人魚を食卓に

藤原湾

人魚を食卓に

 わたしは歓喜を持って、それを見渡した。

 その先にいる彼の表情が辛うじて見えるほどの長いテーブルには、白地に同じ色の糸で細やかな刺繍が施されたクロスがかけられている。室内は静かで、見上げるほど高い窓の外から波の音がかすかに聞こえてくる。その中に混じって、コツコツと床を歩く革靴の音が耳にクリアに届いた。音のした側に目を向けると、黒いお仕着せを身にまとった給仕の男が皿を手にこちらへ向かっている。

 存在感をなるべく消して、わたしの横に立ったその男は、丸くて大きな白い皿をわたしの目の前に置いた。

 そこには思わず声を上げてしまいたくなるほど、美麗に飾られた野菜たち――オードブルというらしい――がわたしを待っていた。



 感動するのも無理はない、と思っている。わたしは二週間前まで人魚だったからだ。

 人間の世界でも有名な伝説――人魚姫、と呼ばれているらしい――は、海の下では史実として伝わっている。結末は全くの別だ。

 海に飛び込んだ人魚は魔女の言うように泡にはならなかった。海の王と陸の王に働きかけて、合法的に「人間」になってしまったのだ。

 それから何百年もの月日が経ち、わたしたち人魚は「人間」になるという選択肢を得ていた。もちろん本当に人間になるには、数えきれないほどの試験と膨大な人間に関する知識を身につけなければいけないし、人間になった後人魚に戻ることは許されていない。そして元人魚であることも秘密にしておかなければならない。そこまでして、人間になろうなんて物好きはほとんどいなかったようだったけれど。わたしの前に人間になった人魚がいたのは、もう百三十二年前になるらしい。

 人間になる前のことを思い出すと、今でも心に痛みと少しの後悔を覚える。人間になるための手続きの時に、担当の人魚は何度も何度も念を押してきた。『人間という生き物がどんなに人魚と違うか。存在が身近でないからか意味の分からない伝承まであるため、思う以上に危険が高い行為』と説明した。それも全て織り込み済みだ。それなのに、繰り返えされた言葉がふと頭をよぎってくる。靄を払うように、頭を振って少し先を行く人間の男――陸の国第十八王子、ヴィアンド殿下に声をかけた。

「お腹いっぱいです。ごちそうさまでした」

「君の食べっぷりを見ていると、こちらも気持ちいいよ」

 金糸の刺繍を施されたジャケットの裾を翻して、こちらを向いた。濃い金髪が光に反射し、空色の双眸がわたしを映す。

「人間は美しくあろうとして、生き物としての欲望――食欲を抑えようともがく。滑稽で醜いことだ」

 彼は口の端をわずかに上げた。

「その点、君は人間とは違うね。興味深いことだ」

「また! 私の正体が発覚すると、大変なことになるんですから」

「分かってるよ、人魚姫様」

 彼はそうわたしをからかい、わたしのごわごわとした赤みを帯びた髪をくしゃりと乱暴に扱った。それでも彼に会えたことは、本当に幸運だったとしか思えない。わたしは殿下との出会いを思い浮かべた。



 陸に来た目的は、人魚たちにとっては理解出来ないことかもしれない。わたしは足を手に入れて陸に上がった直後、痛む足を引きずりながら、一軒の大衆食堂に入った。

 海の中での食事は、魚と海藻だった。獲ってきた魚をそのまま、そこらに生えた海藻をちぎってそのまま。何の工夫もない。それが人間になれば、グリエ、ブレゼ、ポワレ――覚えきれないほどの様々な手を施されて、供される。

 夢見ていた。夢のようだった。次々と目の前に運ばれてくる皿の上は、目のくらむような彩色で埋め尽くされていた。夢中で貪り次の皿をねだった。夢から引き戻されたのは、支払いを求められた時だった。

