むくろの航路

コルヌ湾

プロローグ 黄昏の終わり

 黒い波が粗く白い砂に打ち寄せていた。陸には風を遮るものがなく、小石も岩山も滑らかで酷薄な影を落としている。全ての色が混ざった海原と対照的に空気は澄み渡り、乾いていた。海を見下ろす高台には墓碑が並び、北側の壁一枚を残して礎石だけになった建物があった。かつて門だった石柱を律儀にくぐり、出ていく二人の人影がある。一人は車椅子に乗りもう一人が押していた。

「ミア」

 風に砂利が吹き払われてできた筋を、車輪が横切る。

「私たちにできることは、本当に何もないの」

 車椅子を押す少女からの問いかけだった。右目にガーゼの眼帯をつけている。

「コル、その話何度目だっけ」

 浅く腰掛けているのは後ろの少女より二、三歳年上に見える少女だ。鼻にかかる声で返事をし、目を伏せて勾配に気を配っている。二人の着衣は影のように黒い。

「ないよ。少なくとも生きてる人にできることは、僕たちにはない」

「そう」

 コルは雲の垂れ込める空を見上げた。煮立った鍋が天地逆さになったように雲が湧き出ては吸い込まれている。

「降りてきてくれたらいいのに」

 コルのぬるいため息はミアのつむじに届いた。

「ここの空気じゃ人間は半日も保たない。仮に降りてきても、浮竜ふりゅうなしじゃ」

 ミアは後ろ髪を撫でつけて首を横に振る。コルは曖昧な返事をした。

「生活に必要なもの、作ってくれてるものね」

 緩い坂をてらてらと光る海へ降っていく。白と黒の海の間に小さな山が横たわり、火を燻らせていた。

「コルは人間が好きなのかい」

 ミアが顎を上げて尋ねた。

「うん。慎ましくて好ましい」

 ミアはその答えを何度か反復した。コルは胸に息を吸い込む。

「いつか落ちる船旅だって、分かって暮らしているでしょう」

 波打ち際に横たわる山で破れた翼膜がはためいている。肩から脇腹にかけて筋肉と鱗が谷間を刻み、急峻な山並みを生んでいる。ミアは座り直して深く腰掛けた。

「こいつは死齢しれいいくつくらいだろう。住民ともどもお疲れ様としか言えないよ」

 山の、墜落した浮竜のこぶがガスで破裂した。こぶに築かれていた桟橋が砕けて風に流されていく。ミアは臭気に顔をしかめたがコルは話の続きを語る。

「この浮竜で暮らしていた人たちもそうだった。ほら」

 投げ出され運転席の潰れたトータスが浅瀬で揺れている。積んでいるのはデイジーの花が描かれたタンクで、ひしゃげて中身の液体がこぼれている。

「うん、慎ましいね。それは分かる」

 洞窟のように口が虚ろに開き、その端には日照りの沼のひび割れがある。浮竜の眼球を保護する遮光鱗しゃこうりんだ。山脈のような頭に近づくに連れ散乱する日用品が増えていく。食器や衣装棚、ゴーレムの手首など。ミアはうつむいて顎に手を触れた。

「でも僕としては、その慎ましさをもう少しだけ早く発揮してくれていたら、と思うんだ」

 車輪の回転が止まり、ミアの上体が揺れる。グリップから手を離したコルがスキップで駆けていく。

「ミアも同じじゃん」

 腐敗ガスで膨らんだ浮竜の腹を背に、コルは笑っている。

「同じなもんか。まあいい、始めよう」

 ミアがブーツの紐を解くのに手こずっているとき、浮竜の体に残った最後の浮力が尾びれを持ち上げた。石化した皮膚と蕩けた筋肉が剥がれ落ちる気配を感じ、コルがミアを置いて猛然と高台へ駆ける。見えざる力で尾びれは吊り上げられ、反っていく。そして最も大きくたわんだ箇所で折れた。胴体側と尾びれ側の両方が崩れ、腐汁を撒いて落ちていく。むくろが海面を打ちミアは頭からつま先まで黒いしぶきを浴びた。

「気づいてたんなら助けろよー」

 ミアは手を拭い目元を拭ったが海水の垂れてくる速さに追いつかない。コルがにやにやと笑いながらタオルを取り出し砂を踏む。

「意地悪なこと言うからだよー」

 使い古しのタオルを投げつけた。浮竜の口から低く遠い声が漏れ、薄曇りの海岸に響き渡った。

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