これからの『君』が描く未来

橘 ミコト

これからの『君』が描く未来

 高校二年生になってから、しばらく経った11月。


 普段と変わらない平凡な日であるはずだった今日は、担任の教師から「希望進路調査書」が配られた事によって、唐突に現実を突きつけられる日に変わった。


 教室にいる他の皆は、早速その内容について隣の席の人と話し始めている。

 教室の前に立つ教師は手を数度叩いて注意を促すと、簡単な説明と提出期限をマニュアルに書いてある様に言い、最後にこう言い残した。


「これで卒業後の進路を決める訳ではないですが、今後の人生に関わってくる物です。皆さん真剣に考えて提出して下さい」


 僕には、将来を考える事など到底できそうにない。




「ただいまー」


 暖簾を腕でどけながらガラガラと家の扉を開けると、顔には熱気が吹き付けてくる。

 麺をすする音と、ほのかな醤油の香りが漂う空間は我が家の店舗スペースだ。


 僕の家は母と二人の母子家庭で、ラーメン屋を営んでいる。


 地元に愛されている店。お客さんは基本的に常連さんばかりだが、カウンター9席のみのこじんまりとした店も、親子二人で切り盛りすると酷く大変になる。

 今も厨房で、醤油ラーメンにしては太目の縮れ麺を力強く湯切りしている、母の汗だくな後ろ姿しか見えない。


 厨房の入り口脇の小上がりに学校の鞄を放り投げる様に置くと、その脇に置いてある前掛けを慣れた手つきで素早く身に着ける。

 茹で場の真横にある作業台にはオーダー票が鎮座しており、それを確認すると同時に手を洗って早速準備に取り掛かり出した。


「おかえり」


 母はぶっきらぼうにそれだけ言うと、食洗器の中から熱々の丼をこちらに渡してくる。

 それを無言で受け取ると、今日の家族コミュニケーションの始まりだ。


「今日、学校で進路希望調査書が配られた」

「そう」

「僕は進学しないで家を手伝うつもりだけど、母さんはどう思う?」

「……」


 普段から、不愛想というほどでもないが、母はよく沈黙する。

 それは頭の中で僕に何というべきかを考えてくれているためであり、それが分かっているからこそ、僕は母が言葉を発するまで何も言わない。


 丼にスープを大鍋から掬い流し込む。

 鯛、ブリ、カレイ、煮干し、そして鶏ガラをじっくりと煮込みながら丁寧に灰汁を取り、ネギと生姜で臭みをとった出汁に醤油、みりん、酒のみを加えて味を調えられたスープ。

 表面は脂分を浮かべて黄金色に輝きながらも、醤油の濃厚な黒が丼の底の深みを増し、芳醇な香りが一気に香り立つ。

 そこに、5分茹で上げたコシが強めの縮れ太麺をさっと沈める。すると、表面に漂う脂分と薄い黄色の麺が絡み合い、スープの黒と黄金色のコントラストがより一層麺を引き立てた。

 最後に1cmほどの厚さにした自家製チャーシューと白ネギ、メンマ、わかめ、半熟卵を乗せ、仕上げに軽く白ごまを振りかければ完成。


 これが我が家の自慢、『魚介鶏ガラ醤油ラーメン』だ。


「お待ちどう様、ラーメンです」


 出来上がると、すぐさまお客さんの元へ。ラーメンはスピードが命。

 カウンター越しにこちらの手元を喉を鳴らしながら見つめていたお客さんは割りばしをパキンと小気味よく割ると、一心不乱にズルズルと音を立てて食べ始める。

 いつ見ても、自分たちが作った物を美味しそうに食べてくれる姿は嬉しいものだ。


 我が家のメニューは少ない。醤油ラーメン、餃子、チャーハン、それとお酒を含んだドリンクだけだ。塩や味噌、その他の味もこの店では扱っていない。早くに亡くした父の拘りである。

