第7話 錯綜する罪人

 急がなくてはいけない、と思った。

時間は何時だって、その上で生きている人間に無関心で無慈悲だ。

それだけはどの時代でも、どの世界でも変わらない。

焦りが体内に流れる血液量を増加させる。

棚に押し込められていた制服を掴んで、その身に纏う。

昨日学校から帰ったあとに放り出したままだった。

制服についている皺など、気にもならなかった。

今必要なのは、制服を着ているという事実だけで良い。

片道分の電車賃をポケットに突っ込んで、部屋を出る。

雪塚には今日、行ってくるように、と言っておいた。

今頃はそれをしているだろう。

雪塚にはそれをしたあとに学校に戻ってくるように言ってある。

確認をするためだったが、なんだかそれももうどうでも良くなった。

そうだ。

どうでもいい。

どいつもこいつも、もうどうでもいい。

お前らに、加奈子の美しさなんて、分からないくせに。

無作法に足音を立てて階段を下りると、母親が顔を出してきた。

「今日も学校に行くの?」

制服を着ていたから、そう思ったのか。

「どこに行くの」

いちいちうるさい女だ。

黒板を爪で擦った時のような音に似ている。

不快だ。不愉快だ。黙れ。

「もう春休みなんでしょう、だったら制服なんて着なくても……」

泳ぎ続けなければ呼吸を維持できないマグロのように、喋り続ける。

「加奈子が、待ってるのよ」

一言言い残すと、オズの魔法使いのように靴先で床を叩いて、駆けて行く。

母親は何かを言っていたが、ドアが閉まるのと同時にその声は遮断された。



 その日は珍しく朝早くに起きた。

早い、と言っても速水基準であるため、さほど早くは無いのだが。

早起きは三文の徳、とばかりに真尋を迎えに行った。

真尋は突然の迎えに少し驚いた様子だったが、特別質しはしなかった。

喫茶店から事務所へつながる階段は薄暗く、埃にまみれている。

「掃除しなくちゃね……」

真尋が呟いた。

事務所のドアノブを捻ると、断末魔のような音が響いた。

建て付けが悪いのだ。

「やぁ、速水。遅かったな」

ソファに腰かけた朝房が暢気にこちらを見る。

どいつもこいつも。

「完全に不法侵入なんだが」

手櫛てぐし蓬髪ほうはつかしながら、速水が睨み付ける。

神奈といい朝房コイツといい、物騒な世の中だ。

「鍵が付いていないドアが悪いんだ」

「商品があったから万引きした、ってのと同じ理屈だ」

朝房の奥には、もう一人別の人間が座っていた。

それを認めると、苦言を抑えて速水はその向かいに座る。

「あぁ……えっと、ですね」

その人影―雪塚―は重たそうに顔を上げた。

「どうかされましたか」

学校に行った時以来か。

朝房はあの後も何度か学校に足を運んでいたらしい。

雪塚は脂汗を張り付けながら、視線を空に飛ばしている。

普通の心理状態じゃない。

「昨日、新宿署に証言提供の連絡があってな。だったらってことでここに」

いつからここは取り調べ室になったのか。

「お前には訊いてない」

真尋が隣に座ったのを確認すると、もう一度朝房を睨んだ。

「で……なんでしたっけ、証言提供?」

「樋浦の、事件のことで……」

恐縮そうに樋浦加奈子の名前を絞り出す雪塚。

誰がどう見ても尋常じゃない。

「樋浦が、降旗先生から暴力を受けていた、と……いうことを、思い出しまして、それで……何かのお役に立てれば、と」

黒い靄だ。

しかし、そんなものを視なくても嘘であることは誰にでもわかった。

「そんな重大なことを、なぜ以前話されなかったのですか」

黒い靄が不快なので、少し速水は嗜虐いじめることにした。

性格が悪い、と自分でも思う。

朝房は速水の表情の変化で雪塚の証言の真偽を確かめているようで、その視線が鬱陶うっとうしかった。

「あの時は……その、忘れてしまっていて……。でも、本当なんです。信じて下さい」

