第5話 来訪する奇人

 速水が事務所へ戻って来たのは午後六時を回った頃だった。

真尋は詩織のところで夕食を食べるため、下で別れた。

何も食べていないはずだが、不思議と腹は減らなかった。

空腹を紛らわすことより、一人になって少し考えにふけりたかった。

事務所右奥にある木製のドアを開いて、寝室へ向かう。

事務所の出入り口には鍵が無いというのに、寝室には鍵が備わっている。

不用心と言えば不用心だが、ここを襲撃する暇人はいない。

寝室の鍵を閉めると、部屋の中心に置かれたベッドに腰かける。

窓の無い部屋だ。

壁を覆うようにして本棚が立てられ、本の視線は速水に向いている。

不可思議な緊張感と圧迫感が部屋に充満している。

仰向けになって横たわると、天井の木目が視界に入る。

顔だ。

下らないことを思っていると、意識が自然と体から抜ける。

一番天国に近い場所。

死に一番近い行為。

速水はそれに抗うことなく、自然に身を任せることにした。




 速水の言葉の意味取りとして、朝と昼はほぼ同義だ。

昼と夜は違うが、朝と昼は何が違うというのだろう。

どちらも太陽が空に昇っているじゃないか。

そんな意味の無い思考を繰り返していると、気付けば外は昼になっていた。

昨日仰向けに横たわったままの状態で、速水は目を覚ます。

変わったのは時間だけだ。

顎元を擦って、髭を剃るために洗面所へ向かう。

寝室のドアを億劫そうに開ける。

「やぁ、久しぶりだね、証吾」

ソファに座る男は、優雅にルイボスティーを煽っていた。

どこから持ってきたのだろうか。

殺風景な事務所の中が紅茶の香気で満たされている。

「……勝手に入らないでもらえませんかね」

速水はその闖入に驚く素振りも見せず、洗面所へ向かう。

顔を軽く洗い、タオルを肩に掛けて戻った後も、男はそこにいた。

夢じゃないのか。

「まぁ、座りなよ」

神奈晴臣かんなはるおみは速水に臆する様子もない。

速水より一回りは年上のはずだが、容姿だけなら速水と同年代に見える。

肩まで伸びた黒髪は、オイルを塗ったように光沢を放っている。

不潔な意味合いではなく、むしろ身体中から清潔感が漏れ出ている。

向かいに座ると、一層紅茶の香りが鼻に入ってくる。

懐かしい香りだ。

「……で、なんでここに? というか不法侵入ですけど」

「ここさぁ、そろそろ改装した方が良いんじゃないかな。少なくともあの建て付けの悪いドア。改装するついでに鍵も付けてもらいなよ。田舎の民家じゃあるまいし、物騒過ぎるでしょ」

