蓮台

 源氏の召喚の詔が密かに発せられたのは、安子と典子が共に薨じた翌朝だった。

 もう、帝を止めることはできなかった。

 あの日、あの嵐の日。

 貴子が故院の御姿を捉えた日、帝もまた故院にお会いしていた。

 「父上が私をご覧になるその視線を、私は受け止めることができませんでした。あれ以来、目が痛みます。源氏を京から追った事を、父上はお怒りでいらっしゃるに違いありません。」

 そんなはずのないことはもちろん貴子にはわかっていたけれど、帝を止められないこともわかっていた。

 帝は飢えているのだ。

 光という美しい現象に。

 その飢えがついに帝の目を病ませた。

 つまりはそういうことなのだろう。


 母と妻を失った行律親王は、舅である惟時によって宇治の山荘に移され、そこで喪に服す事になった。

 貴子は親王に紫水晶の数珠を贈って哀悼の意を示した。

 行律親王のこれからは楽なものではないはずだ。安子がなまじ東宮に対抗するような態度に出ていただけに、朝廷に入ることは難しいだろう。若くして隠居同然の生活に入るより他はない。

 親王を宇治に移した惟時の処置は、あらゆる意味で優れていた。政治的な意味でも、安子の残してしまった穢を避ける意味でも。

 見鬼ではない惟時だが、何か勘が働いたのかもしれない。


 源氏は即座には戻らず、結局翌年の春に正式の宣旨を受けて帰京した。

 光の帰京を待ちかねて東宮の元服、譲位の事があり、光の血筋がついに帝位を踏んだ。

 貴子に託された遺勅は果たされた。

 

 そして、貴子は病んだ。

 これはもう仕方がない。

 そもそも若くはなかったし、源氏のいない間に無理をしすぎていた。

 床に臥す合間に起き上がるような日々は、考えようによっては貴子が過ごす初めての休みのようなものだった。

 空を彩る五色の光に魅入り、生まれたばかりの故院を守る事を誓った日から、ひたすらに故院のために生きてきた。

 いや、それはもはや故院のためではない。

 貴子が望み、貴子が選んだ、貴子の生き方だった。

 よく乾燥した冬の晴れ間に、貴子は端布の虫干しをした。幼い頃から集めた無数の端布を収めた櫃を開け、重しをしながら広げてゆく。

 特別な白い布たち。

 朱姫のための衣装の端布。

 そして、紅。

 艶やかで高貴で鮮やかな紅。

 事ごとに貴子の身を飾った貴色。

 そこにも、ここにも、紅が散らばっている。

 それは貴子の色。

 貴子の目指した色。

 貴子の人生の色。

 気高く、鮮やかに、

 貴子は生きて来られたろうか。

 その色に相応しい生き方を出来たろうか。

 答えはどこからもかえらない。

 それでも、

 何度繰り返そうと、貴子は同じ人生を選ぶだろう。

 悩み、悔い、悲しみ、苦しみ。

 傷つきながら、傷つけながら、自分の愚かさを嗤いながら、それでも同じ道を歩むだろう。

 多分それが貴子にとって、生きるということなのだ。


 貴子の病があつくなるにつれ、遠回しに出家を勧められることが増えた。

 それを貴子は拒絶し続けている。

 故院の元へ向かうときに、紅を身に着けていたい。

 老いても紅の似合う女として故院にまみえたい。

 そのぐらいの我儘はきっと許されてもいいはずだ。

 貴子の人生は決して清浄なものではなかった。多くの人に恨まれている自覚はあるし、何人かの死にも関わった。

 出家したくらいでそれが赦されるはずもない。貴子にも赦しを乞うつもりはない。地獄を恐れないわけではないけれど、そのぐらいの覚悟もなしに、何をなし得るというのだろう。

 ただ、それでも時に夢想する故院は、蓮のうてなの上にいる。

 蓮の台の上にいて、不思議そうに辺りを見回している。

 そこには故院の他に誰もいない。

 あれほど数多いた女君の誰も、中宮輝子内親王も、源氏を産んだ珠子でさえも。

 貴子の唇に笑みが浮かぶ。

 (私が参りますわ。)

 貴子こそが故院の妻。

 その生涯に寄り添った者。

 故院の遺勅をかなえた者。

 ただ、故院のためにあった者。

 誰よりも故院の事を愛した女。

 故院が一人きりで待つ蓮台。

 もしかしたらそれは極楽でなく、地獄にあるのかもしれないけれど。

 艶やかに紅をまとってそこへ降り立つ日の事を、貴子はとても楽しみにしている。

 

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貴色 真夜中 緒 @mayonaka-hajime

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