プラチナと白檀
凛
プラチナと白檀
新しい街に来て、一人暮らしを始めて、ちょうど三年が経った。
実家にいた頃のものと、すっかり変わってしまった洗剤の匂い。
馴染んだものではない香りが自分の服を纏うことに、最初は戸惑っていたけど、これが自立するってことなんだなと思うと、なんだか誇らしげな気分になる。
今や違和感を抱くこともなくなって、そのことがちょっとだけ寂しかったりもして。
こうやって人は大人になっていくのだと、思い知らされた。
◆◆◆
高校の頃の恩師が亡くなったことを知ったのは、わたしが引っ越して一年と四ヶ月ほど経った頃だ。
盆前。
蝉がじくじくと、やかましく音を立てて鳴いていた、平和な昼下がり。
夏休みで実家に帰省し、縁側で西瓜を食べていたわたしに、親が大層驚いた顔で新聞の訃報欄を見せてきた――その時のことは、今でもよく覚えている。
ぽたり、
明朝体で綴られた、よく知った名を見つけ、固まるわたしの口元から、べたついた西瓜の汁がねっとりと垂れた。
顎を伝う感触も、汗ばむ感覚も、当時の驚愕も、悲観も、全て。
昨日のことのように、鮮やかに思い出せる。
彼の家は近所だったので、葬儀が執り行われる日になると、有り合わせの香典を手に慌てて向かった。
自殺だったという。
おおよそ生前の彼には似つかわしくない、淡い色の棺に納まって眠るその表情は、今ひとたび声を掛ければすぐにも起き出しそうなほど安らかで。
それなのに、もう起きては来ない。
空のてっぺんで、ぎらぎらと存在感を放ち輝く太陽のように、眩しい笑顔を向けてくれることは――この先一生涯、もうない。
ちぐはぐな現状を思えば、確かに悲しいはずなのに、涙も出なかった。
真っ赤になった目頭を拭いながらも気丈に振る舞う、彼の奥さんを見つけた。
かつて世話になった真面目な元生徒を装って、ご愁傷様です、と一言声を掛けてみれば、来てくれてありがとう、とそのひとは声を詰まらせた。
わたしよりは年上なのだろう。
けどきっと、彼に比べればまだ若くて、肌なんて赤ん坊のようにふっくらとして艶やかで。とても、華やかで綺麗なひと。
彼とこのひとが並んでいるところを、わたしはついぞ見たことがなかったけど。きっとお似合いだっただろうな、なんて漠然とした感想を抱いた。
わたしが卒業する少し前に結婚したと聞いていたので、その時点ではおそらくまだ結婚して二年目か三年目か、それくらい。新婚と言っても差し支えなかったはずだ。
お子さんは、まだいないみたいだ。
けど、纏った黒いワンピースの上から、時折大事そうにお腹の辺りを擦っていることがあったので。
新しい命は、既にその身体に宿っているのかもしれない。
その事実にはもちろん安堵したけれど、実を言うと少しだけ悔しかった。
誰にも言ったことはないのだが、まだわたしが制服を着ていた頃……実は一度だけ、彼と身体を重ねたことがある。
きっかけは、もう忘れてしまったけれど。
夏休みの誰もいない職員室で、大きな、けれどほっそりとした繊細な手で撫でられて。柔らかく、少しだけかさついた唇に、愛撫を受けて。
心はさておき、身体だけでも触れ合い、繋がって。
しあわせだったのかもしれない。
哀しかったのかもしれない。
或いはその、両方だったのか。
そういえば、彼が結婚を報告したのは、そのすぐ後だったか。
左手の薬指に光るプラチナリングを、遠いところから複雑な思いで眺めた……その時のことも、忘れたくても忘れられやしない。
彼は、覚えていたのだろうか。
だとすればどんな想いで、わたしを――ただ一途に年上の男を想っていただけの、無垢な女子高生を、抱いたのか。
その心にいたのは、ほんとうは誰だったのか。
今となっては、知る由もないことだけど。
彼に、どこか不安定なところがあるのは知っていた。
脆いひとだとは、とっくに気付いていた。
常に誰かに囲まれて、輪の中心で朗らかに笑っているのに……常に目だけは虚ろで、冷たささえ感じて。
見る人が見れば、簡単に分かったはずだ。この人のことをもっと深く知りたいと、一度思ってしまえば容易く見抜くことができたはず。
それなのに。
どうして、彼の苦しみに気付けなかったのか。
どうして、彼の心の支えになれなかったのか。
彼のパートナーとして、共に歩むことを約束されたはずだったのに。
彼はわたしでなく、あなたを選んだはずなのに。どうして。
どうして彼は――……愛したはずの人と、新しい命を置いて、自ら命を絶つことを選んだのか。
どれほど奥さんを責めたところで、どうしようもない。
理由も、目的も、その本心も。全てを秘めたまま黄泉の国へ旅立ってしまった彼は、もう二度と戻っては来ない。
だいいち、わたしがそんなことを言える立場でもない。
わたしだって一度は――たとえそれが、ほんの一瞬だったとしても――彼にとって『女』であった身。
そんなわたしでさえ、彼を救うことができなかったのだから。
それでも、彼を忘れてしあわせになってほしいような。
はたまた、生涯逃れられない鎖で繋がれたまま、一生を孤独に過ごせばいいだなんて思ってしまうような。
彼自身は、どう望んだのだろう。
◆◆◆
あの日、横たわる彼の指に嵌まっていたリングを、こっそりと持ち帰った。
二度と蘇りはしない亡骸とともに、あの日燃やされ灰になるはずだったふたりの証を、わたしは――部外者であるはずのわたしが、今でもずっと持っている。
素直に、送ってあげるべきだったのだろうけど。
それが、誰にとっても――もちろん彼自身にとっても、最善のことだったのかもしれないけど。
残念なことに、まだ若く幼いわたしには、このぐちゃぐちゃな感情をすっぱり割り切るほどの分別がなかった。
いつかわたしに、彼より愛する人ができたなら。
きっとこれは、もう用済みだと捨ててしまうのだろう。
或いは、彼との想い出に浸りながら、一生持ち続けることになるのか。
からん、と乾いた音を立てて、雑多なテーブルの上に落ちる。
あとで片づけておこう、とどうでもよさげに思いながら、部屋の窓を開けた。
ベランダで取り込んだ洗濯物を広げれば、ふわり、甘い洗剤の匂い。
あの日を思い起こさせる、白檀の柔らかな香り。
あの頃のように、真っ青な空の真上でぎらつく太陽を仰ぎ見る。
今日はよく乾きそうだ。
――そして。
もうすぐまた、夏が来る。
プラチナと白檀 凛 @shion1327
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