 僕ら残された家族はそれを変える事なく、今までずっと頑張ってきた。しかし、ここ最近は売り上げが落ちてきている。

 僕はもっと母を助けたいと思っているので、何と言われても家を継ぐ事を考えている


 あのラーメンを食べるまでは。




 夜中23時。

 表の暖簾を片付け、店仕舞いをしている僕に、母は唐突に話しかけてきた。


「あんた、将来の夢とかないの?」


 一瞬、何の事か分からなかったが、帰ってきた時に告げた進路希望調査書の事だと思い当たり、苦笑しながら返答する。


「特に無いかなぁ……。それよりも、早く一人前になって、母さんに楽をさせてあげたいって気持ちが強いよ」

「それは駄目」


 自分の言葉に即座に駄目出しをされた。

 まさか、ここまで反対されるとは思ってもみなかったので、驚いて母へと顔をむける。


「小さい頃には”アレ”になりたいとか言ってたじゃない」

「それは小さい頃の話で――」

「それは、今もやりたい事が無いという理由にはならないわよ」


 母の言葉に思わず黙り込んでしまう。

 確かにその通りだ。だけど、僕の気持ちを考えていないとも感じる。

 僕にはなんて分からない。


 父とこの店を立ち上げた嬉しそうな母を見た。

 お客さんが美味しそうに食べている姿に頬を緩めている母を見た。

 父が亡くなって悲嘆しながらも、女手一つで僕を育て、店を回し、常に強くあろうとしている母を見た。


 しかし、僕には母の背中が大きくも疲れている様に見えたのだ。


 だからと思った。


「僕は……母さんにこれ以上、無理して欲しくないよ……」


 思った以上に弱々しい声での反論しか出来ず、自分でも情けなくなってしまう。

 そんな僕に、母は困ったような嬉しそうな複雑な表情を見せながら、厨房での片付け作業の手を止め、おもむろに食洗器から洗ったばかりの丼を取り出した。


「母さん?」

「ちょっと待ってなさい」


 不思議そうな表情をしている僕に対してそれだけ言うと、母はいつもの慣れた手つきでラーメンを作り始める。

 普段からラーメンを食べる機会は多いが、母の手作りラーメンは久々だった。

 いつもは自分でささっと作って食べてしまう事ばかりなので、自慢と言いつつも最近はあまり味わって食べる事もなくなってしまっていたと気付く。

 

 毎日お客さんに出している、見慣れた『魚介鶏ガラ醤油ラーメン』。

 余ったトッピングをふんだんに乗せたそれは、中々にボリュームのある豪華なラーメンだった。


「はい」

「……頂きます」


 コトンと優しくカウンターの上に置かれたラーメンを手元へと降ろし、パキンと割りばしを割る。

 上に載っている具がカウンターへ落ちない様に、下から掬う様にしてモッチリとした麺を持ち上げた。


 麺の量も普段より多いようで、天を刺す様に中央へ盛り付けられた白ネギの山を崩しながら、しっかりとした弾力を箸越しに返す太麺を眼前に持ち上げる。茹でたばかりの麺は当たり前だが湯気をこれでもかとばかりに放ち、見るからに熱そうだ。

 醤油の香ばしい匂いと魚介の爽やかな香りが鼻孔をくすぐり、居ても立っても居られず、思い切りよく麺を啜る。


 口の中に滑り込んできた太麺はしっかりとした歯ごたえと、縮れ麺に絡んだスープを弾けさせ、クセの無いながらも後味を強く感じる出汁の味が次の一口を急かす。

 堪らず二口目を啜ると、今度は醤油の芳醇な香りを強く感じた。魚介と鶏ガラ出汁によって支えられた旨みをまろやかに仕上げるこの醤油は父の拘りの一つだったなと、ふと思い出す。


 まるで、計算され尽くされたかの様に感じる味と香りのハーモニーに、夢中でラーメンを食べる。

 そんな僕を母は無言で、しかし優しさを感じさせる目で眺めていた。


「――ごちそう、様でした」

「お粗末様」


 食べる前まではゆっくり味わって食べようと思っていたにも関わらず、結局は夢中になって食べてしまう。

 しかし、母がこのラーメンの一杯で何を伝えようとしたのか、未だに分かっていない。

 どうすればいいのかも分からず、ご馳走様といったのにスープをチビチビと飲んでしまっていた。スープを掬う度に丼底に沈んでいた具の欠片が踊っているのが目に入り、特に意味もなくそれらを取り除く様に蓮華を口へと運ぶ。