「なぜそんなに焦っているんです?」

「それは……」

シャツの腕を額に寄せて、垂れそうになる汗を拭う。

雪塚は言葉を選ぼうと答えに窮していたが、それは答えているのと同義だった。

「じゃあ、単刀直入に訊きます」

速水も、人を翻弄するような言葉遊びは好きじゃない。

「誰から、そう言えと言われてここに来たんですか?」

「え……」

予想外、と顔に書いてあるような、不自然な挙動が現れる。

「私は、私は……自分の意志で、ここに……」

「嘘は通用しませんよ」

ハッタリではないが、今はその真偽はどうでもいい。

会話の主導権を取って、相手の喉元を締めあげるだけで良い。

こういうやり取りは好きではないが、仕方がない。

実際、首を絞められたように雪塚は苦し気な表情を見せた。

「わ、私は樋浦を殺してなんていない……本当です、本当に」

黒い靄は見えない。

「知っています」

そもそも殺人については、誰も雪塚など疑っていない。

ただ、偽証を行えば容疑をかけられるのでは、と危惧したのだろう。

「じゃ、じゃあ……犯人を、知って」

「その証言を強要した人間です」

「…………」

呆気にとられたような表情で、雪塚が肩を撫でおろす。

張られていた緊張の糸が断ち切られたような、間抜けな表情で。

「証言を強要されたことを認めますか?」

「ごめんなさい……わ、悪気はないんです。ただ……その」

「本来であれば偽証罪になるのでしょうが、これは公式の捜査じゃありませんから。大丈夫ですよ」

そう言って朝房の方へ視線を移す。

法学は専門外だ。

「故意ならともかく、今回は脅迫の上での偽証強要ですから」

茶を啜りながら、朝房が無感情に答える。

「はぁ……」

雪塚は安心感を身体全体で表現するように、背もたれに体重を乗せる。

「まぁ、偽証罪や殺人罪では適用出来ませんけど、それ以外なら、ね」

含蓄のある物言いで、速水が雪塚を見遣る。

「どういう、意味です」

本当に物事を隠すのが下手な人間だ。

鉄面皮の速水も多少は見習わねばなるまい。

「貴方に脅迫をした人間は、何かをネタにして脅迫したんじゃないですか? じゃなければ貴方もこんなリスキーなことはしないはずです」

何か弱みを握られて、それを理由に強請られたに違いない。

つまり、脅迫者と雪塚の弱みには何かしらの因果関係があるはずだ。

端的に言うなれば、脅迫者を知ることが速水の仮説を確信にもたらす決定打と成り得るのだ。

「……私は、加奈子を殺してない」

「知ってます」

話が進まない。

「その秘密ネタは、樋浦加奈子に関することですよね」

「それは……」

どうしても言う気がないようなので、とっとと答えを出してやることにした。

あまり時間が無いのだ。

速水の予想通りならば。

「偽証罪や殺人罪にはなりませんが、窃盗罪にはなりますよね」

「あ……」

鮭のように口を開いて、こちらを見る雪塚。

「なんで……それを……」

その唖然とした表情は、もはや自白と言っても差し支えないものだった。

「樋浦加奈子の私物盗難騒動の犯人は、貴方ですよね」

「何の、根拠があって」

まだ食い下がるのか。

「自宅を家宅捜索すれば、樋浦加奈子のDNAが残ったものが見つかると思いますよ」

たとえば水筒とか、と付け足して雪塚の息の根を止める。

「どう、どうして……。いつから」

「最初、学校で話を訊いた時、貴方は樋浦加奈子を下の名前で呼び捨てにしましたよね。まぁ、すぐに気付いて直していましたが。風見怜香のことは澱みなく風見、と呼んでいたところを見るに他の生徒のことも苗字で呼んでいるんでしょう。ですが樋浦加奈子のことは加奈子、と呼んでいた。さっきもそう呼んでいましたしね。……つまり、貴方は樋浦加奈子を下の名前で呼ぶ習慣があった。更に言うならば、他の生徒に比べて樋浦加奈子に対して特別な情を持っていたから、そう呼びたかった。その願望の発露、ですかね」

