薔薇の加護、羊歯の記憶

 空調機の風が電灯から下がった紐を揺らしている。私とワスプ乗りの男はテーブルを挟んで向き合っていた。同伴するはずだった学生はいない。彼女は生還者の講義より補講を選んだ。服や香水に問題がないかチェックしてもらうつもりだったのだが。

「資料返却のためにご足労頂き、誠にありがとうございます」

 彼は茶を一口飲み両肘を両膝に置くと、黄ばんだ書類と雑誌の山を見て鼻を鳴らした。山の麓から覗く書類のスタンプはどれも十二年前の日付で、その頃の大衆誌も混ざっている。頂きには濃い青色の紐が結ばれた紙切れが置いてある。透明なフィルムで紙切れに封じられているのは消え入りそうなほど色褪せた羊歯しだの葉だった。葉を縁取る凹凸の繰り返しはどこまでも深く、切り込みの中にまた切り込みがあった。

桜花おうかとの小競り合いが起きたときだったか。そんなに経つんだな」

 枯れているが明瞭な声で彼は言った。

「はい。比較的短期間で終結したのは不幸中の幸いでした」

 書類を手に取った彼の肩が上下した。表情を変えずに笑っている。

浮竜ふりゅう死齢しれいが計測間違いで、シラけて和平交渉になったんだったな」

 握り直そうとした万年筆が滑り、テーブルの影へ転がっていく。節くれだった指が金と黒の軸を拾い私に寄越した。

「失礼致しました」

 咳払いを一つして茶の水面を見る。ティーカップの底に描かれた八重咲きの薔薇。

「六百二十八年の一月八日のことですね」

 クリップボードに目を走らせる。彼は両手を膝につき上体を起こすとそのままソファにもたれ掛かり、口元に笑みを浮かべた。

「ああ。昨日のことのように思える」

 彼が窓の方を向いたので私もそれに習った。隣の教育学部棟が立ちはだかり、切り取られた空を筋雲が流れていく。横目で喉仏が動くのが見えた。瘴気の中を潜り抜けてきたパイロットの喉仏が。

「あの妙な浮竜に出くわしたのは」

 私は頷いた。万年筆が紙を滑る。


 ワスプは辺境の低高度を飛んでいた。

「あと少し保ってくれ」

 コクピットの中で男が悪態をつく。呼吸用空気は尽きかけ、機体は高層大気の底を這っていた。プロペラが機体を毒の雲から引っ張り上げる。

「よしよし、いい子だその調子」

 エンジンの出力が安定し男の顔に余裕が戻った。しかし、実際にはあと少し保ったところでどうしようもない状況だった。レーダーは故障し付近に浮竜はなく、ワスプの高度がこれ以上下がれば劇薬同然の低層大気に沈むことになる。キャノピーには死んだ羽虫混じりの風が打ちつけ、湧き上がる腐毒で機体のリベットが溶け切るのは時間の問題だった。さらにまずいことに雲の間で放電が始まった。男は飛行服の胸元からペンダントのロケットを取り出し、握りしめた。うつむいて目を閉じる。そしてロケットをしまい操縦桿を握った男は、膨れ上がる毒の雲の間にそれを見た。

「浮竜があんな高度を」

 男が飛ぶ高度よりも下、雷雲の上をそれは泳いでいた。放電による逆光に浮かぶ、いびつな菱形が翼腕よくわんを広げている。前方を斜めに横切る航路を取り、剃刀のように薄い尾を波打たせている。

「——廃村なのか」

 中級ワイアームには間違いなかった。大小二対の翼とカーテンのように揺れる尾、街を包む巨大な泡——天蓋と呼ばれる半液体の屋根——を背負った平たい背中。天蓋の隙間を埋めるようにキノコが生えている。男は計器盤に咲く薔薇の紋章に祈りの言葉を囁くと浮竜の背を目指し、ワスプを操る。この高度で人が暮らしていることはありえないが避難小屋ならあるはずだ。問題は酸欠気味のワスプのエンジンの方で風に流されつつある。コクピットに貼った家族の写真を見て彼は後悔の念を抱いた。そして再び濁ったキャノピー越しに浮竜を見ると、中央にある天蓋の中に一つの明かりがある。黄色く白い光だ。彼は祈りを唱え、ワスプを大きく右に傾け機首を下げる。方々から部品がこぼれベテランの彼も聞いたことのない音を機体が立てる。ワスプと浮竜の進行方向の軸が合った。明かりを見据えながら男の意識はそこで一旦途切れることとなる。

 たまご色の電球に光を求める虫が、何度も体当たりを繰り返す。ガラスと薄翅が触れ合い焦げるような、煮立つような音がした。それを見ていた男はシーツをかき分けたが、起き上がることはできなかった。全身の関節が痛み彼は呻き声を上げた。ベッド脇の小卓に音を立てて盆が置かれ、カーテンの前で白いものが飛び跳ねた。ランプシェードの向こうから少女が左目だけでパイロットの様子を窺っている。コップが倒れ盆の上でさざ波が往復していた。

