3「精一杯がんばります」

 ……。

 …………。

 ………………。


 目は覚めていない。脳は今だ未覚醒。それでも気配を感じた僕の体は、無意識かつ自動的に、布団に横たわったままの自分を転がして、近づいてきていた何かから遠ざかってくれた。

 壁にぶつかり、すぐに体勢を整える。右腕を気配の方へ上げ、すぐに来るであろう衝撃に備える。開いた直後に強烈な光を取り込んでしまった僕の両目は焦点が合わずぼやけている。何者かがそこに立っているのが見える。がんばれ瞳孔。僕には君たちの力が必要なんだ。一刻も早い復帰を切望する。


「あのー……?」


 女性の声。


「ハジメさーん?」


 聞いた事のある声。


「大丈夫です?」


 ようやく本来の機能を取り戻してくれた両目が右手の先にいた者の姿を正確に映し出してくれる。パジャマ姿のアサガオだ。


「……うん、大丈夫」


 彼女から見れば、突然暴れだした変人にしか見えなかっただろうから、僕の返答に対して疑いの目を向けるのは仕方がない。

 奇行をとってしまった恥ずかしさを誤魔化そうと、何事もなかったかのように立ち上がり襟を正す。


「おはようアサガオ。一週間ぶりだね、もう体は平気そうだね」


 前回の七人ミサキ事件でかなりの霊力を消耗した上に、多量の呪いを受けてしまい昏睡状態から一週間ぶりに目を覚ました、同僚にして同室の幽霊の女の子・アサガオに、精一杯の爽やかな笑顔でご挨拶。窓からさし込む朝日から目を守る仕草付き。これで前歯の一本でもキラリと光ってくれたら完璧だ。


「はい、わたし大丈夫でーす」


 わたし『は』か……。うん、いや僕も大丈夫なんだよ。本当だよ。とりあえずアサガオの表情が不審者を見る目から、見る者に安らぎを与えてくれる微笑に戻ってくれたのでこれ以上は僕も余計な誤魔化しはすまい。忘れてほしい。僕も忘れるから。


 玄関の扉が開き、髪をオールバックに決めた目つきの悪い、黒スーツの中年男性が入ってくる。


「あーまーみーやーぁ? 起きてっかオラァ。あ? 起きてるな」


 そう、僕の奇行の原因はこの人だ。僕が現在働いている、怪奇現象専門の何でも屋・妖家相談室あやしやそうだんしつ室長、妖家あやしや吉楽きらく。極道者ではないが業務内容から表か裏か、どちらかと言えば裏の人間だ。


「おうアサガオ、お前も起きてたか。調子、どうだ?」


「問題ありません、ご迷惑をおかけしました。アサガオ、本日より業務に復帰いたします」


 両手を臍の辺りで重ね、綺麗なお辞儀だ。着物を着て桜の花びらが舞い散る中でそのお辞儀をしたら凄く似合いそうだ。


「あいよ、よろしくさん。早速だがミーティングだ、さっさと準備して事務所に集合」


 アサガオの見事なお辞儀に片手をヒョイと上げる仕草で答えて室長は出て行った。


「さーて、じゃあわたし着替えてから行くので、ハジメさんは先に行ってていいですよー」


 僕はと言うと今日までの一週間ずっと、やんごとなき事情により、スーツのズボンとワイシャツのままで寝起きしていたので準備はすぐに終わった。


「それじゃ、先に行って待ってるね」


 玄関先でアサガオに手を振ると、まだパジャマ姿の彼女がベッドに腰かけた状態で手を振り返してくる。

 なんだろう、すごく甘酸っぱくて、懐かしい気持ちが湧いてくる。付き合いたての恋人同士。出会いは職場。皆には内緒で付き合っているので出勤時間をずらしたりして……。ぐあっ! これ以上思い出せない! トラウマ的な何かが僕を苛む!


──浮気したら殺すよっ


 ん? 今、聞こえるはずのない声が。幻聴か。疲れているんだな。幻聴だよね?


「雨宮、入りまーす」


 宿舎に隣接する事務所の扉を開くと、胸元に向かって黒い影が勢いよく突っ込んできた。

 とっさに左手でその影を遠ざけながら右肩を引いて半身になる。そのまま左足を影の右側面にずらして体重をそちらに移す。残った右足を引き付ける事でギリギリよける事が出来た。しかしそこで終わらせず、逸らしたときに影に触れてたままの左手で影を掴み、思い切り引き寄せる。左足を軸にして右の足先から膝、腰、肩と連動させて右肘を繰り出す。


「喰らえっええええええ!?」


 僕の気迫を込めた声は、体と共に宙を舞い一回転して背中から落ちたことによって中断した。


「痛いっス……、室長」


 突然に攻撃を仕掛けてきた影。室長は僕を見下ろしながら手を差し伸べている。


「一週間の付け焼刃にしちゃまあまあだな。三十六点」


 赤点ギリギリだ。


「それはどうもありがとうございます。一週間、朝昼晩深夜早朝時間を問わずご教授してくださった室長のおかげですかね」


 今日までの七日の間、妖家流の座学・体術・霊符術れいふじゅつその他諸々を朝から晩までみっちり仕込まれたまではまだ良いのだけれども、いつ何時、何者に襲われるか分からんからな。と、睡眠中に襲撃してくるものだから、安らぎと開放感あふれるパンイチ睡眠を捨てる事になってしまった。それが今朝僕がワイシャツとスーツのズボンを着用していた理由だ。


