グルニエ

ととりとわ

グルニエ

「私やっぱり、グルニエが気に入らない」


 転居先に向かう車の中で夫に言ってみた。

 夢にまで見たマイホーム。

 便利な都会の暮らし。

 ただし、一点だけ不満がある。屋根裏を利用した収納、グルニエが私は好きじゃない。

 夫は前を見たままニヤリと笑った。


「今さらそんなこと言ったってしょうがないだろう? 荷物がたくさん入っていいじゃないか」

「だって、あれなんだか怖いじゃない。お義母さんは結局老人ホームに入って、そんなに収納もいらなくなったんだし」

「だから、今さらそんなこと言うなって。君だっておふくろとの同居をあんなに嫌がってたじゃないか。胸のつかえも取れて、むしろ今日の引っ越しを楽しみにしてると思ってたんだけど?」

「やめて、佳乃がいるところでそんなこと言うの」


 窘めると、彼はバックミラー越しに四歳になる娘を見た。私も助手席から振り返ってみたけれど、今日は早起きしたせいか午前中なのによく眠っている。


「お姫様はぐっすり寝てるよ。まあ、君はお腹が大きくてグルニエには上れないんだから近寄らなきゃいい。それでうるさい姑が付いてこないならこんなに幸せなことはないだろう?」

「また、そんな言い方して」


 睨み付けると夫はくすくすと笑った。



 転居先までは車で三時間ほどかかった。引っ越し業者は手際よく荷物を配置してくれたけれど、それでもすべてが終わったのは夕方に近い頃だ。ご近所への挨拶ののち、回転寿司店でささやかな引っ越し祝いを済ませて帰る頃には夜の九時を過ぎていた。

 佳乃は車で寝てしまったから、掃除は明日にして今夜はダンボールに囲まれた部屋で寝ることにする。夫と交代でシャワーを浴び、二階の和室に川の字で寝た。



 疲れているはずなのに、慣れない場所のせいかなかなか寝付けなかった。夫はすでに高いびきだ。この大轟音のなか、あいだに寝ている娘の佳乃はよく起きないな、と思う。

 喉が渇いたのでキッチンに下りて水を飲み、また二階へ戻った。トイレを済ませて部屋に入ろうとした時に、微かな異音がすることに気付いた。


 キィ……  キィ……  キィ……


 金属が擦れあうような、一定間隔の音だった。

 ……何の音…?

出所を確かめたくてよく聞こうとすると、廊下にまで洩れる夫のいびきの中に紛れてしまった。

 この時間に動いているのは、換気扇と前の持ち主が好意で置いていったエアコンくらいだ。買ったばかりで不具合とは気分が悪い。これだから中古物件は困るのだ。

 取りあえず夫には明日報告しよう、と音に背を向けて寝室へと戻った。


 私がそのことを夫に話したのはそれから四日後の朝のことだった。あの音が気になって眠れない夜を過ごしていたけれど、たまたまだった、ということもあるから様子を窺っていたのだ。