「セシル……」

 腐毒ふどくに焼かれた喉で初等科に通う娘の名を呼んだ。後に判明した二人の共通点は腕と脚の本数、頭髪の有無くらいだった。少女は右目に眼帯をつけている。白い肌に綿の眼帯が溶け込み、最初からそこに眼窩がんかがないかのようだった。少女は手首をこすり何度か垂直に跳ね頭を下げる。

「姉を呼んで来ます。お待ちください」

 言い終わらないうちに男に背を向け扉に駆け出した。ワンピースの裾が廊下に吸い込まれ三つの錠が外から閉められた。男は倒れたコップを手に取り水を口に含む。一口に満たない量なので、コップを横に向け盆の水を掬って三回飲んだ。盆から水浸しの氷嚢を取り上げ、横になり額を冷やす。虫は電球の周りを公転し続ける。彼は飛翔する虫を注視した。蠅か虻らしい。頭を覆うドーム型の複眼、無数のレンズは鈍い虹色だった。彼が発進した基地のどこにでもある油ぎった水溜りの色だ。

「失礼するよ」

 まどろみに落ちかけた頃、ノックと女の声。鼻にかかった声だ。油を注していないらしい蝶番が音を立てる。眼帯の少女が扉を開けると車椅子に乗った少女が部屋に入ってきた。

「ようこそ、落ちてきたパイロットさん」

 男を向いて車輪の外の輪を押している。服は青白く輝く黒色で、車椅子に掛かる天幕のようだった。

「具合はどう。少し腐毒を吸っていたみたいだから——」

 爆ぜる音がして小卓から水が跳ねた。羽虫が盆の水面で高く細かい波紋を立てている。車椅子の少女は車輪を止め戸口の方へ上体を反らせた。

「コル、ちょっと」

 敷居の外に立っていた眼帯の少女が頷き、軽く下唇を噛んで早足でベッド脇へ近づく。

「これお願い」

「うん」

 三つの目が、羽虫がとろとろと円を描く盆に向いている。車椅子の少女は壁の一角を指で示した。錠前が一つだけの扉がある。

「あとこの人の鞄も」

「分かった」

 眼帯の少女は盆を持ち扉の向こうへ行った。後に点々と零れた水の跡ができる。

「すぐ乾くから」

 男は成り行きを見守っていた。指が髭の伸びた顎を撫でる。

「蠅の救命活動をしているあの子はコル。僕の妹」

 扉からコルが戸棚をかき回す音が聞こえてくる。男は車椅子に向き直る。

「僕はミア。災難だったね、パイロットさん」

 男はベッドから脚を降ろそうとした。ミアが首を横に振る。

「まだいけない」

 扉が開いてコルが出てきた。腕にカーキ色の布鞄を提げている。目を伏せて足早に部屋を横切りミアに布鞄を渡した。

「俺はクロヴィス・ベルナー。ローズ・パーティーの——」

 男は咳き込んだ。寝間着の襟の奥でペンダントが跳ねミアがコルに何か囁く。

「ありがとう、ミア。コル」

 彼は手の甲で涎を拭った。布鞄からは消毒薬の刺激臭が立ち昇っている。

「ところで俺のワスプを見なかったか。黄色とオレンジのだ」

 コルは乾いた点線を往復し、ピッチャーとコップを持ってきた。小卓に乾いた盆が置かれコップに澄んだ飲み水が注がれる。

「ガレージで消毒してる。あの色で目立たないのかい」

 ミアが布鞄を膝からベッドへ移した。布鞄がシーツに沈み込む。被せを開けクロヴィスは中身を検めた。工具やナイフ、棒状のケミカル・ライトが詰まっている。

「動かしたのか。君たちが」

 二人の顔を見る。コルは車椅子の後ろにいる。ミアは何かを思い出したようなゆっくりとした動きで、車椅子の横に提げた袋を取った。

「農作業用のゴーレムを使ったんだ」

 袋から小瓶を取り出した。

「明日案内する」

 小瓶をコップの横に置くと中で錠剤の山が崩れた。

「お休みなさい」

 二人は音を立てずに部屋を出ていった。彼は水と薬を飲んで明かりを消し、横になった。ピッチャーの水面で常夜灯が揺れる。

 翌朝彼は、ひんやりとした空気が喉を通るのを感じて目覚めた。空気には食べ物の香りも混ざっている。起きると小卓に網目の傘が被せられ中から湯気が上がっていた。蠅帳はいちょうを取ってシーツに置くと、パンとスープの皿の他に二つ折りの紙がある。湯気で端がよれている。

「クロヴィス様 体調はいかがでしょうか。昼食の後ガレージへご案内します。 ミアより」

 スリッパを履きカーテンを開いた彼は、窓ガラスの向こうに広がる光景を森林だと束の間錯覚した。高く瑞々しい緑が朝霧に濡れている。片手を窓枠に置き目を擦っていると、後ろで電話のベルが鳴った。

