘や、話している本人が嘘だと自覚していない場合は、一般的に見てそれが嘘だとしても速水の目には捉えられない。
嘘というのはいつも主観的で、客観的な嘘は存在しないからだ。
「でも、それにしてはやけに詳細に……」
「そう、そこなんだ」
良い着眼点をしている。
「この証言は創作にしてはやけに子細だ。だから俺はこう考えた。性的暴行を受けていたのは加奈子ではなく怜香自身だったのではないか、と。そう考えれば証言が子細である理由も説明が付く。また、自傷行為が再び繰り返された理由も説明できる。自分が性的暴行を受けていたことを誰にも相談できなかったんだから、そりゃイジメ以上のストレスになるだろう」
画材の調達目的で体液を収集されたなど、作り話にしては生々し過ぎる。
「でも、どうしてそんな作り話を? もしかしたら嘘だと思われる可能性だって……」
「加奈子が暴行を受けていた、という証言をした理由は恐らく……自分が暴行を受けていたという事実を隠す……いや、死んだ加奈子に擦りつけるためかもしれないな。自分が暴行を受けたという事実を消し去るために」
それと同時に沸騰を示すスイッチ音が響く。
真尋はちょっと待って、と小さく言うと台所へ消えて行った。
窓から事務所の中に黄昏の陽光が差し込んでくる。
昨日怜香を止めた時もこんな時間だったか。
それから程なくして二つのカップを盆に載せて戻って来る。
「はい、どうぞ」
「……降旗に暴行を受けていたのは風見怜香。その事実を加奈子に擦り付けて自分が受けた事実を隠そうとしたわけだ。ついでに降旗が加奈子を殺す理由を
「でも、どうして降旗先生は否定しなかったのよ」
「相手が怜香であれ加奈子であれ、行為に及んでいた事実には変わりないだろう。被害者である怜香にとっては重要なことかもしれないが、加害者である降旗にとっては誰が、というのは問題じゃない。それをしたこと自体が問題なのさ。まぁ、することはしているんだから
「えーっと、要約すると……。怜香さんは小中学校の時にイジメを受けていて、そのストレスから自殺未遂をしていた。高校生になってイジメは止んで加奈子さんに出会って一時的に自傷行為は治まったけれど、二年生に上がってから降旗先生から暴行を受けるようになって再び自傷行為に走るようになった。そして自殺に及ぶために加奈子さんを突き落として、自分が暴行を受けた事実も加奈子さんに擦り付けようとした……ってことで良い?」
「パーフェクト」
「でも、自殺に及ぶためにどうして加奈子さんを突き落とすのよ」
「それは……」
カップを包むように持って、ミルクティーを口に運ぶ。
陶器越しに熱が手元に伝わって、全体が温まる。
そこを説明するのが、正直最も難しいのだ。
「それはな……加奈子を愛してたからだ」
本当に身勝手だが、と続ける。
「小中学校の頃から自傷行為をしていた……というのはさっきから言う通り自殺願望があったからだ。でも、どうして手首を切るんだ? 死にたいなら電車に突っ込むなり屋上から飛び込むなり、確実な方法はいくらでもあるだろうに」
「……死ぬのが怖い、とか」
「死にたいのに?」
「……むー。」
梅干を食べた後のような顔をして、真尋は悩む。
「でも、その通りだ。死にたいのに死ぬのが怖かったんだ。まぁ、当たり前と言えば当たり前か……。でも何かをしなければストレスは溜まるから、それを解消するために手軽なこれを選んだわけだ」
右手首の筋を人差し指でなぞる。
リストカットのジェスチャーだ。
「もしかしたらやってる内にこれだけで満足感を得られるようになったのかもしれないが、真尋の言う通り、高校に入って環境が大きく変わる。加奈子と出会ったばかりの頃……一年生の頃はそれこそ幸せの絶頂だったんじゃないか。今までイジメられていて友人もそれほどいなかっただろうに、親友と呼べるような友達に出会って……。普通の友人の関係性が分からなかったからこそ、過剰な崇敬にも似た関係を生んだのかもしれないが。しかし、二年生に入って怜香は降旗から暴行を受けるようになる。これは怜香にとって耐え難い苦痛だった。何より加奈子との日々があったからこそ、よりギャップに苦しめられることになったのかもしれない。これによって怜香は本気で自殺を決意するようになるわけだ」
本気で自殺、とは実に滑稽な字面だと思う。
速水とて、今まで順風満帆な人生を謳歌してきたわけではない。
誰だって現実や世間との差異に
死にたい、と思うことだって。
しかしそんな空想は誰もが抱くことなのだ。
涙を流さない人間がいないように、苦しみの無い人生はどこにも無い。