「そんなことだけで……」

「いや、その違和感に気付いたのは後からです。その場では何とも思っていませんでした。多少違和感はありましたが」

真尋は速水と雪塚を交互に見つめながら、話を聞いている。

「あまり死亡事故と関係なさそうだったので真剣には考えてなかったんですが、樋浦加奈子の私物盗難の話を聴いた時、自分は樋浦加奈子を虐めていた女子生徒か、劣情を抱いている男子生徒かと適当に思っていたんですよ。でも、もし虐めが行われていたならばいつも傍にいた風見怜香が気付かない筈がないですし、それを我々に黙っている理由も思い付かない。そうだとすると男子生徒の可能性ですが、これは有り得ません。だって松陵は女子高ですから。そう思って思考停止していたんですが、貴方が今日偽証をしに来たことでやっと分かりました」

一度息を継ぐ。

「確かに松陵に男子生徒はいませんが、男性がいない訳じゃない。貴方も降旗先生も、つまりは教師や事務員には普通に男性がいるんですよ。そう考えると、貴方が一番樋浦加奈子の私物を盗むのに向いているんですよね。貴方は教師ですから、他の生徒が授業中の時に校内をうろついていても怪しまれない上に、樋浦加奈子の教室に居てもなんら違和感がない。だってその教室の担任は貴方なんですから。更に言えば、加奈子の私物を持っているところを誰かに見られても、忘れ物を一時的に預かっているだけ、と言えば誤魔化ごまかしが利きますしね」

「でも、証拠は……」

まだ足掻くのか。

「証拠なんて調べればいくらでも出ますよ。加奈子から物を奪うことが目的ならばその物品を即座に処分して証拠隠滅するでしょうが、貴方は違う。加奈子の私物を奪ってすることが目的なんですから。貴方の周辺にまだ樋浦加奈子の私物が残っていると見て間違いないでしょう。まぁ、何に使ったのかはこの際訊きませんが」