「おはよう。よく眠れたかい」

 ミアの声だった。物のついでに電話をかけているといった、大して興味のなさそうな口調。

「教えてくれ」

 彼は受話器を持ったまま部屋の中をぐるぐると回った。コードが絡まり玉になる。

「ここは——」

 窓の外を見た。光の加減が変わり、樹木に見えていたものの一角が白く光る。押し寄せる苔に閉ざされかけていたが、割れた窓ガラスが光を反射していた。

「俺は、生きてるのか」

 避難階段も屋上の給水タンクも、水を吸った絨毯のように厚く毛羽立つ苔に沈んでいる。受話器からはページをめくる音が流れてくる。

「当たり前じゃないか。死人に薬を飲ませてどうするのさ」

 表紙の閉じる音がする。胸元を探りペンダントを引き出した。合金製ロケットの蝶番が滑り合う。

「それはそうだが」

「だろう。昼過ぎになったら行くから、あと部屋から出てもいいけど遠くには行かないで」

 次第に早口になってから電話は切れた。彼はパンをちぎってスープに浸して食べ、昼までベッドの上で過ごした。ドアがノックされ昼食と着替えを乗せた台車をコルが押してきた。着替えは彼がワスプで着ていた飛行服だった。

「お食事を済ませた頃に姉から連絡があると思います。失礼しました」

 コルは台車を押し部屋から出て行った。彼は身支度を整えながらミアからの電話を待った。

「やあ。昼ご飯は済んだかい」

「二時間前に」

 彼は飛行服に着替え靴にクリームを塗っていた。窓は霧雨で磨りガラスのように白くなっている。

「もうそんな時間か。コルにお茶の準備を——」

 彼は布鞄を肩から提げる。

「後でいい。ワスプの実在を確かめないことには気が気でない」

 受話器を持ち窓際に立つ。彼はゴム質のコードを摘み指の間で転がした。

「よほど大事なんだね。ガレージでお茶会にしよう。すぐ行くよ」

 間も無くやって来たミアとコルに先導され、彼は廊下を歩き出した。コルは食器とポットががちゃつく台車を押していた。灰色がかった薄緑の床に逃げ水のように電灯が映っていた。角を曲がった先は明るい。

「ここは別棟だったのか」

 本館と思しき灰色の立方体に、渡り廊下が伸びている。真下を通る道路ではトータスが一台横転している。荷台からこぼれた積荷もトータス本体も苔に埋まっていた。降り続ける雨で遠くは見えず、苔が音を吸い込むのか雨音もなかった。

「使える部屋があれだけだったんだ。——ねえ、おじさんはどうして落ちてきたの。上で戦争なんてやってたっけ」

 雨が弱まったのか、水を含んだ空気を通して潰れた建物が浮かび上がる。壁を失った屋根が横たわり、稜線に沿ってキノコの藪ができていた。

「戦争の一歩手前だよ。今回の作戦は桜花旅団への牽制が目的だったが、些細な行き違いから追われる羽目になった」

 ミアは斜め後ろへ仰け反るしぐさで彼を見上げた。

「桜花とローズ・パーティーはB.O.U.Q.U.E.Tブーケの一員じゃなかったかい」

 コルは黙って台車を押す。

「ああ。だが桜花は新たに発見した浮竜を占拠し、立ち入り調査を拒んでいる」

「おやおや、ケチなんだね」

 そう言いながらミアは首から提げた双眼鏡を取り、集合住宅の窓から伸びる羊歯の葉にレンズを向ける。遠目には苔と羊歯の繁る岩壁のようだった。

「全くだ。そこでローズ・パーティーが交渉役になり話を進めている」

 ミアはふーん、と言い双眼鏡を下ろした。

「占拠された浮竜は死齢いくつなの」

 本館が近づいてくる。一階にある大扉は苔むしていて、その前で何台ものトータスとゴーレムが朽ちていた。ゴーレムのうち一体は扉に両手を差し込み、渾身の力でこじ開けようとした姿勢のまま、こうべを垂れている。彼らの背で苔は天へフィラメントを伸ばし、先端の袋で胞子を育んでいた。

「学者先生たちは死後百八十年と見積っている」

 ミアは口笛を吹いた。

「若いね。ついこないだまで生きてたんじゃないか」

 台車で食器が鳴った。防火シャッターで区切られた渡り廊下と本館の敷居を跨いだのだった。

「ああ。もし住めたら当分は安泰だろう。土地代や家賃も相応だろうが」

 彼らは本館にある倉庫に着いた。空気と埃、ちぎれて曲がった金属の破片が散らばる洞の奥に、幅が一部屋分はある鋼の扉が貝のように口を閉ざしている。コルが壁のボタンを押すと扉が上に持ち上がった。がらんとしたエレベーターが三人を乗せ降りて行く。止まった階の短かい廊下でエアロックを開いた。

