第四話 運命(一)
ぽたっ
頬を伝う汗が落ちる。
信長様が催す鷹狩りの会場に向かって山を登
っていた。
私以外の家来の方々は先に行ってしまい、一
人遅れていた。
正直、もう限界だ。暑い重い辛いの三重奏で
、体力も気力も底をついた。
「大事ありませぬか?」
突然声をかけられたことに内心驚き、振り返
る。
見知らぬ男の人だ。この方も今日の鷹狩りに
招かれたどこかの大名の家来なのだろうか。
「…ハァ……ハァ…」
返事をすることもままならず、必死に首を縦
に振る。
その様子を見かねたのか、スッと荷物を持っ
てくれた。
「さあ行きましょう。こちらに近道があるの
です」
その方はまるで荷物を持っていないかのよ
うに、ずんずん歩いて行きーーーーはせず、
私の歩幅に合わせてゆっくり歩いてくれた。
しかし、近道は想像以上に険しかった。ほと
んど垂直なのではないかと思うほど急な斜面
が続く。
「あっ!!」
足が滑り、地面が目の前に迫る。次に来るで
あろう痛みを覚悟して目を瞑った。
次の瞬間、ガシッと腕を掴まれ、体が一瞬宙
に浮いた。そのまま片手で軽々と私を持ち上
げ、ふわっと地面に下ろしてくれた。
「かたじけない」
やや頬を赤らめ、頭を下げる。
「お気になさらず」
どこまでも優しい方だ。感謝してもしきれな
いと思っていると、
「着きましたよ」
そう言われて顔を上げる。
眩しい光が目に飛び込んでくる。爽やかな風
が髪を揺らしていった。
(似てる…)
思い出したのは、あの日、信長様と行った山
だ。
懐かしく想い出に浸っていると、どこかの家
臣らしき男の人がこちらへ走ってくる。
「長政様!」
聞き覚えのない名前に首をかしげる。すると
、横から声があがった。
「おう清綱!今着いたところじゃ」
「どこに行っておられたのですか!?」
「この者を手助けしておったのじゃ。ええ
と、名は……」
茫然と二人の会話を聞いていると、私の話す
番がまわってきていたようだ。慌てて答えよ
うとすると、
「藤吉郎」
信長様が姿を現した。
「これはこれは長政殿。よくぞお越しくださ
った」
「こちらこそ、お招きいただき光栄でござ
る」
私を助けてくれたその方は、信長様に向かっ
て恭しく頭を下げた。
「この者は木下藤吉郎。某の小姓でござる」
そこまで言うと、信長様は私に向き直った。
「このお方は、市の夫の浅井長政殿じゃ」
驚きのあまり、一瞬言葉を失う。
「なんと……!!浅井長政様であらせられま
したか」
長政様は微笑んで問うた。
「誰と思っていたのじゃ?」
「もっと下の人かと…」
「無礼者!!」
正直に答えると、清綱と呼ばれていた方に怒
鳴られた。ビクッと肩をすくめる。
「まあ良いではないか」
その方を諭し、長政様は微笑んで言った。
「貫禄がないと、よく言われ申す」
「も、申し訳ございませぬ!!」
その長政様の表情を見て、慌てて頭を下げた
のだった。
「何故今日は上手くいかんのじゃ」
そうぼやいたのは信長様だ。ふて腐れた子供
のような顔をしている。
何でも全力で取り組む信長様は、子供っぽい
のかもしれない。しかし、そんなところが可
愛らしくて大好きだ。
「信長殿、この鷹をお使いくだされ。ささや
かながら、某からの贈り物でござる」
そう言って長政様は、雪のように白く美しい
鷹を差し出した。
あまりの美しさに、その場にいた人たちが
皆"ほぅ…"とため息をついた。
「では早速」
そう言って信長様が白鷹を放つと、白鷹は獲
物に向かって一直線に飛んでいき、見事に捕
らえた。
飛ぶ姿もとても美しく、信長様は満足気な表
情を浮かべた。
「長政殿、これほど良い鷹は他に無い。礼を
言うぞ」
「気に入っていただけて嬉しゅうござる」
——————その日の夜。
信長様のお城では、鷹狩りの成功を祝して
宴が開かれていた。
「長政殿」
声をかけつつ、信長様は長政様の前に座っ
た。
「一杯どうじゃ?」
「いただきまする」
信長様が徳利を持ち上げると、長政様は盃を
差し出して応えた。
「今宵の酒は格別であろう?」
「はい、誠に」
「京より取り寄せた"舞姫"という銘酒でな」
「道理で!これほど美味しい酒は今まで飲ん
だことがないと思っておったのです」
「長政はお世辞が上手いな」
「誠でござるよ」
そんなことを話しながら、お二人は楽しげに
笑っていた。その仲睦まじい様子に、こちら
まで楽しい気持ちになる。
「ところで長政、市は息災にしておるか?」
「はい。毎日生け花に勤しんでおりまする」
その何気ない一言に、表情が曇る。
「そうか。それは何よりじゃ」
そう言いつつ信長様が私の方を見た気がしたが、ちょうど踊り始めた踊り子たちが私を隠した。
渦巻き始めた黒い感情を振り払いたくて、大広間を出ようとした。
その
「御屋形様……!!」
突然、踊り子の一人が信長様に襲いかかった。
最初の一撃をひらりとかわし、次の一撃は刀で受けとめる。
その間に家臣達が周りを取り囲むと、諦めたのか、踊り子は音もなく消えた。
家臣一同が信長様に駆け寄る。
「御屋形様!御無事でございますか!?」
「大事ない」
皆、ほっと安堵のため息をつく。
「それより、どこの忍びじゃ」
誰も答えない。
「わかる者はおらんのか!」
苛立ちを露わにして、信長様は再び問いただす。