 音は毎晩続いた。しかも、徐々にだけれど少しづつ大きくなっている気がする。


「ふーん、変な音がねえ。ま、別に生活に支障があるわけじゃないし、音ぐらいどうってことないんじゃないの?」


 他愛もない、という感じに言い捨てる夫に腹が立った。少しバカにもしているようだ。


「ねえ、明日休みでしょ。今晩起きて付き合ってよ」

「わかった」と渋々了承して、夫は仕事へと向かった。


 佳乃を幼稚園へ送り、家事をひと通り済ませて二階へ上がった。キィキィという音は昼間は聞こえないようだ。他の雑多な騒音に掻き消されているらしい。



 夜になり、佳乃が寝付いたので夫をいつも音が聞こえるところに連れていった。二階の廊下、トイレのドアの前だ。


「……何も聞こえないけど」


 夫が言う。そんなはずはない。もう一度ふたりで耳をそばだててみた。

 ……本当に聞こえない。

 念のためトイレの中を覗き、ふたつの洋室にも入ってみたけれど特に怪しい点はない。


「道路の音が邪魔してるのかもしれないから、ちょっと時間をおいて――」

 と私が言った瞬間、コトリ、と物音がした。はっ、とふたりで顔を上げた。


 ……グルニエだ。ちょうどトイレの前の天井にはグルニエに上る蓋がある。


 途端に心臓を早鐘が打ちはじめ、私は夫にしがみ付いた。

 この家を最初に見た時から何となくここが気に入らなかったのだ。誰かがいるような、嫌な気配がする。


「中の物が落ちただけだろう。だいぶ適当に置いたから」


 ちょっと見てみるか、と金具に引っかける金属の棒を取る夫を引き留めた。


「待って、怖い」

「何を子供みたいなこと言ってるんだよ。音が気になると言ったのは君じゃないか」

「でも」


 夫はそれでも開ける気らしい。私に構わず棒を引き具に引っかけたので、彼を置いて寝室に逃げ込んだ。

 静かな寝息を立てている佳乃に覆いかぶさり、襖の隙間から廊下を覗いた。

 折りたたみ式の階段が下ろされ、彼が上っていった。ちょうど今いる和室の天井から微かな足音がする。

 しばらくして、夫が寝室に戻ってきた。特に異変はないと告げた。


「気にし過ぎだろう。引っ越しで気疲れしてるだろうし、今は妊娠中でいろいろとナーバスになっているだろうしな。土曜は佳乃とどこかに出掛けて気晴らしでもしよう」


  

 あれから一週間が経った。

 異音問題は特に解決するわけでもなく、進展するわけでもなく、私だけがあの音に夜ごと苛まれた。この家に越してきてから十日余り。たったそれたけで疲れはピークに達し、つわりではない吐き気とだるさに襲われていた。


 キィイ…… キィイイ……


 きっとグルニエには何かが棲みついている。

 馬鹿馬鹿しいと思うのに、そう思うことを止められなかった。

 だからひとりでは二階へ行かない。その何かは天井裏から私たちを絶えず見下ろしていて、夜になると唯一の出口である廊下の蓋に張り付いて外に出る機会を窺っているのかもしれない。

 夫にはもう何も言わないことに決めた。妊娠をネタに頭がおかしい女だと思われるのはいい加減癪に障るし、お腹の中の子供と一緒に馬鹿にされているみたいで腹が立った。


 寝不足で霞のかかった頭を押さえながら、売買契約書のファイルを漁った。あった。重要事項説明書だ。

 ネットで調べたサイトによると、もしもこの家に忌まわしき過去があるならここに記載があるらしい。

 難しいことを書いた書類を隅々まで見たけれど、特に何も書かれていなかった。売主に聞いてみようかとも思ったけれど、それはさすがに踏み止まった。夫に叱られるどころか、ついに気が狂ったかと心配されてしまう。


「おかしいよね……人が死にましたか? なんて聞いたら」


 ダイニングテーブルに肘を突き、顔を両手で覆った。そこへ、ぺたり、と汗ばんだ小さな手が腕を掴んできた。 


「ママ、どうしたの?」

「ううん、なんでもないよ。……心配かけてごめんね」


 艶のある髪を撫でてやると、佳乃はぱたぱたとどこかへ走っていった。戻ってきた時には自分が遊んでいたのと対になったウサギのぬいぐるみを抱えていた。

 はい、ママ、と言って手渡してくれる。


「ミミちゃんが応援してくれるよ。あと、佳乃も」

「ありがとう。佳乃は優しいね」


 うん、と佳乃は嬉しそうに頷いた。


「あのね、ママ。二階の階段のとこに何かあったの」


 どきっ、とその瞬間に心臓が跳ねた。二階の階段、とはなんのことだろう。まさか、天井のことだろうか。


「何かって、なに?」

「上の方からね、なんか黒いものが――」


 言い掛けた佳乃の肩を両手で掴んだ。


「……何がいたの?」


 尋ねても佳乃は何も言わない。ただ怯えたような目つきで私の顔を見て、そして肩越しに私の後ろの壁をちら、と見た。


 ……なに? 後ろに何かいるの?


