9th --- mizushima

 穴の縁を蹴って、空宙でリオナとの距離をいっきに縮める。伸ばした左腕に力が入らず、いつの間にか風になびかれるようにただ体の一部としてくっついているだけになっていた。痛みはない。いや感じなかっただけだった。無我夢中でリオナに追いつくことだけをレンジは考えて、右手を伸ばし続けている。


 リオナも宙に身を投げ出したレンジに気づき、反射的に手を伸ばす。


 パッと見開いたその目尻から涙粒が、飛び散っていく。


 磁石のように引かれ合う二人の手。


 レンジの背中で激しくたなびく赤いマントが推進力となったかのように、あっという間にレンジはリオナの手をつかんだ。


 けれど、レンジのマントは二人の体を空宙で止めるような魔法のマントではなかった。


 二人一緒に落ちていく。


 握り締められる力の強さが、リオナの必死さが伝わってくる。


 リオナの体が極黒の液体に触れる寸前、虹彩を放つ光の輪が、まるで二人を受け止めるネットのように広がった。二人は落下の勢いのまま、光の中へと吸い込まれていく。そして、その場にいた全員の視線すら奪っていくかのように光りも消えた。


「何が起きた?」


 エゼルが欄干から身を乗り出した。


「ウゲッ!」


 穴から五メートルほど離れたところに出現した光の輪から、レンジが背中を叩きつけるように落下する。続けて手を握られたままのリオナが引っ張られるようにレンジの上に落ちた。結果的にレンジは、リオナを受け止めた形となった。


「キャッ!」


「どっ、どいてくれ……」


「ご、ごめんなさい」


 リオナは、すぐにレンジの上にいることに気づいて飛び退いた。


「イッ、テっ!」


 レンジは体を起こそうとした時、左腕に激痛が走った。


「ご、ごめんなさい。今ので」


「いや、衛兵の腕から抜ける時にちょっとな」


 苦痛の表情を見せるレンジに、リオナは何もできず戸惑っていた。


「どうじゃ。上手くいっただろ」


 真上の光りの中から今まで姿の見えなかったオーがスッと飛び出てくると、光の輪は一点に収縮して消えた。オーの全身は、カラフルで様々なフラクタル模様が次から次へと流れ描かれていて、尻尾をピンと立てて寄ってきた。