 室長は僕の手を掴み立ち上がらせると、事務所内に戻っていく。油断せず少し距離を開けてから僕も事務所へ入る。


「運動神経は悪かねえから体術だけはまあまあ形にはなったが、常に十手・二十手先まで読んで動かねえと、若くて血の気が多いヤツ等のスピードにはついていけねえぞ」


 妖家流体術は言ってしまえば古流武術。前時代の遺物だ。体勢が不安定になる蹴り技を極力排除し、相手に対して半身で重心を後ろに引いた足に乗せた構えをとり、体捌きや前方に突き出した手で攻撃を躱し、いなし、絡めて崩す。そこに拳や掌底、肘や肩などを使い急所を狙う。

 一方現代格闘技は基本、脳や内臓へのダメージを防いだり、効率的に体重を乗せた打撃を放つ為に両拳を顔の前に上げ、フットワークでの回避や素早い体重移動をし易い様に膝や股関節を軽く曲げたアスレチックポジションをとる。

 その状態から前後左右縦横無尽に動きまわり、拳は勿論、主砲の一つである蹴り技。更にタックルからのグラウンドに関節技。と、なんでもござれのまさに総合格闘技が主流だ。


 古流武術と総合格闘技。この二つの戦いを例えるならば、互いに姿が見える位置で、一方が狙撃用ライフル、一方がマシンガンを持っている様なものだ。どちらも当たればダメージは大きいし、それが急所ともなれば死も免れない。

 だが、機動性と連射性に大きな差がある。これが致命的だ。狙撃用ライフルがいくら貫通力と殺傷力が高かろうとも、弾道のブレを抑える為の長い銃身が移動も取り回しも邪魔をする。方やマシンガンは距離が空けば空くほど弾がバラけてしまうが、それを補って余りある機動性と連射性がある。近・中距離での差は歴然だ。


「毛も生えてないド素人の僕にはそこまで先読みするのは無理ですよ」


「おまたせしましたー。ハジメさん、どこの毛が生えてないんですか?」


 上も下も毛は生えてるよ。ボーボーだ。という訳で、妖家相談室メンバー総勢三名が揃った所でミーティングの開始だ。


 まずはアサガオに、七人ミサキ事件の顛末。『月の丘』往生真姫から依頼があり、それを受けた事。僕の異常な体質と、拷問もとい特訓を室長が施してくれた事を簡単に説明した。

 朝顔はそれを聞きながら読んでいた、往生真姫からの依頼書の様な物をテーブルに置いた。


「それで往生ちゃんには何て返事したんですか?」


「僕? 僕には依頼に返答する権限は無いから、封筒を受け取ってすぐにお引き取り願いましたよ」


「ふーん、わたしの質問の意味が分かってるクセにその返事なんだー。往生ちゃんに迫られてアワアワして、曖昧に誤魔化してたくせに」


「見てたの!?」


「やっぱりねー。どうせ往生ちゃんのエッチぃオーラに負けそうだったでしょ。その寸前で帰られちゃって逆に頭から離れなくなっちゃってません?」


 やられた……。カマをかけられた。殆ど正解だ。こういう勘の良い女の子に誤魔化しは効かない。今後は気をつけよう。


「ぐぅ……、ゴメン。確かに負けそうだった。危なかった。でも今日までに彼女の事を思い出したのは三十七回くらいだよ。一日平均約五回だ! 問題ない!」


 何が問題なのかは自分でも分からない。


「ほぼ術中にハマってますねー。寸止めで意中の男性の気をひくのは女の子の基本戦術ですよ? 気を付けてくださーい」


 はい、がんばります。うなだれる僕の肩をアサガオはポンポンと励ますように叩く。嗚呼、飴とムチ。


「エロ宮は放っておいて、今回の仕事について話を進める」


 その呼ばれ方は大変不名誉だが、今は大人しくしておこう。汚名は言葉ではなく行動で返上するべきだ。


「さっきも言った通り、今回の依頼は『月の丘』のクソビッチからだ。商売敵の妖家相談室ウチに依頼してきた理由は今の所不明。裏に『月の丘』が絡んでいるのか、クソビッチの個人的なモノか、はたまたそれ以外か、考えてもキリがねえ」


 そう、キリが無い。かと言って一つ二つに絞ってしまうと予想が外れた時に対処できない。だから、大まかな見当は指針としてつけてはおくが、残りの可能性については臨機応変に対応する。その為には知識だけでは難しい。技術と経験、この、目で見る事の出来ない三つがあって初めて、機に臨んで変に応ずる事が出来る。


「ウチとしちゃあ受けない理由は無い。裏が有ろうと無かろうと、やる事はいつもと変わらん。さて、アサガオ。お前はどうだ?」


「……室長は一体誰に似たのでしょうね」


 意見を求められた彼女は、少しだけ考えてから話の流れを無視た事を口にした。それを受けた室長は、一つ軽いため息をついて、今日も朝からバッチリなオールバックの頭を搔いている。僕だけが知らない、誰かの話。


「わたしにも異存はありません。ハジメさんも色々頑張っていたみたいですし。ね?」


 まだまだ出来ない事の方が多い。突然、僕の知らない世界ゲンジツに連れて来られて、僕でさえ知らなかった現実チカラを暴かれて、道を見失いかけた。

 そんな僕を見捨てずに室長はこの一週間、実に色々な事を教えてくれた。格闘術はもちろん、妖家流符術での戦い方も。


「自信が有るなんて大きなことは言えないケド、出来る限りがんばってみるよ」


 本音と建前が乖離かいりし始める。


「付け焼刃だって事は絶対に忘れんなよ。焦っても良い事はねえ」


「はい、精一杯頑張ります」


 室長に、神仏へと届きうる。とまで言わしめた僕の精一杯で。


 さあ行こう。僕の『妖家相談室従業員』として仕事だ。

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