「おお」

 ワスプを前に彼は両手を広げ歩み寄った。

「満足してくれたかーい」

 入り口からミアが呼び、声が反響した。既に彼は機体に足を掛けコクピットに上半身を突っ込んでいる。

「あった」

 その手には彼の妻と娘が写った写真がある。パネルラインに泥の詰まった機体に寄りかかり、目を細めた。

「ふーん」

「あの、奥さんと娘さんですか」

 いつの間にかミアとコルは彼の背後に迫り、写真を覗き込んでいた。彼は飛び退く。

「驚かせるな」

 主翼に手を置いた。防腐塗料を塗られた翼はこってりとした光沢がある。

「で、この子の調子はどうなんだい。飛べそうなの」

 ミアはプロペラの根元を見上げた。消毒液の水滴が水溜りに落ちる。

「レーダーが壊れている。まっすぐに飛べる保証すらない」

 彼は渋い顔を作り点検を続けた。

「うーん、そうか」

 ミアは膝にコルを乗せひたいを寄せている。

「ねえミア」

 彼が機体の向こう側でフラップの動きを見ているときだった。コルがミアに尋ねた。

「あの人、パスツールで送ってあげられないの」

 彼が立ち上がるとミアは眉をひそめ口角を下げた。前髪を人差し指に巻きつける。彼は床に飛び降り、水溜りに波紋を広げて機体の腹をくぐった。

「パスツールって何だ。ワスプかホーネットでもあるのか」

 どちらでもないという風に、ミアは下を向いて首を横に振った。

「僕たちが、今いる、浮竜の、名前」

 一語一語を強い発音で言った。顔はガレージの隅を向いている。コルが膝から降りミアの視線に立ちはだかる。

「だってミア、この人家族がいるんだよ」

 視線を逸らそうと頭の向きを変えるミアにコルは追いつき続ける。ついにミアは瞼を閉じた。

「もしこのまま帰れなかったら——」

「独身だったら死なせてもいいのかい。いいからお茶淹れろよお茶」

 彼が手袋をはめた両手を打ち鳴らすまで、姉妹は藍色の瞳で睨み合っていた。

「ちょっと聞いてくれないか」

 まずミアが、次にコルが彼の方を向く。

「パスツールは高層大気まで行けるができれば動かしたくない、ということか」

 語尾が掠れ、咳き込む。ミアは肘掛けに爪を立てて頷いた。

「ああ。花は嫌いなんだ」

 円い波が水溜りの外と内を往復している。彼は飛行服のポケットから紙箱を出した。

「詮索するつもりはないよ。助けてもらっただけで十分ありがたい」

 コルは深く頭を下げた。

「お心遣い、ありがとうございます」

 箱を開け、二人に一つずつ薄荷飴を手渡した。錆の浮いた天井を見上げる。

「何とかなる。いざとなったらバルーニングをする」

 台車で湯気が上がる。コルは渋々といった顔つきで茶を淹れ始めた。ミアは飴を手にワスプの反対側へ車輪を押していく。

「とても危ないのですよね。角砂糖はどうしましょう」

 彼は人差し指、中指、薬指を立てた。

「ミルクは結構」

「遠くに流されたり、高く飛び過ぎたり——ごめんなさい、お茶がまずくなりますよね」

「いいんだ、事実さ」

 彼は茶をすする。

「この飴、美味しいねえ」

 ガレージ内にミアの声が反響した。口の中で飴を転がしながら肘掛けに頬杖を突いている。彼は紙箱を差し出した。コルの制止を振り切り、ミアは残りの飴全てを彼から受け取った。

「そうそう、おじさんがホーネットのこと話してたから思い出したよ」

 ミアは背を丸め紙箱を覗き込んでから肘で壁のスイッチを突いた。

「ハイメノプテラの墓場があるんだ。部品が拾えるかも」

 照明が点滅し安定すると、ガレージ奥にうずくまる一台のトータスが浮かび上がった。壁際にはリザードも停まっている。彼らは翌日集合することに決めた。

「今日は姉が失礼しました」

 彼の部屋の前で、コルは自分のつま先を見下ろしていた。光沢のある黒い靴に埃がこびりついている。彼はそんなことはないと言いかけたが、コルが遮る。

「今朝の蠅帳もミアの発案です。当てつけみたいだから止めろと言ったのですが」

 微かな羽音が耳元を掠めた。髪の毛のように細い肢の生えた虫が弱々しく飛び、壁に止まった。

「気にしてなんかいない」

 彼は中腰の姿勢でコルに言った。眼帯は白く粗い生地の奥に厚紙のような不透明のものが挟んであった。彼の布鞄から合成繊維の布で巻いた束が滑り落ちる。コルがしゃがんで拾い上げた。

