第90話 俺とゆめりの関係論5

「なあ、そういやもう部活後に美術室には来ねえの?」


 内心の悶えを押し隠し、俺はふと思い出した疑問をゆめりに投げかけた。


「ああうん、もう大丈夫だし」

「大丈夫って?」

「だってあの美人な部長さん引退してもういないから」

「部長様? 何だそれ?」

「わからないならわからないで良いわよ」


 しれっとしているが、たぶんこの話題を引き伸ばしてもこいつが不機嫌になるだけな気がする。まあ勘だが。

 そういうわけで話題を切り上げのんびり並んで歩いていたが、俺は俺の両手がチャリで塞がっているのを少し残念に思っていた。たまには俺も歩きにしようかね。

 でもまあ片手でハンドルを押せば繋げない事もない……か?


「ゆめり」


 ついつい呼んでしまえば、奴は足を止めキョトンとした顔付きでこっちを見る。


「どうかした?」

「えっいや、俺もこれからはたまにバスにしようかと思って。どう思う?」

「どう思うって……あんたの自由でしょそんなの」

「う、そうだよなーハハハ」


 何だよ、一緒に通学できるねって嬉しがると思ったのに。すると奴はにこりと余裕の笑みを浮かべた。どこかこっちの反応を見るような目で。


「――だから、手繋ぎはデートで沢山しましょ?」

「ほ」


 奴の軽やかな声が草原の春風のように心を通過していった。

 実はこいつはメンタリストなのか、まんまと見透かされていたらしい。


「そ、そうだな」


 バレていたのが何となく恥ずかしくて目を逸らす。

 そうすれば道の真ん中で立ち止まっていたのを思い出し、通行の妨げになっていないかと周囲を窺えば、幸い近い位置に通行人は見当たらなかったのでホッとした。

 俺たちの会話を聞かれていなかった仄かな安堵も含んでいたが、やはり俺は付き合い出して浮かれていたのかもしれない。

 人がいなくてちょうど良いと思った俺は、肺に新鮮な空気を送り込んだ。


「ゆめり」

「ん?」

「――緑川ゆめりさん、俺と付き合って下さい!」


 奴はポカンとして唐突な台詞を口にした俺を見つめた。

 もう付き合っているのに何を言っているんだと呆れたのかもしれない。


「ってはちゃんと言ってなかったからその……言いたくなった」

「………………」


 カラスが一羽、カァカァと鳴いて頭上を飛んで行った。アホーアホーじゃなくて良かったよ。

 さすがに長く無言でいられると外しまくったかと不安になってくる。だがそんなものは杞憂だった。


「……ふっ、あはは、ふふっ」

「おおお、お前な、笑うなよ」

「だってふふっ、今更なんだも、あはは、あははは」


 あー正直焦った。だがまあ笑ってるなら大丈夫か。


「ぶっちゃけカッコは付かん……が、俺の中の譲れないけじめとしては必要だったんだよ」

「松くんって、ホント面倒よね」

「悪かったな」


 別段改まっての返事を期待していたわけじゃない。

 だが奴は改まった風に俺に向き直ると、


「はい。喜んで」


 律儀にも答えてくれた。

 無邪気な笑みが眩しい。

 なのに目を閉じようとは思わない。むしろ瞼を上と下に縫いつけてもいいとさえ思う。

 恋人フィルターってのはこうも効果抜群らしい。


「さてと、暗くならないうちに早いとこ帰りましょ。今日はイブだし、帰ったら出掛けるわよ? 時間的にもたぶんちょうどいいだろうし」

「え、出掛けんの?」

「当然でしょ」


 我先にとはしゃいだように前を進む時々怪獣なカノジョ。

 しかももう外出は決定とか、俺の都合は考えないのかね。

 まだ何も言われてないが、きっと明日も連れ出される気がするな。クリスマスデートに。


「何ぼーっとしてるのよ。早くってば」

「へいへい、わーかってます」


 振り返って尻を叩くような台詞を放つ奴にぞんざいに返すと、どうしたわけか頬を赤らめてジト目で見てきた。


「もしかして、計画練ってたとか?」

「何の?」

「だって今日は恋人たちのイブでしょ。でも付き合ってまだたったの一日なんだし、どっか連れ込んで服脱がしてあたしを羞恥に染めようとか不埒な考えは起こさないでよ?」

「おおおっお前は飛躍し過ぎだ! んなこと考えてねえよ!」


 すると今度は愕然がくぜんとされた。


「そんな……! あたしの色っぽいレースの下着とか女体に興味ないの!?」