「朝倉の者かと」
声をあげたのは長政様だった。
下を向いていて、その表情はよく見えない。
「知っておったのか」
信長様は真っ直ぐに長政様を見下ろす。
緊張の沈黙が支配するこの部屋で、誰も音を立てることを許されないようだった。
この場には相応しくないほど優雅に、ゆったりと、長政様は顔を上げた。
そして目が合う。
「存じ上げませぬ」
揺るぎない、凛とした声だった。
それ以上何も言わず、動きもしない二人。
ひょっとしたら瞬きもしていないんじゃないかと、変な不安が頭をよぎる。
信長様はふいにニヤリと笑い、
「まあ良い。おぬしを信じる」
と言って、皆の方に振り返った。
「今宵の宴は終わりじゃ」
一方的にそう告げると、信長様はさっさと大広間を出て行った。
ようやく後片付けを終え、大広間を出る。
当然外は暗く、月明かりだけを頼りに自室までの廊下を歩く。
雲が出てきて、月を隠し始めた。なんだか心細くなってきて、足を速める。
「キャ……!!」
突然腕を掴まれ、部屋に連れ込まれた。
部屋の中は真っ暗で、恐怖のあまり全身が硬直する。
「わしじゃ」
その声とともに灯がともされる。
その人の顔を見た途端、全身の力が抜けて、その場にへなへなと座り込んだ。
そんな私を見て、信長様は意地悪く笑う。
「そんなに驚いたか」
「怖かったんです…!!」
怒りで頬が赤くなる。と同時に、安心して目尻に涙が浮かぶ。
「まあそう怒るでない」
赤子をなだめるように、頭をなでられた。
かつてないほど優しい微笑みを向けられ、それ以上何も言えなくなる。
しばらくなでられていると、ふと、信長様の頬にわずかな傷があることに気がついた。
「信長様、これは…?」
そっと手を伸ばすと、軽く避けられ、触れることを拒まれた。
「あの踊り子がつけた傷じゃ。気にするな、
大事ない」
気にするなと言っておきながら、深刻な表情になる信長様。
「あの……信長様…?」
心配で顔を覗き込むと、口づけが降ってきた。
何か誤魔化されたような気がしたが、これから訪れるであろう甘い時間に胸が高鳴る。
しかしすぐに離れた唇は、意外な言葉を紡いだ。
「お秀、市のもとで侍女として働いてくれぬ
か?」
「へっ?」
驚きのあまり、開いた口が塞がらない。
「そして、長政の動きを探って欲しいのじゃ」
「何故私なのですか?優秀な忍びの方なら大勢いらっしゃるではないですか!!」
とても私にできるお役目ではないと、全力で首を横に振る。
「しかし忍びは心から信用することはできぬ。誰よりも信用できるおぬしだからこそ、この役目を任せられるのだ」
「………」
「引き受けてはくれぬか?」
「ならば、一つ条件がございます」
「申してみよ」
「このお役目を果たしたあかつきには、城が欲しゅうございます」
「城…とな……。良かろう」
「ありがたき幸せ」
そこまできて、堪え切れないというふうに信長様が吹き出した。
「……ふっ!あっはっはっは!」
「何がおかしいのですか!!」
少しムッとした顔をしてみる。
「おぬしがだんだん武将っぽい言葉遣いになっているのが面白くてな」
「某とて一人前の武将でござる!笑うのはおやめください」
ふてくされて信長様に背を向ける。
「すまぬすまぬ」
そう言いつつ信長様は笑い続け、ひとしきり笑ったあと、急に静寂が訪れる。
そろそろ自室に帰ろうかと思い始めたその時、
「お秀」
後ろからぎゅっと抱きしめられた。
と思ったら、衿元に手が伸び、着物を脱がされる。
「きゃ……!!信長様……っ!!」
じだばたしている間に、鏡の前に立たされる。
「ほら、見てみよ」
気がつかないうちに目をつむっていたようだ。
そっと目を開けると、美しい着物を着た自分が映っていた。
「やはり、この方が良いな」
満足げに笑う信長様は、花でも愛でるように私を見つめる。
「好きです、信長様」
ふいにそんな言葉が口から漏れた。
「……っ!!」
信長様は顔を赤くして私から目をそらす。
普段見ることのできない信長様の様子に、私の中の加虐心がうずく。
「好きです、信長様」
信長様の方を見る。
「好き、信長様」
信長様に一歩近づく。
「好き、好き、好き、好き……」
どんどん近づいていき、信長様の前に座る。
「大好き、信長様」
そしてえへっと笑ってみせた。
あまりに返事してくれないので、いじめすぎたかなと少し反省する。
「ねえ、信長様ぁ〜」
機嫌直してくださいよぉ〜と腕に抱きつく。
「聞こえぬ」
「えっ?」
「もう一度申せ」
「………?大好き、のぶながさ…っ!!」
言葉の途中で、唇を塞がれる。
「んっ……!」
長い口づけのあと、信長様が耳元でささやく。
「二人のときは信長で良い」
「え……恥ずかしい…」
きっと今、私の頬は赤くなっているだろう。
「呼べ、お秀」
「っ!」
「早く」
迫ってくる信長様をかわす術を、私は持っていない。
「…のぶ…なが…」
「聞こえぬ」
こうなったら勢いに任せるしかない!
「……っ!信長!」
信長様は満足げに笑うと、
「わしもお秀が大好きだ」
と言って、本日三度目の口づけが降ってきた。
女秀吉 幸那。 @busido512
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