始末

 嵐が過ぎてすぐ、貴子の父維成卿が薨じた。

 惟成卿だけでなく、老年の公卿が幾人かばたばたと薨じたところを見ると、嵐を起こすほどの穢に、あたったという事なのだろう。見鬼としての力を全く持たず、おそらくはその生涯に一度もあやかしを見たことがなかったであろう父がこんな形でその生涯を終えたことに、貴子は不思議な感慨を覚えずにはいられなかった。

 公卿が幾人も薨ずれば、亡くなった本人だけでなく親族も、喪に服すために殿上をひかえる。宮廷は人少なになった。

 貴子自身、父の喪に服して引きこもりがちにしている。ただ、生身の身体は引きこもっても、嵐の折におおいに揺らいだ京の結界を改める仕事に待ったはなく、式の紅い蝶を操って、忙しくしていた。

 嵐が過ぎてしばらくすると、京に散っていたあやかしが、またゆるく集まり始め、貴子が用意した結界の中へと収まっていったが、必ずしも宮中にたまるというものでもなく、京のそこここに薄く、濃くたまり始めた。中でもひときわ濃く、渦を巻いて煙る場所まで貴子は魂を乗せて蝶を飛ばせた。

 結局、ここへたどり着くのかと思う。

 ここ、かつて承香殿に住まっていた故院の女御、安子の住まい。

 安子は故院の退位の折に後宮を辞し、里邸で暮らしている。

八宮行律親王の立坊を画策しているのはしっていたが、まさかこんな手段を取ろうとは思わなかった。

 馬鹿な事を、と思う。

 源氏に近づくことのできなかったものどもの一部は、封を破ってけしかけた者のところに戻って来ている。そのくせ邸には大した護りも張っていなかったから、いまや安子の邸は日も翳って見えるほどだ。

 その陰は縁を辿って行律親王へ、そしてその妻である典子のところにまでも影響をもたらしている。

 もはや放置するわけにもいかない。

 貴子は紅い蝶の式神に意識をのせ、安子の邸を訪れた。

 安子は憔悴してはいなかった。

 むしろ意気揚々と、皇位を狙っているようにも見える。

 それが貴子には痛々しい。

 安子は狂っている。

 気が触れているということではなく、安子としての在り方に狂いを生じている。

 それは安子自身の野心によって始まったのであろうけど、今となっては群がってくるモノどもに影響されている部分が大きいのではないかと思われた。

 このままにしておけば安子も、その野心の源である行律親王も、場合によっては典子も、全て飲み込まれてしまう。そうすればそれこそ国を巻き込む事態となるだろう。

 ただ、そうはいっても。

 安子に取り憑いたモノどもを祓うのは簡単ではない。元々は安子が用いた術の結果だ。術に関わったことで両者は強く結びついてしまっている。祓えば安子も損なわれることだろう。恐らく命を落とす程に。

 でも、それでも。

 やらないわけにはいかないのだ。

 狂いは正さねばならず、影響は最小限に抑えなければならない。

 それは貴子がなすべき仕事だった。

 静かに安子の前に降り立つ。

 安子が貴子を見た。

 「太后さま。」

 安子には紅い蝶ではなく、貴子の姿で見えているらしい。

 「お喜び下さいませ。ついにわかりましたの。」

 正面から見ると安子の頬が幾分そげているのがわかる。

 「東宮は故院の御子ではきっとありませんわ。東宮は源氏の君の御子に違いありません。」

 ああ、やっぱり気づいてしまった。

 気づくのはきっと彼女だと思っていた。

 貴子は僅かに落胆し、同じくらいに安堵した。どちらにしても安子を救うのは無理だろう。取り憑いたモノを祓えば彼女も死ぬ。

 けれど、これで決定的に彼女を救うことは出来なくなった。彼女を救えば大切な遺勅を遂げる事ができない。

 その、もう救おうとする事ができない事実に落胆し、同時に安堵もしたのだ。おそらく救えないとわかっていても、安子を救おうとあがくなら、大変な力を必要とするだろうということはわかっていた。

