第6話 独白する衒妻

 痛いと思えるのは、生きているからである。

そう人々は口々に言うけれど、私も実際そう思う。

流れ落ちて行く赤い液体を見ているだけで、心の潮騒は収まる。

傷口から滲み出て行く体温は、安堵と痛みが綯い交ぜになっている。

すぐにティッシュを何枚も重ねて、手首を包み込む。

暖かさがティッシュ越しからも伝わって、私は一層に安心する。

生きている限り、みんな肉体に縋らなければいけない。

なんて、醜いのだろう。

神様が創った檻に閉じ込められた、私という自我、意識。

少しだけその檻から逃げ出す妄想を、流す赤い血で補う。

そろそろ、かもしれない。

完全に赤く染まったティッシュを丸めて、ゴミ箱に捨てる。

湿り気を帯びたそれは、水気の多い薔薇の花のようで。

私は肌寒さを抑えながら、それでもなお滴り落ちる赤を見続けていた。

ふと、野球選手のスウィングさながらに血塗れの腕を放る。

部屋に飾られた彼女の自画像に、赤の色取りが加わる。

加奈子。

加奈子は、もういないのに。

加奈子は、私を待ってるのに。

私はそう思って、頬を透明な雫で濡らした。

向かわねばならない場所がある。

少し、怖いけれど。

私は、棚に仕舞われた制服に出番を告げた。




 速水が朝房と真尋を伴って、樋浦家の門扉を叩いたのは午後二時を回った頃である。

速水がこの事件とまみえてから既に二週間が経とうとしている。

「しかし珍しいな。お前から出向きたがるなんて」

「それは……」

早くこの事件を片付けたいからだ、と続けそうになった言葉を呑み込む。

これではまるで自分の方が刑事のようだ。

早く事件を片付けて、安眠に辿り着きたい。

それが今の速水に考え得ることの全てだった。

「どうしたんだ、そんな険しい顔して……」

「速水、酔い止め飲んでおく?」

ひょっこりと横から顔を出した真尋が訊ねる。

学校の件以来、真尋は常日頃から酔い止めを持ち歩いているらしい。

「いや、いいよ」

実はもう飲んできた。

ここのところ少しずつ酔い止めの効き目が希薄になっている。

朝房の言う通り、耐性が付いたのかもしれない。

「じゃあ、行くか」

「あぁ……」


 樋浦家に関する簡単な情報は、ここに来る途中に車で聞かされていた。

樋浦家は父である孝弘たかひろ、母の果穂、そして娘の加奈子の核家族である。

妻の果穂は大手社長の令嬢で、大学卒業後の職歴はゼロ。

孝弘と二十九で結婚した後も専業主婦を勤続している。

孝弘の旧姓は塚原で、婿養子という形で樋浦家に参入、入籍している。

孝弘は果穂の父、加奈子の祖父が経営する大手企業の幹部で、経済的な面では潤沢に過ぎる程の資産があるらしい。

ちなみに現在孝弘は渉外の仕事で日本にはいないらしい。

加奈子が下半身不随になった要因は、先天的では無く後天的な要因である。

十年ほど前の、加奈子が小学校低学年の頃。

当時の加奈子には週末、母の果穂と共に自宅付近にある巨大な公園へピクニックがてら遊びに行く習慣があったという。

その公園は樋浦家へ至る道程で速水も車越しに見た。

まるでセントラル・パークのようだと漠然な印象を受けた。

緑に周囲を覆われ、中央に噴水が鎮座し、老若男女の人々が溢れている。

朝房によれば、公園にはアスレチックスペースと人工芝の張られたピクニックスペースが隣接しているらしい。

事故が起こったのも、その辺りだという。

樋浦家のパーソナルデータを見たあとに、朝房はもう一つの書類を速水に手渡した。

それは酩酊状態での運転、つまりは飲酒運転の調書であった。

運転手は近所の商社に勤めるサラリーマン。

前日の夜から朝まで酒を煽り、酔いを醒ますために風を浴びようとして運転した結果に招いた事故だった、と調書には記されていた。

事件後のアルコール検査では規定値以上のアルコールが呼気から検出され、運転手は酒気帯び運転と判断され、被害者に賠償金及び慰謝料を払うこととなった。

その被害者の一人が樋浦加奈子だった。

自らが所有するスポーツカーを運転して自宅まで帰ろうとした途中に酩酊状態により意識が混濁、公園に突っ込む形で車を走らせ、その時に丁度アスレチックで遊んでいた加奈子を含めた四名の保護者や子供に激突。