「急に飛び込めとか言うんじゃねぇよ。もっと早く来いよ、駄猫!」


「うるさい! この辺りは地場が不安定でEDENに通信ノイズだらけじゃったんだから仕方ないだろう!」


「全然逃げ切れてねーし、次元ホールも逆さまに開きやがって、ボケ猫!」


「地下から発せられている高エネルギー体の影響で次元ポイントがズレたのじゃろ。減らず口ばかり叩きおって」


「ズレたのは、年のせいだろが!」


「ふふ、お二人は本当に仲が良いんです……ねって、えっ! オ、オーちゃん……オーちゃんの体が光ってる!」


 リオナが目を丸くしてオーを見つめていた。


「あぁ、オーは次元猫だから」


「ジゲンネコ?」


「そうじゃ。ワシは小規模な範囲で次元を制御することができるのじゃよ」


 パッと神妙な表情に変わったリオナは、優しくオーの体をなでた。


「姉の言っていたことは本当だった。人間以外に言語を話す動物がいて、次元を越えて自由に空間を移動できるものもいること。私は、今、その宇宙の神秘に触れているのね」


 リオナの目は、オーの光を反射し輝いていた。それを見つめていたレンジの脳裏にリオナが雄弁に宇宙の魅力を語る姿が蘇った。しかし、その姿は一瞬で消えた。


 リオナが急に立ち上がり、リオナの背後にレンジは隠れる。


 レンジは、辺りを見回すといつの間にかに増えた衛兵に銃を向けられ囲まれていた。闇雲に動いても逃げることができない状況に、レンジは奥歯を噛みしめた。


「妙な光りが現れたと思ったら、次元猫を連れていたのか、小僧。ニエよ、それは何の真似かな、儀式に戻りたまえ」


 衛兵らの後ろにいつの間にかに立っていたエゼル。


 それと対峙するリオナは全く動じることはなかった。広場でリオナと初めて会った時と同じように、自分よりも大きな男たちを前にひるむことなく毅然とした姿で立っていた。


「不法入星者をかばうとは、どういうつもりだ」


「彼はまだ子供です。奴隷として扱うことも十分可能です。それでも、彼をここで殺すというのであれば、私を撃ち殺してからにしなさい」


 レンジは急速に頭に血が上るのを感じて、文句の一つでも言おうと力んだが、痛めた左腕にまた痛みが走った。


「ほう……肝が据わった女だ。ん、お前は以前にいたニエに似ているな」


「それは、私の、姉よ」


 リオナの返答は一瞬詰まった。


 レンジは、リオナが姉はもうここにはいないと言っていたことを思い出した。それで宇宙や姉の夢にこだわるリオナのことが理解できた。


 手書きされ、かすれてプリントされたペーパーメディアが貼られた壁の前で宇宙を無邪気な少年のように語っていたリオナの背は、自分と同じか少し広い。それを向けられているレンジは、自分が悔しかった。


「ならば、ニエがこの星にとってどれだけ大事なことかわかるだろ? その命を次へとつながなければならない。他のニエも待っている。さぁ、儀式の輪に戻れ」


 リオナは両腕を広げたまま、エゼルの問いかけに黙って答えない。すると、エゼルの表情が突然柔らかくなった。


「わかった。ここでニエを一人失うことは、ラヘレにとっても痛手だ。そこまでして、その少年の命を守るというならお前に免じよう。こちらまで来たら、その少年は見逃してやろう」


 エゼルはリオナを促すように手を差し出すと、広げていた腕をリオナは下ろした。そして、一歩前に踏み出した。


「オ、オイっ! 行くな。そんなの嘘に決まってる」


 レンジが呼び止めると、リオナは振り返った。この宇宙で今まで見たことのないほどの満面の笑みだった。


「宇宙の一端を見ることができて良かった。夢を見させてくれてありがとう、レンジ。あなたは、私と姉の分も一緒に星を渡り続けて」


 そう言ってリオナは、レンジに銃を向けたままの衛兵の間を通り抜けてエゼルの元へと歩み寄っていく。


 そして、エゼルは和らいだ笑顔をやめ、目の前にやってきたリオナを肩に抱え上げた。


「殺れ」


 振り向きざまにエゼルが言った。


「えっ! 話が違います。やめて、降ろして……。レンジ――――」


 リオナは手でエゼルの背中を叩き、足で腹部を蹴って抵抗するが、エゼルには何も感じていない。そして、リオナは遠ざかるレンジを見つめて手を伸ばした。


「やめて――――――っ」


 リオナの叫び声をかき消すように衛兵たちが一斉に発砲すると、銃口から火花が散る。


 しかし、その火花以上に明るい虹彩の光がレンジを包み込んでいた。


 銃弾が何かに当たる音、レンジが絶命する声もない。光が銃弾を吸収していた。


 空間に響き割る発砲音が収まると、漂う硝煙の中で採光の輝きが消えた。そして、白煙を切り裂くようにレンジが、エゼルに向かって走り出て来た。取り押さえようとする衛兵の間を素早い身のこなしで切り抜ける。