だからこそ、生きるという行為に意味が与えられる。
ましてや自らの命を投げ出すために、他者の命を犠牲にするなど許される訳がない。
本当に死にたいのならば、誰にも見られぬ場所で誰にも気付かれずに死ぬべきだ。
「なんて顔してるのよ」
真尋が速水の額に思いっきりでこぴんを打つ。
速水は額を抑えながら、ソファに座り直す真尋を見つめていた。
「続きを」
「……それで怜香は、行動を実行に移す訳だが」
「それが加奈子さんの事件なわけ?」
「そう。ここで最初のバンジージャンプの話だ。真尋は覚悟して、暗示をかけるように自分を言い聞かせる……と言ってたな。つまりは自分を鼓舞してこうしないといけない、という状況に自分自身を追い詰めるわけだ。風見怜香がやったことも、これと大差ない。……加奈子を殺害するという行為……加奈子がいなくなるという事実が怜香を最も追い詰める自傷なんだ。怜香にとっての希望は加奈子にしか無かったんだからな、そのために、加奈子を……」
落としたのか。
いつぞやに見た夢を思い出す。
身動きの取れないまま階下に広がる闇に突き落とされる夢を。
「怜香は加奈子を殺害することで、自分に最高の絶望を与えたわけだ」
「でも、だとしたら半年前……加奈子さんの事件が起きてすぐに怜香さんも自殺しているはずじゃない?」
「怜香が自分を追い詰める仕掛けは、加奈子がいなくなることだけじゃない。もう一つ未来の希望も絶とうとしていた」
「それって?」
「加奈子が亡くなれば、どうなると思う?」
「どうって、警察が呼ばれて……」
「そう。警察が呼ばれれば加奈子の死が事件か事故かという天秤にかけられるはずだ。そもそも車椅子の人間が階段から落ちる、なんてどう見ても他殺なんだから、怜香は加奈子を殺害した上に警察から殺人犯として疑われる、という自傷も行おうとしていたわけだ。殺人の容疑がかかって、ましてや逮捕なんてされた日には未来への希望も無くなるからな、でも……」
「捜査は途中で切り上げられた」
「まぁ、詳しい事情は分からんが捜査は途中で立ち消えになった。加奈子の事件は自殺という形で終わり、怜香は事故のショックという名目で不登校をして自分を苛み続けたわけだ。単純に、自殺の決心がつかなかっただけかもしれないが……。だが、ある時契機が訪れた」
「契機?」
「事件を洗い直すという人物が現れた」
つまりは朝房のことなのだが。
「怜香はその契機を利用して、自分の証言の綻びを見つけてもらおうとしていたのかもしれない。自分が犯人であるという容疑をかけられるだろう、と。そこで怜香は更に自分を追い詰めるために策を練る」
「策……」
「雪塚を脅迫することだ。まぁ、加奈子の傍に常にいた怜香ならば盗んでいた犯人が雪塚だと気付いていてもおかしくない。もしかしたら鎌をかけただけなのかもしれないが……なんにせよ、雪塚に虚偽の証言をさせる、という条件で脅すことに成功したわけだ」
「脅迫することが、自分を追い詰めることになるわけ?」
「雪塚曰く、脅迫された翌日……つまり事務所に偽証をしに来た後に怜香を会う約束をしていた、と言っていた。怜香はどうしてそんな約束をしたと思う?」
真尋はうー、と言いながら首を傾げている。
理解の範疇外だ、とでも言いたげな顔で。
「雪塚の気持ちになってみろ。これ以上ないくらい追い詰められ、下手に怜香の機嫌を損ねでもしたら告げ口をされてしまうかもしれない。いや、もうされているのかもしれない。そんな考えで頭がいっぱいいっぱいな訳だ。そんな状況下で雪塚が脅迫者と二人きりになったら、どうすると思う?」
「んー……黙ってて下さいってお願いする? あ、お金を渡すとか」
「怜香がそれでも納得しないで、教育委員会に証拠を持って告発する、と言い出したら?」
「……実力行使、とか」
「そう。恐らく怜香が雪塚を脅迫した理由はこれだ。脅迫して雪塚を精神的に追い込み、あわよくば自分を殺させる。そういう算段だった、と俺は推測している」
「そんなこと……」
「信じられない、って思うだろうが。殺人自体が信じられない行為なんだ。その理由や動機だって信じられないようなものでもおかしくないさ」
真尋に言いながら、速水も改めて感じている。
殺人とは、信じられない行為の重なり合いなのだと。
「だが、それも実行されることは無かった。俺が未然に防いだからな」
「……ねぇ」
「なんだよ」
「H.Kっていうのは、結局……」
「H.Kは、降旗冬嗣のイニシャルだ」
「でも、降旗冬嗣って、H.Tじゃない?」
速水はポケットからクシャクシャのポスターを広げて、真尋に見せる。