「今時、田舎でも鍵くらい閉めますよ」

「ならば尚更付けるべきだね」

茶を口に含みながら、膝の上に乗った埃を払う。

白染めのタキシードのような服装は、英国紳士を彷彿とさせる。

「……で、何か用ですか」

「なんか、品川の松陵で起きた自殺事件を掘り返してるんでしょ?」

どこから聞いたのか、と訊くのは愚問だ。

神奈は元々腕利きの探偵で、その時のパイプが今も稼働しているらしい。

現在は探偵紹介所を営んでおり、速水を初めとした紹介所に登録している探偵に仕事を横流ししている。

「それで、なにか?」

「いや、良いんだけど。珍しいこともあるもんだと思ってさ」

「どういうことです?」

「俺がいくら依頼斡旋しても請け負ってくれないのに、友達の頼みは聞くんだなぁ、って。人間らしいところあるじゃないか」

「気味の悪い言い方やめてもらえます?」

「別に構わないけど。そこで可愛い弟子に一つ指南、というより忠言かな」

持参してきた銀の茶器を机に置くと、陶器が当たる音がする。

「言い澱む癖はまだ治らないみたいだね」

「どういうことです」

威圧のような、謎の緊張感に思わず額に汗が滲む。

やっぱり、この人は苦手だ。

「もう犯人が誰か分かってるんでしょ?」

真尋が昨日車で言ったことと同じことを、神奈が復唱する。

昨日は結局適当にはぐらかして事務所へ帰って来たのだ。

神奈の耳にかけられた長い髪が、重力に負けて目元に被さる。

「といっても、まだ仮説で……」

「でもさぁ、早くしないとが起こるよ」

「次って……」

「早めに目を摘んでおかないと連鎖する危険性がある。そういう点においては、お前の友達は良い目を持ってるね。いや、この場合は鼻が利くと言った方が適切か」

「人が死んでいるんですよ、慎重にやらないと面倒なことに……」

「あのさ」

神奈が長い脚を組んで、ソファにもたれる。

「早めに片付けないと更に面倒なことになる。確かに死んだ人間は気の毒だが、この場合は今生きている人間に目を向けるべきだ。死んだ人間はどうしたって死んでるんだから」

「この後どうなるか、分かってるんですか?」

「分かってる、という言葉は適当じゃないな。いくつかある予想ケースの中で一番確率の高いものが最悪の結果だということだ」

「それだけを言いに?」

「そりゃあ、弟子が困ってるようだから助け舟をね。それともう一つ」

傍らに置かれた白いハットを弄びながら、足を組みかえる。

「あまり一方に集中し過ぎるのは良くない。もう少し俯瞰して全景を見るべきだ。探偵はね、好奇心だけを生かしてそれ以外の自身の関心は捨てて仕事をするべきなんだ。好奇心が無ければ探求は出来ないが、関心に踊らされると肝心なものが視えなくなってしまうからね」

