第三話 時雨

信長様に呼び出された。


あの日から数日。側室になるかと言われたが、小姓の方が側にいられるからと断り、今まで通りの生活を送っていた。


そんな中、突然、小姓の仕事が終わった後に呼び出されたのだ。


甘い予感に胸を踊らす。


部屋の外から声をかける。


毎日顔を合わせているのに、こうして逢うのは初めてで、妙に緊張した。


「藤吉郎でございます」


「入れ」


「御無礼仕りまする」


当然のように下座に座る。


「何じゃ、よそよそしい。ここに座れ」


そう言って信長様は自分の隣を示した。


「えっ!」


(うれしい!!)


いそいそと信長様の隣に座る。


「今日は折り入って頼みがあって呼んだのだ」


(なんだ……それで呼び出されたのね)


胸の内の失望を悟られぬように問う。


「何でしょうか?」


「市を説得して欲しいのじゃ」


「お市様を?」


「近江の浅井長政に嫁ぐよう説得して欲しい。なかなか承諾してくれんのじゃ」


「畏まりました」


用件はそれだけといった風なので、お秀は部屋を出ようと立ち上がった。


(ほんとはもうちょっと側にいたいけど)


「では、失礼いたします」


「待て」


驚いて振り返る。


「側にいろ」


信長様の頬がほんのり赤い気がするのは、私の思い過ごしだろうか。


(ふふ、可愛い)


「ふふ」


思わず心の声が漏れていたようだ。

ニコニコしながら隣に座ると、


「ニヤニヤするな」


と怒られた。

しかし、尚も緩む頬を抑えられない。


「信長様、可愛いですね」


突然、体を引き寄せられ、額が合わさる。


急激に縮まった距離に、胸が高鳴った。


「今日は一晩中側にいてもらうからな。覚悟しろよ」


いつもの余裕を取り戻してニヤリと笑う信長様に、真っ赤になるお秀なのだった。


─────次の日。


「藤吉郎にございます」


「どうぞ〜」


「御無礼を」


「何の用かしら?」


なんだかご機嫌な様子のお市様。


「実はね、兄上が帯をくださったの」


聞いてもいないのに話し出す。


「とっても綺麗でしょ〜」


そう言ってとても嬉しそうに帯を指差す。


赤地に、杜若と水仙が咲いている。


「確かに。綺麗な帯ですね」


「杜若には、"幸せはあなたのもの"という花言葉があるんですって」


ついに私にとっての"幸せ"が訪れるのかしら、と、お市様は胸をときめかせている。


(お市様にとっての"幸せ"って何なんだろう?)


「で、何の用かしら?」


「浅井長政様に嫁いでいただきたいのです」


そう言った途端、お市様の周りの空気が冷える。


「それは…兄上に命令されたの?」


「はい」


「………」


「お市様が浅井様に嫁いでくだされば、織田家のためになるのです!」


ここぞとばかりに畳み掛ける。


「ですから…」


「わかっておる!!」


急に声を荒げるお市様。


「そんなことはわかって…おるのじゃ…」


そしてお市様は、静かに、涙を流した。


「お市様……?」


何と声をかければ良いのかわからず、戸惑いの声を上げる。


「男のおぬしにはわからぬでしょうね。好きな男を想う女の気持ちは」


悲しげな笑顔に胸が締め付けられる。


「わかります!!」


お市様を元気付けようとまくしたてる。


「私だって女です!それくらいわかります!」


し───ん。


(あ……)


驚きと困惑の沈黙が流れる。


(やってしまった……)