幸い死者は出なかったものの、四名はそれぞれに怪我を負う結果となった。

その内加奈子は最も酷い怪我を伴い、暴走車のタイヤが両足に圧しかかる形になったため、傷は癒えても永遠に足を自らの力で動かすことが出来なくなった。

ちなみに果穂はその時にピクニックスペースで加奈子を見ていたため、怪我は負っていない。

それが、加奈子が車椅子生活を余儀なくされた簡単な経緯である。

救いのない話である。

その事故だけでも十分に悲壮だというのに、少女はもうこの世にはいない。

速水は、またあの卒業写真の切り抜きの顔を思い出していた。



 三人を迎えた女性、樋浦果歩は娘に似て美人だった。

正しくは加奈子が果穂に似て美人、なのか。

両目に影を落とすくまが、憔悴しょうすいしていることを物語っている。

しかしそれすら独特な化粧と思うくらいに、美人だった。

美人というのは何をしても美人ということか。

「どうぞ……大したものではございませんけど」

速水からすればこの家の外観が大したものなのだが、その自覚はないらしい。

速水ら三名は果穂の後に続いて靴を脱いで用意されたスリッパを履く。

家の中は整然としていた。

整頓されているというより、物が単純に少ないのだろう。

通された居間は、人間が住むには少し面積が大き過ぎた。

常識的には居間なのだが、この場所を表す適切な日本語を速水は知らない。

「あぁ……そこに、お座りください」

必死に上品さを取り繕う果穂が、少し痛々しく思えた。

「紅茶で、よろしいでしょうか」

「あぁ。お構いなく」

速水達は居間の端に置かれた長机に座る。

ピアノ椅子のように重たい椅子を引いて座ると、壁に掛けられた絵が見えた。

「これは、加奈子さんの絵ですか?」

朝房が口を開く。

デリカシーが無いと思ったが、速水も訊きたかったので丁度良い。

「えぇ。加奈子は恥ずかしがってましたけれど、私は加奈子の絵が好きだったので……」

紅茶を注ぎながら、カウンター越しに果穂が恐縮そうに語る。

飾られている絵は、どれも怜香が言っていたように抽象画だった。

寒色と暖色が混ざった、いびつと言えば歪な絵だった。

そもそも抽象画の意図するところなど、描き手しか知るよしが無い。

評価は後付けの勝手な解釈で、意図している真意とは程遠い。

そう言った意味では、事件と絵画は似ているのかもしれない。

あらゆるものの真意は、それを起こした当事者にしか与えられない。

傍から見ている傍観者は、勝手な倫理観と価値観で評価するだけ。

それが、人間のきわだ。

「あの、電話で聞いたのですけれど、加奈子の件が自殺じゃないかもしれない……というのは、どういうことでしょう」

「そのままの意味です。今更であることは重々承知しておりますが、加奈子さんの事件について、他者が介入したと思しき物証が出てきまして。それで再捜査を実行することとなった次第です」

「物証、というと?」

朝房がそれを聞いて一考する。

物証など本当はない。

諸悪の根源は目の前にいるこの朝房おとこだ。

速水は横目で朝房を一瞥しながら、溜息を一つ吐く。

「物証、というより新たな見地という意味合いです。加奈子さんの車椅子。あれは介助式の車椅子でしょう?」

仕方がないので助け舟を出すことにした。

ここで怪しまれてしまっては元の木阿弥だ。

「えぇ……加奈子は元々身体が弱くて。自走式のものを使っても疲れてしまいますから、ならば介助式でもいいかと……」

「それが、事故ではなく事件ではないか、という新たな見地です」

「つまり?」

「自走式であれば乗っている本人が一人で動けますから、自殺ということも有り得るでしょう。ですが介助式となれば話は別です。介助式は乗っている本人が自由に動かすことが出来ないでしょう。つまり加奈子さん自身が自殺を考えても誰かがいつでも監視している状態になるので自殺は物理的に出来なくなるんです。たとえ押している人間の好きを見て階段から落ちるにしても、加奈子さんは車椅子から降りて、自分だけで落ちるはずなんです」

「えぇ……っと、すいません。簡単に言っていただけると……」

「事件現場の踊り場には、加奈子さんの横に車椅子も転がっていた。つまり車椅子ごと落とされたということです。つまり結論から言うと、加奈子さんは車椅子ごと誰かに落とされた可能性が高い、ということです」

