ハローワークに行ってきました2
予約の時刻は15時15分。
とにかく、とにかく行くのが億劫であった。
職安には昨日も赴いており、それに続く今日ではあったのだが、たかが一日ではとても慣れるものではない。それどころか、昨日は適性検査等の結果のフィードバックであり、ふんふんと適当に相槌を打っていればよかったのだが、本日はその結果を踏まえての担当職員との本腰の入った相談なのである。そうであれば職員に対して自分から何か意志表明することを迫られる回数は、昨日の程度とは比べ物になるまい。だが当の私は、これといって明確な意志など無く、ただ取り付けられた約束を遂行するためだけに職安へ向かうという状態であり、これでは到底スタイリッシュな求職相談など望めないわけで、それ故に昨日の五倍も十倍も気分が重く沈んでいた。
景気づけにオナニーをと思い立ち、インターネットに転がっているアダルト動画で手早く致し終えたものの、不気味に乳のデカい女優のものを見つつ自慰したのが失敗だったか、射精直後にはそのデカ乳がどうにも醜く気持ち悪く目に映り、しまいには吐き気を催すほどであった。そんなわけで精神状態のすこぶる悪いままキンタマだけ心持ち軽くなった私は、今日も黒鞄を肩に提げ、低気圧のためかやけに湿度の高い五月の街を行くのだった。
受付を済ませてしばらく待っていると、私の担当職員のGさんがブースに立ってこちらに向かって手招きするのが見えた。
「こんにちわっ」
ここまで来たらもう逃げられないと思い、私は開き直って意識的に元気の良い挨拶をした。といってもそれはきっと、一般的な対人恐怖の無い人間にとっては別段元気というほどでもない、客観的に見ればごく普通のトーンの挨拶であったのだが、その時の私にとっては、「僕は人と話すことなんてちっとも怖くないんだぞ、コミュニケーション慣れしているんだぞ、あんまり僕を舐めるなよ。」という威嚇の意味をも込めた、精一杯の空威張りとも言える挨拶なのであった。
「こんにちわー。はいどうぞかけてくださーい。」
当然Gさんはそんな私の内心など知るよしもなく、例によってにこやかに挨拶を返してくれ、すぐさま先日の検査結果を見ながらの職業相談となった。余計な世間話などせずに即本題に入ってもらえるのはありがたいことである。
職業相談は、Gさんが私に適性があるとされる具体的な業種を確認しながら、私に興味や自信を尋ねていく流れで進行した。そしてそこで、私にとって酷く惨めで恥ずかしい事件が起きたのだ。
「文章を読んだり書いたりということは、日常でされてますか?」
相談はいよいよ佳境に入り、言語能力適性が高いらしい私に対し、Gさんが尋ねてきた。日常の行為は興味と自身の現れそのものであるから、その質問は職業相談員としてごく自然な、的を射たものであろう。だが、これに私はぎょっとした。というのも、私は会社を退職した後もっぱら小説や漫画、読文中心の美少女ゲームなどで暇な時間を過ごしており、時々何もかもに無気力となり一日中布団にくるまって過ごす日も、寝床の上でスマートフォンの青い光を浴びながらぼーっとインターネットの駄文を眺めるなどしており、つまり文字を読むという行為は私の生活のかなり根幹の部分であったから、そこに切り込まれるような質問は、私の人間性、ひいては私の人生そのものを尋ねられているような、何か恐ろしい問いのように思えたからだ。さらに最近では読むばかりでなく、自分で小説もどきの文章を書いてネットに漂う駄文の群れに加えるなどしていたものだから、なおさらこの質問にぎょっとした。しかし咄嗟に会話のペースを握って話の流れを方向転換させるような技術を持ち合わせない私は正直に答えるしかなく、
「あーー、まあ本はちょくちょく読みますね。」
と努めて冷静に返事をした。当然、下手くそな文章を書いているということは伏せる。恥ずかしいからだ。嘘をつくのは苦手だが、言わずに伏せるのは得意だ。質問はこれで終わりにしてくれと願うばかりだったが、その願望は無残にも打ち砕かれ、Gさんは問いを重ねてくる。
「へー、どんな本を読むの?」
急に親しげな口調。だんだんと確実に、私の触れて欲しくないところに迫られる。
「えー、小説ぅ、ですね。」
「あ、そうなんだー。どんな小説読むの?もし良かったら、教えてくれる?」
「えー、えーっと」
「じゃあ最近読んだ本とかは?」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