「俺が、関心に踊らされていると?」

「本当は自分でも気付いてるんでしょ? これ以上言わせないでよ」

弄んでいたハットを被ると、すらりと立ち上がって速水を見下ろす。

よく見ると、紳士というよりマフィアみたいだ。

日本で恐らく神奈にしか似合わないファッションだと思う。

「それを言いに、こんなところに?」

「うん。あぁ、あとこれを渡しに」

そう言って神奈は胸ポケットから綺麗に畳まれたチラシを机に置いた。

「これは?」

「開いてみな」

名刺ほどの大きさに畳まれたそれを、解していく。

それはA4のサイズのポスターだった。

中央に大きく四つの文字が筆文字で記されている。

「冬嗣、降旗……」

そう、書かれていた。

名前の下には個展という大文字と開催場所の住所が躍っている。

開催予定日時は今日からおよそ二週間後。

「これ……」

「来月に行われるそうだ。見に行ってみたらどうだ?」

なんでこんなものを、とまた訊きそうになる。

やはり愚問か。

「でもまぁ……」

神奈はピアニストのように長い指で顎元を隠しながら、速水を見下ろす。

「きっと、無理だろうけど」

「どういう」

「だから、答えを求めるんじゃなくて自分で考えてみなよ。思考することだけが、人間の理由と意味なんだから」

それじゃあ失礼するよ、と神奈は事務所の出口へと歩を進めた。

鞄の一つすら持って来てはいない。

このためだけにわざわざここまで来たのか。

「それじゃ、頑張ってね。――透視探偵。」

それだけを残すと、神奈は軋むドアを開いて姿を消した。

机の上には、神奈が持ち寄ったティーカップだけが、脱皮した後の蛇のように、寂しげに残されているだけだった。



 三月が終わろうとしている。

桜の蕾が綻びはじめ、既に校庭は桜の花びらに覆われている。

例年に比べて強風の日が多いことから、入学式の日まで持つか懸念されているらしい。

机の上に散乱した冊子を整理する雪塚には、そんなものを眺めている暇はなかった。

職員室は、依然として煩い。

来年度に向けた新クラスの名簿が教師陣に配布されたことによって、今は大掛かりな席替え中なのだ。

それに伴い雪塚も自らの荷物をまとめている。

「手伝いましょうか?」

真横から聞こえてきた声には、聞き覚えがあった。

引き出しの中を暴くために下に向けられていた視線を、上へ移す。

「あぁ……。いえ、大丈夫です」

降旗冬嗣は細い体を中心部で折り曲げて、雪塚を見つめる。

いつもと変わらぬ黒衣に身を包んでいる。

春休みに入った今も、美術室で作品作りに励んでいるとどこかで聞いた。

雪塚にとっては、あまり関係の無いことだが。

「これ、お持ちしましょうか?」

雪塚の足元に置かれた黒革のボストンバッグを人差し指で示す。

「え、いや、本当に……大丈夫ですから」

嫌な汗をかいてしまい、思わず緊張で語気が強くなる。

ただでさえ汗ばんだ身体が、更に湿気を増す。

「そうですか」

そこにあるのは、きわめて機械的で無表情な芸術家の顔だった。

この男が情熱を傾ける何かがあるのだろうかと疑わしくなる。

自分は、こんなにも醜悪みにくいというのに。

自分は、こんなにも煩悩なやんでいるというのに。

那賀川といい、降旗といい、加奈子といい、自己嫌悪の要因を挙げれば枚挙にいとまがない。

まるで埋蔵金を隠すように、雪塚は短く太い脚でバッグを庇う。

惨めだ。

惨めだし、なんだか滑稽だ。

それでも、中身は見られたくなかった。

この世のあまねく事柄を否定しそうな降旗に、この中身を見せるのは恐ろしかった。

「そうだ。これ、良ければ」

こんな時に渡すものではありませんが、と続けると降旗はチラシを机上に広げた。

ツルツルとした紙地に映る「個展」の文字。

正直趣味ではないが、雪塚はありがとうございます、と謝辞を述べた。

大人になれば、人は皆狡猾になるものだ。

それが処世術よわたりというものだ。

「それじゃあ、失礼します」

降旗はそれだけを残して、その場を去って行った。

もしかしたら宣伝のためだけに訪れたのだろうか。

降旗が職員室を出るのを認めると、雪塚ははぁ、と息を吐き出した。

今までずっと水の中で息を止めていたかのように、苦しい。

肩で息をしながら、足元のバッグを両手で抱き抱える。

我が子のようにそれを抱き締めると、雪塚は挙動不審に周囲を窺いながら、手洗い場へと全力で走り出した。



 「ねぇ、あの人誰なの?」

事務所の扉を開いて現れた真尋の第一声はこれだった。

「あの人」

言葉を覚えたばかりのように、単語を繰り返す。

冷蔵庫から出した天然水を飲んでいる途中だった。

「あの人って誰だ」

「神奈って人。下で少し話したんだけど」