「名前の欄を見てみろ」
「あ……これ」
「そう。降旗の本名は
ポスターの中央部、冬嗣降旗という表記の下にアルファベットが印字されている。
Huyutsugu Koki。
「つまり、あの絵を描いた人物は降旗ってことだ。しかもあの絵のモデルは風見怜香だろう。これも降旗が風見怜香に対して特別な情を抱いていたことを証明していると言って差し支えないだろう」
「怜香さんが今後自殺する可能性は無いわけ?」
「絶対に無い、とは言えないがもう出来ないだろうな。俺が止めに行ったあの時、あの瞬間が一番覚悟が固まっていた時だった。そこで俺が……いや、俺が行く前に降旗が止めていたんだっけか。それで完全に緊張の糸が切れたからな。またあのコンディションに戻すのは時間がかかるだろうし……結局、加奈子が死んでも自殺できなかったんだ。もう出来ないだろう」
そもそも本当に覚悟ができていれば、最初の時点で死んでいるはずなのだ。
「加奈子を殺害して、それから半年間自殺の決意が固まらなかった怜香がやっと覚悟を決めて死のうとしたのに、よりにもよって降旗に阻止されたんだ。そりゃ、叫びたくもなるだろうさ」
自分を自殺に追い込んだ主犯に、自殺を止められたのか。
「じゃあ、最後の質問。速水、昨日怜香さんになんて言ったの?」
「あぁ……あれね」
真尋が凝視している。
これは、答えなければ逃がしてくれなさそうだ。
「たいしたことじゃないよ」
「なんて言ったのよ」
やっぱり、逃がしてくれないか。
「えーっと……」
少し息を継いで、小さく口元を動かす。
『死ぬことより、生き続けることの方がずっと辛い』
その後の樋浦加奈子殺害事件について、速水はよく知らない。
事務所の中にはそもそもテレビやラジオといった情報媒体が一つも無いのだ。
時々喫茶店で新聞を読むが、大したことは載ってないだろう。
情報が物理的に耳に入らないのもあるが、そもそももう興味はない。
水が足された絵の具のように、関心は色を失いつつある。
風見怜香が警察に送検されて、一週間。
送検の五日後に朝房は旅行帰りのように楽しげに事務所へとやって来た。
話した内容を簡単に要約するとこうだ。
風見怜香は速水が自殺を止めたあの日、そのまま品川警察署へ送検された。
朝房と来宮は半ば強引にその取り調べに立ち会ったらしい。
風見怜香の供述した犯行動機は、速水の仮説とそれほど相違は無かった。
しかし、一つだけ違う点もあった。
速水は怜香が加奈子殺害の容疑をかけられたがっている、と推測した。
それが自分を追い詰める要素になり得るからだと。
しかし容疑をかけられたい怜香にとって、降旗が加奈子に暴力をふるっていたという証言を行うことは、矛盾している。
それは降旗が加奈子を殺す理由になり、自分から容疑が逸れてしまう可能性を生むからである。
それでも降旗の犯行を暴露したのは、暴行の事実を白日の下に晒し、怜香曰く「地獄へ落としてやるため」らしい。
その後も怜香は降旗に対しては始終恨みの言葉を漏らしていたそうだ。
風見怜香への暴行の内容は怜香本人からは訊くことが出来なかったものの、共に送検された降旗の供述から内容を窺い知ることが出来た。
降旗は行為を行ったという事実については概ね認めているという。
速水の予想通り加奈子には暴行は加えておらず、代わりに怜香への粘着質とも呼べる採取の模様を嬉々たる表情で語っていたという。
なお、その採取された体液は画材として例の絵に使われていたとされ、鑑識の調査の結果風見怜香のDNA及び降旗のDNAがキャンバスの画面から検出された。
その行為は実に
雪塚も先述の二名と同様に品川署へ送検。
その後家宅捜索が行われ、加奈子が使用していたとされる水筒やハンカチなどが多数押収。
連日松陵や風見家には多くのマスコミがメディアスクラムを仕掛けているらしい。
相変わらず日本は平和だ。
「そうだそうだ。これ渡しに来たんだ」
そう言って膨らんだ茶封筒を速水に渡す。
「……多くないか」
「成功報酬、交通費、あとは……これからの付き合い料かな」
真尋ちゃんと美味しいものでも食べに行きなよ、と足を組む朝房。
真尋の名前を出されると
とりあえずは受け取っておくか。
その様子を見た朝房は、コートを携えると事務所から挨拶も無しに軽やかな足取りで去って行った。
殺風景な事務所に一人残された速水は、命の破片を
気付くと、寝てしまっていた。
茶封筒を抱き締めたまま、堅いソファに座る姿勢のまま寝ていたようだ。
腰が痛いし、喉が渇く。
「やぁ。お疲れのようだね。証吾」