「あの、今のは…」


慌てて言い訳しようと口を開くと、


「ぷっ、あはは」


お市様の笑い声が重なった。


「あ、あははは」


ぎこちなく一緒に笑う。


「どうりで、あんなに着物が似合うわけだわ」


納得したようにお市様が言う。


「なんだか笑ったらすっきりしたわ。浅井家に嫁ぐと、兄上に伝えてちょうだい」


「ありがとうございます!!」


お市様の部屋を出て、急いで信長様の元へ向かう。


「説得できました!」


「誰か名乗ってから入らぬか」


口ではきついことを言いながらも、顔は微笑んでいる。


「申し訳ございませぬ」


「ようやった」


「はい!!」


「何か褒美に欲しいものはあるか?」


「……」


一瞬ためらってお秀は言った。


「…帯が欲しいです」


信長様は少し驚いたようだった。


「おぬしにも、女子らしい願いはあるのじゃな」


「なっ…!」


反論しようとすると、


「前はあんなことを望んでたしな」


と不敵な笑みを浮かべる信長様に、お秀は真っ赤になって何も言えなかった。


「まぁ良い。お秀に似合うのを選んでおいてやる」


「ありがとうございます」


「楽しみに待っておれ」


「はい!」


─────数日後。


朝起きると、枕元に帯が置いてあった。


白地に、赤い菊と山吹が咲いている。


(綺麗……)


ほぅ…とつい見とれてしまった。


お礼を言いに行かなければと、帯を手に信長様を探した。

うろうろと探し回っていると、縁側で生け花をしているお市様を見つけた。

信長様にいただいた帯を持っている手前会いづらく、素通りしようと足を速める。


が、


「藤吉郎!」


呼ばれてしまった。


帯をさりげなく隠してお市様の方を向く。


「お市様!いらっしゃったんですか!」


あたかも今気づいたかのように返事をする。

小さな嘘をつく罪悪感に、笑顔が引きつった。


「こっちへいらっしゃい。生け花教えてあげる」


女だとばれて以来、こうして仲良くさせていただいている。

駆け寄り、近くに腰を下ろす。


お市様の手元を見ると、ちょうど赤い菊を生けているところだった。


「赤い菊には、"あなたを愛してます"という花言葉があるんですって」


先ほどまでとは打って変わって、浮かない表情になるお市様。


「兄上に赤い菊をもらえたら…」


お市様はつぶやくようにそう言った。

そして、まるでその先は言ってはいけないかのように口をつぐんだ。


私には続きがわかる。


("嬉しいのにな"ですよね?)


考えるまでもなく出たその答えに、自分でどきりとした。


お市様にとっての"幸せ"は、信長様と結ばれることだったのだ。


気づきたくなかったとお秀は思った。


(いつかきっと想いは届きますよ)


そう言ってあげたいのに、言葉が喉に貼りついて出てこない。


自分はなんでも素直に言うほうだと思っていたのに。こんなことは、初めてだ。


幸か不幸か、そこに信長様が通りかかった。


「兄上!」


ぱぁっとお市様の表情が明るくなる。

それを見て、さらに心が痛む。

きっとその笑顔は、信長様以外の人には見せないだろう。


いても立ってもいられなくなり、何も言わず立ち去ろうと腰を上げかけた。


(!!)