「あぁ……」

先程事務所を出たあと、階下で真尋と鉢合わせたのだろう。

「なんか、言われた?」

「フショウの弟子をよろしく、って一言だけ」

フショウって何、と真尋が訊いてくる。

「不肖か。まぁ、なんというか……そういう関係だよ」

「そういう?」

「探偵の先達ってこと。俺の……師匠みたいなもんだな」

師匠、という響きが面白くて、何度も頭の中で反芻する。

時代錯誤にも程がある。

「ふぅん……」

それ以上は訊かなかった。

沈黙が気まずくて、速水がソファを立った時。

けたたましい電話の受信音が事務所を包んだ。

位置的に近かった真尋が、受話器を取る。

「はい、こちら速水探偵事務所……あ、朝房さん」

その名前にぴくり、と速水のレーダーが反応する。

嫌な予感だ。

「はい。分かりました……速水、朝房さんが代わってって」

居留守を装おうと思ったが、それでは状況は好転しない。

「どうした、こんな早くに……」

早く、といってもそれは速水の中での常識観である。

実際は午後一時を過ぎていた。

『やぁ。実はだな、ビッグニュースがあるんだよ』

「聞きたくないから切るぞ」

『それがだな、新証言が出たんだ。風見怜香からな』

是と言おうが非と言おうが、会話の展開は変わらない。

「この前、話聞きに行ったばかりじゃないか」

『どうやらそれに触発されて、もう一度事件のことを考え直したらしいんだ。今までは思い出したくなくて忘れていたけど、ふと考えたらあることを思い出したんだと』

「あることって?」

『風見怜香曰くだな、樋浦加奈子は性的暴力を受けていたらしい。それを風見怜香は知っていたが、怖くて誰にも相談できずにいたらしい。その時に助けてあげられなかったから、それを苦にして自殺してしまったんじゃないか、と』

どういうことなのだ。

そんな重要なことを、あの場で思い出せなかったというのか。

それとも警察やら何やらが家にやってきて、動転して忘れていたのか。

嘘にしても、それをわざわざ証言する意味はあるのか。

色々と疑問が湧いてきたが、何より気になったのはそこでは無かった。

「その、性的暴力を行った人間は誰なんだ」

暫くの沈黙。

『それがだな、なんと』

やけに楽しそうな朝房の声。

『降旗冬嗣らしいんだ』



 朝房からの電話を聞いた後、風見怜香の証言をまとめた文書を秘密裏に事務所へ送付してもらうことにした。

朝房は直接届けに行きたかったようだが、速水がそれを拒否した。

電話の後に速達で送られた書類は、翌日には事務所へとやって来た。

恐らくは朝房が打ち込んだであろう文書は、つまびらかに情報が書き込まれていた。

風見怜香の家に訪問したのは一昨日のことである。

あの日は夕方に事務所に戻り、朝房と来宮は新宿署へ戻って行った。

別れた後も二人は署内で仕事に励み、朝房は怜香と由紀子から聞いた証言を簡単に文書として記入していたらしい。

その次の日、朝房が昼休みの時に風見怜香から名指しで新宿署に電話があったという。

そこで離された証言こそが、昨日の電話の内容ということになる。

朝房は怜香からそれを聞き取り、既存の文書に加筆して速水に概要を伝えるために受話器を取った。

つまり、この分厚い書類は朝房が二日足らずで完成させたものである。

こう考えると、朝房は仕事は出来るのか。

文書をぺらり、と開く。

最初の部分は速水も同席していた時の内容で、見知ったものばかりだった。

抽象画しか描かない、モデルを引き受けていた、入試を首席で合格した……

怜香の証言だが、内容は加奈子のものばかりだ。

そこは軽く流し読みして、加筆された新証言の方に目を向ける。

「えーっと……」

文書は一冊なので、真尋のために敢えて音読することにする。

「樋浦加奈子は過去、当時美術部顧問であった降旗冬嗣から性的暴力を受けていた。時期は怜香と加奈子が二年生に進級した時からで、行為は何度も執拗に行われていた、と推測される」

以下は性的暴力の具体的な内容だった。

「降旗は加奈子が下半身不随で動けないことを良いことに、髪を撫で、唇を触り、首筋から背中までを撫でまわし、尻を撫でるようにして触ったあと……」

そこまで来て、読むのを躊躇った。

以下の内容を目読で先読みしていたら、異様に生々しかったからだ。

まるで官能小説の一節だ。

かいつまんで説明すると、こういうことになる。

元々加奈子は美人であることから、何度も降旗の絵のモデルをしていた。

本格的に性的暴力ととれる行動に至るのは、加奈子が二年生に進級した後のことで、加奈子は優秀であるという理由から他の生徒が帰った後に居残りさせられ、二人きりになったところで行為に及んだという。