「あぁ……」

果穂は、感嘆とも悲壮とも取れない声を漏らした。

自殺にせよ他殺にせよ、死んだ加奈子が生き返るわけではない。

今更その理由を明かして見せて、誰が救われるのだろうか。

速水は、俯いて考え込んでしまった。

「お手洗いを借りても?」

本当は尿意など少しも無かったが、少し考える時間が欲しかった。

「えぇ……廊下を出てすぐ右になります」

「どうも」

会話の主導権を握っていた速水が部屋を出たことで、沈黙が包む。

「あの、私から質問しても良いですか」

真尋が耐えかねて口を出した。

「えぇ。どうぞ」

「加奈子さんは、どういった子供だったんでしょう。中学校の時とか……たとえば、何が好きだったとか」

「そうですね……。さっきも言ったように加奈子は身体が弱い子でした。具体的に言うと、免疫が他の子よりも弱い子だったのです。だから風邪も重症化しやすくって、本当は夫からもやめるように言われていたのですけれど、少しでも身体を強くしようと、公園に一緒に遊びに行くようになって……」

それが、毎週末に公園へ繰り出していた理由だった。

「でも、あんな……」

「それは、お母さんのせいではないでしょう」

「えぇ、夫も……最初はそう言ってくれました。命を落とさなかっただけでも幸いだった、と。でも、私どうしても自分を許せなくて……夫も、それから家を空けることが多くなって……一人になるたび、私はいつも自分を責めては泣いて、苦しんで……一番辛かったのはあの子なのに、私、いつも一人で悩んで……。本当は加奈子を支えてやるべきだったのに、私は、むしろあの子に気を遣わせてしまって……。本当はあの子が一番、泣きたい筈なのに……あの子はいつも泣いている私を励ましてくれて……本当に、私は」

ダメな母親です。

唇を震わしながら、呟くように言葉を吐いた。

朝房も真尋も、ひいては速水も人の親では無い。

果穂の気持ちは、察することは出来ても本当の意味で理解できているかは怪しい。

言葉をかける代わりに、机の隅に置かれたティッシュの箱を真尋が差し出す。

ありがとうございます、と礼を言うと、二枚ほど取って目元にあてる。

「加奈子さん、絵を描くのが好きだったんですか?」

「えぇ、旦那は近頃はほとんど家に帰ってきませんし、私は加奈子が事故に遭ってからは暫く放心状態で……そうでなくても一人っ子でしたから、絵をよく描いてはいましたね……」

もしかすると、辛さや鬱憤の発露の行き先だったのかもしれない。

「絵を描くような仕事に就きたい、とかは言ってましたか?」

「私は……加奈子の絵が好きでしたから、絵を生業にすれば良いとは言っていましたけど……当の加奈子はそういった世界は難しいから、と言ってましたね。あくまで趣味のようなものだったのではないかと」

