ハローワークに行ってきました3

 予約の時刻は15時15分。

 先日までと違い、今日の大野ヤスヒロには精神的余裕があった。

 その余裕の生まれるところはひとえに、彼が本日職安へ赴く目的をはっきりと決めていたからである。彼が目をつけたとある製本会社の求人に応募すべく、そのハローワーク紹介状を貰うことを決めていたからである。

 この急にも思われる前向きな姿勢には、前回の職業相談が大いに関係していた。四日前、大野は自分自身の「興味」について職員に質問されたのがきっかけとなり、内気で自意識過剰という彼の性格の悪い部分が見事に露見してしまった。彼自身も嫌というほどそれを自覚し、ひどく落ち込んだ。そして、とにもかくにも、もうこんな恥ずかしい思いをするのは二度とごめんであり、そのためには、興味だの自信だのといった自己の内面を垣間見られ易いあやふやな職業相談はきっぱりと終了させて、さっさと本腰を入れた就職活動を開始せねばならぬと思ったのである。付言すると、今のような無職半引きこもりの生活を長く続けていては、より一層醜い自意識が肥大してしまうだろう恐怖もあり、それから逃れたいという動機でもってしても、やはり早く就職しようという前向きな意思が湧き出てくるのであった。

 とどのつまり、大野ヤスヒロという人間は、社会を恐れながらもそれ以上に孤立を恐れる、極々平凡な青年なのである。彼は半ばやけくそに企業選びを始め、先述の製本会社の求人に行き当たった。勤務地と業務内容が気に入ったので、残業時間がやや多い点が気になったものの「やらずに後悔するよりやって後悔すべし」などといった都合の良い言葉を思い浮かべることで楽観的思考を貫き、応募の決意に至ったのである。行動の目的が明確であれば、例え些かの憂いがあろうとも少なくとも思い悩まずには済む。大野は行きがけにセルフのうどん屋で優雅に昼食を済ませると、軽い足取りで職安に向かった。

 

 いつものように受付前の待合スペースで待っていると、大野の相談時間となった。

 担当職員のGと挨拶を交わした後、彼はすぐさま例の求人に応募したい旨を切り出した。これには彼女も少し意外だったようで、はじめきょとんとしていたが、すぐに彼の話に応じて求人情報の確認を行い、現実的な段取りを進めてくれる次第となった。

「応募資格などは書かれていませんが、書かれていなくても経験者を前提にしているところもありますから、応募書類を送る前に電話で確認してみましょう」

「あ~そうなんですねぇ、はいお願いします」

「必要となった場合、会社側に大野さんの名前をお伝えしてもいいですか?」

「あ、はい」

 Gはさっそく机上の電話をとって件の製本会社にダイヤルする。すぐに連絡がついたようで、電話越しに彼の氏名・年齢・性別が伝えられる。先方に自分の名が知れ渡ったこの時になって、大野はもう自分の選択が後戻りできないのだということを強く感じ、そうなると途端に、自分が志望するに至った過程がかなり暴走気味であったように感じられ、本当にこのまま応募する流れとなって良いのかどうか俄かに怖くなってきた。また、彼女が自分の名前を「様」付けで告げる様子を見て、

(ああ、この人は今まで随分親切に僕の相談に乗ってくれたけれど、それも所詮は職務の対象としてであって、けして僕に対して個人的な愛情を持って話をしてくれていたわけではないのだな)

などと、至極当然のことを改めて思い知り、それとあわせて自分がいかに他人に無意識に甘えてしまう難儀な性格であるのかも思い知った。そして彼女が受話器を置く頃には、彼はなんだか堪らなく心細い気持ちとなっており、この相談ブースの席に着席した当初の就職への熱意は影を潜めてしまった。しかし今更やっぱりやめるとは言えず、仮に言えたところで、じゃあ今後どうするのかという話にもなる。不安ながらも前に進むしかない。そんな気持ちだった。