行為の内容は、簡単に言えば姦通ではない。

画材の調達という名目で体液を採集されたという。

加奈子は成績を落とすと脅迫され、逆に受け入れていれば名門美術大学への推薦を取り付けるという条件の元、行為は何度も続けられた。

加奈子は元々絵が上手で、それを生業にしたいと考えていたため逆らえなかった。

また、美術室の隣室は音楽室であり、防音壁が設備されていることから叫んでも聞こえず、そもそも立ち上がることが困難な加奈子には逃げ出すことすら不可能だった。

怜香はこの証言を涙ながらに朝房に電話越しで話したらしい。

「でも、二人きりなのになんで怜香さんは知ってるのかしら」

凌辱的な文章に関心を示さず、そこを射抜いてくるのは予想外だった。

真尋はもう少し嫌悪感や拒否感を示すかと思っていたからだ。

「備考欄曰く、怜香は帰るに帰れなかった、とあるが」

「二人の行為それを、ただ見てたってこと?」

「この証言を信じるならば、加奈子の夢を潰さないために、露見しないように務めた結果、今まで告白できなかったんじゃないか。今は加奈子が死んでるから、ある意味明け透けに話せるのかもしれないが……」

死んだ人間はどうしたって死んでるんだから。

神奈の言葉が深層に浮かぶ。

「でも、降旗先生ってそんなことしなさそうなのにねぇ」

主観的な意見ではあるが、半ば真尋と同意見だ。

人間に興味がなさそうな、爬虫類の目を思い出す。

「なるほどな」

「何が?」

「美術特待生の話」

速水が足を組みながら、真尋を見る。

まるで神奈の真似事をしているようだ。

「降旗が講師として松陵に入ってから、美術特待生が増えた、みたいな話があっただろ」

真尋が素直に頷く。

「数学やら英語やらならともかく、芸術科目の成績がそんないきなり伸びるなんて変だと思ってたんだ」

音楽や絵画を初めとする芸術には、努力より才能の要素が強い。

英語や数学は教える人間の変化で成長率も変動するが、芸術科目はそうではない。

なぜなら、芸術に正解も不正解も無いからだ。

「つまり、降旗は」

「他の生徒にも手を出してた?」

「あぁ……」

先回りされたので、そんな返事しかできなかった。

他の生徒にも同じ文句で成績や推薦を与えていたなら、辻褄は合う。

「でも、証拠無いわよね」

確かに物的証拠はない。

任意聴取したところで、あの男はふらりと躱してしまいそうだが。

「まぁ、証拠探しは俺達の仕事じゃない」

そもそも、終わった事件を掘り下げるのだって自分たちの仕事では無い。

これ以上考え事を増やすのは御免だ。

「とりあえず頼まれてる事件ことを片付けないと……」

神奈の言葉が脳内に張り付いて、絶えない。

一部に集中せず、全景を俯瞰して視る。

この事件は、多くの証言と人間の感情が毛糸玉のように錯綜し合っている。

覆い隠されているのは、樋浦加奈子の事故死の真実だ。

絡まる糸を解こうとすればするほど、指に糸が絡まる。

焦らずに一本ずつ糸を解かねば、取り返しがつかなくなる。

――でも、早くしないとが起こるよ――。

紅茶の匂い、男物の香水の香りが蘇る。

「次、ってなんだ…」

速水は集中するために一度目を瞑る。

もう、何も視えない。

真実は、いつだって闇の中に息衝いている。




 「タバコは、身体に悪いですよ」

そういったのは身体の細い新人警官だった。

丸いレンズの眼鏡に黒いフレームが付いている。

まるでのび太くんだな、と思う。

「へいへい」

煩わしい。

室内ならまだしも、屋上で顔を出して言うことか。

「それでは、失礼いたします」

のび太くんは仕事の進捗を報告しに来たのだが、犀木には一割も頭に入っていない。

そもそも、新人の名前すら少し考えないと思い出せない。

喫煙者の弱点は、ニコチンが切れると全ての効率が下がることにある。

有害物質のくせに、身体を構成する必須物質となっている。