「エゼル―――ッ!」


 一直線上のエゼルに拳を繰り出す。


 振り向いたエゼルの腹部にレンジの拳が当たるが、鉄のように硬かった。ドクン、と拳をぶつけたところが盛り上がり緑色に発光する。


「クッ! この体は」


「これが惑星エネルギーの力だよ」


「星を、人の命を何だと思ってるんだ」


「ゴエモン皇の意思。宇宙統一のためには必要なことだ。ガキは黙っていろ」


 エゼルの超人的な速度の膝蹴りを避ける隙もなくまともにくらったレンジは、ふわりと宙に浮かび上がった。小柄な体格を活かしたレンジの身のこなし以上に、筋肉隆々の体躯のエゼルが宙で苦痛の表情を見せるレンジを追い抜くように飛び上がると、まるでタコのような体の柔らかさで右足を天にまで上げ、レンジめがけていっきに踵を振り落とした。


 レンジは蹴り落とされて、受け身も取れないまま石畳に直撃し、一、二度跳ねてそのまま横たわる。


「口ほどにもない。次元猫を連れていようと、所詮ガキはガキだ。儀式の続きだ」


 エゼルは穴の縁に立ち、極黒の液体を眺める。すでに先の緑黄の液体は消えていた。


「レンジ……レンジ……起きて……」


 必死にエゼルの肩から抜け出そうとするリオナは涙をこぼして、もう自分の力ではどうにもならないと脱力する。そして、倒れたレンジをただ見つめていることしかできなかった。


「お前も姉と同じように星の餌になるんだよ」


 エゼルは、お構いなしにリオナを穴の中央に向かって放り投げた。エゼルの高笑いと遠ざかるリオナの悲鳴が混じり合う。


 その高笑いを遮るように、赤と白の閃光のごときものがエゼルの真横を駆け抜けた。


 それは、赤いマントをなびかせたレンジだった。そして、そのマントに青白く発光する紋章が浮かび上がっていた。


 空宙でレンジはリオナを右手で抱え込み、リオナも離れないようにレンジにしっかり腕を回した。そして、極黒の液体に落ちて行く二人の真下に、虹彩の光が現れた。


「何度やっても同じ。学習能力のないガギだ」


 また近くに次元移動して二人が現れるだろうと、エゼルは辺りを気にした。


 直後、極黒の穴の直上、天井近くに出現した光の中からレンジは、リオナを脇に抱えたまま姿を現した。


「今度は指定位置だ。これは猫の歯に蚤だな」


 レンジはニヤリと独り言のように言った。


「抜かせ、ズレの修正など朝飯前じゃ。レンジこそトチるでないぞ」


 EDENを介して、オーの言葉がレンジに伝わった。


 レンジの左手には自分の腕よりも太く銃身の長い機銃を持っていた。というより痛む左腕に力が入らず、引き金に指を引っ掛けているのがやっとのこと。ただ真下を狙うだけだが、銃口がブレて全く定まらない。


「くそっ」


 すると、リオナがレンジの体に回していた片方の手を機銃に当て、支えた。機銃のブレはなくなり、銃口はまっすぐ極黒の穴に向く。


 これでどうかしら、と言わんばかりのリオナと目が合った。


「どいつもこいつも俺を子供扱いしやがって。俺がいくつ星を渡ってきたと思ってんだ。星渡りをなめんな!」


 なびく赤いマントに青白く発光する紋様と呼応し合うように、レンジの機銃にも紋様が浮かび上がる。それを見たエゼルは目を見開いた。


「そ、その紋章は、まさか」


 全宇宙の星々を統一しているのがカミナガ皇国だと意味を示すように、惑星に見立てた三点の丸を一本の線で結んだ楕円の上に、まるで歌舞伎の隈取のように炎が燃えがるカミナガ皇国の紋章が描かれていた。


 穴の縁で神がかりの光景をただ黙って見ている少女たちと衛兵。


 エゼルの足が一歩二歩と下がる。


「爆ぜろ。そして、ぶち抜け。ZAN-TETSU!」


 紋章が燃えるかのようにいっきに光を放つ。


 レンジは、腕の痛みを我慢して、リオナに支えられた機銃の引き金を力いっぱい引いた。

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星渡りのオペラ 鉢巻素 @hachimakimoto

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