「それでは次来るときに、応募書類を書いて持ってきてください」

 そんな大野に追い打ちをかけるように、書類作成という関門が彼の前に立ち現れた。彼は明後日までに履歴書と職務経歴書と送付状、そしてそれらを入れて送る封筒を準備しなければならなかった。転職活動の経験がないので、職務経歴書や送付状というものは書いたことがなく、甚だ不安であった。書き方の参考資料となるプリントを貰ったので、これを頼りにがんばるしかない模様。

「すこし忙しくなりますよ、大野さん」

 久しぶりに聞く言葉だった。思えば前職を辞めて以降、忙しくなったことなどなかった気がする。

(大変だなあ…)

 この日大野が触れたものは、社会の厳しさなるもののほんの片鱗に過ぎなかったが、彼にとっては社会復帰への十分なリハビリテーションとなったのだった。


 そうして職安を出た直後、リハビリの副作用とでも言うべき症状が起こった。

 気分が落ち込んでいるせいかすぐに帰る元気が起こらなかった大野は、しばらく喫煙所で煙を燻らせながら書類作成のことを考えては「めんどくせえ、あぁめんどくせえ」と独りごちていたが、段々とその落ち込みがメンタルの域に留まらず身体のだるさに拡張されていくのを感じ取った。これはなんだかまずい予感がする。早く帰って少し仮眠を取ろうと思い、吸いかけの煙草をもみ消しエレベーターホールまで歩いて逆三角のボタンを押すのだが、なかなか彼のフロアに止まらない。そうしているうちに急激に乗り物酔いのようなしんどさが襲いかかり、同時に、空気の酸素濃度がどんどん減っていくような息苦しさを覚えた。とうとう立っていられなくなり、もうエレベーターなどどうでもよくなり、人目の少ない階段の踊り場まで倒れこむように移動し、実際倒れ込んでハァハァと酸素を求めて喘ぐ。つらい。存在しているのがつらい。だるくて目も開けていられない。幸せは失って初めて気づくという例に漏れず、大野は健康であることがいかに素晴らしいかをこの突然の体調不良の中で理解した。

 しばらくの間本当に起き上がることができず地べたに寝そべっていた。なんとか蓄えた力で上体を起こすと、先の乗り物酔いのような症状が悪化している。その場で吐き戻すほどでは無いが吐き気は確実に存在し、もうこうなっては無理矢理にでも少し戻した方が楽になると思い、よたよたと男子トイレの個室に駆け込む。便座にすがりつく姿勢で中指を舌奥に突っ込むと、自身のえずき声と共にぼとぼとっと消化されかけのうどんが水面に落ちた。過剰飲酒で嘔吐する時のマーライオンになったような爽快さはなく、えずくたびにぼとっぼとっと細切れなうどんの残骸が唾液と共に吐き出される様は、ひどく情けない心地であった。一息ついて顔を上げると、便器から美味そうな出汁の匂いが漂っていた。


「ハハッ…」

 大野は思わず乾いた笑いを漏らした。やっとしんどいのが治まって冷静になってみると、どうやら自分は二日間という期限で出された宿題があまりにストレスで、突如体調を崩してしまったようなのである。根っこの原因は不規則な生活や食事であっても、引き金となったのはやはり今しがたの職安での出来事であろう。時々風邪をひくことはあれどこのような突発的な体調不良は小学生以来であった大野は、少なからずショックを受けていた。彼は心と体が繋がっていることを感じた。心が落ち込んでも体はいつも変わらず自分という形を与えてくれると思っていたが、どうやら違うようだ。その逆も然り、階段の踊り場で横たわっていたとき本気で消えてしまいたいと思った。心と体は分けられない。そう思うと、自分という存在がますます何を拠り所に生きているのか分からない頼りないものに思えるのだった。

 その後も体調が完全に回復することはなく、足の悪い老人のように歩いて帰宅すると、寝た。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る