ハローワークに行ってきました -Returns-
大野ヤスヒロが晴れて製本会社に入社し、慎ましくも幸福な一庶民としての人生を元気よく歩みだしてから、二年半が過ぎた。
残念ながら、彼の姿はまたしても職業安定所にあった。
結局、彼は三年も仕事を続けられなかった。入社して半年後にはつらいと思った。一年後には辞めたいと思い、一年半後にはいつ辞めようかと思案するようになった。最後には恐れと緊張で足をガクガク震わせながら上司に退職願を差し出して、二年五ヶ月間の社員生活を終えた。
事実だけを冷静に見れば、大野は別段ダメ人間というほどではなく、かといって優秀な人間というわけでもない、少々仕事運に恵まれない普通の人間だろう。というのも、その製本会社の業務は体力的にきつく、残業も多かったからだ。実際、彼の在籍中にも、二人の後輩が入社半年も経たずに逃げるように辞めていった。
だから、曲がりなりにも二年以上継続した彼は、褒められはせずとも、労いの言葉の一つくらいは貰える頑張りを見せたと言える。
しかし、大野自身にとって問題はそこでは無かった。
入社当初の希望に満ちた展望に反して、この二年余りの生活は彼を強く立派な社会人にすることはなかった。むしろ彼を疲れさせ、より卑屈にさせ、人間恐怖症にさせてしまった。これこそが問題だった。
彼自身それを分かっていても、十代の活力を未だ漲らせていた成人直後の精神を、もはや思い出せない。彼は二十六歳になっていた。
(二十代の貴重な時間を費やして一生懸命働き得られたものは、少しばかりの製本業の知識と、自分がいかに人間恐怖症で、いかに世間の人達に馴染めないかということの確認だけだった)
と彼は思った。
さて、そんなわけですっかり労働意欲を失ってしまった大野は、職安から失業手当を貰って当分の生活費とし、自堕落的な引きこもり生活をすることにした。
しかし、そのためには職業安定所の催すセミナーや訓練に参加して「就職活動実績」なるものを作らねばならなかった。
今日、彼はその一環として面接対策セミナーに参加するため、クリスマスの近い寒空の下を歩いて職安に来たのだ。
受付を終えるとすぐさま奥に通された。
仕切りで区切られた手狭な部屋に二台の長机が長辺を接して置かれ、両側に五脚ずつ十脚の椅子が置かれていた。
既に半数近くの椅子が埋まっていて、大野と同時に来た二、三人が座って、参加者が揃った。直後に、中年の男の講師が入ってきた。立って話す講師に向かって左側の前から四番目が大野の席だった。
室内の高い人口密度に、大野は俄かに息苦しい気持ちになってきた。
今、自分は一つの人格として「セミナー参加者」という役割を求められている。街中の風景に個を没して溶け込むようには、今この風景には溶け込めない。他の参加者が、自分という人間を、少なくとも十分の一の割合で注視している。そう思うと、酷く恐ろしい場所に来てしまったような気がして、彼は緊張してしまう。
彼は他の参加者をちらりと見渡したが、せいぜい男か女かを判別する程度で、顔なぞ見ようともせず、すぐに下を向いて配布資料を一人勝手に黙読し始めた。文字を読むと落ち着く。幸いにも、数種類の文字多き資料が机上に置かれていた。このままこうして精神を安定させ続けて今日を乗り切ろうと考えた。
その矢先、初っ端から講師が参加者一人ずつに質問を投げかけはじめた。
「さっそくですが、皆さんが採用面接を受けるにあたって、不安なことを聞かせてください」
それでは貴方から、と講師が促して、左側の前から順に回答が始まる。
「私は前職が長くて、転職活動自体久しぶりで、全体的に忘れてしまっているので一から勉強しようと思って今日参加しました」
最初の女がハキハキと答えるのを、大野はじっと俯いて聞いた。要領の良い、嫌味のない答えだと思った。自分は何と答えようか、と思い悩む。
講師は無難な相槌を一言二言入れて、次を促す。
「僕は初めての転職活動なので、今の仕事を上手く自己アピールに絡めて話せるかが、少し心配ですね」
次の男もまた、就職活動者らしい妙に愛嬌のある媚びるような口調で、まともらしいことを言った。「今の仕事」と言うことは、会社に在籍しながら転職活動をしている堅実で賢い紳士というわけだ。それに比べて、無計画に逃げるように退職した自分がやけに惨めに思えて、理不尽と知りつつも男への敵意が抑えられなくなる。なにが、自己アピール、だ。洒落臭い。
「私はまだ学生なんですが、面接で凄く緊張してしまう性格で、来年からの就活できちんと受け答えできるか不安です」
三人目は女子大生だった。意識の高さに頭が下がる。彼女も先の男と同様、自分とは生きる世界が違うのだろう、と卑屈な気持ちになってしまう。
「じゃあ次……」
大野のばんだった。
「え……えっと…………」
部屋が静まり返る。十人の人間が彼を見つめ、その言葉を待っている。その事実に、彼の脳は呆気なくパンクしてしまった。
頭の中では、思考と言えるのかも怪しいでたらめなイメージの羅列が無秩序に増殖し、内側から彼の精神を圧迫していた。初めてのアルバイトでの面接、新卒採用のときの面接、警備員の面接、製本会社の面接……、そんな数多の記憶をフラッシュバックのように想い起こすけれど、そこから論理的な言語が何一つ生まれてこない。