もう一度目を擦る。
夢であればいいのに、と願いながら。
「夢じゃないよ」
案の定、目が赤くなるほどに擦っても目の前の男は消えなかった。
「……不法侵入、二度目ですよ」
本格的に事務所に鍵を付けねばなるまい。
「今日は証吾の分も紅茶持って来たんだ。アールグレイだよ」
白いハット、白いジャケット、黒いシャツ、手袋。
古い洋画の登場人物のようなファッションセンスである。
「何の用ですか」
邪険な態度を隠しもせずに速水は目を細める。
寝起きが重なってより目つきは鋭くなる。
「無事に依頼を遂行したようだから。お祝いに」
神奈は長い脚を組んで、偽物の笑みを浮かべる。
ズボンまで輝くような純白だ。
「子供じゃあるまいし」
「弟子がちゃんと依頼をこなしたんだ。祝って悪い?」
「いつまで半人前扱いなんですか」
「証吾なんて半人前ですらないよ」
神奈は吐き捨てるように言うと、紅茶を一口飲む。
「……神奈さん、知ってたんですか」
「なにが?」
「前に来たとき、樋浦加奈子の事件の全容を知っていたのかって訊いてるんです」
少しむきになっている自分が意外だった。
珍しく、感情をむき出しにしている。
「さぁ。でもまぁ、予想していたパターンの一つではあったよ」
悪びれる様子もなく、淡々と答える。
つまりは降旗の件も、雪塚の件も、怜香の件も、ある程度の調べは付いていたということか。
そうじゃなければポスターを速水に託したりはしないだろう。
「なら、どうして……」
「どうしてあの時に教えてくれなかったんですか、と言いたいわけ?」
神奈は速水の台詞を横取りする。
「証吾、お前は探偵だろう?」
薄い色素の目は外国人を彷彿とさせる。
速水の真似をするように目を細めると、威圧が速水を襲う。
「探偵というのは依頼に応える仕事だ。依頼しに来た人間に対して、それと同じだけの熱量で応えるのが探偵の仕事なんだよ」
やけに神妙な面持ちで、声を少し低くする。
「でも、その依頼を受けるか否かを判断するのは探偵の自由だ。自分の手に余る依頼であると判断したならば無理に受諾せずに他の手に委ねることも賢明な判断だと俺は思う。でもな、一度受けた依頼に対して誠意を欠いた労働を行うのはルール違反なんだよ。……確かに、お前が言う通りこの前ここに来た時点で俺は風見怜香が犯人だとある程度睨んではいた。しかしな、だからといって俺が
無感情な読み上げだが、速水は思わず内唇を噛んだ。
「まぁ、今回の依頼人はお前の友達だし、お前が人混みやら調査やらを苦手に感じていることも知っている。嘘が視えるお前にとって、人の
速水が一人の時ならば、ならば探偵と辞めると啖呵を切っていたかもしれない。
それをしないのは、自分に真摯に向き合ってくれる人物がいるからだ。
真尋の姿を頭に思い描きながら、速水は少し俯く。
「その忠言をしに、わざわざ?」
「元探偵の戯言だよ。まぁ……俺も偉そうなことを言って、結局のところヒントを与えてしまったから、人のことを言えた義理では無いんだが」
神奈は窓の外に広がる新宿の景色に、目を移す。
「とりあえず飲みなよ。せっかくの紅茶が冷めてしまう」
アールグレイ特有の柑橘系の香りが鼻腔を刺激する。
白銀のカップを手に取って、口元へその香りの元を流し込んでいく。
匂いの粒子が体内に拡散される多幸感。
絶対に高い紅茶だ。
「……雨か」
神奈がぼそりと呟くのに誘われて、速水も窓の外に視線を飛ばす。
先程まで晴れ渡っていた空は雲に覆われ、涙を流すような雨粒が街を覆う。
雨に追われるように、人々は誰かの元へ帰るのか。
ふと、思い返している。
降旗と怜香、雪塚と加奈子、そして怜香と加奈子。
誰かが、誰かを思っていただけだというのに。
投げられたコインの裏表のような愛憎。
以前の速水であれば、つまらないと一蹴しているところだ。
しかし、なぜか今はそうは思えなかった。
新たな感情が自分の中に芽生えているのか。
それは成長か、退化か、それすらも判然としない。
雨脚は勢いを増し、窓を強く叩く。
生きている限り、人は生きていることに縛られ続けなければいけない。
自由を手にしても、それは自由に縛られるということになる。
人間が人間である限り、身体は不自由で、心は不完全だ。
死ぬことより、生き続けることの方がずっと辛い――。
一言、自分が言った言葉を反芻する。
速水の手の平に、一粒雨垂れが落ちて行った。
透視探偵 まっちゃ大福 @daifuku9923
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