「これは一体」

 彼女が首を傾げて見る半透明の棒はケミカル・ライトだった。彼は一本を手に取り端を折る。棒の中に薔薇色の光が満ちた。

「綺麗」

 左目が光を追う。

「半日くらい光る。不時着したときに使うんだ」

 コルは人差し指の爪ででケミカル・ライトに触れた。薬液が混ざって生じる光で、熱はない。

「あげよう。おやすみ」

 彼は残りの束、五十本以上をコルに押し付け部屋に入り、ベッドに横になった。

 翌日、彼はトータスの整備を終えハイメノプテラの墓場へ出発した。外から見る姉妹の館は窓と扉以外に特に目立った構造がなく、離れると苔に包まれた直方体にしか見えなかった。水ではなく羊歯を迸らせる噴水を横目に沈黙した商店街を走る。

「で、何故乗ってる」

 荷台には、運転席に背を向ける格好でミアが車椅子ごと乗っていた。助手席でコルが窓にひたいを当て流れる風景を見ている。

「危ないから俺一人で行くと決めたろう」

「だってさー」

 ミアの口に髪が被さるが彼女はそのまま話す。

「面白そうじゃん」

「クレバスにはまったら大変ですから」

 そう言うコルの頭に薔薇色が灯っている。ケミカル・ライトが麦穂色の髪に挿してあった。彼は運転を続けた。建物は次第に数を減らし、淡く単調な緑が灰色の霧の奥へ溶けていく。やがて隣接する街区との境界に差し掛かった。町を覆う泡の接合部——垂直な粘液の仕切りに——アーチが築かれている。乾いた地衣類の生えたアーチを、トータスはくぐり抜けた。

「おじさんの住んでる浮竜ってどこ」

 コルと取り留めのない話をしていたミアが、バックミラー越しに質問した。

「セント・メアリセレスト号。いい所さ」

 アーチを越えてからは道路沿いにまた建物が現れるようになった。だが、どの建物も雨風をしのぐこともままならない程に壊れていて、屋内の調度品は形の判別がつかない。微小な植物たちの侵食を受けているのだ。

「拾ってあげるよ。もし浮竜が落ちたら」

「ちょっと」

 窓に吐息の跡をつけていたコルが勢いよく振り向いた。ミアが口笛を吹く。

「去年も二頭沈んだろう。薔薇の加護を受けた浮竜が」

「ミア、怒るよ。クロヴィスさんの前では止めて」

 コルに掴まれたシートの合成皮革が悲鳴を上げた。

「おいおい、喧嘩なら後にしてくれよ」

 彼は慎重にハンドルを切る。車輪から伝わる振動が舗装された路面のものではなくなりつつあった。

「現実的な問題だろう。セント・メアリセレストは死齢四百年以上の古株。そもそも落ちない浮竜なんてない、飛ぶ死体なんだから」

 霧が仄かに緑に色づいていく。低いビルを割り、太く竹の高い羊歯が立っている。

「馬鹿馬鹿、ミアの馬鹿」

 コルが頬を火照らせ金切り声に近い声で怒鳴る。

「二人とももうその辺にしてくれ」

 トータスが羊歯の林の前で停まる。彼はボタンとレバーを操作した。

「ミア、そのときはよろしく頼むよ。できれば俺より妻と娘を優先して欲しいが」

 彼が渡したハンカチでコルが鼻をかみ、ミアは口笛を吹いた。低い唸りを上げトータスは車輪をロックする。車軸が関節で折れ曲り、四本の脚が油圧でシャーシを持ち上げ一歩一歩踏み出していく。視界は一層悪く草むらは厚みを増す。ヘッドライトの光の円錐が不意に現れた人工物を撫で回した。

「これはビーだな。ハイメノプテラが転がってるってのは本当のようだな」

 ハイローと呼ばれるリング状の補助浮揚器を背に持つ寸詰まりな機体が泥に埋もれている。

「入り口近くのは傷みが激しい。もっと奥へ」

「次の分かれ道を右に、そこは足場が悪いから注意してください」

 ミアとコルの指示に従いトータスを進める。ゴムと滑り止めのスパイクでできた蹄が腐葉土を踏みしめる。屋根のように羊歯の葉が被さった林のあちこちで、空を飛んでいたものたちの鈍い光を見つけることができた。エンジン周りの曲がりくねったパイプが苗床になったワスプや双胴の体の左半分を失ったホーネットが横たわり、草木を伝う滴に浸っている。フライやモスキートといったダイプテラの姿も二、三機あった。やがて開けた場所に出た。

「ちょうどいいや、ここを拠点にしよう」

 荷台からミアが言いトータスは広場に停まった。脚が曲がり車高が下がる。

「公園か」

 トータスから降りた彼は深呼吸し、冷えて湿った空気を吸い込んだ。二人分の席がぶら下がったブランコの側に、ひょろりとした街灯が立っていた。地面にゴムのタイヤが半分埋まっていたが、彼が踏むとぼろぼろと崩れた。

