第九葉 黒髪(現代ドラマ)
私は、都内にある美容室の扉を開けた。歩道に面したところがガラス張りになっていて、外から中の様子が丸見えの店舗だった。今どき古臭いスタイルの店舗。昔はお洒落な感じだったのかもしれないけれど、正直私は嫌いだ。落ち着かないのだ。
別にこの店舗が良くて数日前に予約を入れた訳ではない。通いなれた近所の美容室でも十分綺麗にしてくれるし、不満があるわけではない。だけど――今日は、今日だけは私のことを誰も知らない場所で髪の毛を切りたかった。
小さい頃から良く褒められた。自分でも自慢だったし、誰しもが綺麗と言った。ずっと手入れを怠らなかったし、今どきそうやって言うのか分からないけれども、天使の輪だって綺麗に浮かび上がる。学生時代に周囲の誰もが髪の色を落とす中で、私は流行りに流されることなく必死に守り続けて来た。「髪の毛重くない?」「少し色を抜けばいいのに」などと、私の苦労も知らずに軽く言ってくる人ばかりでうんざりした。誰がなんと言おうと、この髪だけは守ると誓った。
――なのに。
最近になって黒髪が注目を浴び始めたらしい。私に対して散々黒髪を馬鹿にしていたのに、ちょっと流行り始めたからと言って急に「綺麗だねー」「羨ましいー」などと言ってくる。人間と言う生き物はなんと浅ましい生き物なのだと、このとき感じた。心の中で「ざまーーー!」と叫んだ。
――なのに。
ずっと、何があっても守って来た。そしてなによりも、やっと日の目を見るときがやってきたというのに、私はそれを捨てようとしている。馬鹿だ。本当に私は馬鹿野郎だ。
「今日はどういった髪型に?」
自分はとてもお洒落で洗練されていますよ。と、身体全体で訴える美容師が私に訊いて来た。通常ではやらない、くねくねとした所作をしながら私の髪をさらさらと触って来る。独特の髪形や毒々しい服装をアピールするだけでは飽き足らず、動作でもカリスマ性をアピールしているつもりなのだろうか。
「キモいんじゃ、ボケ!」と、心の中で絶叫してみる。
「ベリーショートにして少し色を抜いてください。あとはお任せします」
言ってしまった。二十六年も守り続けてきた髪。中学に入学したころから、毛先だけを整える程度しか切らなかった髪。それをたった一言で失ってしまう。本当に切ってしまって良いのかと今でも葛藤は消えないけれど、絶対に切ると決心したのだと必死に抑え込んだ。
「こんなに綺麗な髪なのに勿体無いですよ……。そんなに切らなくても、お任せして戴ければもっと良……」
「ばっさりと切ってください!」
美容師が喋っている途中に、私は強い口調でそう言った。
「んなこた、自分が一番知ってんだよ! 今日会ったばかりのワレに何が分かるちゅーんや!」と、心の中で絶叫した。
自分だったらこの髪を生かした素敵な髪型に出来ますよ、とでも自慢したいのだろうか。髪を切りに来た人全員が、髪型に飽きたから、髪が伸びたからとの理由で美容室に来ると思うな。そんな怒りがこみ上げた。とにかく早く、決心が鈍る前に早くばっさりと切り始めて欲しかった。
霧を吹き櫛を通す。鏡に映る重たい髪。なんて情けない顔をしているのだろうか。そんなに嫌なら切らなければ良いのにと誰しもがきっと思うだろう。今、流行って来てるのに馬鹿だよねと笑うかもしれない。
正面の鏡を見据えていると、美容師がちらりと鏡の私を見る。ほどなくして最初の音が聞こえた。鏡に映らないところで、シャリ……シャリ……っと。とても鏡を見ていることは出来ない。私は精一杯の力で瞼を閉じる。
シャリ……シャリ……。徐々に耳の方へ近づいてくる音。変わり行く自分の姿を脳内で勝手に映像化してしまう自分が憎い。
右に聞こえていた音が左へ。そして、左耳元まで来て消えた。私は、少しずつ目を開いて鏡に映る自分を見る。そこには、アップにするか縛ることをしなければ見えなかった肩越しの景色――。暗幕が下りて見通すことを許さなかった首元から、ガラス張りの向こうにある歩道が見えた。
「大丈夫ですか?」
何も喋ることなく切り進めていた美容師が、鏡に映る私に声を掛けた。
「え?」
私は何が大丈夫なのか分からず、小さな声を発した。自分が映った鏡の顔を見て何故そう言ったのかが分かった。私は、カットケープから手を出して美容師が差し出したコットンを受け取り頬に当てた――。
レジで清算を終えたとき、「とてもお似合いで素敵ですよ」と声をかけられた。お客全てに言っている言葉なのだろうとは思ったけれど、少し嬉しかった。私は、入って来たときとは違う軽い気持ちでドアノブに手を掛ける。
“うん。大丈夫。私は頑張れる。男なんてくそくらえ!”
と、力の限り外へとつづく扉を開けた。
ショートショート作品集 本栖川かおる @chesona
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