「ある! っていやいやいや公道で何言わすんだ!」


 うっかり想像して赤くなり、尚且つ泡を食って周囲を見回す。

 無人でマジ助かった。


「もう、そんな顔晒すのはあたしの前だけにしてよ。あと、今は想像しないで」

「はひひゃひゃひ」


 何故かわざわざ引き返してきて俺のほっぺをつまんで伸ばして解すと、あっさりと再び前を向いて歩き出す上機嫌なのか不機嫌なのかよくわからん俺のカノジョ様。

 正直「するな」って言われると逆効果なんだがな。

 俺は言われた通り煩悩を振り払うべく軽く頭を振って、視線を戻す。


 弾む足取り、揺れる黒髪、跳ねるマフラーのしっぽ。


 今視界には奴一人。


 何でもない舗道を背景に目に焼き付く後ろ姿。


 その尊い背中が言った。


「どう? 想像しちゃった?」

「えっ……、っと~……」

「今更誤魔化さなくて大丈夫よ。だって実はあたしね、今まで松くんにあたしを想像してほしくて言ってたんだしね」

「何を?」


「――否定語」


「な!?」

「って言うのかな、今みたいなの。うーんそれか禁止語とか?」

「ななな何で!?」

「その都度余計に想像しちゃって、少しはあたしを意識したでしょ?」

「……っ」

「具体的に描写を入れたのだって作戦だったのよ。ちょっとくらい効果はあった?」


 ハハハちょっとだけなー……って少しどころじゃなかったですハイ。絶大でしたです。全くなー、マジでどちゃくそしたよ!

 声を詰まらせる俺に、依然背中の奴は満足そうにくすりとした。

 くそー、結局はこいつの目論見通り。こいつのペースじゃんな。

 手綱を握るのはいつも緑川ゆめり。

 愉快な悔しさが込み上げる。

 俺とゆめりの関係は、どう論じた所でこの形からは変わらないんだろう。

 そして俺はそう望む。

 いつまでも変わらずゆめりと共にありたい。


「だけどまだ序の口よ」

「え」

「覚悟して、この先もっともっとあたしに溺れさせてやるんだから!」


 欲張りにもくるりと振り返った小悪魔さんは、現状じゃ足りないのか俺を虜にする華やかな微笑みでそんな宣言をした。





「完成したし、今日ついでに見せるかな」


 家に帰って早速出掛ける用意をする俺は、部屋の机に置かれたスケッチブックに視線を投げた。

 学祭後密かに描き始めた一枚がその中にはある。

 一昨日にはほとんど完成していたその絵は、昨日遅く、ようやく全てを描き入れる事で完成した。

 トラウマのせいで一日数本しか線が引けなくとも連日描き進めていたんだ。

 まあ絵と言っても鉛筆画だ。


 一人の少女と、その少女に抱き付かれている幸福そうな一匹の犬の。


 昨日まで少女には顔がなかった。


 誰でもない誰かだった。


 しかし、紛れもなくゆめりと彼女の飼い犬だったミストがモデルのそれは、俺の記憶と印象を忠実に再現していると我ながら思う。

 昨日、全てを知ってから描いた線は、残念ながら全くブレなかったわけじゃない。

 一度刻まれた心の傷はそれが思い込みだったとしても簡単には癒えないのを理解した。それでも症状はかなりマシにはなっていた。冷や汗が滲むなんて激しい拒絶はなかった。

 俺はこの先きっと以前のように描けるようになる。少しずつ少しずつ、気付いたら元に戻っているって、そんな確信があった。


「これ見たら何て言うかな」


 決してもう起こり得ない、今のゆめりとミストの触れ合い。

 ゆめりの輝くように笑う表情を描き込んだその絵にきっとあいつは驚いて喜んで、それから描けて良かったと我が事のように安堵してくれるだろう。

 その時の姿も俺は絵に落としこみたいと欲するに違いない。


 願わくは、緑川ゆめりという女の子をずっと傍で見ていたい。


 加えて、向こうにもそんな風に俺を想ってほしいなんて傲慢にも思う。


「そろそろ行くか」


 手早く着替えて出掛ける用意を済ませた俺は、どこか満たされた柔らかな気分で机の上のスケッチブックを手に取った。

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俺の潜在意識は彼女を理解できない まるめぐ @marumeguro

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