 恐ろしくて振り返れない。佳乃は私の目と後ろの壁とを交互に見た。震える口角がじわじわと下がっていくのを見たら、何故だか苛立ちを覚えた。いけない、と思いつつも肩を掴む手に力が入ってしまう。


「佳乃」

「う、う……」 

「何がいるのか、はっきり言いなさい!!」


 一瞬、佳乃は、くしゃっ、と顔を歪めて大声で泣きだした。ただでさえ疼いていたこめかみに、きん、と金属のような声が突き刺さる。その瞬間、自分がしたことに深い後悔を覚えた。


「佳乃、ごめん。ごめんね」


 抱きしめても佳乃は泣き止まず、棒のように突っ立ってわんわんと泣き続けた。

 私は一体何をやってるんだろう。佳乃は悪くない。ついさっきだって、あんなに優しく慰めてくれたのに。



 次の日は夫が急遽休みを取ってくれた。昨日、佳乃が言っていた黒い何かのこと、それが原因で佳乃を泣かせてしまったことを話したらいよいよダメだと思ったらしい。

 気晴らしにどこかへ出かけようという話になり、水族館へ行くことになった。

 水の中で優雅に泳ぐ生きものには確かに慰められた。けれど、やはり気付けばいつの間にかグルニエのことを考えている。青く薄暗い通路の天井にはところどころに点検口があって、いちいちグルニエの蓋を思い出させた。

 帰りに大型スーパーへ寄ってバーベキューの材料を買った。とてもそんな気分にはなれないけれど夫は乗り気だ。 


「うーん……このところ雨が多かったから炭が湿気たかな? 綾子、うちわ持ってきて」


 バーベキューコンロの前で彼が唸る。分かった、と言って家の中に入ってから気づいた。うちわがしまってある段ボールは二階の和室にある。

 玄関に入って、他に代用できるものがないかと見渡した。新聞はまだ契約していなかったし、ノートやファイルのような文具はすべて二階に上げてしまった。

 仕方なく階段を上がることにした。中間地点のカーブしているあたりに差し掛かり、睨み付けるように顔を上げた。


 キィィイイイイ…… キィィイイイイ…… キィィイイイイ……


 まだ早い時間だというのに、もうあの音が聞こえてきた。しかも大きい。得体のしれない生きものが呼吸をするような、一定間隔の音だ。


 キィィイイイイイイ…… キィィイイイイイ…… ギィィイイイイイ……


 鼓動が急激に速くなり、自然と手がシャツの胸元を握った。

 気のせいだ。ただ音がするだけだ。この間夫が上った時だって、何もなかったじゃないか。

 残りの階段を蓋を威嚇するように睨みながら上がった。一瞬でも目を伏せたらその間に何かが顔を覗かせるかもしれない。

 唸り声に背を向けないようにして洋室に入り、まだ整理していない段ボールをひとつひとつ開けてみた。その間も気持ちは絶えずグルニエを窺う。

 こっちは衣類、こっちは佳乃のおもちゃ。ガラクタ。手が震えて思うように進まない。どうしてさっさと片づけてしまわなかったのだろう。

 みし、と床が軋む音がして身体が飛び跳ねた。天井からだ。みし、みし、と床を踏む音が、扉のある方向へと向かって移動しているようだ。


 ――グルニエから何かが出てこようとしている。


 そうとしか思えなかった。もううちわなんてどうでもいい。なんとかここから逃げなければ。あの足音が『蓋』に辿り着く前に。

 よろめきながら扉に達するのと、天井の足音が止まるのと一緒だった。 


 キィィィイイイイイ……

 キィィィイイイイイイーー

 ギィィィイイイイイイイーー

 ギギキィィイイイイイイイーーーーー


 どこから聞こえているのか最初は分からなかったほどの音が、今や蓋から大音量で響いていた。この音なら庭にいる夫にも聞こえているはずだ。しかし彼はやってこない。ということは、私にしか聞こえていないということか。