「なるほど」

真尋は訊きたいことが訊けて満足、と言った表情で朝房を見る。

「速水、遅いな……」

「紅茶のおかわりはいかがですか?」

気まずさを感じた果穂が、席を立つ。

「じゃあ、お願いします」

朝房は果穂にカップを委ねながら、営業スマイルで口角を上げた。



 床の大理石が冷たいトイレは、広さゆえの圧迫感を客人に与えた。

便器一つが入れば十分なはずのスペースに、余分な空間が与えられている。

催したわけではなく、一人で考えられる空間が欲しかった。

トイレの前には洗面台があり、頭上にシャンデリアを模した電灯がぶら下がっている。

コップが三つ置かれ、横にあるペン立てのような陶器に歯ブラシが同じ数だけ刺さっている。

樋浦家は核家族、ということは一人一つずつということか。

しかし使用感があるのはいずれも一つのみで、残りの二つには埃が乗っていた。

一つは加奈子、そして恐らくはもう一つは帰らない孝弘のものか。

並べられた三つのコップが、家庭を表現しているようで、大理石の床から冷えた感覚が身に這い上がってきた。



 すまん、と言いながら速水が戻ったのは席を立って十数分後のこと。

真尋も朝房も質問を出し尽くしたようで、部屋に静寂が漂う。

「速水、質問は?」

「そうだな……」

トイレに行った時に考えておくべきだったか。

「風見怜香さんのことは、ご存知ですか?」

「えぇ。加奈子のことを気にかけて下さって……加奈子もいつも彼女のことをよく話してましたから……」

「いつも自分に良くしてくれると。でも、自分はそれに何も返せないから申し訳ないって……そんなことを言っていましたか」

「そう……」

速水は、言葉を続けようとして思わず詰まってしまった。

加奈子の中身が、透いて視えたからだ。

やけに寒い居間だと思うほどに、速水の肌は粟立っていた。

「そろそろ、出るか?」

本当に、こういう時のタイミングに関しては一家言持ちだ。

速水は小さく頷くと、注がれた紅茶を飲み干した。

微温湯になって、沈殿した茶葉の後味が絶妙に悪かった。

「ありがとうございました。我々はそろそろ失礼いたします。お時間を取らせました」

「いいえ……」

果穂は三人が去るのを名残惜しそうにしながらも、玄関まで見送った。

「また、何かありましたら遠慮なくいらしてください……」

その霞がかった声は、まるでどこかに消えていきそうだった。



雪塚正史は、ボストンバッグを抱いたまま職員用トイレを出た。

校内に職員用トイレはここしかない。

春季休業中のため人はいないが、それでもやはり不安だった。

誰かが、見ていそうな気がして。

誰かが指差して嘲笑っているようで。

挙動不審に周囲を見渡すと、背後から女の声がした。

「先生」

一言。

その声に反射的に身体がびくつく。

情けないことこの上無いのだが、雪塚は声のした方向へ振り向く。

「風見……」

風見怜香だった。

制服を纏って、そこに立っている。

「どうしたんだ?」

恐らく今年に入って初めて顔を見たかもしれない。

プリント類は以前風見家に直接郵送したため、怜香がここにいる理由が思いつかなかった。

「先生に、お話があって」

抑揚のない言葉が、一層雪塚に不信感を与える。

「あぁ……じゃあ、少し待ってくれないか、今用意を」

ボストンバッグを、職員室に置いていきたかった。

これを持っていくのは、少し、いやだ。

「すぐ済みます。今すぐでは駄目ですか?」

目の前にいる生徒は、変に威圧を持って言葉を為す。

「じゃあ……」

拒むような上手い言い訳を、思い付けなかった。

「こんなところで話すのもなんだから……教室に行こう」

渋い顔をしながら、なんとか抵抗した雪塚の一言だった。


 誰もいない教室は、なんだか異様だ。

普段人が溢れているからか、それを失った部屋は不思議な圧迫感がある。

部屋は既にオレンジ色の夕暮れが覆っていた。

雪塚が蛍光灯のスイッチを押すと、怜香はカーテンを閉めて黄昏たそがれを封じた。

「で、話っていうのはなんなんだい?」

足元にバッグを置いて、生徒用の椅子に腰かける。

大柄な雪塚にとって、生徒用の椅子は酷くミスマッチだ。

「……私、知っているんです」

「知っているって、何を?」

「先生の秘密」

時空が歪んだように、スローモーションに見えた。

単純なその五文字は、雪塚を圧殺するだけの効力があった。

先生の秘密。

「秘密って、なに?」

汗が出る。

「とぼけないでください」

「とぼけるも何も、秘密っていうのは一体……」

緊張を隠さないといけない。

隠すために早口になることが、無意識に必死さを物語っていた。

いたちごっこだ。

汗が額から頬に伝う。

先生の秘密。

「そのバッグの中身を知ってる、っていう意味です」

「何言ってるんだ。この中は教材しか……」