「何やってんのー。レーダー漁るんでしょー」

 コルに手伝われミアが荷台から降りてきた。その日は大した成果を挙げないまま、彼は眠る二人を乗せ直方体へ帰った。翌日も林の中の公園に向かい、コルが渓谷の奥へ繋がる道を見つけた。トータスのウィンチからロープを伸ばして降りると、背の高い草むらでホーネットが眠っている。板金を引き剥がしいくらかの部品を手に入れたがレーダーはなく、その日も引き上げた。

「おじさーん」

 帰り道の半ば、ミアがぼろ切れで部品を磨く手を休める。彼は生返事で応えた。

「おじさんの奥さんってどんな人なの」

 夕暮れ時だった。天蓋が増幅していた光は弱まり文字通り夜の帳が降りようとしている。彼は隣で寝息を立てるコルを見た。薔薇色の光が頬を照らしている。

「文句のつけようがない女性だよ。ことにパイロットの妻として」

 ミアが口笛を吹き、続きを促す。

「留守中に何があっても慌てない。稀有な才能と言ってもいい。教育にも熱心さ。ただ——」

 苔の原野に佇む鉄塔に、黄昏の光が滲む。車体と荷台のミアの影が長く長く伸びていた。

「熱心過ぎるところがあってな」

「どういうこと」

 日が沈んですぐに光は夜の闇へと吸い込まれていった。外よりも薔薇色の車内の方が明るい。

「セシルの、娘の進学のため引っ越そうと言うんだ。今より死齢の若い浮竜に」

 しばらく荷台から声はしなかった。

「ごめん、学校と若い浮竜の関係が分かんないだけど」

 ばつの悪そうな声でミアが言う。彼はそれもそうかと軽く笑った。

「要は世間体だよ。金持ちは若い浮竜に住んでる。お嬢様学校に入るとき有利なんだそうだ」

 ミアは新しい部品を手にし、磨き始める。

「うーん」

 バックミラーの中でミアは人差し指と親指でバネを挟んでいる。

「おじさんは、進学のためだけに引っ越す必要はないと。そう思うのかい」

 街区の境界が見えてきた。彼はああ、と答える。

「出撃前にも、それで妻と喧嘩をしてしまった」

 アーチをくぐる。

「そっか。そいつはさぞ気が滅入っただろうね」

 荷台の方からこつり、こつりと音がした。ミアが手にしたネジで屋根に触れた音だ。

「そうだ。それにあいつ」

 彼は背を丸めハンドルを握る手に力を込める。

「俺が闘蛆とうそで負けたときのことまで言い出して」

「ええっ」

 起伏を乗り越え車体が上下し、ミアが指を扉に挟んだような高い声を上げた。

「闘蛆って、蠅の幼虫にお金をかける遊びじゃないか」

「ちょっとした息抜きだ。緊張を強いられる仕事だからな」

 その後は館に着くまで二人とも口をきかなかった。翌日もその次の日もレーダー探しは続いた。午前の探索を終え彼らは屋根のない家でバスケットを開けた。コルの作った弁当が詰まっている。

「うまいな」

 彼は卵とキノコのサンドイッチを頬張る。

「たまにはいいね。外で食べるのも」

 ミアはサラダの多肉植物にフォークを刺し、口に運んだ。はち切れそうな肉厚の葉に白い歯を立てる。

「それにしても静かだ」

 食事を終え彼は椅子にもたれていた。耳を澄ませると廃屋の裏を流れる小川のせせらぎが聞こえた。

「クロヴィスさんの町は賑やかなんですか」

 コルが皿についたソースを布巾で拭う。彼はあくびをして笑った。

「賑やかなんてものじゃないさ。道路はいつもごった返してるし、隣の部屋からえらい音量のラジオが聞こえる」

「隣の部屋、ですか」

 コルは不可解そうな顔つきで手を止めた。

「上は人が密集して住んでいるんだよ、コル」

地図を開いていたミアが補足を加えた。

「それは落ち着けないですね」

 皿をバスケットに戻す。白い無地の皿に羊歯の葉から木漏れ日が落ちた。

「そうだな。宣伝ビーががなり立てるし、夜中も明るい。ここに来てからの方がよく眠れるよ。なあ、次はここはどうだ——」

 彼はミアに渡された地図を机に置き指を押し当てた。彼女は首を横に振る。

「地下の建物が崩れて地面は穴だらけ、その周りにはふかふかの草むらが繁ってる」

「これ以上落っこちるのは御免だ。よそを当たろう」

 パン屑をはたいてトータスに戻るとき、荷台に見慣れないトランクを見つけ覗き込んだ。ペンで落書きがされていて、彼は首をかしげた。彼にはそれが何かは分からなかったが、一目見て動物だと分かる程度にはよく描けていた。

「ミアのです。簡易の浮揚器を持ってきたって」

 コルがランチマットを持つ手を振った。彼はそうか、と返事をして運転席に入る。荷台にミアが乗り上げ助手席にコルが座り、トータスが車高を上げて動き出す。落とし穴地帯を避け彼らは三日間羊歯の林を這い回った。林が途切れる場所まで進み、浮竜の筋肉層まで達する渓谷に恐れをなして帰宅した。その夜。