 立てかけてあった金属の棒を掴み、天井のフックにかぎ状になった棒の先端を引っかけた。

 もう終わりにしたかった。このままこの音に苛まれていたら本当に気が狂ってしまう。


 ゆっくりと、恐る恐る下に引く。と同時に、あれだけ強いアピールをしていた音がぴたりと止んだ。

 大丈夫、覗くだけ。

 妊婦だから上までは上がらない。

 そう思いながら梯子を上る。そろそろと額をグルニエに突き出してみると、生暖かい淀んだ空気が鼻をついた。


 グルニエの内部を見るのは初めてだった。天窓から差し込む月明かりに照らされて、暗闇にあるものがぼう、と浮かび上がる。扇風機の箱、空気清浄機の箱、佳乃のおもちゃの箱。

 と、和室の真上あたりの壁の前に四角い何かが置かれているのが目に入った。暗いし、遠くてはっきりしないけれど、見覚えのないものだ。

 目が慣れてきたところで、柱に照明のスイッチがあるのを見つけた。躓かないようにお腹を押さえてグルニエの中に上がり、スイッチに手を伸ばす。そして、明かりの中に見つけたものに私は息をのんだ。

 突き当りの床の上にあったのは小さな真新しい仏壇だった。扉はほんの僅かだけ開いていて、中には写真立てに入った誰かの顔がある。

 夫は次男だし、私は両親が健在なので仏壇なんて持っていない。まさか、夫が義母の荷物の中から持ってきたのだろうか。そうだとしたら、何故内緒にするのだろう。しかも、こんなグルニエなんかに置いて。

 胸にじわじわと嫌なものが広がった。背中を襲う寒気も止まらない。ゆっくりゆっくり、近づいて隙間からその写真を見る。その瞬間、あっ、と大きな声を上げそうになった。

 お、義母さん……?

 息をするのも忘れそうなくらいに混乱した。小さな黒い枠の中にいるのは間違いなく夫の母親だ。これじゃあまるで――

 はっ、と後ろを振り返った。下ろしたままの梯子から誰かが上ってくる。


「綾子」


 床の下から顔を出した夫の顔に、ホッとして涙が込み上げてきた。なかなか帰ってこないことを心配して様子を見に来たらしい。


「どうしてここに上ってるんだよ。危ないじゃないか」

「だって」


 こうなった経緯を話そうとした瞬間、コトリ、と背後で音がした。心臓をぎゅっ、と鷲掴みにされた気がした。そろそろと振り返ってみると、完全に開ききった仏壇の扉の外に、義母の写真が倒れている。

 どうして――。

 さっき見た時には、扉はほんの数センチしか開いていなかったのに……!


 夫は何食わぬ顔で身を屈めながら仏壇のあるところまで歩いて行き、写真を元の位置に直した。


「ねえ、これ……どういうことなの? お義母さん、老人ホームにいるんだよね……?」

「この写真、何故かちょいちょい倒れるんだよ。どうしてだろうな」


 彼は背を向けたままはぐらかした。


「ちゃんと質問に答えてよ。お母さんどこの老人ホームに入ったの? お義母さんがひとりで暮らしてたあの家、結局どうしたの?」


 ゆっくりと夫が立ち上がった。低い天井に合わせるように、背中を丸めたまま。私に背を向けたまま。


「お前がおふくろと同居したくないって言うから」

「……え?」


 ぼそぼそと話す彼の声がよく聞き取れなかった。

 この時までは彼を信じて疑わなかった。

 今日見たものすべてを、何かの間違いだと思いたかった。

 彼はゆっくりとこっちを振り返った。


「おふくろ、かわいそうだった。……きっと最後の瞬間まで、何が何だか分からなかったと思うんだ」

「なに……なんの話?」

「……苦しくて、苦しくて、どす黒くなった顔をパンパンに膨らませて、俺の腕をしわしわの指で引っ掻いてさ……針の先みたいに狭くなった喉から絞り出すように、朋樹ィィ、トモキィィ、って――」

「やめてーーーーーーーーッ!!!!」


 咄嗟に両耳を塞いだ。

 聞きたくない! 恐ろしいッ! 