「……足らない」

「なんだい、こんなに食べておいて、その反応は」

 思わずつぶやいた言葉に食堂の店主の女が眉を顰めた。

「あんた。払えないなら、牢屋行きだよ」

 牢屋、なら知っている。食事どころか命の危機だ。一気に血の気が引いた。どうしよう、どうしよう。それだけが頭の中で回っていると、肩に手を置かれる。

「八人前も食べるなんて。それは興味深いね」

 声のする方に顔を向けると、綺麗な顔の男が覗き込んできた。

「――君、目の色がここら辺の人とは違うね……もっと濃い海の色だ」

 びくりと肩が揺れる。それを面白そうに眺めた男はわたしに笑いかける。

「私についてくるか? そうすればここの支払いは私がしよう」

 この男の素性は知らない。見たこともないし、先ほど投げかけられた言葉から察するに関わらない方が良いと心の警鐘は鳴り響いていた。それでもこの状況からどうにか逃れたくて、わたしは頭を縦に振ったのだ。



 その男こそ目の前にいる陸の国の王子だ。数多くいる王子の中で生まれは遅く、また生母の位も低い――人間の王は番になる女性を複数選ぶらしい――ため、比較的自由に暮らしているという。あの時も城という名の住まいから街に降りてきて『面白い』ものを探していたところだという。

 その琴線に触れたであろうわたしを、自分が乗っていた馬車に同乗させ、開口一番告げた言葉は、わたしにとって衝撃だった。

「……君は人魚、だね」

 否定しなきゃ。そう思って口を開きかけるが、陸に上がった魚のように口をパクパクさせるだけだった。

「古い文献で読んだことがある。私達より濃い海の色の瞳、白目の少なさ、水に揺蕩う海藻のような癖と珊瑚礁を映した色の髪。何より人間離れした美しさ。君は全てを満たしている」

「――人間はずるいですね。そんなことを言い伝えているなんて」

 わたしはため息をついた。

「貴方は知っているのでしょうか。わたしが人魚だと知れると、処罰されることを」

「いや。そうなると君は陸の上にはいられなくなる?」

 その問いに頷きを返す。彼はなら簡単だ、と微笑んできた。

「これは私と君との秘密だ。私は君――というより人魚に興味がある。王族は特別に彼の種族と面会すると聞いたことがあるが、残念ながら私までその権利が及ぶことはなくてね」

 私は知りたいんだ、と続けた。

「この世の全て、気になることは全て、理解したい、研究したい」

 今のところは君なのだ、と告げて来る。この申し出は大きいかもしれない。人間になる前に生活の一般的なことは学んできたが、実際生活するということに大きな壁を感じていた。それに元人魚と明かされないように、身近で見張っていた方が良いだろう。黙り込んで考え込むわたしを見て、殿下は消極的に悩んでいるように見えたらしい。

「――君にも何か得になることがあった方がいいね。条件を付けてもいい」

 その申し出に下を向いていたわたしはぱっと顔を上げて輝かせた。

「本当ですか? じゃあ――」


 

 まさかあんな条件だとは思わなかったね、と彼は苦笑いした。

 わたしが出した条件は、美味しいものを好きなだけ食べさせてほしい、ということ。どうやら人間より食欲が強くてたくさん食べなければいけないのは、最初の食事で思い知ったからだ。

 彼は難なくその条件を呑み、普段は城お抱えのシェフに食事を作らせ、時々は今日みたいに外のシェフのところへ連れて行ってくれる。わたしが望んだ生活がそこにはあった。人間というのはなぜああも食事に時間をかけ、手をかけているのだろうか。その見目麗しさと舌を滑る複雑な美味に、わたしは虜になっていた。

「しかしやはり奇妙だ。君が魚を食べているのを見ると」

「そうですか? 人間だって牛の肉や鶏の肉を食べているではありませんか」

「人間は陸の他の生き物どころか国が違えば、意志を通わせることもできない」

「人魚だってそうですよ。同じ群れの人魚の他は、何を考えているかなんて分かりませんし、目の前に食べられる物があれば口にしませんか」

 わたしがきっぱりと断じると、彼は意外そうな顔をする。

「人間は、人魚を魚と話し海鳥と話せる生き物だと認識しているよ」

「誤解です」

 ため息をついた。こうやって人間と人魚との認識の違いは、思った以上に多い。海の中の生き物を閉じ込めた見世物小屋で、尾びれ、背びれはともかく立派な胸びれをも持つ似ても似つかない生き物を一説では人魚と言われていると紹介された時は、卒倒しそうだった。