ボストンバッグを開けるフリをして、平静を装う。

というより、怜香の顔を直視できなかったために顔を伏せただけだ。

暑い。

まだ三月だというのに、こんなに暑いのか。

怜香はそんな必死になっている中年を、嘲笑するように見下す。

何も言わなかった。

それが、真綿で首を絞めるような束縛に変わる。

苦しい。

「……なんで、知ってるんだ」

結局、根負けして言葉を発したのは雪塚だった。

「それは認めたってことですか?」

「待て、それは誰かに話して」

「話してません。話してたら、交渉材料にならないじゃないですか」

淡々と話す目の前の生徒が、怪物に見えた。

「交渉って……どういう……いや、その前に……なんで恫喝こんなことを……」

雪塚が言えた義理では無いが、怜香が脅迫する理由が分からなかった。

風見に恨まれたり妬まれたりするようなことは、していない筈だ。

そもそも担任ではあるが、雪塚と怜香に接点はさほどないのだ。

「加奈子のためです」

「加奈子……」

パブロフの犬のように、雪塚はその名前を繰り返す。

「加奈子の事件と、何か関係が」

「その名前を呼ぶなっ!!!!!」

突然響いたつんざくくような轟音は、雪塚を萎縮いしゅくさせるに十分すぎた。

今までに見たことが無いほど痛烈な表情と声で、慟哭さけぶ怜香。

「……あ、えっと……その、事件、と……関係があるの、かな」

傍目から見ればこれほど滑稽な光景もないだろう。

少女に脅かされて、まんまと冷や汗をかいて恐怖する中年男。

しかし、そんな外聞は耳に入らない程、雪塚は戦慄していた。

「そう……加奈子の事件の真犯人を捕まえるのに必要なことなんです」

「真犯人?」

まさか、その真犯人が自分だと言うのではなかろうか、と雪塚は不安になる。

「大丈夫です。先生が犯人だって証言するわけじゃありませんから」

「えっと……君は、その真犯人を知っている、のか?」

最早名前を呼ぶことすら恐ろしい、という体たらくだ。

「知っています。でも真犯人を逮捕するには先生の証言必要なんです。だから……」

風見は両腕で頬杖をついて、中心に顔を載せると一言呟いた。

「私の言うこと、聞いてくれますよね。先生」




 「やっぱり、おかしいわ」

うぅ、と唸りながら車の中で真尋が頭を抱えていた。

速水は無免許のため、不本意ながら朝房に運転を任せている。

速水と真尋は並んで後部座席に座っていた。

「なにがだい?」

朝房がバックミラー越しに相槌を打つ。

「その……」

真尋の次の言葉を待つ朝房。

それよりちゃんと前を見て運転しろ、と速水は目で訴える。

「誰も加奈子さんを殺していないみたい」

「そうだな……」

先に言葉を発したのは速水だった。

「何がそうだな、なんだ」

「雪塚、降旗、風見親子、樋浦果穂……誰の話を聞いても加奈子が死ぬに値するような理由がない。なんというか……加奈子が死んで得をするような人間がいない」

「加奈子の保険金って線は?」

朝房がこちらを見ずに口走る。

「そのために殺人を犯すほど、経済状況は逼迫ひっぱくしてないように見えたが」

あの無駄に広い居間、トイレ、廊下。

ましてや果穂は社長令嬢なのだから、金には苦労していなさそうだ。

そもそも金銭的な問題があるのならば、先の警察の捜査で明るみに出ているはずである。

樋浦家の資産を考えれば、保険金殺人は見返りが少なすぎる。

風見由紀子は加奈子に悪印象を持っていたとはいえ、その加奈子に自分の娘が心酔していることも同時に理解していた。

わざわざ殺して娘に心の傷を負わせるようなことをするとは考えにくい。

降旗は加奈子に性的暴力を働いていたようだが、果穂の様子を鑑みるに加奈子は誰にもその事実を口外していない。

秘密を漏らしそうになったから殺害した、というのは速水も最初考えた推察だが、性的暴力の事実は降旗のみならず加奈子にも影響を与える。

周囲から寡黙に思われていた加奈子は殺されずとも口外しなかっただろう。

雪塚に至っては、もはや関係が薄弱で想定することすら困難である。

「しかし……まるで警察官だな、真尋」

速水がぽつりと呟く。

「どういう意味よ」

無垢な表情でこちらを向き直る。

「殺して得をする人間、殺す理由がある人間……怨恨、金銭、嫉妬、痴情の縺れ……そういう感情から動機を洗っていくプロセスが、警察の捜査みたいだなぁ、と」

「でも、殺す理由が無ければ殺さないでしょ」

「分からないぞ。殺したいから殺した、っていう殺人者もいるかもしれない」

これは小説ではなく、実際の事件だ。

そんなミステリーの掟破りな無法者の殺人鬼がいてもおかしくない。

「じゃあ、速水はどうやって犯人を捜すのよ」

その返しは予想していなかったので、少し逡巡する。

「まぁ、殺す理由がある人間を探すより、殺すことが物理的に可能な人間から探して行った方が、堅実かな」