「あんたは昔から変わらないね」

「え……?」

「困った時はいっつもそうやって底に沈んでいる具を浮かす様にスープをかき混ぜる」

「そうなの?」

「伊達にあんたの母親やってないさ」

「……」


 その言葉に何となく黙ってしまう。

 僕が母を想っている様に、母も僕を想ってくれている。それは当たり前なのかもしれないけれど、だからこそ普段は意識しないものであり、に言うのはズルイと思った。


「別に、あんたの将来を私が決める訳じゃないけど、あんたの将来を潰すような事をするのも母親ではないだろ?」

「なんで継ぐ事が将来を潰す事になるのさ」

「継ぐ事というよりも、”それしかない”って思い込んでいる事が、だね」

「……僕には他にやりたい事もないし、今更何かを頑張るなんて無理だよ」

「それを言うにはまだ早すぎるよ、ガキのくせに」

「痛っ!?」


 段々と俯いて麺も具もなくなったラーメンの丼を見つめていると、唐突にデコピンをされる。突然の出来事に目を白黒とさせていると、母親と目線があった。

 その目には多少の怒りも込められている事を感じ取り、思わずたじろいでしまう。


「世の中は自分に対して厳しいと思う時もあるだろうし、夢を叶えるために頑張れとも言わない」


 慎重に、言葉を選ぶように母は言葉を紡ぐ。

 それは僕に言っている様でもあり、自身に言い聞かせているようでもある不思議な感覚を僕にもたらした。


「でも、自分のは見失わないで。あんたが生きている理由はあんたが決めるの。私にとってあんたは『光』なのよ?」

「『光』?」

「そう、『光』。人ってのはね、いつも強がって自分を奮い立たせなきゃ、生きていけない弱い存在なんだから。心は何かに縋っていたいの」

「母さんも?」

「もちろん。あんた、母さんをなんだと思っているのよ」


 可笑しそうにクスクスと笑う母をボンヤリと眺めながら、これまでの生活を思い出す。


「母さんの『光』は”あんた”とこの”ラーメン”だよ。人によって形は違うけど、それは自分の『生きている意味』に成るのさ」


 いつだって強く凛としている母は僕にとっての憧れだった。それは、父を幼い頃に亡くしたのも大きい理由だろう。しかし、一番の理由は『母の作るラーメンが好き』だった事へと思い至った。


「母さんは自分の『生きている意味』を他の人にも感じて欲しい。つまり、自慢したいの。勿論、あんたにもね」

「僕もその『生きている意味』なんじゃないの?」

「二つ重なったら、そりゃ最強だねぇ」


 先ほどと違ってカラカラと気前の良さそうな笑い声をあげる母に、無意識に言葉を漏らす。


「僕は、母さんのラーメンが好きだ。だから、僕も”そんなラーメンを作りたい”と思ってる」

「そう」


 母は静かに頷く。

 自分でも驚くほどすんなりと言葉にできた。初めに言った事と意味は変わらないのに、自分の中で抱える気持ちは明らかに前へと進んだと感じる。


「だから、僕はこの家を継ぎたい」

「ありのままのあんたがそう言うなら、母さんは応援するよ。夢を追いかける少年ってのはカッコイイもんだぞ?」

「じゃあ、僕の夢は『母さんのラーメンを越えるラーメンを作る』、だね」

「それは難しいなー」


 再びクスクスと笑う母の顔を見ながら、小さい頃の夢を思い出す。

 でも、それを胸に抱いて”今”を生きているのは、きっと誰もが同じなのだろう。 

 夢に憧れ、時には破れ、それでもその人にとって大事な記憶を心に宿し、人は日々を歩んでいく。

 だから、僕は”今”を歩き出すんだ。


 自分らしく、”未来”へ。



 

 

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