気分が悪い話だし、真尋の前であまりこういう話はしたくない。

「でも、それはこの際後で良い。今はそれよりも急ぐことが」

「急ぐ、こと?」

「加奈子殺害の犯人は貴方に偽証をさせた人物だって、言ったでしょう。その人物は誰なんです?」

「か……風見、怜香」

譫言のように、一言。

「いや、でも、なんで……彼女がそんなことを」

「そんなことは今はどうでも良い。ところで、風見怜香の場所は分かりますか」

速水が矢継ぎ早に質問を重ねる。

時計の針が午後二時を過ぎた。

太陽は少しずつ西へと去っていく。

「風見……は、恐らく学校です。その、ちゃんと証言してきたか確認するから、と……」

「…………」

速水はこめかみに手を当てて、十秒程思考する。

「朝房、今日は車か」

「そうだが」

「もういないとは思うが、とりあえず風見怜香の自宅に連絡して、その後雪塚先生と一緒に車で松陵まで来い。俺と真尋は電車で松陵に行く」

雪塚を連れて行く理由はないが、ここに置いておくわけにもいかない。

本来なら車に乗りたいところだが、朝房ではむしろロスしてしまう。

電車で向かった方が恐らく早い。

こういう時に限って、来宮は同伴していないのか。

「りょうかーい」

間の抜けた朝房の返事をすり抜けて、速水は真尋と共に駆け足で事務所を出た。

事務所の中に残されたのは、携帯を操る朝房と、震える雪塚。

「逃げようだなんて、思わないでくださいね」

雪塚の方を一瞥すらせず、携帯をいじくる朝房。

「怪我、したくないでしょう」

その抑揚のない恫喝は、まるで昨日の風見怜香を彷彿とさせた。



 速水の事務所がある新宿職安通りは、新宿駅東口を出て歌舞伎町を抜けた先にある。

そのため、実は新宿の隣駅である新大久保駅の方が距離的に近い。

速水は器用に路地を進みながら、駅へと向かっている。

駅に近付くほど高くなる人口密度。

そのどれもが、速水の表情を険しく曇らせた。

人の波を擦りぬけながらなんとか改札を抜けると、ホームへ至る階段を昇る。

山手線品川方面行きの列車を待っていると、真尋が呟く。

「気分、大丈夫なの?」

「ぼちぼち」

生まれて初めてこの言葉を使った。

多分今後一生使わない。

速水と真尋は開いた電車に乗り込み、なんとか二人で座ることが出来た。

「速水、犯人が誰か分かってたんでしょ」

「真尋だって、昨日風見怜香が突き落としたんじゃないかって言ったじゃないか」

敬虔な信者、親愛の徒、純粋な関係。

「そうだけど、速水が考えてることとは違うと思う。考えている犯人は同じでも、その証明方法……速水で言うところの、プロセス? が違うんだろうなって」

列車は新宿駅に到着する。

雪崩れるようにして車内に飛び込む人の群れ。

次にこれがあるのは、渋谷駅だ。

「まぁ……それは、事が終わったらいくらでも教えるさ」

「何かが起こるの?」

起こってはない、はず。でも早くしないと……」

人が増えてきたことを受けて、声を一層に潜めた。

「人が、死ぬことになる」

速水は、それだけを残すとパーカーのポケットに手を突っ込んで、目を閉じてしまった。



 車内に朝房が乗り込んだのは速水が出てすぐのことである。

雪塚は助手席に座り、集中ドアロックで施錠する。

一応、念の為だ。

「もしもし」

携帯を耳に付けながら、朝房が快活に話す。

『はい、風見ですけれども……』

「新宿署の朝房です。今日は怜香さん、いらっしゃいますでしょうか」

『それが、先程学校に……』

「分かりました。では日を改めます。よろしくお伝えください」

朝房は由紀子の返答を聞くまでも無く、すぐに応答を終了した。

ここまでは速水の予想通りか。

エンジンを点けながら、目的地を入力する。

雪塚もそれに合わせて自らシートベルトを締めた。

「あの、私はどう……」

「とりあえずその件は置いときます。今はそれより……」

それより、なんだというのだ。

松陵に向かうようにとは言われたが、その理由は謎だ。

とりあえず、今の朝房に出来ることはそこへ向かうことしかない。

電車で向かう速水達を追走するようにして、アクセルを踏んだ。





 階下に広がる景色は、照明が灯されていない。

校内には容易く入ることが出来た。

いくらなんでもセキュリティが甘いのではないかと思う。

事実、怜香はまだ校舎内に入ってから誰にも会っていない。

誰もいない、廊下。

誰もいない、階段。

誰もいない、教室。

廊下に靴音が染みる。

三階の踊り場に至ると、怜香は小さく息を吸った。

樋浦加奈子の姿を、目の前に幻想する。

先に逝った、あの子の姿。

私を卑怯者、と嘲笑するだろうか。

私を裏切者、と罵倒するだろうか。

思い出しただけで、目の奥が熱を持ち始め、身体は小刻みに震える。

階下に広がる加奈子のしかばねを思い出す。