「よくない報せがあるよ。聞くかい」

 古い民芸品の並ぶ部屋で彼が煙草を吸っているとミアが入ってきた。鼻をひくつかせ顔をしかめる。

「ただでさえ喉痛めてるのに自分から痛めてんの。訳分かんない」

「分からなくていいこともあるんだ。報せとは」

 煙草を灰皿に押しつけた。ミアは前髪の上を漂う紫煙に息を吹きかけて穴を開けている。

「嵐が来そうなんだ。二、三日中に」

 彼は吸い殻を見つめ脚を組んだ。

「バルーニングをするしかないか」

 煙は空調機に吸われ薄まっていく。ミアはわざとらしく咳き込んだ。

「半年前だったかな。風船にぶら下がった死体を見たよ。骨になってた」

 彼はライターの蓋を親指で開け閉めしている。

「そのときコルは」

 ミアは煙草の箱を手に取り、扇いで匂いを嗅いだ。

「幸い顔が真っ白になるだけで済んだ。その前は立ち眩みで倒れたから」

 彼はコルの手の箱から煙草を抜き火をつけ吸った。灰皿に二本目の吸い殻を加える。

「コルには僕から伝えておくよ」

 彼に背を向けミアが言った。

「頼む」

 ドアノブを回し暗い廊下に踏み出すと、彼の靴底で転がるものがあった。光の消えかけたケミカル・ライトだった。翌朝、コルの姿が消え、ガレージのリザードもなくなっていた。

「おじさんは先に行ってて」

 シャッターが開き切るのを待たず彼はトータスのエンジンを吹かしている。

「君はどうする」

 ミアはトランクの鍵に手をかけた。

「準備に時間が要る。必ず追いつくから」

 彼は落とし穴地帯へ向かった。獣の尻尾のような、房を連ねた苔の平原にリザードが倒れている。ロープを背負い、彼はコルの名を呼び見渡した。すると、平原に紅い光がある。ケミカル・ライトの光だ。その先に、さらにその先にも点々と続いている。ナイフで苔を切り払って進むと光の消えた付近で足が苔を踏み抜いた。ケミカル・ライトが風の吹き上げてくる空間へと落ちていく。彼はロープを伝い第二の地面へ降り立った。紅い光に囲まれてコルが倒れている。