私はとうとう黙ってしまった。声にならない唸りをあげて、都会のビルの一部屋で小動物のように怯えて縮こまってしまった。何を言うのも怖い。自分を表現するのが怖い。自分という存在が他人によって何か判断を下されるのが、この上なく怖い。たかが読んだ本を問われただけにも関わらず、その時の私は本気でそう恐怖していた。
質問の意味はよく理解できていたし、その答えである最前に読書した小説が、私の敬愛する作家西村賢太の『二度はゆけぬ町の地図』であることも、瞬時に思い至っていた。そこまで思考が至った時点ですぐにそれを口にすれば、会話は滑らかに滞りなく進行したのであろうが、さらに一瞬後には、その小説の主人公がかなり下品で世の大半の女性からおよそ好ましく思われないだろう人間であり、おまけに安定した職業にも就いていないことに思い至り、さすればそんな小説の題を公共の職業安定所で口にすることがえらく憚られるように思えたし、何よりその主人公に共感を持って読んでいた私は「君は真面目に就職活動をする気があるのか」と詰られても文句は言えないような気がしてきて、とても口にできなかった。
それでは、べつに馬鹿正直に最前の読書を答えなくともよいと思い、最近読んだ他の作家を思い浮かべるのだが、ヘルマン・ヘッセや中島らも等を答えたら「なんだい君は、無職でいっちょまえに純文学めいたものを読んで、悩める文学青年のつもりなのかい?」と思われそうであり、他には幾つかのライトノベルのタイトルも思い浮かんだが、それを答えれば「君は喋るのが苦手で童貞だろうと思っていたが、家に引きこもって二次元に逃避しているのなら納得だね」と思われそうに感じ、それが嫌で結局言葉にできなかった。
あまりに滑稽である。
要はこの時の私は、勝手に自分の抱いた幻覚妄想に追い詰められて怯えていたのだ。
私は常日頃から自分を先入観に囚われない心の広い人間だと思い込んでいたが、実際には、自分の頭の中に植え付けられたカビのような俗物的な固定観念に縛られていて、それを自身のものであると認めたくないあまり、自分の目が映し出す他人に押し付けて妄想していたのだ。そうして醜いものは全て他者に押し付けて、虚構の優越感に浸っていたのだ。
私は他人が怖いのではなく、自分が怖いのだった。すべてを受容できる心の広い人間でありたいと思う幼少からの思いとは裏に、実際の私の内部には黒々とした偏見が汚泥のように溜まっていたのだ。他人は自分を映し出す鏡であるとはよく言ったもので、私はまさに、他人という鏡に映る自分の醜さを恐れていたのだ。そして時折、鏡を通さない現物の汚泥が私の目に映るときには、私は自分を嫌悪するもう一人の虚構の自分を作り上げ、徹底抗戦を試みる。私の人間性は立派なのだという意識を守るための徹底抗戦である。これほどに不毛な戦いがあるだろうか。自己嫌悪を突き詰めれば、自己嫌悪をしている自己すら嫌悪し、それをしている自己すらまた、という具合の無限ループだ。
思考が大爆発した。オーバーヒートしたロボットはきっとこんな気持ちなのだろうと思う。ここに至って私は自分という人間をどう御して良いのかが全く分からず、色々と思考を巡らせるも、やはり黙りこくるばかりであった。数秒後、見かねたGさんは質問の方向を変える形で沈黙を打開してくれた。
私はなんとか相談を終えた後、逃げるように職安を去ると早速自己嫌悪MAXの反省タイムへと突入した。
(ああ、せめて
「文学的なのも読みますけどライトノベルとかも読みますし本当に色々読みますね」
などと適当な答えとも言えぬ答えを返すか、あるいは
「ごめんなさい、ちょっと恥ずかしいので言いたくないです」
とはっきり意思表示をすれば良かった。黙りこくるなんて一番恥ずかしいじゃないか。)
試験終わりの学生が白紙で出した解答用紙を後悔するように、あれこれ悔やむのだった。
実際、黙りこくるのは最も恥ずかしい所作であったように思う。最初は一端の社会人ぶって威勢の良い挨拶をした男が、その数分後には自分の内面をさらけ出すのが恥ずかしいあまり職員さんの質問にうんともすんとも答えぬまま黙りこくるとは、なんとも情けなく、思い返すたびに穴があったら入りたい気持ちになるのだった。
私は漏れるため息を抑えられぬまま吉野家に入店すると豚丼のアタマの大盛りを掻き喰らい、やはりため息と共に退店し、とぼとぼと帰路に着くのであった。
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