久遠スピカ 外伝

@kawabataj1

あれが私の一番星

 天体望遠鏡を覗きながら、ヒカルが唸るように言った。

「んー、やっぱり見えないねえ」

「だね。急に雲が出てきちゃったから」

 スピカはほほ笑みながら返すと、草むらにお尻をついた。仰向けに寝転がる。

「でも、まだ来たばかりだし、ゆっくり待とうよ。予報どおりならそのうち晴れるよ」

「そだねー」

 ヒカルも諦めた様子でレンズから目を離すと、横に並んで空を見上げた。弾力のありそうな分厚い雲が、たがいを食いあうように歪に流れている。

「晴れるといいなぁ。今日は私が勝つ予定だから」

「うん。でも私も負けないよ」

 ふたりは、スピカの家近くにある丘まで天体観測に来ていた。もはや恒例となった習慣だ。スピカが望遠鏡を買ってもらった中学生の頃から、月に一度か二度、こうしてふたりで会って夜空を見上げる。

 スピカとヒカルは幼少期からの友人だ。出会いは小学生のとき。久遠(くどう)と敷島(しきしま)は出席番号がひとつ違いで、席が前後だった。

 当時からスピカは、日に当たりすぎると具合が悪くなる体質だった。体育はぜんぶ見学だった。いっぽうヒカルは運動神経抜群。スピカにとって憧れの存在だった。青空の下で爽やかな汗を飛ばすヒカルはまるで太陽みたいで、まさにヒカルという名前が似合ってるな、と思った。体操着が張りついた筋肉質な背中や、力を入れると浮き上がる首筋、健康的な二の腕、しなやかに隆起するふくらはぎを、スピカはいつも羨ましい気持ちで校庭の木陰から眺めていた。

 ヒカルは性格も明るくて、交友関係を広げるのが下手なスピカによく声をかけてくれた。一緒に登下校もした。スピカは年齢を重ねるにつれてもっと体調を崩すようになり、学校を休みがちだったけれど、ヒカルは毎回スピカのぶんの板書もして、ノートを持ってきてくれた。

 やがてスピカはついに学校に通うことすら出来なくなったけれど、それでもヒカルとだけは交流がずっと続いている。


 雲が出て星が見えないとき、ふたりは晴れるまでの間、他愛もない話をして時間を潰す。スピカは空や宇宙や星座の話、ヒカルは学校であったことを報告する。けれどこの日、スピカはふと懐かしい昔を思い出していた。

 横に寝転がるヒカルをちらりと見て、口に笑いを含みながら打ち明けた。

「そういえば、今だから言うけどあのときの板書ノート、誤字だらけだったよ?」

 書いてもらっておいて抗議を唱えるつもりはないけれど、でも可笑しいくらいだったのだ。

 スピカの指摘にヒカルは、えっ、と心底意外そうな顔をした。

「フラミンゴの法則なんて、本当にあるんだと思って自慢げにお父さんに知識を披露したら笑われて恥ずかしかったんだから」

 そして、みるみる頬を赤らめた。それから、尖らせた唇からかろうじて漏らすように言った。

「……あ、あれ、わざとだよ?」

「え?」

「すすす、スッピーが間違いに気づくか試してたんだよ? いやー、そっかちゃんと気づいたかー。サボらずに勉強してたみたいだね、うむ、すばらしい教え子じゃ!」

「っ……ふふ」

 スピカは思わず笑みをこぼす。さすがに無理のある言い訳だ。そんなスピカの反応に、ヒカルはなおさら顔を紅潮させた。

「な、なにがおかしいの」

「いや、なんでもないよ。そっか、私のためかぁ……ありがとね、ヒカルちゃん」

「えへへ、うん、いいってことよ!」

 ふたりは笑い合って、また空を見上げる。そのころには気まぐれな雲はすっかり姿を散らしていて、ふたりの視線の先には満天の星空が広がっている。唐突に、ヒカルが言った。

「あ、流れ星!」

「え! どこどこ?」

 スピカがきょろきょろと視線を空に泳がせる。

「水泳が上手くなりますように! 水泳が上手くなりますように! 水泳が上手くなりますように!」

「えー、どこー? 見えなかったよ―」

「へっへー! 今日は私の勝ちだね!」

「うーん、しまったなあ、油断してた。でもこれでヒカルちゃんは11勝。私は……71勝だね」

「っ……そ、そうだっけ? そんなに差が開いてた?」

「うん、たしか間違いなかったと思うよ」

「こ、細かいことはいいんだよ! 青春に生きる私たちにとっては今が大事だから! 私の勝ち!」

「えー、ダメだよ、通算で見ないと」

「いいの!」

「だーめ」

「なんで!? そこまでして勝ちたいか、ずるいぞスッピー!」

「ずるいって……なにも悪いことはしてないけど。とにかく、今日は負けたけど、全体ではまだ私の勝ちだからね」

「んぐー……じゃあ今日のところは、そういうことにしておくか」

「ふふふ。がんばって、追い抜いてね」

「くっ、余裕ぶりおってからに……今に見てろよー?」

 なんて言い合って、スピカとヒカルはまた笑う。

 いつからだったか、流れ星を先に見つけた方が勝ち、というルールがふたりの間にはできていた。

 言い出したのはヒカルで、彼女からするとちょっとした遊びのつもりだったのかもしれない。通算成績だって、そこまでちゃんとカウントするつもりじゃなかったのだと思う。けれど、スピカにとってはそれこそが重要だった。

 71勝11敗。

 この数字が、スピカがヒカルと過ごしてきた時間の証明だ。

 負けず嫌いのヒカルは、この数字でスピカに勝つまでは、きっとスピカのもとを訪ね続けてくれる。

 ずっと一緒に星を見ることができる。

 だからスピカは、ずるいと言われようと、通算成績を細かくカウントし続ける。

「さてヒカルちゃん、雲も晴れたことだし、もう一度望遠鏡で見てみようか」

「あ、うん、スッピー!」

 静かに立ちあがったスピカに続いて、ヒカルが勢いよく、跳ねるみたいに身体を起こす。

 スピカは、こんな綺麗な夜がこれからもずっと続けばいいな、とひそかに星に祈る。今日も望遠鏡のレンズを、できるかぎりゆっくりと絞る。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

久遠スピカ 外伝 @kawabataj1

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る