信長様が後ろからがばっと覆いかぶさってきてつんのめった。

慌てて後ろから抱きつく信長様を引き剥がそうとする。


「のっ、信長様!」


「何を恥ずかしがっておる。市には女だとばれておるのだろう?」


そういうことじゃなくて!とお秀はさらに慌てる。


やっとの思いで信長様を引き剥がし、お市様を窺う。


「……」


空虚な目だ。そして話し方を忘れたかのように何も言わない。

いや、言えないのか。

その目が、ゆっくりと私の近くの床に視線を移す。


「あっ!!」


声を上げた時にはもう遅かった。

そこには、信長様にいただいた帯が、見せびらかすように落ちていた。


「兄上、この帯は……?」


お市様は、私ではなく、信長様にそう聞いた。

ひどく沈んだ声だった。


「これは、わしがお秀にやったものじゃ」


信長様は、お市様の想いに少しも気づいていないようだった。


「それよりお秀、知っておるか?赤い菊には"あなたを愛してます"という花言葉があるのじゃ」


わしからお秀への贈り物にはぴったりじゃろ?と、得意げな信長様。


そんな、お市様の想いに気づかぬ信長様に、無性に腹が立った。


「その花言葉も知ってるし、お市様の想いも知ってます!!」


勢いのままに続ける。


「だいたい、杜若の柄の帯を贈るなんて嫌味ですか!?お市様にとっての"幸せ"は信長様と結ば…」


「もうよい」


「されど!」


「もう、よいのじゃ…」


自分に言い聞かせるようにつぶやくお市様。


お市様を照らす太陽の光。その反対にできた陰が、いつもより大きく見えた。


「杜若には、"幸運は必ず来る"という花言葉もあるのじゃ」


突然話し出した信長様に、お秀もお市も顔を上げる。


「浅井長政は良い男だと聞く。きっと市には幸運がやって来るじゃろうと思うてな」


そう言って信長様はお市様の頭をなでた。

お市様はずっとそっぽを向いていた。


何を思ったか、信長様はお市様を抱きしめた。

ただし、それは兄弟としての抱擁だった。

それ以上でもそれ以下でもなかった。見かけ上は。


お秀は、その美しい抱擁をただただ眺めていた。


─────お市様の輿入れの日。


朝から城内は騒がしかった。

お秀もあっちへこっちへ走り回っていた。


「藤吉郎ー!お市様が呼んでるわ!こっちへ来て!」


お市様付きの侍女に、中庭をはさんで向かいの廊下から呼ばれる。


「いいなーお市様に気に入られて」


蘭丸が心底うらやましそうにこちらを見る。


「信長様以外の男はほとんど寄せ付けないのに」


蘭丸の方を見ると、箱を三つほど重ねて持っている。とても重そうだ。


「一つ持つよ。貸して」


蘭丸を助けようと、手を差し伸べる。


「いや、いい。それに、お市様に呼ばれてるだろ」


女の私には重いだろうと、気を遣ってくれたのだろう。


蘭丸は優しい。しかし尚も食い下がる。


「持ちたいの!」


思いがけず、怒ったような声が出た。


お市様から逃げたかったのか、それとも本当は蘭丸に手を差し伸べて欲しかったのか。

この訳のわからない重い気持ちを、どうすればいいのかわからない。


「いいから行けって」


私が勝手に怒っても、蘭丸は少しも嫌な顔をせず背中を押してくれた。


心の中で謝り、お市様の部屋へ向かった。


「ご無礼いたします」


返事がないのは了承の合図と、中へ入る。


「お呼びでしょうか」


お市様がスッと何かを差し出す。


赤い菊の生け花だ。


「これを、兄上に渡してほしいのじゃ」


お市様はきっとわかっている。これを私に託すということがどういうことか。

これを私に託すということは、渡すも渡さないも私の自由ということ。

お市様はきっと、私は渡さないと思っているのだろう。

お市様が信長様に赤い菊を渡すのは、本来許されないこと。だからこそ、これを私に託したのだ。


「…畏まりました」


部屋を出て信長様を探す。

むしろ渡してやろうと思った。

しかし、今日に限って見つからず、お市様の出発の刻限になった。


「では兄上、皆様、行って参ります」


「達者でな」


お市様を乗せた輿が遠ざかっていく。


見えなくなったところで、信長様に生け花を差し出す。


「これ。お市様からです」


いじけた子どものような言い方になってしまった。


「……」


無言で受け取り、赤い菊を見つめる信長様。


何を思っているのだろう。どんなに信長様を見つめてもわからないので、信長様の視線を追う。


お市様が去った方を見ている。


「誠は、市の想いに気づいておったのじゃ」


そう呟く信長様と私の頬を、ひんやりとした風が撫でていく。


「えっ……」


「しかしわしは市の想いに応えることができぬ。これも織田家のためじゃ」


そして目が合う。愁いを含んだ瞳に映る私が揺れていた。


────ぽたっ


雨だ。


信長様は城内へ戻っていく。私も後を追った。


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