 朝房が二人を事務所前まで送り届けたのは、それから一時間後。

既に太陽はどこかへ去って行ってしまっていた。

真尋がなんだか話し足りなそうなので、仕方なしにファミレスへ二人で入る。

店員が二名様ですか、と分かりきったことを訊いてくる。

禁煙席を選ぶとお好きな席にどうぞ、と完全に答えを投げられた。

煙草は嫌いだった。

空に滞留する白い煙が、あの靄を思い出させて。

「珍しいわね」

「たまにはな……」

別に腹が減っているわけではなかった。

ただ、真尋の意見は一度清聴してみたかったのだ。

水を届けに来たウェイトレスに速水はアイスティーを、真尋はオムライスを頼んだ。

こいつは、オムライスしか食わないのだろうか。

だったら詩織の所で良かった、と少し後悔した。


 「ねぇ、速水はもう分かってるんでしょ?」

「何が?」

「加奈子さんを突き落とした人間」

自分で連れてきておいてなんだが、ファミレスでする話題ではない。

「分かってないと言えば嘘だ。でもそれが真実かは分からない」

それより真尋はどう思ってるんだ、と水を飲みながら質す。

「えーっと……」

真尋が口火を切ろうとした時、それを切り裂く様にオムライスがやって来た。

熱源が湯気となって放出され、周囲に香気を舞い上げる。

「で、真尋の仮説は」

「私は、犯人なんて最初からいないんじゃないかって思ったのよ」

「へぇ……」

事件の概念を根本から覆すような、とんでもない推察である。

「じゃあ、車椅子が階下に落ちていたことの説明は?」

「そう、そこなのよ」

待ってましたと言わんばかりにスプーンをこちらに向ける。

汚いからやめなさい。

「私は、加奈子さんの転落事故……事件を、加奈子さん自身の自殺だと推測したの。でも普通の自殺みたいに一人で行うものじゃなくて、誰かの手を借りた自殺」

「それ、自殺っていうのか?」

「確かに周りから見たら他殺だけど、本人達にとってはそれは自殺だったんじゃないかな、って」

オムライスを頬張りながら、真尋は噛み締めるように言葉を続ける。

「でも、この推察ならば加奈子さんを殺して得する人間がいない説明が付くでしょう? だって加奈子さんが死んで得をするのは、死にたかった加奈子さん自身なんだから」

明確な動機を持つ犯人がいない、という点は補完している。

恐らくはそれを中心軸にした仮説なのだろうが。

「じゃあ、あくまで加奈子を突き落とした人間は、加奈子の意志を尊重しただけで他意は無かったと」

「そうね」

「及第点」

「どこがよ」

ぶー、と冗談交じりにブーイングする真尋。

「真尋がさっき言ったように、この仮説だと突き落とした共犯者は周りから見れば完全に殺人者に見えることになる」

「まぁ……あくまで突き落としたのは押している人だからね」

「加奈子の意志を尊重するったって、それで殺人者として逮捕されて、もしかしたら人生棒に振るかもしれないんだぞ? そんなハイリスクなことをするような人間がいるかどうか」

完全に食事に合わない肴で会話をしている。

「でも、出来る人はいるわよ」

「え、誰?」

「たとえば」

茶葉を薄めたようなアイスティーは樋浦家のものと比べて不味かった。

「聖女を信じている敬虔けいけんな信者とか」

「へぇ……」

そう言いながらズボンのポケットを探る。

紙独特の繊維が擦れるような音が、服の中で小さく鳴る。

「なにそれ」

おもむろに取り出したチラシを見て、真尋が先に声を出した。

「これ……」

神奈がこの前に置いて行った降旗の個展のポスターだった。

何度も折られて折り紙のようになっている。

――来月に行われるそうだ。見に行ってみたらどうだ?――

――きっと、無理だろうけど――。

神奈との会話を回想する。

あの時点では何とも思わなかったが、今なら何を言おうとしていたのか分かる気がする。

神奈は降旗の個展が行われないだろう、と予測していた。

どうして、そう思ったのだろうか。

降旗の犯したことをあの時点で知っていたからか。

いや、降旗の犯したことが個展が行われる前に露呈すると予想していたからか。

それは速水の調べている事件―加奈子の事件―に少なからず降旗が関係しているからだ。

神奈は、あの時点でそこまで読んでいた。

どこまであの男は―――。

「あ……」

その時、速水は初めて真剣にポスターを見た。

以前神奈に渡された時には興味が無くてちらりとしか見なかったポスター。

ポスターの中央部。

降旗の名前が大きく印字されている。

否、そこには冬嗣降旗、と外国人のような形で苗字と名前が逆に印字されている。

速水はその意味に気付いて、ただそのポスターに目を奪われていた。




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