今更犀木に喫煙の弊害を訴求したところで、無意味だ。

身体に悪いことは承知の上で吸っているのだから。

「ここ、好きですね」

「朝房……」

颯爽と現れる部下にも、もはや驚くまい。

忍者の末裔かと一瞬思ったが。

「どうぞ」

「タバコか?」

期待して伸ばした手の平に乗せられたものを見て、犀木は消沈する。

それは緑色の包装が成されたガムだったからだ。

極小の煙草にも見えないことはない。

そんなことを考えている時点で、ニコチンが足りていない。

「なんでガム……」

「ニコレットみたいなもんですよ」

「だったら……」

せめてニコレット持って来いよ。

確かに口が寂しくないようにガムを常備している喫煙者はいる。

実際、犀木も車に乗るときはボトルのガムを常備している。

「先輩も禁煙した方が良いですよ」

「大きなお世話だ」

朝房は、酒も飲まないし煙草も吸わない。

酒の方に関しては強すぎて単価の高い酒を飲む理由がないからだが。

それと比較すると犀木の身体は煙草と酒で雑巾のようにボロボロになった肉体だ。

無論、それは自ら行った肉体改造であるため文句はない。

「タバコの売り上げは国の肥やしになるんだから、少しは優遇されたいもんだ」

「警察官の言うセリフじゃあないですね」

「自分の興味で終わった事件にガサ入れするのも警察官の仕事じゃねぇよ」

「今回は直球ですね」

後ろ手に腕を組みながら、朝房は少し空を見上げる。

「とっとと片付けろ。いつまでも仕事に戻らないと不審に思う人間も出る。あと来宮を持って行くな。あれでも居た方がマシだからな」

油断ならないな、と少し朝房は感心する。

来宮を連れ立ったことまでバレているとは。

「お前さ……」

貰った板ガムを仕方なしに頬張りながら、犀木が呟く。

「何を見たいんだ」

ガムは何重にも過剰包装されていて、少し腹立たしい。

誰も得をしない浪費だし、資源の無駄だ。

「真実ですかね」

「その真実ってのは、誰が知ってるんだ」

煙草の残り香とミスマッチなミントの香りは、殺人的だった。

「被害者と……加害者、ですか」

「違う」

「というと?」

「被害者には加害者を殺す理由があり、加害者は被害者に殺される理由がある。でもそれは同等イコールじゃない。そしてその両方を同時に知り得ることは誰にもできない。真実というのは、そういうもんだ。誰も知らないし、真実はすぐに劣化する」

「劣化、ですか?」

「真実に基づいた事実を口伝するのは人だ。人は記憶を元に伝言するから、かならず伝える時に欠損する。欠損した真実を伝え聞いた誰かが更に人に伝えて真実は欠損し、劣化し、褪色する。その時点でそれは真実じゃない。都合のいい事実だ。まぁ、ある意味その人間にとってのにはなるかもしれないが……」

「じゃあ」

「お前は、真実を探求することが刑事の本懐だと思っているようだが、そうじゃない。それは虚構つくりものの刑事の本懐だ。現実ほんものの刑事が行うことは、事件によって大衆が混乱をきたさないように誰もが納得でき、呑み込める範囲の答えを作り、流布し、真実をことだ」

朝房はまだ年若い。

仕事は出来るし頭もキレるが、まだ中身は青二才のままだ。

まるで、自分の面影を見ているようだと少し感慨深くなる。

「まぁ……とりあえずは早く結果を出せ、ということだ。真実を追い続けてたんじゃあいつまで経っても埒が明かん、と忠告したかっただけさ」

まだ味が残っているガムを、灰皿に吐き捨てる。

「先輩……」

朝房はやや気落ちしたような声で、犀木を呼ぶ。

まだ口の中でミントの香りが暴走している。

「なんだ」

「今度は何味のガムが良いですか」

「タバコを持ってこい、タバコを」

犀木は部下の頭を軽く小突くと、屋上を後にした。








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