 それでも彼とそのすれ違った間をすり合わせていくような会話を交わすのは、楽しかった。

「なら、君は『共食い』とはどこからと規定する?」

「……『共食い』、ですか?」

 聞きなれない言葉に首を傾げると、殿下は苦笑した。同じ種類同士が食べたり食べられたりすることらしい。

「同じ、種類……ですか」

「そう。私は人間だ。基本的には人間は人間を食べない。共食い、と言って避けるよ」

「猿、という生き物はどうですか」

 先日見世物小屋で見た人と同じ二足歩行していた毛むくじゃらの獣を思い浮かべる。

「まぁ、この国の人間は食べないね」

 ともかく食べるとしたら、人間とは姿形が全く違う牛や豚、鶏などだね、と付け加える。

「さあ君はどうだ? 他の群れの人魚は、食べるのか?」

「食べません。美味しくないらしいから」

 即答すると、殿下は声を上げて笑った。

「『美味しい』なら食べるのか?」

「……食べるのかもしれない」

 そんなことを考えたこともなかった。同じ姿か全く違う姿か、そんなことが食べるかどうか判じるしるべになるなんて。

「だって『共食い』という考え方なんて、今知ったんですから」

「――そうだね」

 その時、殿下の目が暗く光ったのを、わたしは見ていなかった。



 それから半年。彼は以前と同じように美しい食事を供してくれていた。一つ変わったのは珍しい食材が使われている食事が多くなったこと。執拗にその食材を、食べるのか食べないのか、その理由は、と尋ねられた。

 初めは何とも思っていなかったその問いも、幾度も重ねられたら煩わしくなってくる。嬉しかった外食も、誘われる度に重いものに変わってゆく。

 わたしは窓際に設えられたベッドにもぐりこんだ。明日もまた出かけるのだろうか。そう思うとため息が出た。それでも柔らかい布地が身体を包みこめば、意識が溶けるように感じて、わたしは考えることを手放した。

 そのはずだった。

 何かの気配を感じて、眠りから引き戻された。薄目を開けると、窓から差し込む月の光がわたしの上に何者かが馬乗りになっているのを露わにする。

「――誰?」

「…………起きてしまったか」

 声を聞いて、瞠目する。ヴィアンド殿下だ。彼がわたしに与えた居室に立ち入ることなどこれまでなかったのに。

 きらり、と何かがが鈍い光を反射する。それだけで殿下が何を持っているのか、悟ってしまった。

 ナイフだ。

「何、を」

「――君は、共食い、という概念がないんだよね」

 共食い。その言葉に、半年前に話したことを思い出す。今更、何の話だろう。

「残念ながら、私にはある。人間を食べるなんて、到底考えられない」

 そう言いながらも、手にしたナイフの切っ先をわたしの方に向いている。

「でもね、この半年。君をずっと見ていて分かったことがあるんだ」

 月の光は暗くて殿下の表情が見えない。それがとてつもなく恐ろしかった。身動きひとつ取れずに、ただ殿下の影を見つめていた。

「君は『人間』じゃない。人間と同じ姿でも、考え方も風習も何もかもが、人間とは違うところで生きている」

 ナイフの先がわたしの目の前にゆっくりと下ろされた。鼻を切り裂かれそうな位置に下りてきたそれを避けようとしても、柔らかい枕に埋もれた頭はびくともしなかった。

「君には言ったかな? 東の果ての国には、ある伝説があってね。曰く、人魚の肉を食べた人間が八百年以上も生き続けた、と」

 どうしても試したいんだよ、と続けた。

「人魚に会うことなんてこの先ないだろうし。まこと、口にすれば長く生きることが出来るのか知りたいんだ」

「――わたしは人間、になったんです……」

「違う」

 ようやく絞り出した声は、すぐ否定される。

「君は『人間』じゃない。だからこれは共食いじゃない」

 殿下はぶつぶつと口の中で言葉を紡ぎ、わたしの声は届いていない。そのことに背筋がぞくりとした。

「知りたいんだ、この世の全てを」

 そう言って、殿下はナイフを振り上げた。

 わたしはぎゅっと目をつぶった。

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