「まさか……あなたまさか、お義母さんを……殺したの!?」


 夫は何も言わなかった。ただ私のお腹のあたりに視線を落としたまま、瞬きもしない。

 毎日一緒に生活を共にしていた夫が、自分の母親を手に掛けたなんて。

 受け入れられない。そんな汚れた手で私の身体に触れていたなんて……!

 その時、夫の背後にある仏壇からどす黒いしみがじわじわと床を伝ってくるのが見えた。同時に、止んでいたあの音がその黒いしみから響きだす。


「なあ、綾子」


 血なまぐさい手が私の腕を掴んだ。瞬間、全身が総毛立つ。


「触らないで!! 近づかないでよ!」

「行かないで、くれよぉ」

「いやーーっ、来ないで!!」


 ガクガクと震える足で後ずさった。

 階下からはわんわんと佳乃が泣き叫ぶ声。黒い影は夫の顔をした殺人鬼を後ろから飲み込み、逃がさない、という風に絡みつく。


「あ、や、こ――」


 狭いグルニエの中で、黒い影に包まれた気味の悪い笑顔が徐々に迫っていた。

 横に大きく広がった口。鬼が人を食らう時のように剥き出しになった犬歯。


「どこにも、イカナいで」


 キィィイイイイーーーー ギィィイイイイイイーーーーー トモギィィイイイイーーーーー


「ママーーーーーーー!! ママァアアアーーーーッッ!!!」

「俺を置いていくなよ、あやこォォ」

「いや、いやぁぁああーーーーーーーーっっ!!!!」


 その瞬間、身体が宙に浮いて、全身に激しい痛みが走った。大きな衝撃音を耳にした理由を考える間もなく、そのまますべてが真っ黒に塗りつぶされた。



 どこか知らない場所で目が覚めた。白い天井、パウダーベージュのカーテン。腕には点滴の管。どうやら病院のベッドの上らしい。


「……綾子!」


 カーテンの向こうから顔を覗かせた夫が目を大きく見開いている。


「ああ、よかった。目が覚めたのか」

「うん。……これ、どういうこと?」

「何も覚えてないのか?」


 そう聞かれて、ここ最近の記憶がないことに気付いた。断片的に思いだせることはある。引っ越しをしたこと、娘が大事にしていたウサギのぬいぐるみ、今妊娠七か月であること。

 しばらく無言でいる私を心配したのか、夫が手を握ってきた。


「俺が分かる?」

「うん、朋樹さん。……ううん、そういうことじゃないの。どうしてここにいるのかが分からないだけ」

「そうか……。君は階段を踏み外して一階に落ちたんだよ。僕に任せておけばいいのに、引っ越しの段ボールを二階に上げようとするから」

「二階に?」


 うん、と彼は頷いた。

 確かに、いつまでもおもちゃの入った段ボールが居間にあったことが気には掛かっていたけれど。……妊婦の自分がそんな危険なことをしたのだろうか。まったく記憶がない。


「ねえ、グルニエ……もう片付いた?」


 尋ねると、夫がきょとん、とした顔を向ける。


「グルニエ? そんなもの、うちにはないじゃないか」

「え……?」

「いろんな記憶がごっちゃになってるんだろう。家のことはしばらく忘れてゆっくりするといい。君と僕の『初めての子』がお腹にいるんだから」


 と言って、彼はあたたかい手を私の大きなお腹にそっと置いた。

 なんだか狐につままれたような気分だ。記憶喪失なんて、ドラマでしか見ないものだと思っていた。


「私、本当に混乱してるみたい。幼稚園くらいの女の子がいる気になってた。佳乃、っていう名前の」

「君はずっと女の子がいいって言ってたからな。よし、女の子が生まれたら、佳乃って名前にしよう」


 彼は私の手を強く握り、唇をにいっ、と大きく横に広げて笑った。

 その笑顔を見た途端、どういうわけか背中を戦慄が駆け抜けた。何か、とても重要なことを忘れている気がした。

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グルニエ ととりとわ @totoritowa

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