蟲が生きる
@insecter_okr
ハローワークに行ってきました
予約の時刻は15時半。
とにかく行くのが億劫であった。
アルバイトすら辞めてひと月も社会と接点を持たずに生活していると、他人と会話をすることで自分の思考に外部からの働きかけによって予期せぬ波が立つことが、この上なく怖く思えるのだ。世界が自分個人にまで縮小する時、他者の存在は紛れもなく世界を壊そうとする終焉の使者となるのだ。
しかしそうは言っても、無断で約束をすっぽかす度胸はなく、また電話をして「今日は行けません」と言ったところで、「それでは代わりにいつ来られますか」と新しい約束を取り付けられるのは目に見えており、さようなややこしい会話を電話越しに行うくらいであれば、大人しく波風立てることなく職安に向かうのが今の自分にできる最善であるということは、論理的に思考して行き着く答えであり、論理に頼らずとも23余年も生きていれば経験でよくよく分かっている答えでもあった。
世界外存在を拒絶することはできないのだ。どうせ貯金が無くなれば、働かなくてはならない。世界は個で持続しえない。
というわけで、無職に似合わぬ黒いビジネスバッグを肩に提げ、15時に居室を出た。
駅前へと向かう道、初夏の大気は酷く息苦しく、自転車のペダルはいつも以上に重く感じられた。それはおそらく、単に不規則な生活と運動不足によるものであったのだが、その時の私は自身の暗い気持ちが世界とシンクロしているような、随分とドラマティックな錯覚をおぼえた。
受付に立っていたのは私の担当職員であるGさんだった。
“おばちゃんとしては新米”という感じの年齢に見えるGさんはおっぱいが大きい。初めてこの職安に来て彼女のブースに座った時は、そのおっぱいがたゆんと机の上に重みを預けているのが目に入り、随分とどぎまぎしてしまったものだ。彼女はもう私の顔を覚えたらしく、目にとまるなりにこやかに微笑んでくれる。
「えー、えーっと、検査の結果を教えてもらいに来たんですけども」
私も反射的に曖昧なにやけ顔を作りつつ、要件を伝える。今日は先日行った職業適性検査と職業興味検査の結果を、簡単な説明を交えながら伝えてもらえるということであった。
「名前を呼びますんで少しお待ちください」と言われ待合スペースの席に腰を下ろすと、間もなく「大野ケイスケさん来られてますかー?」と声があった。私の苗字は確かに大野であるが下の名前はケイスケではなく、おそらくは何かの間違いで名前を間違えられたのだろうと朧気に直感したが、自分から「大野ヤスヒロ(私の名である)なら私ですが?」などとスムースに自己アピールできるような性格では無い。よってガン無視して俯いていたが、今度は「大野さん、大野さん?」と苗字だけピックアップして呼ばれるので、苗字だけなら該当者である以上無視するわけにもいかず「あの、大野ですけども」と曖昧に腕を上げて応えると、すぐに待合スペースのそばにある仕切りで区画されたスペースに案内された。
仕切りによって一つの部屋となっているその空間は入口から見てやや縦長の長方形であり、そのすこし奥右寄りにテーブル、テーブルのそばには手前側と奥側とに2つずつ、左側に1つ椅子が用意されていた。
「好きなところにかけてください」
検査担当のこれまたおばちゃん職員であるTさんが席を勧めてくれた。先ほど名前を呼んでもらったのもこの人。こういう場合Tさんが奥に座って私が手前に座るのが、上座下座的にも、私がTさんの後に続いて入った順番的にもしっくりくるのではないのかなと思ったのだが、しかし彼女は手前の席の近辺に立って私の動きを待っており、これでは手前側には着席しづらく、そういうわけで私は奥の椅子に着席し、続いてTさんが前述した左側の席に着いた。かようなポジショニングになると、私はTさんの体によって物理的に室外脱出が困難な状況に置かれたわけで、それを思うと俄かに些かの恐怖心が沸き起こってきたのだが、さすがに冷静に考えて職業安定所の一区画で脱出に一刻を争う危機的状況に直面するわけがないと思い直し、こんな何でもないことでビクついていては社会復帰が思いやられるなあと一人でしょんぼりした後、先の検査の結果を受け止めるべく心の準備へと移った。
検査結果を貰った感想を率直に述べると、思っていたよりも内容がしっかりしていて検査を受けて良かったと思えるものであっった。というのも、適性、興味、自信などの検査指標を元にそれを活かせる仕事をわりと具体的な業種にまで落とし込んでいたからだ。
私の検査結果は大雑把にいえば言語能力適性が高く、研究や芸術的領域に興味があり、好奇心を満たすことに基礎的志向性を持っているとのことだ。これだけ言えばなんとも立派な人材だが、対人志向があまりに低く、全体的に自信過小な人間であることも、検査結果は示していた。
検査は受けて良かったと思えたが、私の心の暗雲が晴れたというわけではなかった。Tさんの話を聞くところ、要は「筆記検査では言語能力が高いので、人と喋る仕事全般に向いているけど、実際のところコミュ障なので厳しいよね」というわけであった。事務職なども適性があるが、男性が就くことは難しいそうである。
Tさんは
「適性よりも興味の方が大事だと思う。適性が無くてもやる気を持って頑張り続けられれば、それは良いことですからね。」
と言ってくれた。しかし私は
(“興味”などという曖昧なものはとても信用できない。仕事はつらいものなんだ。僕の親父も仕事のストレスでしばしば目眩と嘔吐を催していた。たとえ最初は興味とやる気があっても、半年もすれば綺麗に消失してしまうのだ。僕だって、前職の会社に入社した当初はそこらの若者並みにやる気に満ち溢れていたさ。そんなもの続かないんだ。それならば適性の方が幾分信用できるに決まっている。)
と心の中で静かに、だが強く思ったのだった。
ああ、自己実現とは何なのだろう。やはりそんな概念は世迷い言で、人はどこに価値があるかも分からない己の命をただ継なぐために、砂を噛み締めて労働するだけの生き物なのだろうか・・・。
そんなことを考え帰路につくおり、私の心を支えるのはヘルマン・ヘッセの小説『デミアン』だった。この作は主人公の少年シンクレールがデミアンという不思議な少年との出会いをきっかけに苦悩しながらも真の自己を追求していくという物語だ。正直なところ、物語の後半はかなり精神的・抽象的であり、完全に理解したとは言い難いのだが、その本のはしがき、ひいては著者紹介だけでも十分に私に影響をもたらすものであった。
「詩人になるか、でなければ、何にもなりたくない」
とはヘッセが神学校を脱走する際言ったとされる言葉。彼の人生は随分と苦労に溢れたものであったらしいが、私は羨ましいと思う。なりたいと思える目標が欲しい、自己の内面から湧き出ようとするものに従い生きる覚悟が欲しい。そんな風に思うのだ。
詩人、小説家…、私は憧れている。だが、それは雇われ労働に比べて生活スタイルを自由にできることへの羨望なのかもしれぬし、作品を残すことで死後もこの世に影響を及ぼせるだろうという無様な承認欲求なのかもしれぬ。目標もなく、覚悟もない。しかしそれでも、私の適性と興味を併せ持つ業種は物書きぐらいしかないのかもしれないなと、ぼんやり思うのだった。
(ヘッセは書店員になったりしてたようだし、僕も紀伊國屋書店の販売スタッフのバイトにでも応募しようかしら)
ノーベル文学賞作家の猿真似を試みる23歳無職は、帰り道のコンビニに寄ってフリーの求人誌を入手した後、いちばん安いカップ焼酎『焼酎名人』を購入し、帰宅した。
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