 その努力が不要となった事実に思わず安堵して、安堵した自分自身を軽蔑する。

 自分はなんてつまらない人間なのだろう。

 貴色にふさわしい人間であろうと心がけてきたとは言っても、結局この程度のものだ。自分の力の及ばないであろう挑戦を避けられて、安堵してしまう程度。

 「安心なさい。安子どの。」

 静かに術を発動する。安子の顔が苦悶に歪む。

 安子から穢を切り離し、散らせてしまう術。穢はまた集まって来るかもしれないが、近く源氏は呼び戻される。そうなれば源氏自身の天孫の光が、決着をつけてくれるだろう。

 ただ、今や半ば以上一体化していた穢を手荒く切り離された安子の魂は保たない。

 実際に、安子の命はみるみる内に流れ出していく。安子の目が問いかけるように貴子を見た。

 「それでも皇統に乱れはないのですよ。源氏は故院の御子ですから。」

 安子は問いかける表情のまま、斃れた。

 どさりと音をたててうつ伏せに倒れた安子の死顔はもう見えない。

 一瞬だけその亡骸を見て、貴子の蝶が舞い上がった。


 紅い蝶に魂を乗せて貴子が飛ぶ。

 散らしたモノは安子の血筋を辿って、行律親王やその妻である典子に引き寄せられるかもしれない。救えない、救うわけにいかなかった安子はともかく、行律親王や典子を見捨てるつもりはなかった。

 あの、安子の表情に浮かんだ最期の問いかけ。安子は恐らく貴子が、中宮やかつての寵姫であり源氏の母でもある珠子を憎んでいると思っていたのだろう。安子がそうであったように。

 貴子は故院を取り巻く女の誰の事も、憎んだことはなかった。

 貴子の中にあったのは結局のところたった二つ。

 故院を大切に思う心。

 そして

 貴色に相応しい后でありたいという気持ち。

 ほんの少し、故院への気持ちが勝るかもしれない。その事がおそらく倫を外れた遺勅を遂げようという決意となり、故院を止められなかった理由でもあった。

 それが恋であろうと執着であろうと、故院の生涯をかけた思いを遂げさせたいと願わずにいることは、貴子にはできない。それがどれほどの歪みをもたらすものだとしても。

 そして、その歪みゆえの傷をいくらかでも防ごうと駈けずりまわるのだ。今、こうして行律親王のもとへと急ぐように。それがどれほどの欺瞞に満ちた行為であるかわかってはいても、貴子にはそれ以外の方法をえらぶことはできなかった。


 行律親王は貴子の弟である惟時の邸に居た。親王の妻である典子がその屋敷の西の対に暮らしているからだ。先程までの安子の邸には遠くおよばないながら、薄い靄が西の対を取り巻いていた。

 貴子の蝶が張られた結界をふわりと抜け、室内に入る。

 対の内は騒ぎの最中さなかだった。

 結界を抜いて入り込んだ靄は確かに親王を取り巻いているが、むしろその傍らにうずくまる人影に群がっている。

 人影は鈍色の重ねに柿色の小袿を重ねていた。典子だ。

 おかしい。

 術者である安子との関係性から言っても、親王を素通りして典子に行くはずがない。なのになぜ典子が穢に群がられてたおれているのか。

 「典子っ、典子っっ!」

 親王が典子を抱き起こして呼びかけている。靄を感じ取っているらしく、親王は時々払うような仕草をして、典子を守ろうとしているようだった。典子は顔をしかめ、脂汗を流している。典子の手は庇うように、下腹部に置かれていた。

 まさか。

 その可能性に気付いて、貴子の血の気がひく。

 典子は懐妊している?

 実際に、典子の胎内から光が漏れている。穢が、あやかしたちが、引きずり出そうとしているのだ。

 天孫の血筋は光を宿す。

 その光はあやかしを惹きつけ、穢を焼く。

 けれど、まだ母の胎内にいる頃なら、穢を焼く力は惹きつける力ほどに強くはない。生まれる前であれば穢れたあやかしも、天孫の光に触れる事ができるのだ。

 その光を典子が抱え込む。抱え込んで手放すまいとする。

 ああ、いけない。

 貴子は典子をとめようとする。

 とても今からでは間に合わない。このままでは典子の生命さえ失われる。

 典子の目が薄く開く。開いて貴子の蝶を見た。

 母が子を奪われまいとあがくのは本能だ。

 どうしてとめることが出来るだろう。

 せめて典子の懐妊を知っていれば、もっと守りを敷いたのに。

 貴子の見る前で典子は光ごと引き出され、消えた。

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