エピローグ

 結論を言うと、大野ヤスヒロは就職した。職安で見つけた製本会社に書類を送って二度の面接を受けて、正社員として採用された。

 一度目の面接での感触が良くなかったので、彼はダメだったと思って落ち込み、数日の間寝たきり老人のように引きこもって人生を悲観していたが、意外にも再度の面接の機会を与えられて俄かにやる気が湧いてきた。いつかは働かなければならないのだから、こんな面倒な就職活動なるもので精神を磨り減らすのはこれ一度きりにしたいと強く思った。とにもかくにも、無気力なまま貯金が減りゆくことに焦りを感じるだけの生活を変化させたいと願った。それは面接で述べ立てるべき模範的な就労意欲とはかけ離れていたが、理由はどうあれ彼の精神はここ最近で類を見ないほどに高揚して、自分で自分の精神に驚くほどだった。それでカラオケボックスに行って面接官と自分の一人二役を演じて面接の練習をするなどして、先よりかはいくらか自信をつけて二度目に臨んだところ、面接の後数分待たされてからその場で採用を言い渡されたのである。帰路につくおり大野の心は純粋な喜びで満たされていた。それは久しぶりの懐かしい感情――肯定される嬉しみだった。初夏の太陽が慈愛に満ちた光で彼を祝福し、道端の用水路はきらきらと美しく流れて彼の輝かしい未来を暗示するようだった。その後入社日まで楽しい気持ちで過ごした。もう貯金の残りを気にして断食めいた節約生活をすることもなくなった。


 入社初日から工場で働いた。といっても、はじめの一週間は先輩社員の後に付き従ってほとんど見学するだけだった。工場で働いたことがない大野にとって、そこは全くの未知の世界だった。そこには数台の丁合機や綴じ機や断裁機があって、ガシャガシャガシャガシャと息つく暇なく紙束を加工していた。壁や機械の側面にはスパナやペンチやその他よく分からない工具が掛けられていた。機械の無い場所には、製本前もしくは製本後の大量の印刷物が圧倒的な質量を持ってパレットの上に鎮座しており、従業員がその中から数枚抜き出して検品しているようだった。大野は本当に何も分からなかったので、先輩社員の後ろを金魚の糞のようについて回って「これは何をしているのですか?」「これはどういう意味ですか?」と言葉を覚えたての幼児のように質問した。幸いにも先輩社員は嫌な顔せず丁寧に答えてくれたので、彼はとてもありがたく思った。一方、職場の先輩達はよく大野にどこから通勤しているのかを尋ねた。これは良い問いだなと彼は思った。誰もが必ず明確な答えを持っており、それでいて通勤手段であるとか車を買う予定はどうであるとか当たり障りの無い範囲で話題が広がるし、遠くから通う者には「大変ですね」と労ってやり近くから通う者には「いいですね」と羨んでやれば、円滑なコミュニケーションが約束される。自意識過剰な話ベタ人間である彼であっても十分に卒なくこなせる会話であった。それでも時折、肥え膨れた自意識が彼を寡黙にさせたが、そんな時はまだ入社したばかりで緊張していると思われることを願った。


 久しぶりに立ちっぱなしで労働したために、最初の一週間は脚がだるかった。だがそれも次第に慣れた。ひと月前まで恐怖と想望の対象であった労働は勢いよく日常に流れ込んだ。月並みながら、とりあえず三年はこの仕事を続けるべく努力しようと思った。努力とは消費であった。たくさん金を使う生活に慣れれば、その発生源である仕事を辞められなくなるという論理に大野は縋った。仕事のやりがいや職場の人間関係にモチベーションを求めることはあまりにも不安定なのだ。彼は金を惜しまず外食することにした。以前から少し興味のあったバイクの免許を取ることにした。新作のエロゲーも予約した。すると不思議なもので、なんだか生きる活力が湧いてくるのだ。彼は資本主義の魔力を体感したのである。労働と消費の脈動が、どこまでも無意味な自分の生に、なにか意味ありげな温かい血を送り込むようだった。毎日決まった時間に起きて会社に行くことは単純につらいのだが、そうして毎日をやり過ごせば、自己の存在を漠然と思い悩む暇もなく時が過ぎ去っていく。休みの直前の労働を終えてラーメンを啜り煙草をふかすとき、驚く程の多幸感が彼を包むのだった。その精神は間違いなく幸せであった。幸せであったが、しかし静かな寂しさを孕んでいるのを彼は感じていた。それは就寝のとき、布団に仰向けに横たわって目を瞑るとき、確かな実体を持って彼の心に存在した。彼は自己の深淵にどうしようもない虚無感が潜んでいるのを見た。

「なにを必死になって仕事なぞ頑張っているんだ?なにか意味があるのか?」

 暗黒の虚無の使者が声なき問いかけを発する。彼の心は答えられない。ふと、なにもかもがどうでもよくなってくる。バイクなんて要らない気がしてきた。エロゲーなんて要らない気がしてきた。働くのはしんどい。人と話すのはしんどい……。…………。

 救いは往々にして疲労だった。仕事の疲れが彼を眠りの楽園に逃れさせた。朝七時半までの期限付きの楽園へと。

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