もうキツイ仕事をしたくない、もう残業をしたくないという願いだけが確かな感情として捉えられたが、それを講師の質問に対する回答に当てはめることができなかった。
数秒間の沈黙が流れた。
周りが「あ、この人はちょっとダメな人だ」と察するのに十分な長さの沈黙だった。
「え──、と……」
「なんでも良いんですよ。今まで受けられた面接で困ったこととか」
「え……、え……、特に無いです」
「あは、無いですか。わかりました~。それでは次、お願いします」
講師は場を和ますように優しく微笑んで、大野を解放した。
彼は、恥ずかしくてもう一ミリたりとも顔を上げることができなくなり、じっと下を向き続けた。そして、今の自分が二年半前から何ら成長できておらず、相変わらず自意識過剰で引っ込み思案で人間恐怖症だということを痛く思い知った。それどころか、月日の流れが彼を若者でなくさせ、若さの言い訳なぞ微塵も通用しない、みっともないコミュ障おじさんにしてしまったのである。
何故この程度の受け答えができないのか? 仕事をしていた頃はもう少しましだったのでは? そう思ってかつての労働の記憶を訪ねようとして、ハッとした。ほんのひと月前までうんざりするほど慣れ親しんでいた、丁合機や綴じ機や断裁機の姿や使い方を、もうはっきり思い出せなかったからだ。工場の硬い緑色の床も、その上を歩く安全靴の履き心地の悪さも、遠くおぼろげだった。
世間一般に、仕事を長く続けるのは偉く、立派なことだ。
これは二つの理由によるものだと、大野はいま理解した。
一つは、仕事はつらく苦しいから。
苦しいことを続けるのは難しく、難しいことを成し遂げるのは賞賛に値する。
もう一つは、辞めてしまったら、もはや何にもならないから。
労働という行為が日常に根を張る以上、過去と化したそれは日常の中に埋没し、全て忘れてしまう。大野は今それを感じた。在職中の自分が今より幾分ましだったとしても、それはもう過去のことで、今は忘れてしまったのだ。
結局、「特にないです」なぞという間の抜けた回答をしたのは彼だけで、他は各々素直に卒なく自己表現していた。
その後三十分以上、講師の一人喋りが続いた。面接のマナーやよく聞かれる質問など、ほとんど配布資料を読み上げるだけの説明で、新たに得るものは僅かだった。右隣の女が、聞こえるか聞こえないかという大きさでうん、うん、と相槌を打ったり、笑いを誘うところでつまらない愛想笑いをしていた。彼はかねてから女性のそういう所作が嫌いだった。コミュニケーションに対する自らの積極性を、ひとときも休まずアピールし続ける、そんな所作だ。それに反発するつもりで、彼は地蔵のように固まって俯き、無表情で講師の言葉を聞き流した。
セミナーの後半は、質疑応答の簡単な実践練習だった。
まず最初に、各自が「よくある質問シート」に志望動機や自己PRを書く。次に、それを隣りの人と交換して、質疑応答をロールプレイングする。
大野は悩み苦しみながらも半分くらいはシートを埋めて、隣りの女と交換した。
そのときになって初めて、彼は人の顔を見た。
推定三十代の、不細工な顔の女だった。化粧のおかげか顔艶が良く、ブスだけど明るく生きているという感じの、女性らしい逞しさが伝わってくる。
まず彼が質問して、彼女が答えた。その逆もやった。
最初、彼女は大野に対して心配そうな様子だった。講師の問いかけに黙りこくってしまった問題児を見る目だった。しかし、事前にシートに書いたことを答えるだけなので、さすがの彼も──モゴモゴとした聞き取りづらい声ではあったが──無難にこなした。そうするうちに、段々と彼女が自分を見直して、一社会人として対等な目で見てくれるようになるのを、彼は感じた。
汚名返上、名誉挽回といった思いが彼の心を温かく満たし、女に対しても自然と好意的な気持ちになった。実際、彼女の口調は優しく、常識的で、柔らかい女性の優しさに溢れていた。大野が答え終わると「スラスラ話せてて凄いですね~」なぞと嬉しいお世辞を言ってくれた。
だが、そのときふと、彼は、この女が先ほど鬱陶しい相槌や愛想笑いをしていた女であることを思い出した。シートに言葉を埋めるのに必死で忘れていたのだ。それが分かると、途端にバツの悪い気持ちになり、この女に上手く一本取られてしまったような敗北感が押し寄せてくる。
(僕は、一丁前に人を嫌っておきながら、人に認められた気分になって浮かれている、与しやすい子供じゃないか!)
彼はそれ以上いろいろ考えるのをやめて、再び地蔵のように固まって下を向くのだった。
まもなくセミナーは終了した。
彼は腹が減っているのに気づいて近くの松屋に入店し、
(つらいと言うほどでもないが、かったるかったな)
と感想を抱きながら、黙々と牛めしを掻き食らった。
蟲が生きる @insecter_okr
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