「クロヴィスさん、お怪我は」

「こっちの台詞だ」

 コルは足音で目を覚ました。第二の地面は腐って形を失った苔と砂でできていた。

「おーい」

 コルは肩越しに真上へ手を振った。ミアの車椅子が車輪を輝かせ、落とし穴の上で浮いている。車輪にハイローが取り付けられ高く細い音を出していた。

「そんな便利なものがあったのか」

 肘掛けのレバーとボタンを操作しミアが垂直に降りてくる。

「いやー、非常時しか使いたくないんだよね。もう生産してないし——」

 朽葉と空気が重なる地面を車輪が踏み、滑った。車椅子が横転する。

「クロヴィスさん、これ」

「ああ、間違いない」

 コルと彼が車輪が滑った場所の土を手でかき分けるとキャノピーのフレームが姿を現した。細かなヒビで白くなったガラスの奥に薔薇の紋様がある。

「ちょっと、おい、手を貸しておくれよ」

 投げ出されたミアがもがいている。

「ここの土フカフカじゃん。大丈夫でしょ」

 コルは言い捨てると、彼と手分けをしてキャノピーのネジを外し始めた。

「僕が大丈夫かどうかは僕が決めることで——あっ、虫が服に」

 キーを挿し、ボタンを押したままレバーを引くとレーダーがユニットごとごろりと外れる。土を耕す虫たちに別れを告げ彼らは落とし穴を後にした。

「昨日は酷い目にあった。耳に土が入ってさ」

 ガレージでミアがぼやく。ワスプにはレーダーを移植済みだ。コルの姿はない。

「寂しくなるから来ないってさ。あと伝言」

 彼は操縦席に入り操縦桿を傾ける。ワスプの翼が小気味よくよじれる。

「賭け事はほどほどに、ってさ」

 翼の形がニュートラルに戻る。

「聞かれていたのか。参ったな」

 彼はゴーグルをかける。ヘルメットには娘が描いた落書きがある。

「僕からはこれを」

 羊歯の葉を封入した栞を二枚、取り出した。羽毛にも氷晶にも見える輪郭と、瑞々しい色彩を保っている。

「ありがとう」

「一枚は娘さんの分ね」

 計器盤の薔薇の隣にクリップで栞を留めた。

「本当に世話になった。この礼は——」

「いらないよ」

 ミアは車輪を手繰って背を向け、扉に向かう。

「僕たちはケチじゃないからね」

 エンジンの熱量が高まっていくワスプに振り返り、そう言って扉に手をかける。

「最後に聞きたいことがある」

 閉じかけていたキャノピーから彼は身を乗り出し、トータスの荷台を見てエンジンの音に負けぬよう声を上げた。

「君のトランクに描いてあったあの動物。何て言うんだ。浮竜か、魚かに見えた」

 車椅子が四分の一回転しミアが半身を向けた。

「ああ、あれか。」

 そのときのミアの横顔は寂しそうでも、嬉しそうでもあったと言う。

「鯨だよ。浮竜ほどではないけど大きくて、魚のように海に住んでいた。脚がなくて泳ぎっぱなし、浮きっぱなしというのもワイアームと似ているかもね」

 扉の閉まる音がした。ミアの姿はない。キャノピーを閉めると機体の前方でシャッターが上がっていく。その向こうにはまたシャッターがある。彼のいる館の中から天蓋の外まで、ムカデのようにシャッターが並んでいるのだ。壁のスピーカーからミアの声がする。

「楽しかった。帰り道に薔薇の加護がありますように」

 彼は敬礼をして操縦桿を握った。最後の一枚のシャッターが開き、流れ込んでくる毒の風に抗いワスプが前進する。視界は悪いがホーネットからもらったレーダーは天と地と、帰るべきセント・メアリセレストを震える光点で示している。道路を滑走路にして竜の背から羽虫が飛び立つ。


 空調機の風は栞の紐を揺らしている。奥さんとの喧嘩についての辺りから手に取って話を続けていた。

「こうして俺は帰ってきたのさ」

 栞を書類の頂きに戻した。彼、クロヴィス・ベルナー氏のこの体験について私は何度も本で読んだことがある。中には、特に大衆誌に掲載された記事の中には扇情的な脚色がされたものがあったりもした。彼の家庭が壊れなかったことこそが薔薇のご加護ではないかと私は思っている。

「誠に興味深いお話でした」

 資料、この羊歯の栞を返却するにあたり直接話を聞けるよう、教授に頼み込んだのだった。資料の傷みなどに問題がないか尋ね、彼は貸す前より葉が増えてるんじゃないかなどと言ってから、栞を置いた。

「実はこの話には本に載ってない続きがある。聞くかい」

 私は前傾して頷き万年筆を握っていた。

「コルは見送りにきていたようなんだ」

 筆跡がぶれる。どんなインタビュー記事や物語風にまとめた本でも、彼はコルと会わずに帰路についたことになっている。

「ようだ、というのはどういうことでしょう。はっきりと見えなかったということですか」

 古い大衆誌の表紙を開こうとする彼につい先走った質問をしてしまった。

「コルの姿そのものは見えなかった。天蓋の外で薔薇の色、紅い光が揺れていたんだ」

 彼は表紙をめくるのを止めた。当時最新モデルだったリザードの広告がある。手を組み、顎を乗せた。

「手を振るように動いていた」

 ペン先の動きを止めたまま、私は黙っていた。インクの滲みが広がっていく。空調機の音に弾ける音が混ざり、彼の瞳が電灯を向いた。蠅か虻だ。彼は立ち上がりジャブを放つ。差し出された手を覗き込むと、緩く握った掌に蠅が生け捕りにされていた。

「逃してやろう」

 もう話もあらかた済んだところである。私は部屋の扉を開け廊下に立った。彼は手を握ってしまわないよう、片手を庇いながら出てくる。

「闘蛆は辞めたよ」

 ベンチのある広間で彼は手を開いた。飛んだ蠅が隅の観葉植物にとまる。

「蠅も生き物だからな。教育に良い訳がない」

 窓から差し込む西陽で表情はよく見えなかった。

「どうして、お話ししてくれたのですか」

 私たちは玄関ホールまで降りてきた。女性の事務員に手を振っていた彼が目をこする。

「時効だと思ったのもある。お偉いさんから例の話だけはするなと言われていた」

 尤もな話に思えた。もし生身で低層大気に出られる人間がいると噂になれば、軍と警察を出し抜く野心を抱く輩も現れるだろう。

「それと」

 蠅を捕らえていない自由な手で鞄から栞を取り出す。

「君があの姉妹に少し似ていたからさ。これはあげよう、薔薇のご加護を」

 操縦こぶのできた指が栞を弾き羊歯の葉が宙を舞う。私はバッグを放って手を伸ばしたが栞は指をすり抜ける。着地寸前で掬い上げたときには、彼は玄関エアロックに入り内扉を閉めてしまった。外扉が開き再び閉じるまで開かない仕組みだ。

「姉妹ってどっちです。ミアですか」

 曇ったアクリルガラスを叩く。彼は外扉が解放されるまでの間に煙草に火をつけて吸い、手を振って煙とともに出て行った。

「薔薇じゃなくて羊歯じゃん」

 バッグを拾い私のものになった栞を手帳に挟む。隣のエアロックから出てきた学生カップルがこちらを見ている。私は足早に玄関ホールを横切った。

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むくろの航路 コルヌ湾 @shippo560

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