回り続ける車椅子の車輪、横たわり赤い海に沈むあの人。

赤、赤、赤、赤、赤、赤、赤。

邪悪な毒海が階下に広がる。

「加奈子……」

凄惨な面影は姿を消し、そこにいるのは怜香だけ。

誰もいない、世界。

加奈子は、言っていた。

「身体って、不自由」

「魂は、身体という器に縛られている」

「逃げ出すことは、許されない」

「人は自由を手にした瞬間、自由に縛られてしまうから」

だから。

「ねぇ、怜香……」

こうすることを選んだのだ。

階下の景色が眩む。

歪んで、陽炎かげろうのように揺蕩たゆたう。

加奈子、加奈子、加奈子。

両目から熱い雫が頬に伝うのを感じて、きざはしふちに両足を載せる。

あとは、少しの勇気だけ。

加奈子が先に見せてくれたように、重力に身を任せればいい。

じりじりと、踏み出す。

喉が渇く。

毛穴が開いて汗がにじむ。

体温が高くなる。

「加奈子」

最期に言う言葉は、その言葉だと決めていた。

もう何処にもいない誰かの名前を呼んで、訣別する。

崩落おちる瞬間は、スローモーションに思える。

両手を広げて、宇宙の法則に則って身を任せる。

落ちる。

落ちてしまう。

そう、思った時だ。

誰かが左腕を掴んで、重力の勢いが殺される。

鎖に繋ぎ留められたようにして、現実に引き戻される。

加奈子が止めたのだろうか、という下らない妄想はすぐに砕かれる。

左腕を掴んだ腕を辿って、顔を見る。

降旗冬嗣だった。



 「こんなところで、何をして……」

降旗は目を見開きながら、必死に怜香の自殺を食い止める。

腕を離してしまえば、また落ちていってしまいそうで。

「あぁああぁぁあああぁあぁあぁぁああああぁぁああぁ!!!!!」

鼓膜を破るかのような慟哭どうこくに、思わず降旗は手を離して耳を塞ぐ。

たじろぐように後退すると、怜香は目を向いて糾弾した。

「全部、全部、全部、お前のせいなんだよっ!!!」

この世の憎悪を集めたかのような異形の様相で、叫ぶ。

「お前が、お前が死ねば良かったんだよ、そもそもお前なんていなけりゃあこんなことにならなかったんだお前が死ねば良かったんだお前が最初からいなけりゃこんなことには」

頭を持ち上げるように抱えながら、口元から憎しみを垂涎すいえんする。

「やっと……やっと、私は」

既に焦点は、世界に合っていなかった。

加奈子が存在していた過去を見ている。

「待ってるのに……加奈子が、加奈子が」

「怜香……」

「その名前で呼ぶなっ!!! この変態野郎!!!」

払うように必死で手を振りながら、目の前にいる降旗を否定する。

お前が死ねば良かったのだ。

お前がいなければ、今も加奈子はそこにいたのだ。

お前は、お前は。

殺してやりたかった。

でも、何も持っていない。

「あああぁぁあぁぁぁああぁぁぁっぁぁぁぁあああ!!!!!!」

残っているのは、ただの叫喚だけだった。

「少し静かにしてくれ。耳に悪い」

そう耳元で呟いた声は、恐ろしいほどに冷淡だった。

怜香はその声の方へ、はたと振り向く。

男はポケットに手を入れながら、大層不愉快そうな目でこちらを視ていた。



 速水証吾は、目の前にいる二人の男女を険しい顔つきで視る。

「…………」

思いの外冷静に表情を変えた怜香は、速水の方を見ていた。

先程までの異形の姿はない。

名前が思い付かなかったのか、言葉を発さない。

「速水証吾だ。まぁ、今はそんなことはどうでも良いけど」

「何が、分かるっていうの……」

目の前の少女は健気そうに、瞳を潤ませる。

「残念だったな。死ねなくて」

今までにないほどの攻撃的な口調に、後ろにいた真尋が驚く。

「何が、分かるのよ……私と加奈子の、何が」

「親愛? 違うだろ。お前は利用しただけだ。自分のために」

全てを透視されたような表情で、怜香は速水を見る。

「加奈子が待ってるのよ。私は、加奈子の傍に行かないと……」

「自分で殺しておいて、何を今更言ってるんだ」

まるで別の人格が速水の身体を使っているような口調。

いつもの懈怠けたいな様子など一縷も見せない。

声を荒げることこそしないが、その言葉の一片は、人を壊すためのものだ。

「ずっと、この時のためだけに……」

階下を見下ろす怜香。

速水が刺激するので、また落ちてしまわないか真尋は心配だった。

降旗は茫然自失ぼうぜんじしつとした表情で、様子を見ている。

「もう、終わりだ」

「やっと、やっと願いが叶うのよ、なのに、どうして……」

邪魔をするの、という言葉は血が滲むほど噛んだ唇で閉じられた。

「貴方になんか、分からない。加奈子の……加奈子の……」

「君と樋浦加奈子の関係なんて分からないし興味も無いが、君が彼女を殺したという事実だけは確かだろう。そもそも、君だって樋浦加奈子のことを何でも知ってる訳じゃないだろうに」

だって、と速水は怜香の頭を掴んで階下に向けた。

「君は、樋浦加奈子じゃないんだから」

怜香が離して、と小さく呻くと降旗がやっと我に返ってこちらに寄って来た。

「彼女に触れるな、彼女は、僕の……」

「やっぱり、あの絵は貴方が描いたんですね」

美術室に置かれた、風見怜香をモチーフに書かれたあの絵。

執着が生み出したかのような、湿った精緻な絵。

怜香の頭から速水が手を離すと、力を失った人形のようにその場にへたり込んだ。

階下でむくろになったかつての友達を、夢見ているのか。

速水は凍り付いた瞳でそれを見下ろしながら、しゃがみ込む。

「良いことを教えてやる」

一言。

そこまでは聞き取れたが、その後の言葉は真尋には聞き取れなかった。

怜香は、その言葉を耳に入れると一気に目に生気を取り戻した。

今まで虚空を見ていた目が、潤んで涙を滴らせる。

紺色のスカートに落涙して、色を濃くする。

赤子に戻ったかのように大声で泣き喚くと、怜香は再び階下を見つめた。

朝房がその声に触発されるようにしてやって来たのは、それほど経たない頃だった。




 朝房の背後には雪塚が幽霊のように立っている。

「最悪の事態とやらは阻止出来たみたいだな」

泣きじゃくる怜香はお構いなしに速水に詰め寄る。

「そんなところだ」

一方の速水は、既に安堵と疲弊で力が抜けきってしまった。

怠惰そうに肩を竦める様子を見て、真尋が少し安心する。

「ちょっと、疲れちゃったみたい」

真尋が様態を通訳する。

「だろうな。まぁ、なんにせよお手柄だ。自殺されちゃあかなわんからな。あぁ、でも猿轡さるぐつわとか無くて大丈夫か?」

怜香が突然舌を噛み切ることを懸念しているのだろうか。

「それは必要ない」

「どうして?」

「切れたからだ」

「何がさ」

「糸、かな……」

朝房はふぅん、と興味の無さそうな声を上げて白旗を上げた。

「とりあえずお前がそう言うなら大丈夫か。じゃあ……」

「俺達はお払い箱ってことか」

「ま、そんなところだ。報酬はまた後日な。そのうち来宮が品川署の連中を伴って来る。鉢合わせたら何かと面倒だろう? なんせお前は一応一般市民なわけだし」

速水はその言葉に返答せず、真尋に行くぞ、と一足言って出口へ歩いて行った。

一般人が捜査介入していると知れれば面倒な聴取を受けるハメになる。

朝房がこの状況を後続の捜査員にどう説明するかは知ったことではない。

しかし、真尋にとっては朝房より速水のことの方が憂慮すべき事項だった。



 二人が松陵の荘厳に過ぎる門を出ると、車が数台駐車場に入って行った。

恐らく警察関係者だろうが、もはや速水には関係の無いことだ。

それらに目を向けることすらせず、速水達はその場を去って行った。

門に付けられた意味不明な獣のオブジェが、黄昏に染まって煌く。

「ねぇ、速水」

「なんだ?」

「本当は、どうして怜香さんの自殺が予期出来たのか、とか速水の言葉の意味とか色々と訊きたいことはあるんだけど」

微かな風が道を通って、二人の髪を揺らす。

春を感じさせる風が、心地よかった。

「今は良いわ。速水が話したくなったら話して。とにかく今はね……」

アスファルトに夕陽が落ちて、変な色へと変わっていく。

「お腹がすいたから、ご飯食べましょ」

「あのファミレスか?」

「あそこじゃなくて……詩織さんのところがいいな」

どうせオムライスを食べるのだろう、と思ったが言わないでおく。

「お前も好きだな」

「お店を選ぶ手間が無くて、楽でしょう?」

「それは……」

その言葉を聞いて、少し速水は笑ってしまった。

やはりそれは、紛れも無い正論だったからだ。






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